私の他界♀マ
 
                      俳 人 金 子(かねこ)  兜 太(とうた)
1919年(大正8年)、埼玉県出まれ。1943年に東京帝国大学経済学部を卒業。高校在学中、はじめて句作。全国学生俳誌「成層圏」に参加、竹下しづの女、加藤楸邨、中村草田男らの知遇を得る。大学入学後の1941年、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事する。1943年、日本銀行に入行。海軍経理学校に短期現役士官として入校、海軍主計中尉に任官、トラック島で200人の部下を率いる。餓死者が相次ぐなか、2度にわたり奇跡的に命拾いする。1947年2月、日本銀行に復職。1974年の55歳定年まで勤めた。1947年、「寒雷」に復帰し、「風」創刊に参加。「風」の主唱する社会性俳句運動に共鳴。1957年、西東三鬼の勧めで「俳句の造型について」を『俳句』誌に発表、自身の創作方法を理論化する。以降俳句造型論を展開し、1960年ころより前衛俳句の旗手に数えられる。1962年、同人誌「海程」を創刊。1985年より結社誌となり主宰に就任する。1974年から1979年まで上武大学教授。1983年より現代俳句協会会長、1987年より朝日俳壇選者。1992年、2000年、現代俳句協会名誉会長に就任。
                      ききて 成 田  由 美
 
ナレーター:  今日は、「私の他界♀マ」と題して、俳人の金子兜太さんにお話頂きます。金子さんは一九一九年生まれ。旧制水戸高校時代に俳句を始め、十九歳で加藤楸邨(かとうしゆうそん)に師事しました。一九六二年、同人誌「海程(かいてい)」を創刊、主宰。現在まで句を創り続けています。金子さんは、戦争体験をきっかけに死について考えるようになりました。その中で次第に肉体は消えてもいのちは死なない。他界に移って行くだけだ、という思いを深めていったと言います。金子さんの考える「他界とはどんなものなのか」伺います。聞き手は成田由美ディレクターです。
 
成田:  今日はよろしくお願いします。金子さんがおっしゃる「他界」というのはどういうものなんでしょう?
 
金子:  よく「お前の言っているようなことは仏教ではズーッと言っている」というふうな言い方をされるんですけどね。「自然死」ほんとに自然な形で死ぬという形と、それから私は戦地にいた時の状況から掴んだ言葉で「殺戮死(さつりくし)」殺戮によって行われ死が生まれる。要するに殺されるということだな―「殺される死」。それと「自然死」という違いがある。違いが二つある。二つの死の形があるということにふと気付いたのは戦争中なんですよ。それで帰って来てからズッと噛み締めているわけですけどね。それはどういう形で気付いたかと言ったら、要するに爆撃とか銃撃とか、それから自分たちの島で武器なんかを実験したりしますね。そういう時に失敗の場合とかね、いろいろな場合に死は訪れる。そういう死に方というのは如何にも無様なものですけども、「こういう死に方をするといのちが死んでしまう」。これが私の考え方としてはちょっとおそらく他の人の言い方と違うと思うんですけどね。そういう強引な殺戮の死に方―殺戮されて死ぬというようなことになると、いのちが死んじゃう。そうすると一遍死んで生まれ変わる。それを「他界」というんですけどね。他界で生まれ変わる。死んで生まれ変わるところでいのちが甦らない。いのちが根絶やしになっちゃう。そういう現象が殺戮死であって、戦争というのは常にそれをたくさん生むところ。多量に生産する場所であると、そういうことを私は二十五で戦場へ行ったんですけど、二十五の時に、〈あ、こういうのは「殺戮死」と言うんだな〉と、そう思った。そしてそういう考え方をもってきて、今度内地に来ると「自然死」というのがありますね。病気になって普通に病んで死んでいく「自然死」。自然死の場合は、他界―別の世界に行ってまたいのちが甦る。その違いがあると。それを内地へ帰って来てから、友人とかそういう連中の自然死を見ていて、〈ああ、こういう死に方も〉―それまで勿論体験しているわけだけど―改めて自然死というものを確認する思いがありましたね。そういうふうにして自然に死んで、いのちが別な世界にいって甦ると。甦るというふうな現象の中にあれば、これ幸せである。「死にして死にあらず」ということであると、そういうふうに私は思った。私の俳句の仲間で川崎展宏(かわさきてんこう)(1927-2009)という、私と一緒に朝日俳壇の選考しておった男がいましてね、その男は大分身体の調子を壊しまして、結局選句が続かなくなって家に閉じ籠もっていた。それで我々が見舞いに行った。見舞いに行ったら彼は寝ていて、「金子さん、俺は死んだら樫の木になりたい」とそう言って死んだんだけどね。「もう人間はめんどうくさいから木になる。そして命は続く」と。そこには消滅するという暗さがない。自分は特になりたいものはない。別の場所に行って、のんびりしていたいという気持ちだね。何かほんとに死に顔は樫の木のような感じの死に顔だったんだな。俺もそのことを思い出して、〈あ、この男はもう既にあの世で樫の木になっているんだ。いのちがそういう形で甦っているんだな〉と。だからいのちが甦るという形が、人間がまた人間というふうな形じゃなくて、人間が豚になったり、猿になったり、樫の木になったり、イチジクの木になったり、そういう形で別な生き物になる。それがいのちの蘇りであると。彼は樫の木を願った。あれは私は非常に印象的でしてね、〈あ、ほんとにこの男は樫の木になっているな〉と。今でも思っているんですけどね。それがいわゆる他界。他界でもって甦る姿である。ところが一遍殺戮死でいのちの根本までが壊されてしまうというふうな、そういう状態がくるといのちが甦らない。甦れないから、そのままぺしゃんとした死体を残すだけで、そのまま海に流されるか、雨ざらしになって次第に消されていくか、そういう現象しかないと、そう思っている。それで私はよく他界死ということを念頭において生きていきたいと。そこから始まったんだ、私の他界という発想はね。だからもう絶対戦争反対なんですよ、私は。そんな死に方したくない。トラック島でたくさん見てきましたからね。トラック島へ行ってから三ヶ月ぐらいで手榴弾の実験をしたんですよ。電池製の手榴弾を作りましてね。それが果たして効果があるかどうかというんで。私は工員さんの部隊で第四海軍施設部の土建部隊にいたんですよ。土建部隊の主計だったんですね。土建部隊の連中というのは、これは工員さんで兵隊以下なんです、軍隊での扱いは。艦隊の司令部の工作部が手榴弾を作った、実験したいと。じゃ、施設部へ行って工員を借りてやって来い。これ上申なんです。兵隊にやらせない。万一失敗して兵士が死ぬとそれだけ損耗であると。損失であると、こう考えた。だから「工員が死ぬことは損失でないのか」「あれは工員だから損失じゃない」というんだ。兵隊じゃない、工員だ。軍隊は身分制の世界です。上からは将官、将校、下士官、兵卒。さらに募集・徴用で集められた民間の工員がいました。そういう世界ですからね。それで私のところへ来て、私はちょうど一番若くて甲板士官というのをやっていたんですが、甲板士官は一応直接に工員さんたちの風紀取り締まりをやっていますからね。いつも接触している。それで来てね、「一人実験要員を出してくれ」と。その命令を受けたものだから、それじゃこの工員さんに聞いてみようと。希望者がいればそれにやって貰おうと。多分みんな嫌がるだろうから、その時はしょうがないから工作部から―工作部には工員さんがいますから―兵隊じゃない人が。「その人にでもやって貰おうか」と言っていたんですがね、行って集めて「これこれこういうわけで手榴弾を作ったんで、実験してみたい。実験要員としてやる人がいるかい」と聞いたら、全員手をあげた。これ驚きましたね。それで工員というのは一遍陸軍の一等兵とか二等兵あがりの人が多いんです。というのは兵役検査を受けて甲種合格すると、軍隊にぶち込まれて鍛えられて、そこからすぐに戦場に送り込まれるんですね。そしてそこで一等兵、二等兵でもってやってくると。それで三年もされれば一遍帰される。帰されて内地に帰って来ているけどね、別に大した仕事もあるわけじない。そうすると何かまた軍隊でも戻って食う道を探そうかなんていう笑い話になるわけなんですね。そうしている時に、海軍施設部という土建部隊が全国単位でありますからね。施設部が工員の募集をやるわけです。それが徴用工員とか募集工員とか言われてやる。彼らは陸軍の部隊の経験を持ったのが多いんです。そんなもんだから手榴弾の実験なんていうのは得意なんだ。そういうのでみんな手を挙げた。だから今でも名前を覚えていますが、田辺というのが、身体もがっちりしているし、「じゃ、田辺、お前やれ」と言ったら喜んでやったんだ。私たちは施設部の士官と言いながら軍隊の実践の体験はないわけだな。そんなもんだから落下傘部隊がトラック島にいたんですよ。その落下傘部隊へ行って、少尉を借りてきて、その人に指導して貰った。そして海辺に運んで行って、手榴弾を傍らの鉄塊で蝕撃といって、ガチャンと一遍衝撃を与えて、それから手をグッと両方回してパーンと海へ投げる。そこで爆発すれば成功です。ところが蝕撃した途端爆発しちゃった。そういう事故が起こったんです。それでアッと思ったら、その男の身体がフッと浮いたんです。ドンとね。私は丁度戦車壕の土手の上で胡座かいて見ていたんです、責任者だったので。周りでみんな工員さんたちが首出して見ていたんです。そのうちに一斉にわぁっと走って行ったんです。私もつられて走って行った。それでひょいと見たら右腕が吹っ飛んで無い。そしてその破片で背中が抉られ、こんな白い、まだ血も出ない洞(うろ)ができて倒れていた。そうしたらわぁっと行った工員の中で一番身体のでけいのが何を思ったか担ぎおった。そうしたらみな周りに集まって「わっしょいわっしょい」と病院に駆けだした。私も若いからね、二十五だったから同じようにつられて「わっしょいわっしょい」と病院まで運んだ。二千メートルぐらい先にあった第四海軍病院まで駆けて運んだ。病院に担ぎ込んだら勿論ドッと血が出て―すぐ即死しているわけですね。病院の軍医から、「何だ。金子中尉。こんな死に殻持って来たってしょうがないじゃないか」と、私、叱られたんですけどね。その「わっしょいわっしょい」と死んだ男を担ぎ上げてみんなで十人ぐらいの男たちが走っている姿というのは、今でも思い出すんですがね。人間っていいもんだと思っていましたね。なんか走っている途中からそう思ったな。なんか死んでしまってどうにもならんようなものを担ぎ上げて病院に持っていくという。人間の意欲というかな、その意欲の姿が美しいと思ったな。実に人間っていいもんだと。それでますます人間といういいものがね、こういう形で、無体な形で殺されていくという、この戦場というのはこれはよくない。戦場を形成している戦争というのは非常によくないということを、その時ほんとに痛感しましたね。戦争はよくない。それでだから自分が俳句をやっていましたから、戦場に来ていろいろ俳句を創ってやるぞと思った心構えがぶち壊して、もう俳句を創るような場所じゃないと。そう自分は思ったことを覚えています。
 
成田:  戦場ではもう俳句は作るまいと思われた。また俳句を作るようになったというのはどういうところからなんですか?
 
金子:  それはそう言いながらも、ある期間創ってきていますからね。それから私は俳句の申し子みたいな男で、我ながら自分でも俳句は人に負けないという気がある男です。そういう男なもんだから、そう言いながらもできる。急所急所でできちゃうんですね。こういう例があるんですね。艦上攻撃機という普通は航空母艦から魚雷を抱いて飛び立って行って、それで敵方の軍艦に魚雷をぶっつけるという、そういう飛行機が艦上攻撃機というんですね。その艦上攻撃機の陸上基地というのがあるわけだ。それは軍艦の甲板と同じようにね。それがトラック島にも勿論一つあるわけですね、そういう飛行場が。そこへ行ったわけだ。それで一人用事が終わってから、その後ろの方が椰子林で、相当濃密な椰子林で、そこへちょと散歩方々、それから小便もしたいということで行ってね、立ち小便したりして、そこズーッと奥まで入って行った。そうしたら魚雷が積んであるんですよ。艦上攻撃機だから魚雷積むわけですからね。それを敵が勿論狙っていますからね、やられないように椰子林の奥の方へ隠している、野積みでね。そこへ行ったら、そうしたらその積んだ魚雷の黒光りする肌のところを蜥蜴(とかげ)が這ってきているんです。蜥蜴がちょちょちょっと這ってきている。そこでアッと命を感じたんですね。〈あ、命あぶなし〉という感じだったから。〈生々しいいのち危なし〉と思った時に、
 
魚雷の丸胴(まるどう)蜥蜴(とかげ)這い廻りて去りぬ
 
魚雷の丸い鉄の胴があって、その周りをグルッと廻ってちょこちょこと這っていって「魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ」そういう句ができたんですよ。これは「命の句だ」と自分で思って、そういう危機感を持っている命の句だと。これは戦争の句だと。自分で自覚したわけでね。こういう句ができるんなら、まだ許せると。しかもそれは偶然にできた句で、時間を掛けたわけでもない。こういう形でできるんなら自分を許せると、そう思って。だからその種の句はいくつかできています。だけど普通考えて創るようなものは一切止めちゃった。それからその後にサツマイモ作りして食い物を繋ごうとしたわけですが、それも完全にサツマイモが虫に食われて餓死者がたくさん出たんですよ。そういう餓死者が出た時、後から気付きましたけどね、十月に秋島という島へ行ってサツマイモ畑をみんなで二百人ほど連れて行って作っていた。その翌年の八月に負けたわけですね。敗戦が訪れた。だから十月に、十一、十二、それから八月までちょうど十ヶ月。十ヶ月間私は俳句を創っていなかった。思わず創るまいとは思っていたんだけど、現実にはさっきの「魚雷の丸道胴」式に感動する場面にぶつかればできたわけだけど、その餓死者が出て、餓死との闘いをやっていると感動する場面なんてないわけだ。常に命の危機を見つめているわけだから。そうなると句もできない。後から驚きました。ああこの十ヶ月間全然句がない。そういう体験があります。だからそういう時になって、だから俳句ができない。創ろうとも考えないし、自然にもできないという状態の時というのは、自分の命がもう死んだような状態でいる時じゃないかな。だからああいう時自分が死んだらどうだったんだろうな。自然死で死ぬ。自然死で死ぬということもあり得るわけなんだな。餓死状態で、上空にはアメリカのグラマン戦闘機がいつも来ていましたけどね。そいつにやられることも多かったんだけど、グラマンにやられることもなく、ただ餓死との闘いで、静かな闘いを演じているわけですけれども、そういう時に死んだ場合というのは、自然死じゃやっぱりないですね。やっぱり殺戮死ですよね。「準殺戮死」と言っていいんだろうかな。自然死というものがあるのはよほど平和でないと得られない。それは何遍も繰り返して思いましたね。そういう体験ですね。そういう体験の中から帰ってきて決まった言葉ですね、私はそれを「自然死」「他界死」という言い方をしている。
 
成田:  俳句に関わるやっぱりもう一つの言葉で、金子さんが「生きもの感覚」という言葉を使っておられるけども、他界といってみれば死の世界みたいなものだと思うんですけれども、生き物だとその死の世界とどう結び付くのかなと思いまして伺ってみたいんですけれども。
 
金子:  自分が生きていて、これは兜虫だと触れてわかる。生き物を生きもの感覚で捉える。生き物を生きものとして捉える。リンゴを掴む。当然リンゴという生き物であると、はっきり認知できる状態でそれを掴んでいて、それを食べているという。だから相手も生きているものを―果物なんでもみんな生きていますよね―生きものである相手を、生き物として確実に掌握できる、認識できる。その状態が生きもの感覚だと思いますね。生き物を生きものとして掌握できる。生きものだとして掌握できない状態がきた時は危ないわけですね。死が訪れている。その死は安定した死。だから殺戮死に近い、安定した死でない殺戮死ですね。自然死ではなくて、殺戮死に近い、そういうものになっている時じゃないかとこう思っていますね。生きもの感覚を常に感じているということは、これはまた別の言い方をすれば、アニミズム(animism)を掌握しているということだけれども、アニミズムを掌握している状態というのは、その人が割合に健やかに生きている状態の時ですね。
 
成田:  自分のいのちということだけでなくて、他のいのちを感じながら生きているという。
 
金子:  そういうこと、おっしゃる通りです。他のいのちも感じている。自分が生きているということと同時に向こうのいのちも感じている。むしろそこに協和音が響いているというふうな、向こう側と自分との間に協和している音の感じがあるというふうな状態でしょうね。それが生きものの感覚ですね。そういうものが常に感じられる人というのは、これは健全だと思いますね。いのちが健全だと思います。アニミズムの世界を掌握するかどうかということは、そういうことじゃないかな。生き物を生きものとして感じられる、感じ取っている世界、それが生きもの感覚。アニミズムというものだと思いますね。ついこの間も笑ったんですけども、今度ご承知のように私は朝日賞というのを頂いたんだね。それで朝日賞のその私の紹介―こういう事情で賞を貰ったという紹介を書いていた宇佐美貴子さんというのが担当の記者なんです。女性なんですよ。これは非常に優秀な女性ですが、この女性は、「金子は前衛ということを掌握した。掌握して、その上に立って作句したと。前衛を掌握できたということは大きい」と書いてくれているわけです。私はそれを読んだ時、あ、今まで前衛ということで非難される言葉だったんだけど、これは正しい理解が示されたわけで、俺も実はそう考えていたんだと、そう思ってね、宇佐見さんに礼を言ったことを覚えていますけどね。前衛というものが、その時の現象を生き物として捉えて、生きもの感覚で立ち向かっていくという。生きもの感覚の中で捉える。それですね、それが前衛がそれをまずやるわけですね。そしてその奥の方にあるアニミズムとほんとにビクビク生きている魂のようなものを掴むのが、これが前衛なんですね。これができるのが前衛なんで、そういう素地をもった、資質をもった詩人でないと立派な詩が書けない。特に俳句のような短い詩は、十分な詩は書けない。これは私も考えていたものですから、それは「前衛ということを金子は実践した」というふうに言ってくれたことは非常に嬉しかったですね。
 
成田:  俳句というと言葉なので―頭脳的なというか、あるいは心理的なというか、そのように考えてしまったりするんですけども、実は生きもの感覚、いのちというものが大事だということなんですかね。
 
金子:  逆に考えて、生きもの感覚とかいのちというものが、大事なんだと自覚できない詩人は、アニミズムが掴めない。そこには現象、あるいはそこにあるものの本質が掴めない。そのものの本質、これがアニミズムの世界だと思いますからね。それでもっとくどく言えば、その他界の場合にね、他界という形が現象的に日本にはなくて、今のアニミズムの世界に還るという形で生まれて生まれ変われる。それが大事なんですね。死んで別な世界でいのちが甦ったというふうに、単純に図式化していうのはまだ危ないんですよ。他界で甦るというその他界はアニミズムの世界。ほんとにそのものの本質だけが躍動している世界、ほんとに生き物が動いている世界、そういう本物の世界。そう受け取るべきだと思いますね。つまり小林一茶というのは私の一番好きな俳人なんですけどね。彼が六十歳の時に「自分は荒凡夫(あらぼんぷ)で生きたい」と。平凡で自由な男―「荒凡夫」荒は自由ですからね。凡夫で生きたいと。阿弥陀如来様が浄土真宗ですから、「阿弥陀如来様、生かしてください」と、そう書いているんですよ。それで私はその「荒凡夫」という言葉がとても好き。それで一茶はなんで「荒凡夫」という言葉を使ったのかと思って、これはかなり自分勝手にいろいろ追求してみたんですけどね、結局「平凡で自由」ということは、アニミズムというものに直結した生きる姿勢。アニミズムに直結した、つもり非常に純粋な・本質的な世界というものに触れている、そういう生き方を意味すると、こう私は受け取っているんです。純粋で自由な世界。荒は自由ですからね。凡夫は平凡な男。平凡ということは、今のアニミズムの世界。自由で平凡な世界と。そういう世界で自分は生きていたいと。それでアニミズムというものがわかってくる。ものの本質が見えてくるから非常に生きやすくなると。「荒凡夫」という言葉には非常にいい言葉です。荒っぽい平凡な男。
 
成田:  しかし自由に平凡を生きるのは実は難しいことかも知れませんね。
 
金子:  人間が社会というものを作っちゃったからね。これは大変で。これは中年で作った言葉「定住漂泊(ていじゆうひようはく)」という言葉を作ったんですけどね。「定住」というのは社会ですよね。社会で定住しているけども、その社会に乗り切れない、妥協できない、そういう人はみんな漂泊している。心が彷徨(うろつ)いている。それを「定住漂泊(ていじゆうひようはく)」。今の俺はそれだと。これはオホーツク海を、ちょうど勤めを辞めまして、女房と二人でオホーツク海の沿岸を歩いたんです。それで旭川へ出まして、旭川から帰って来た時の車中でできた言葉なんですけどね。「定住漂泊」という。「定住漂泊」というのは、まさに定住が社会ですから、社会にいながら心が落ち着かない。常に不満だらけであるというのが定住漂泊者。そういうふうな生活というのは、全部の人がほとんど全部している。満足して生活している人なんていない、そう思いましたね。そういう中で荒凡夫で生きて、アニミズムに触れていれば心が安らぐという考え方ですね。だから私も、「お前さんの今の人生訓は何だ」と言われたら「荒凡夫」なんですよ。私は、一茶の荒凡夫で自分も生きたいと。平凡で、アニミズムに触れている男。そういう生き方でいいと、そう思っていますね。
 
     これは、平成二十八年二月七日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである