心の波が凪るとき―ある廻心体験をめぐって―
 
                 姫路市光法寺坊守 伊 賀(いが)  百々代(ももよ)
                 き き て    金 光  寿 郎
 
ナレーター: 今日は、「心の波の凪(なぎ)るとき」というテーマで、姫路市の光法寺(こうほうじ)坊守(ぼうもり)伊賀百々代さんにお話頂きます。伊賀さんは、一九四四年(昭和十九年)のお生まれ。寺院に生まれ、寺院で育って、寺院に嫁いで、現在に至っていますが、三十代半ばで宗教的目覚め―廻心(えしん)を体験しておられます。今日はその廻心を中心にお話を伺います。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 
金光:  伊賀さんは、お寺のお生まれだそうですけれども、お寺に生まれて、仏法の話も当然耳にはされていると思うんですが、お小さい時には、どういう感じで聞いていらっしゃいましたですか?
 
伊賀:  かなり特殊な感じでね、家にオルガンがあったんですけどね、そのオルガンで「昔も昔三千年」というようなお釈迦様の歌があって、三千年も昔の方が、外国の方が何で出たんやろうというのが、十歳ぐらいの私の宗教的な始まりだったかなと思うんですね。それで姉妹五人おりましたが、私だけは法座があると必ずというていいほどお茶をちょこちょこ持って行っては坐るというようなそんな習慣の子どもだったと思います。
 
金光:  でもお小さい頃だとお話の内容は?
 
伊賀:  勿論何もわかりませんけれど、並んでいらっしゃるお爺さんお婆さんがね―特にお婆さんが多いですよね―いつも頷かれる姿勢がね、〈ああ、なんかいいものがあるだろうな〉ということを育てて頂いたと、後ろ姿のお婆さんにまさに育てて頂いたと思います。
 
金光:  これはむしろ言葉を掴まえて、言葉でこうだと考えるよりも、坐っていらっしゃるみなさんの姿が自分に親しいというか相応しいような感じがあったということでしょうね。
 
伊賀:  はい。それと父はとても無骨な男で、嫌いだったんですよ、女の子からすればね。余所のお父さんなんかスマートなのになと思うようなあったんですけどね。その父が親鸞聖人のことを語る時だけは、「御開山さま」というて、もの凄くこのお父さんが何故こんなにぺっちゃんこになるかと思うぐらいに「御開さま」という、こういうことを見るのもやっぱり親鸞聖人という方は、今いらっしゃらんでも、この父をこんな姿勢にする立派な人が、この宗教の方なんだなということはなんとなく子どもの時からその姿にも感じておりました。
 
金光:  それでだんだんと大きくなってくると、子どもの時期に第一次反抗期とか、第二次反抗期とか、いろいろ一般的にそういうことを言われるんですけれども、そういう雰囲気に対して「私は違う」とか、「私は早くああなりたい」とか、その辺はどうでした?
 
伊賀:  私は、今おっしゃったように、反抗期ということでいうたら、私ね、高校生の頃に教科書に『歎異抄(たんにしよう)』が入っておったんです。『歎異抄』の第二章と三章かな、二つ入っておってね、それを家で自習している時に声を出したりすると、父が「ほほぉ、今の高校にはこんなのが教科書に載るんか」というて、父がその教科書を取り上げて見ていました。そういうことからも、ああ自分のお家の宗教というのは、みんなの中に浸透しているんだなというようなものを感じておったんですけれど、なんかその頃に立教開宗八百年(昭和四十八年の親鸞聖人御誕生八百年立教開宗七百五十年のこと)というのが、ちょうど私の高校生ぐらいの時だったかなと思うんです。それが私にはちょっとカチンと、どうして法然上人さまがいらっしゃるのに、敢えて親鸞聖人がまた立教することをなさるんだろうと。私はその時に、先生というのは、ピタッと我々から言えば小学校の時からほんとに先生と共に大きくなった時代の人間にしては、どうして先生を横に置いて、新たに教えを立てるということをなるんだろうと。その時に親鸞聖人がちゃんと嫌になったというか、親鸞聖人に対してこう冷たい目で見てやろうというような生意気な根性があったのがはっきり覚えています。
 
金光:  それは教えを法然さんから親鸞さんに来たときに、どういうふうに受け継がれたかというようなことはご存知なくて、
 
伊賀:  勿論。そういうことはまったくなくてね。
 
金光:  それはそういうのもいつまでもそこのところに引っかかるわけじゃなくて、で、まあだんだん大きくなられるわけですけれども、それで卒業されて、やっぱり一般の女性ですと結婚というような問題も出てくると思いますけれども、そういう時にやっぱり親鸞さんの教えを受け継いでいらっしゃるそういうお寺さんへというようなことは、その当時からお考えになっていらっしゃった?
 
伊賀:  勿論思っておったんですけどね。家は小さな寺なんです。お隣に大きなお寺があって、そこの坊守さんがとても熱心な方で、里は西(西本願寺)なんですけどね、そのお寺も西(西本願寺)なんですけれど、その坊守さんは、坊ちゃんに「満之」さんという名前を付けるぐらい(明治期に活躍した真宗大谷派僧侶の清沢満之にあやかって)、ほんとにいい教えを一直線で求めるという坊守さんがいらっしゃって―その頃は私は西の御法座しか知りませんからね、「有り難い有り難い」というそういうスタイルの感じだったんですよ。そうしたらその坊守さんが、「いとちゃん、お嫁に行く時はね、東(東本願寺大谷派)へ行きなさいよ。東にはたくさん親鸞聖人を教えてくださる先生がいっぱいいるからね。東へ行きなさい」。ご自分のとこは西であるのに、敢えてそんなふうにおっしゃって、そこのいとちゃんも大谷(東本願寺大谷派)へ行かれましたわ。それで〈あ、そうなんや、東へ行ったら親鸞聖人に会えるんや〉そういう思いがあって、ほんとに結婚の岐路としては、そこがいいポイントにして頂いたと思います。それからはほんとに導かれるというんでしょうかね、こっちへ嫁いで近くに光明寺(こうみようじ)さんというお寺があるんですけども、そちらの御縁さんは、ほんとにその頃慕っていらっしゃる言葉を発してくれる先生方を次々に呼んでくださる。そんな中にボーンと今までの宗教観を壊してくれるという訓覇信雄(くるべしんゆう)(真宗大谷派(東本願寺)の元宗務総長)という先生がいらっしゃった。
 
金光:  有名な方ですね、訓覇先生というと。
 
伊賀:  それでこちらに嫁いでから、その頃訓覇先生が宗務総長になられてテレビに出ておられて、有名な方だと思っている方が、すぐにこのお寺へ来られたもんですから、その時必死でお聞きしていると、とにかく壊される方の言葉ばっかりだったんです。「自力は無効やで」ってほんとになんか意識をバタンと壊されるような言葉がバンバン来たんですよ。光明寺さんが、三年間、八月に夏期講習といって講演会に訓覇先生をお招きなるんですよ。この三年間のノートを見ると、いつも同じことを書いておる。でも一年毎に自分は変わっていっておるんですね。最初の年はなんか今までお西で聞いてきたことと全然違うと思って。でもなんか本物やなという感じが残るんです。二年目ぐらいの時には、いやこの先生素晴らしいと思って聞いておるんです。三年目も同じ言葉を聞いているんですけど、その頃に「自力無効」という言葉が頭から離れなくなってしまって、「自力無効、努力が無効」人間生きてきて、小さい時からいろんなことに興味をもって、興味の先は努力ばっかりできた思うのに「自力が無効である」というふうなことは一体どういうことなんやろう。それがもう日に日に頭にこびりつくわけですね。やっている一日の、主婦だったらいろんな努力がありますしね。そんなことはみんな成果がでますや。味噌汁一つ、お出汁を変えてこう思って、これぐらいの温度でこうなるという、そういう知識、知恵が全部有効であるにも関わらず、「自力が無効ってなんだろう」ということが、結局私をパタンと宗教の概念をパタンとそこで封じてしまわれたというか、もうなんか考えてもダメや。今まで二十年間三十何年ズーッと宗教は普通の人よりはよく聞いたぞという自負があったもんでね。子どもの時から聞いたぞ、というような自負があったもんで、自力あれだけの量のものが全部なくなるいうて、どういうことや、というのがあったんです。
 
金光:  という話を聞いても、自分から出てくるのは全部自力みたいなとこがありますし、それからもう一つ、今の話を聞いて、西と東という話が出ましたけれども、元を辿れば親鸞さんはお一人ですし、法然さんもお一人ですし、お釈迦さんもお一人ですし、西も東はある。その辺はまだ本当の仏法じゃなくて割にグループの考え方みたいなとこがある。区分けする必要はないと思いますけど、お育ちになった環境では今のような格好でだんだんと真実とは何かという方向へ近づいていかれたと。しかも真実というのを掴みたいという、これは自力の考えですけれども、その掴みたいという気持ち自体がペッチャンコになったらこれはどうにもしようがない。
 
伊賀:  今にして言えることなんですけど、意識というものが自我愛を通って出てくるもの。構図としてそうなっているものだから。
 
金光:  自我愛―自分の我執―自我を通して、執着の、愛着の中から出てくるものだということ。
 
伊賀:  そのど真ん中には、如(によ)から届いた智慧であるのに、必ず違う外側で自我愛が自分の好きな方向に方向を変えてしまうんでしょう。
 
金光:  いわば自分の枠と言いますか、その中に入れてしまうと大事なことが抜けてしまうようなとこもありまして。
 
伊賀:  それで結局自我愛というものを、如(によ)の本当の智慧からいえば、それが一番邪魔しているから、それをペッチャンコにして頂けたものだと思うんですよ。
 
金光:  如来さんの「如」という字ですけれども、これは要するに人間の手垢の付かないところ、こういうふうに人間とか自然をこういうふうにあらしめている働き自体を「如」という言葉で表現されているんだろうと思いますが、そこのところが自我愛を通るとやっぱり色が付いちゃって、人間臭さというか、
 
伊賀:  一時「如」を教えるために、自我愛に降参―降参というのはおかしいけど―万歳してしまわなあかんということを、訓覇先生はおっしゃったんですよ。熱い熱い言葉でね。ほんとに私一人に聞かせるような感じでおっしゃってくださったんです。そのお手上げになってしまう状態が、私の前に三ヶ月ぐらい〈もうあかん。宗教のことは考えない。私はきっと会えないんだろう。真実に会えないんだろう。あかん。みんなもそんな顔しているし、いいわ〉という感じでね。私はもう真実に会うそういうふうなあり方はできない。仕方がないと思っているんですよ。
 
金光:  それはおいくつぐらいの時ですか?
 
伊賀:  訓覇先生にお目にかかったのは三十三か四ぐらい。それまでにね、やっぱりズーッと育ってきた三十何年間のうちに―どなたもそうですけど、まあいうたら四字熟語のような簡単な短い言葉に、自分を律してくれる言葉とか持っていますでしょう。その中にやっぱり私は法然上人のおっしゃった「愚者になりて往生す」とか、それから父が門徒さんのところへまいって嫁さんと姑さんの鬩ぎ合いのようなとこを見る時に、「あのお婆にこう言ってやった」とかいうようなことをいうんですよ。「あのお婆は度し難い」とかいうてね、いうんですよ。それを聞きながら、ほんとに「度し難い」という言葉が、私のことではないんやろうかとかね、なんかその頃に三つ四つズーッと私自身の「あんたは救われへんで」いうふうに意識さす言葉が掴まえてくるというかね、自分を。そんな時に、〈こんだけ条件が揃うてみんな私のことだからもうダメや、私は真実に会えんわ〉って、そう思った時に、その頃の訓覇先生の言葉に「絶壁や。絶壁から落ちるんや」そういうこともおっしゃるんです。私はここの廊下にピアノが置いてあったんです。アップルライトピアノだから、端っこに置いてあります。廊下を通るたんびに、私はここから落ちるんや。これから落ちとんや。ここや。もうピアノ見たら、いつも二、三ヶ月それがズーッと〈これや〉ってここを通るたんびに思うんですよ。
 
金光:  縦型ピアノと言えば割に高いし、上から落ちるという
 
伊賀:  足下が見えますんや。どうして救われるんや。もうここ落ちたら仕方がないんや。でも「地獄は一定すみかぞかし」ということだし、どういうことやろうと。そういう時には、先ず自分の白紙状態に目覚めるのが一番だったでしょうね。
 
金光:  そういう考えというのは、そういう考え方を止めようと思っても止められないでしょう。
 
伊賀:  止められない。だけど宗教的なことをなんとなく考えようとするようなことに「お手上げや」ということだけはいつも貼り付いてくるから、三ヶ月ぐらいね〈どないしよう、仕方ないな〉と思うような静かな心になったんです。主婦ですから朝起きてからバタバタと、
 
金光:  仕事は勿論なさっていらっしゃって。
 
伊賀:  心の中だけがなんとなく、宗教を考えようとしたら〈もう止めておこう、もうダメ、考えても私はダメ〉スーッと潮が引いたようになった部分が、その三月(みつき)ほどのことがなかったら、やっぱり向こうから静かな声が聞こえないことやったんだろうと思います。
 
金光:  ああかしら、こうかしら、こう掴まえたらこの言葉みたいなことがあると、それが邪魔するわけですね。
 
伊賀:  私はすぐに掴まえていますからね。だから結局その三月(みつき)ズーッと波が穏やかになって―波というかね、もう仕方なしにですよ、こちらから言えば。だけど如来さんから言えば、この波が静かにならんことには、如来さんの声がスーッと入らんということで、待っておられるという感じだったと今思います。
 
金光:  今の言葉を、最前からの言葉で言い換えますと、いわば心が波立つのが静かになったということは、自我―自分自身の愛着、自分を大事に思う気持ちがだんだん薄れてきたと。自分でああかしら、こうかしらみたいなのを考えるのも止めたというか、お手上げだという、そういう感じが続いたわけですね。
 
伊賀:  止めるとかそういうのじゃなくて、もうお手上げ。まさに愚者ということを認識せざるを得んというところに、落ち着くいうもんではないですけれど、まあそういうふうになって、スーッと心が静かになったのだけは確かです。そうでないと身の内から届いてくる声は聞こえないということだったですね、今、あとになって思うとね。
 
金光:  それでそこの状況はどういうふうになるんですか? そこからどう変わってくるんですか?
 
伊賀:  光明寺さんが報恩講をお勤めになる時に早うから先生をお願い致しますよね。
 
金光:  報恩講に、先生ですね。
 
伊賀:  講師さんですね。その先生が後から考えたら不思議なんですけど、藤元正樹(ふじもとまさき)先生(兵庫県たつの市圓徳寺住職:2000年没)なんですよ。その頃光明寺さんは、我々ぐらいの者のことを聞きたいなというものを寄せて「親鸞塾(しんらんじゆく)」という塾を拵えてくれておった。それでその親鸞塾に行くと、いろんな青年たちがいろんな角度から仏教を学んだ言葉をいうんですけどね、その時に講師さんが歯が悪くなられて治療のために講師ができないからというんで、親鸞塾生に「あんたら、十分ずつ喋って」とこうおっしゃって、それでその七人ほどの中に私だけがお寺の人間だった。他は光明寺さんの御門徒だった。その時に私にしたらやっぱり〈私は格好良う喋らんな。お寺の人間やから格好良う喋らんあかんのにな〉。早バチッと自我愛が出てくるわけですよ。格好良う喋らなあかん。そして一生懸命文章を書いて、本講にまつわるズーッと文章を書きながら、夜十時ぐらいになって住職やら子どもが寝た頃にこの襖一枚こっちの部屋でズーッと書いたんです。
 
金光:  どう喋ろうかということを。
 
伊賀:  目覚ましを十分針だけ見ながら、こう書いて、ここは省こうか、どうも時間足らんのは勿体ない、これ入れようかとか、ズーッと一週間ぐらいの間推敲やっているんです。それでいよいよ明日が本番の本講さんで親鸞塾生が喋るという時に、前の日に―もの凄く静かなんですよ。子どもたち三人いるけど、お父さんも寝ているんですけど―その静かな時にズッと今までの一週間の間「格好付けな、格好付けな、格好良う言わんと」その思いがズッと時間を責めてきておるもんですからね。その時に「付けても付けても付けへんで」と前から聞こえた。で、それはやっぱり後から考えると意識の中に、「格好なんか付けても付かへんで」というようなことは、普段なんぼでもみなさん使うていなはる。「どんなに格好付けてもつかへんで」というようなことは田舎者ですから、そういう言葉は何遍でも使っておるけど、自我愛がガチリとなっておる時には、それは社交辞令では言うか知らんけど、なかなか自分のことになると言わない。その時に三月(みつき)の静かな時間があったればこそ「付けても付けても付かへんで」が、パチッとね、一遍で〈あ、そうなんや。付けても付けてもそちらのみなさんは、あ、光法寺の坊守か、あるいは隣のあっちの坊守やなとか、そんな程度しか見ておられないんや〉ということが、その時にその一発で、今まで、私はこっちから坊守として喋るといったことがグルンとひっくり反ってしもうて。それからひっくり返ったということが、まことに私自身がすべてひっくり返されたのが、よう自覚ができるぐらいまさに明瞭に腹の減る感じだったです。
 
金光:  そうすると、その前にもう私は考えてもダメだ。お手上げだというような気持ちになっていらっしゃったのが、みなさんの前で発表するとなると、またちゃんと自我愛が格好付けようというのが出てきていたわけですね。
 
伊賀:  そうです。
 
金光:  それがそこでペシャッとひっくり返った、無くなったというか。
 
伊賀:  その三月(みつき)ほどの静かな下地がなければ、「なんぼ付けても付けても付けへんで」って聞こえたとしても、私の反省だなと、なんか落ち着いてしまうんだと思うんですけどもね。それはもうまったくそんな一言でグルッと回って、あの丸い地球儀がグルッと半分回ったら景色がまったく変わったと、あんな実感ですね。私自身が喋ろうとしているのに、向こうから私を見ている目になるわけですね。不思議だったですよ。それで本番になった時に、そのことだけを申しあげました、キチッと。もう原稿なんか関係なく。ほんとに光明寺さんの門徒さんたちは、なかなか熱心にみんなよう聞いておられたからね。「廻心」という言葉は、あの頃何でか知らんですけど、極力大谷派は使うてはいなかったんです。
 
金光:  そうですか。
 
伊賀:  なんかそういう人間が、普通に体験できへんことを通過するようなことは敢えてどんどん省いていったような感じがあるんですね。それでもまさに廻心ですよ。御来さんから言えば、回向で回そう、回そうとする力でしょうけれど。こちらから感じるのは「回された」と思い―廻心ですよ。それは「廻心」という言葉はあんまりなかったと思うんですけど、〈私ね、こうこうこうでこうやったんです。心が軽くなって、明るくなって、もの凄くそうやったと頷ける。その頃訓覇先生なんかよく自分の人生に頷けるということをおっしゃっていましたから、みなさん私の話は特別なこととは聞いておられなかったと思いますね。それぐらい親鸞塾はなかなかいい勉強、いい時間を過ごさして貰いました。
 
金光:  それでそういうふうに新しく、今までのものの見方みたいなのは、いわば自我愛から離れた如来さんのお声が聞こえるようになってきた。その世界はそれまでとは違って見えるもんですか?
 
伊賀:  自分がその他大勢になってしまうというかね。おかしなもので人間のこの構造どうなっているのか。考える時には、凡夫にまかされて、時間がまかされてしまうけど。
 
金光:  凡夫が凡夫でなくなるわけじゃない。
 
伊賀:  ないです、決して。凡夫が凡夫の側の一人として、自分もそこにあるのが見えるから、社会の問題を聞いた時にでも、ズッと犯人がいて、加害者がいてという時には、必ずこの犯人さんの心理は今まで経験―何十年の間に狡いこをいっぱい経験してきているから、〈あ、あの私、あの私〉という感じで、すぐそっちの方に自分が置けるというかね。だから確かに被害者さんが気の毒には間違いないんですけど、私の癖はすぐ加害者辛いな、そこまでなってしもうてというものですよね。だからやっぱり全然違います、まったく。それからはね、今起きたことは不思議だったけれど、ほんとに不思議なんだろうか。私の思い過ごしじゃないんだろうかということが、ズッとその時に。でもなんぼ考えても日常の中には、こんなこと譬えられることもないぐらい不思議やったのにな、とズッと咀嚼しているんです。それで不思議なことにやっぱり先生が与えられるんです。その頃までは藤元正樹先生が近くにおるんやという程度にしか知らないし、それでその頃親鸞塾でもの凄く悩んでいる子が、それを「一皮剥けるのが手前やという、出産の前の苦しみや」というようなことを、みなが表現する子がいたんです。光明寺の奥さんが、「あの子を藤元先生のところに連れて行くから一緒に行かへんか」って誘ってくれて、で、私は、先生のところ遠いですからね、ドライブに連れて行って貰うぐらいの気持ちで「行く、行く」と載せて貰ったんです。先生がその子に諭すようにお話になるのを聞きながら、その時は私は廻心という境を越さして貰っておるから、この方は「本物!」と思ったわけです。それですぐ帰りに奥様に、「先生の御法座は近くないんですか?」とお尋ねしたら、「三日後に同好会がここでありますよ」とおっしゃって、それから藤元先生の御法座を追って廻る、
 
金光:  その時最初にお会いになったわけですか?
 
伊賀:  最初ではなくて、先生はもう随分有名なお方でしたからね。今日はどこかのお寺、どっかの会場という形で京都のお話にはしょっちゅうご出講なさっていたから。
 
金光:  そういう時には「通り一遍聞いて」という、言葉は悪いんですけど、その悩んでいる方と対面なさった時の話をお聞きになって、これは?
 
伊賀:  この方は本物。それは自分自身が本物さんの言葉を、語られた言葉を聞く能力を与えて頂けたんでしょうね。それからは藤元先生を―結局お話は何年聞いていたんかな、十五年ほど―遠いと申しあげたんですが竜野(たつの)ですからね、そんなに遠くもないんです、自分で行こうとすればね。だから多い時には月三遍は先生の御法座を呼ばれて聞いていた。
 
金光:  でもそういう意味では、この世というのは、人間というのはと言いますか、ほんとに不思議で、考えを超えた世界に我々は生かして頂いているという感じがやっぱり歳を取るにつれて強くなりますね。
 
伊賀:  ほんとに見たものは、自分がわかることしか認めないような時代になってしまったけど、私ねこの娘を一昨年亡くしてからでもね、結局わからない、どこへいったんだろうぐらい。普通に今まで門徒さんが悩んでおられたことが、その頃やったら気の毒になという思いおった。今まったく自分がもうその場におって、ほんとにあの頃の人生は幸せだったんやろうかとか、いろんなことを門徒さんが今まで聞かせてくれたことをズッと辿っているから、動物の一種の人という意味でみんな同じ旅をさして貰っているんだなということをしみじみ思います。
 
金光:  そういう意味では、人間として生まれさせて頂いたら、その間にできるだけそういう本当の味わいも味合わせて頂ければと思いながらお話を伺いました。どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十八年一月二十四日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである