親鸞聖人からの手紙I念訴訟事件の周辺―第二十五通
 
               武蔵野大学名誉教授 山 崎(やまざき)  龍 明(りゆうみよう)
 
ナレーター:  「親鸞聖人からの手紙」その第十回「念仏訴訟事件の周辺」、お話は武蔵野大学名誉教授の山崎龍明さんです。
 
山崎:  本日は、「親鸞聖人からの手紙」第十回でございます。「念仏訴訟事件の周辺」と題しまして、手紙の第二十五通をお話致します。性信房(しようしんぼう)は関東の念仏集団の中でも、代表的な念仏者です。親鸞聖人の信頼が大変厚く、性信房もまた関東の念仏集団を纏めるために努力を惜しみませんでした。性信は京都に聖人を度々訪ね、聖人もまた性信に宛てて五通の手紙を書き送っています。性信という念仏者は資料によりますと、下総国(しもうさのくに)飯沼(いいぬま)(今の茨城県常総市(じようそうし))の住(じゆう)ということになります。常陸(ひたち)の念仏者たちと大変深い関わりを持った人のようです。この第二十五通は内容からしますと、慈信房(じしんぼう)善鸞(ぜんらん)―親鸞聖人のお子さんですね―の異義事件と関連があり、慈信房が義絶される前のものということができます。すると建長(けんちよう)七年(1255年)のものか、あるいはその前の年の建長六年頃の手紙かと考えられます。建長七年と致しますと、親鸞聖人は八十三歳で、善鸞さんを義絶される十ヶ月ほど前に当たります。しかし残念なことには念仏の訴訟事件に関する具体的な内容につきましては、手紙からは直接知ることはできません。数通の手紙の中からそれらしきものを窺い知るということしかないのです。つまり聖人が八十歳か八十一歳の頃、関東の念仏集団の中で「悪人が救いの目的ならば、悪事を行うことがアミダ如来のこころにかなうことである」という異義を唱える人がいたようです。親鸞聖人は、慈信房に関東に行くことを命じ、その誤りを是正するよう命じたものと考えられています。しかし関東の人々の中には、聖人に直接的な指導を受けた人も多く、慈信房が力を発揮することができるような状況ではなかったことも考えられます。聖人の直接の門下と師の息子との間に行き違いがあったとしてもおかしくはないと考えられます。関東念仏集団にありましては、みなさんもご存知のように「弟子の争い」がしばしば起こっていることを考えると、このことは容易に想像されるところです。宗教の世界には独特な雰囲気があって、教える者と教えられる者(師と弟子)という固定的な人間関係があります。親鸞聖人はこの辺りの問題について、「弟子一人(いちにん)ももたず候(そうろう)」といい、共にアミダ如来の弟子であり、「友」「同朋(どうぼう)」―仲間ですね―とかしずかれたのです。宗教にはこのような閉鎖性が常に付きまとうものです。そのことを聖人はよく知っていたようです。もっと開かれたものでなければならないというわけです。親鸞聖人が『歎異抄』に、
 
弥陀(みだ)の御もよほしにあづかって念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。
 
阿弥陀仏の働きによって教えを聞いている者を、私の弟子であるということは大変間違っている。こういうことを『歎異抄』第六章に記しています。あるいは慈信房が関東の地に入ったものの、思うようにいかず、父親の親鸞聖人から秘密の法を授かっていると主張したりしたようです。また名主(みようしゆ)、地頭(じとう)、つまり在地の権力者ですね、そういう人々と手を組んで力を得ようとしたといったことなども知られています。これだけではありません。もっと酷いことを慈信房は行ったと考えられています。勿論前に申しましたが、この善鸞義絶事件に関しましては若干の異論があることも申しあげておかなければなりません。この慈信房が性信房の門弟たちを、聖人に悪を造ってもかまわないことを薦めるものであるということを言いふらした。つまり「造悪無碍(ぞうあくむげ)」ですね、鎌倉へ訴えました。また弾圧をも加えたようです。訴えられた性信房や入信房(にゆうしんぼう)といった人たちは、鎌倉へ行き、その誤りを主張し、問題解決に努めました。この辺りのことがこの手紙の中心になっております。現代語訳でちょっとその部分を読んでみますと、
 
入信房などについても心の痛むことです。鎌倉に長い間滞在しておられるようで、気の毒に思います。今はどうにもならない事情があって、そのようなことになっているのでしょう。わたしにはどうすることもできません。
 
この「どうすることもできません」というところを、親鸞聖人は「ちからおよばず候ふ」とこう書いてあります。親鸞聖人の深い悩みをみる思いが致します。そのお手紙の一部ですが、
 
六月一日付のお手紙、詳しく読みました。鎌倉での訴訟についてはおおよそ聞いております。このお手紙と同じような内容のことを聞いておりましたので、特に問題はないであろうと思っていたところ、なにごともなく鎌倉からお帰りになったとのことですので、うれしく思います。
 
このことから知られるのは次のことです。念仏者とその教えを非難することが起こり、性信房は鎌倉に行って、幕府にそれが誤りであることを述べました。事件が解決したために性信房は下総(しもうさ)に帰り、六月一日に訴訟の始終を親鸞聖人のもとに書き送りました。その返信が第二十五通の手紙なのです。次ぎに手紙には、「関東の念仏者たちがこの訴訟事件を性信房一人の責任にし、また家族に対してまで非難の矢を向けることは、誤りである」と親鸞聖人はこのように手紙に記しております。また、
 
このような訴訟は、あなた一人のことではなく、浄土往生を願うすべての念仏者にかかわることなのです。このようなことは、今は亡き法然聖人がご在世のころに、私などもいろいろといわれていたことです。特に新しい訴えでもありません。性信房、あなた一人が対応しなければならないことではありません。
念仏に生きる者はみな、こころを一つにしてこれらの問題に対処しなければなりません。あなた一人をそしり、笑ってすむことではありません。
 
こう述べておられまして、性信一人を責め、笑いものにしている人々は「道理をわきまえない人」このように親鸞聖人は記しています。また「あなたの罪であるといっているような人は、とんでもないまちがいです」(ひがごとにて候ふべし)と原文にはこうありまして、性信房の正しさを述べています。第二十五通では鎌倉での念仏訴訟が一見落着したことを報告した性信房の対応を称賛しています。性信は先に少し述べました通り下総国飯沼の住として知られますが、横曽根(よこぞね)門徒を形成して、のちに坂東(ばんどう)報恩寺(ほうおんじ)を開きました。寺伝によりますと、一二七五年八十九歳で示寂(じじやく)―往生を遂げられた。特に注目すべきことは親鸞聖人自筆の『教行信証』草稿本がこのお寺に伝えられているということです。いずれにしても、性信は活発な活動を展開し、関東念仏集団にはなくてはならない存在でした。手紙には、
 
念仏する人は、みなあなたの味方にならなければなりません。しかし母や姉や妹たちまでが、あれこれというのは昔からあることです。かつて念仏が禁止されたころ、世間ではとんでもないことが起こりました。そのような中で念仏を深く信じて世間の人々の幸せを願い(世のいのりにこころにいれて)と親鸞聖人はこう書いています。こころから念仏申すのが尊いことだと思います。
 
手紙にはこうあります。ここに示されます「かつて念仏が禁止されたころ」と言われるのは、承元(じようげん)元年ですから、一二○七年の専修念仏禁止を指すものと考えられます。また、「世に曲事のおこり候ひし」という文章がありますが、このことははっきりわかりませんが、一二二一年(承久三年)に起こりました。承久(じようきゆう)の乱というものを指すものと考えられます。承元(じようげん)元年の念仏弾圧事件の責任者でありました後鳥羽(ごとば)上皇(じようこう)はのちに隠岐(おき)に流されます。そして土御門(つちみかど)上皇は土佐から阿波に、順徳(じゆんとく)上皇は佐渡に流罪―島流しとなりました。のち後鳥羽上皇は念仏門に入りました。後鳥羽上皇が遠島の地でありました場所で、かつての権勢を―権力を懐かしみながら著したものが『無常講式(むじようこうしき)』というものとして残っております。「無常講」というのは、無常講という儀式の式次第、これを無常講式というのですが、少し詳しく申しますと、人生の無常を縁として多くの人々が一箇所に集まり浄土往生を願って営む講会―集会ですね―これは平安時代から行われていたようであります。少し横に逸れますが、親鸞聖人の曾孫の覚如(かくによ)上人というお方は念仏門に生きる者として改めるべき条項を書物に記しましたが、その中で今申しましたような「無常講」のような集会を曾孫の覚如という人は否定をしております。覚如という人は大変な文筆家で書物もたくさん遺しましたが、当時の誤りをその書物によって縷々記したものが残っております。ついでと言っては失礼ですが、この「無常講式」というものと、親鸞聖人からちょうど八代目になりますが、本願寺の蓮如(れんによ)(1415-1499)という方、蓮如上人のことで一言申しますと、その無常講式について、親鸞聖人の曾孫の覚如と申しましたその人の子どもの存覚(ぞんかく)という人が、『存覚法語』つまり言葉集を書いております。その中に後鳥羽上皇の無常講式を引いております。無常というのは誰も避けられない命の問題ですが、昔から大変な問題であったことは言うまでもありません。存覚はこう記しています。
 
老いたる者も、若い者も順番なく終わっていくいのちの道理。火葬する場の鳥部山(とりべやま)のけむりは絶えず、私もいつかはその数の中に入ります。そのことに例外はありません、ということでしょうか。人は、生まれ、老い、病み、死んでいくといういのちの道理の外に生きることはできません。
 
唐突ですが、『人間の絆』という作品を書いたイギリスの小説家、劇作家サマセット・モーム(1874-1965)、一八○○年代の方ですが、大変皮肉で懐疑的な人生観の持主でしたが、よく知られるのは『人間の絆』ですとか、『月と六ペンス』は名著として多くの人々の心を捉えました。そのモームが我々の周囲には多くの情報がある。しかしその情報はほとんど不正確である。が、人間の死亡率は百パーセントという情報は百パーセント正しい。こういう意味のことを述べています。無常というものには詠嘆的な、つまり「もののあわれ」虚しい、悲しいということですね―側面が強くあります。これを無常美感、あるいは無常哀感と表現したのは私の好きな文芸評論家の亀井勝一郎(1907-1966)さんでした。無常には単なる無常感と違って、無常観という考えがあります。この無常観というのは最初の無常感というのは感想文の感ですが、今の無常観の観は「見る、調べる、試す」という字ですが、そういう無常観という考えがあります。無常観というのは、最初の無常感は大変感傷的ですけども、後の無常観というのは、無常をただ嘆くんではなくて、無常を自覚するというんでしょうかね、無常に目覚めるという意味です。好きな人をどうしても忘れられず、墓場に行って投げ捨てられている死体が次第に崩れていく姿を見て、好きな人への思いを断ち切る努力をした人間を描いた小説もありました。実はこれは無常観というものなんですが、谷崎潤一郎の『少将滋幹(しようしようしげもと)の母』というのは、こういう作品でした。これが「観」目覚めとして無常です。観とは観法、あるいは観察(かんさつ)―仏教では「かんざつ」と読むんですけど―こういった修行の一つの方法がこの無常観です。つまり無常の苦しみを乗り越える方法の一つとこういうことになるかも知れせん。存覚上人は、後鳥羽上皇が遠島の地で浮き世を悲しみながら口ずさんだ言葉が、さっきの無常講式であると、このように書いております。ちょっと簡単に一文を申しますと、
 
すでになくなった人のもとで涙を流すもの、あるいは共に生きようとしても、棺の前で泣く人もあります。いずれにしてもはかなく、まぼろしのようなものが人生というものです。迷いの世界はまことに無常です。太古の昔よりいまだ死なない身というものは聞いたことがありません。そして一生というものはあっという間のできごとです。こんにちにいたるまで百年の寿命を保つことはできません。
私が先に行くか、あなたが先か、きょう終わるか、あすであるか、わかりません。いずれにしても私たちは木の葉のしずくよりも、はかないものです。
 
私はこのように訳しております。ここには栄華を極めた後鳥羽上皇が遠島に処せられ、我が身の不遇を嘆いた心中、心の有様が記されております。親鸞聖人は念仏弾圧事件によって越後に流罪となりました。それは親鸞聖人が『教行信証』に述べております。そして今自分が流罪人となって、そしてその遠島先で無常講を後鳥羽上皇が営んでいるのです。まさに人生の無常を感じていたことでしょう。そして本願寺の八代目の蓮如上人が「白骨(はつこつ)の御文(おふみ)」という有名なものを書いておられます。実はこれは今申しました後鳥羽上皇の「無常講式」という文章を下敷きにしてできたものであるということを、私はかつて永六輔(えいろくすけ)さんのお父さまであります永忠順(えいちゆうじゆん)師に教えて頂いたことがあります。ほとんどこれは蓮如上人の直接お書きになったものだと言われておりますが、『無常講式』に影響されて書いたものであるということがわかります。それは大変有名な言葉ですが、
 
それ、人間の浮生(ふしよう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。
 
原文ではこうありまして、有名なところでは、「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」とか、あるいは「われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり」。蓮如上人はこのように書かれました。ただその蓮如上人の文章の最後に、「されば人間のはかなきことは老少(ろうしよう)不定(ふじよう)のさかひなれば云々」とあります。ここが蓮如上人が一番おっしゃりたかったところだと思います。つまりその無常の中を生きる人間が―「老少不定」というのは、「老少定まらず」―僕はいつも命の終わりに順番がないと、このように申しております。ですから早くその悲しみや苦しみを超える教えを一刻も早く求めてくださいというのが、蓮如上人の「白骨の御文」と言われるものでありました。これは「朝には紅顔ありて夕には白骨」というのは、『和漢朗詠集』にも同じようなものが言葉として見られます。要するに死の問題を解決するということは、私たちが生きているうえで抱えている生の問題を解決することになるんだと。つまりよく死ぬためにはよく生きなければならない。よく生きることがよき死に繋がるんだ。こういうことを蓮如上人はこの文章の中で説いているものと考えてもよろしいと思います。さて大事なことなんですが、手紙の第二十五通に戻りましょう。この後に重要な言葉が出てまいります。この解釈を巡って、従来学者によってさまざまな説が展開されてまいりました。それは、
 
朝家(ちようか)の御(おん)ため、国民のために、念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたう候ふべし
 
こう書いてあるんですね。そこに「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」という親鸞聖人の願いも示されております。これは大変この解釈を巡りまして、今申しましたように種々考え方があるんですが、このことをちょっと申しますと、「朝家」というのは皇室のことですね。「朝家の御ため」、そして後に「国民のため」ですから、親鸞聖人は漢字の横に左がな(左訓)を付けまして、「朝家」という字の横には「オオヤケノオンタメトマウスナリ」こう書いております。「国民」という言葉の左がなには「クニノタミ、ヒャクシャゥ」こういう仮名を付けておられます。ここでは「朝家の御ため、国民のために」互いに念仏することは尊いこと、とありますが、先に見た言葉にも、
 
世に曲事のおこり候ひしかば、それにつけても念仏をふかくたのみて、世のいのりにこころにいれて、申しあはせたまふべし
 
こう示されています。ここに「いのり」とあります。それは文字通り親鸞聖人の「いのり」深い願いであったという意味で、一般の祈願という「いのり」とは違うようです。この二十五通に関しまして、関連するものと考えられるのが手紙の四十三通にあります。そこには、
 
念仏の訴へのこと、しづまりて候ふよし、かたがたよりうけたまはり候へば、うれしうこそ候へ。いまはよくよく念仏もひろまり候はんずらんと、よろこびいりて候ふ。
 
言葉は難しいんですけども、訴訟事件が落着したことを喜び、一層教えが広まるであろうことを喜んでおります。大切なことが次ぎに示されています。「いのり」という言葉が二箇所に見られまして、今申しました「いのり」というのは、人々の幸せのために教えが受け止められて、ますますその教えが広まってほしいという聖人の願いであると、このように申しあげてもよろしいと思います。さて今見ました「朝家の御ため、国民のために云々」という言葉でありますが、「自らのことはさておくとしても、朝廷や国民のために互いに念仏するのなら、それは結構なことでしょう」こういう解釈もあります。その辺りを少し整理して申しますと、私は三つのことに整理することができるんではないかと考えておるんですが、それは一つは、「公の御ため、国のため、百姓のために」ということは、要するに自分自身の救い、自分自身の幸せのためよりも、先ず公のため、あるいは国のため、百姓のために念仏申しなさい。「念仏申す」ということはどういうことかというと、阿弥陀仏の教えの通りに生きていきなさい。そこから念仏が出てきますよ、というのが親鸞聖人の教えの根本であります。二番目は、信心が定まらない人は、先ず自分の救いのために念仏しなさい。信心が定まらないというのは、阿弥陀仏の教えをその通りにきちっと受け止められない方は、先ずご自身のために、つまりご自身の救いのために念仏をしなさい。こういうふうに理解することができます。そして三番目のところは、往生が決定(けつじよう)というんですが、救いがもう定まっているという方は、その救いが定まっていることに対する恩に報いるために―報謝というんですが―救い頂いたということの恩に報いるために念仏をし、世の中の安穏と仏法が世の中に広がっていくことを願いなさい。こういう三つに私は分けて考えることができるのではないかと、このように考えております。「朝家」「国民」のための念仏とは、当時の社会背景を考えますと、ごく一般の認識ではなかったかと考えます。よく言われるんですが、この「朝家の御ため、国民のため」を、親鸞聖人の世俗への従属であるとか、あるいは体制的な性格だと考えられる方もおられますが、私はそれはあまりにも近代的な、現代という場に立った近代主義的な考え方ではないかと思っております。八百年前の手紙は、その時代の社会背景を無視することがなく読むことがより真実に近づけるのではないでしょうか。私はそのように考えております。そして第二の念仏は、「自身の往生のため」、第三の念仏は、救いに対する「報恩」恵みのためと、このように親鸞聖人は述べられております。二十五通は今申しました四十三通と大変深く関連しております。「念仏をめぐる訴訟が落着したと、各地の人から聞いています。うれしく思います。ますます教えがひろまることでしょう」「念仏をそしる人が救われるようにと思って、互いにどうか念仏をしてください」こういう親鸞聖人の言葉が、私たちに大変響いてまいります。親鸞聖人の手紙をこうお読みしておりますと、そこにまさに親鸞聖人の肉声が、八百年という時代を越えて私は響いてくるように思うんですね。ご承知のように、手紙は関東の方々が出されたお手紙に対するお答えであります。ご返事でありますけどね。そういう関東の方々の非常に素朴な問いを、自身の問題としてきちっと受け止めながら、実に私は懇切丁寧に明確にそれぞれの手紙、四十三通の手紙で親鸞聖人がこう述べておられる。ということは関東の方の問いを同時に自らの問いとして受け止めて考えていかれたという思いを感じるのが親鸞聖人のお手紙であります。
 
     これは、平成二十八年一月十日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである