呼吸と空(くう)
 
                  調和道協会理事 鈴 木(すずき)  光 弥(みつや)
一九四三年、東京都生まれ。法政大学法学部卒業。重い喘息やノイローゼによる身心の苦しみを丹田呼吸法で克服したことから、三○年近くその普及に務めている。現在、社団法人調和道協会理事
                  き き て   金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、調和道(ちようわどう)協会理事の鈴木光弥さんに、「呼吸と空(くう)」というテーマでお話頂きます。鈴木さんは、昭和十八年(1943年)のお生まれ。若い頃身体が弱く、喘息(ぜんそく)の持病に悩まされていましたが、丹田(たんでん)呼吸の調和道によって喘息が治り、病弱だった身体も健康体になりました。それ以来、丹田呼吸法の修行を続け、仏教が説く「空」、よく知られた『般若心経(はんにやしんぎよう)』の「色即是空(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜしき)」の「空(くう)」です。その「空」と呼吸の関係についても体験を重ねながら考察を続けている方です。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  鈴木さんは、調和道という丹田呼吸法をお始めになったのは、いつ頃からでございますか?
 
鈴木:  昭和五十五年だったと思いますね。三十六年になりますかね。
 
金光:  何故そういう呼吸法を始めようと思われたんですか?
 
鈴木:  一つは、身体が弱かったんですね。
 
金光:  どういうふうに?
 
鈴木:  喘息とか、自律神経失調症になったり、慢性大腸カタルとかですね、お医者さんが治せないような病気によくなりましたね。病院へ行っても治らないという。
 
金光:  それでその身体をなんとかしようと。
 
鈴木:  なんとかしようと思いましたね。もう一つは、精神的に〈自分は精神が弱いな〉というような感じがありましたんで、これもなんとかしたいと思って。
 
金光:  それで最初はどういうふうに調和道の呼吸法をお始めになったスタートはどんな感じでしたか?
 
鈴木:  それは『主婦の友』の付録に、健康法が掲載された付録がありまして、それを見てあったんですね。喘息だから呼吸だろうなと、これやってみたいなと思ってチェックしていたんですね。そんなところが最初のきっかけでしたね。
 
金光:  ただ一度やったぐらいではなんともないわけでしょう。最初どうでした?
 
鈴木:  喘息に限って言えば、発作が起こりますね。道場へ行ってやってからですね、スパッと発作が起こらなくなっちゃったんで、私の場合、覿面(てきめん)に消えちゃったんですね。
 
金光:  これは効き目があると。
 
鈴木:  効き目があると思いましたね。
 
金光:  なかなか腹式呼吸というのは、それこそ呼吸をのみ込めるのは難しゅうございますが、その辺はどういうふうに?
 
鈴木:  最初は下手は下手なりに、それで効果があったような気がしますね。自分は自律神経なんか調ってきたなという感じが少しずつしてきたりして。
 
金光:  じゃ、そういう意味では、実際多少なりともやってみると、効果があるということは張り合いが出てくるということですね。
 
鈴木:  そうです。
 
金光:  これは呼吸というのは人間何も意識していない時でも呼吸はしているわけですけれども、そういう特別な丹田呼吸法というのを修練・練習するのは、これは毎日ですか? その辺はどういうふうになさいましたんですか?
 
鈴木:  私の場合は毎日やりましたですね。特に最初は一生懸命やりました。治したい一心もありますから。
 
金光:  時間はどのくらい?
 
鈴木:  一時間半ぐらいやっていましたかね。今はそんなにしていませんけれども。
 
金光:  それでやっぱり一時間半毎日続けていると効果がでる?
 
鈴木:  でます。
 
金光:  それで私は、「調和道」という機関紙を拝見しているんですけれども、感心しますのは、鈴木さんが巻頭に書いていらっしゃる、いわば古今東西のいろんな方が呼吸について「こういうふうに考えている」というのを、発表されているものをほんとに広く紹介してくださっているんで、まあよくもこんなにいろんなところまで目配りがきいているなと感心しているんんですが、今日こういう形で呼吸と―呼吸も最後の方へいくと、いわば人間の頭で、意識で考えるよりも、意識で考えるもう一つ奥のところ、仏教で「空(くう)」という、そういう姿・形のない世界と、呼吸というのはどうも繋がっているような気がするんですが、その辺の呼吸と空というようなことでご紹介頂くとすると、どういう方の、どの辺のところから紹介して頂けますか?
 
鈴木:  そうですね、実際に誰の言葉というよりも、呼吸というのはまさに口から空気を吸ったり吐いたりしていますね。普段は無意識でやっている呼吸を、それを意識的にやっているだけで、また大きないのちの中に自分はいるんだなというような、いわゆる「空」といいましょうか、そういったものが感じられてくるんですね。
 
金光:  そうすると、具体的な何かを掴まえるというんじゃなくて、呼吸をしていると自然にそういう、いわば広い世界と自分の呼吸が繋がっているという、そういう実感が湧いてくる。
 
鈴木:  後から、例えば禅の本なんか読んで、〈なるほどな〉という追認するわけですね。そういう解り方というのはとても深く解っていいなと思うんです。初め本を読んで、というよりも、逆に体験があって、そこから後で本―いろんな仏教書なんかで追認していくという形ですね。
 
金光:  でないと、頭で、理屈で考えると、「これは良い、これが悪い」と自己流の判断というのが先に立ってくると、実際の本当の姿とは違うところで、自分が切り取ってしまうと、間違いのもとになるところがあるでしょうから。でもそうやってそういう実感を〈何か広い世界と繋がっているな〉というのを感じられるようになったのは、どのくらい経ってからですか?
 
鈴木:  十五年ぐらい経ってからでしょうか。
 
金光:  そうなると、そういう実感が自分の身体の中に感じられるようになってくると、いろんなものの見方とか感じ方とか、そういうものが変わってくるもんですか?
 
鈴木:  変わってきますね。
 
金光:  具体的にはどういうふうになりましょうか?
 
鈴木:  身体からいくと、喘息とか、自律神経失調症とか、大腸カタルとか治ってくるということ、これは一番判りやすいですね、病気ですから。心の面はなかなかパッと現せませんけれども、しかしなんかちょっと前までは何か人と会って別れた後、なんか心に残って〈まずいこと言っちゃったな〉とか、〈ちょっと話が足りなかったかな〉とか、くよくよするんですけども、そういうとこがなくなってきますね。いつもカラッとした感じが味わえるという、そんな心境が少しずつ、
 
金光:  意識というのは、何かちょっと引っかかると、それを掴まえて〈ああかしら、こうかしら〉と考える癖があるみたいですから、そういうものがだんだんなくなってきますか?
 
鈴木:  喘息になる人は、特にそういう神経質なところがあるから、というような感じがします、私の場合はね。だからそういうのがなくなってきたということで、心の面の変化をちょっと少し感じましたですね。人との関わり合いの中で。
 
金光:  そうしますと、それまで、例えば大腸カタル的なものだと、お腹の下腹の方がいつも存在感があるわけでしょうし、喘息だと呼吸が苦しいというのがあるでしょうし、そういうものがなくなると、鈴木さんご自身の身体も軽くなるというか、身軽に動けるようになるんでしょうか?
 
鈴木:  そうなんです。億劫というのがなくなってきますね。例えば大腸カタルの時は出掛けるのが嫌だなとか、制限されますからね。そんなことがなくなるだけでも極めて身軽になります。
 
金光:  そうすると、五年、あるいは十年ぐらい続けると、身体も変わるし、そういう心の負担というか、心に引っかかるものも、だんだんと少なくなってくるということでしょうか?
 
鈴木:  身体の方はすぐになれますけども、心はちょっと遅れますね。十年とか、
 
金光:  大体意識というのは、「ああしよう、こうしよう」と思うと、その思うところで引っかかってしまいますから。呼吸法というのは、あれは思ったらダメなんでしょう? どうなんですか?
 
鈴木:  そうですね。ある面で意識するということも大切です。
 
金光:  それはどういう場合?
 
鈴木:  〈今息を吐いている〉というので、普段の無意識ではなくて、〈美味い〉と思って吐くと。ズーッとやっていたら大変ですけれども、ある時間を決めて、この時間ちょっと意識して呼吸してみようと。それが取りも直さず丹田(臍(へそ)の下十センチくらいのところ)と言いますか、下腹に力が籠もった、気力の籠もった呼吸になっていくと思うんですね。まずこの意識をするということが大切なような気がします。
 
金光:  その場合は、これは伝統的な呼吸法にそういう「入息出息」息を吸ったり、息を吐いたりすることに意識を集中するというのは、昔から先ずそれをやれ、というようになっているようですが、それに集中すると頭でいろいろ考えることができなくなりますね。
 
鈴木:  できなくなる。
 
金光:  そこに集中してしまうと、他のことは出てこない。
 
鈴木:  はい。
 
金光:  これは大変調和道の場合も同じようなこと?
 
鈴木:  まったく同じですね。
 
金光:  そういうところへいきますと、自分が一人で〈こういうふうになっているな〉というふうにお感じになることと、こういう呼吸法というのは、昔の人はどういうふうに思ったんだろうかとか、あるいはヨーロッパとかアメリカなんかの人はどういうふうに思っているんだとか、そういう歴史的、時間的、あるいは空間的に、人間というのは呼吸をどう考えているかということにも関心が広がっていくんじゃございませんか?
 
鈴木:  当然そうなってまいります。
 
金光:  最後には〈これは自分と同じだ〉というふうにお感じになったのは、どういう方の、どういうものでしょうか?
 
鈴木:  そうですね。例えばこれは日本人ではなくて、ピタッときたのは、ティク・ナット・ハンという方がいらっしゃいます。ベトナムのお坊さんですね。今フランスへ亡命しておりますけれども、この方の詩がありましてね、
 
息を吸ってわたしは静か
息を吐いて私は微笑む
このいまに生きることこそが
私には、すばらしい一瞬(ひととき)
 
池田久代(いけだひさよ)さんという人が訳したんですけども、これいい詩だなと思いました。まったく呼吸は〈これだよな〉と思いますね。「息を吸って私は静か」意識をして呼吸に集中したらスーッと静かな心境というのが現れてまいります。吐いて、〈また有り難いな〉という感じがしますと、自然に表情には微笑みが浮かびます。「息を吐いて、私は微笑む」と言っていますね。息に集中してしまいますと、この今というこの瞬間がとてもはっきりと、そこに自分がいるということが、だんだんとこう身体でと言いますか、心の底で感じられてくる。今度は「この今に生きることこそが、私には素晴らしい一瞬(ひととき)」というのは、ピッタリ合うなと思いましたですね。
 
金光:  その場合、普通「自分は」という言葉が出てくる時は、自分と周囲とは切り離して、自分が独立した存在と。周囲は自分を取り囲んで、それに自分がどう働き掛けるとか、そういう分かれたところで意識的には考えることになっているわけですが、今の方向ですと、自分と自分以外のものとの区別がだんだん薄れてくる?
 
鈴木:  そうですね。そういう心境というのは、凄い大変なことなんだろうと思っていましたら、けっこう呼吸を終わって、そういう感じが凄いとまで、まだいっていませんけど、〈そうだな〉という感じがわかってまいりますね。〈呼吸そのものになる〉と言いますか、そんな心境が現れてまいりますね。
 
金光:  なかなか今というのは、考えてみれば、今は刻々と「いま、いま、いま」で続いているわけですし、それを意識で掴まえちゃうと、固定して止まってしまうんですけれども、呼吸で感じる場合は、そういう止めて掴まえるとか、そういうことではないわけですね。
 
鈴木:  違いますね。〈呼吸そのものになりきる〉と言いますか、
 
金光:  その呼吸そのものになる方向というのを「マインド・フルネス」とか、そういう〈気付き〉。自然にそれやっていると、それまで気が付かなかったことに気付きが生まれるわけですか?
 
鈴木:  気付きが生まれます。これは自然に〈そうだな〉という感じですね。
 
金光:  ということは、特別にそれを目的に、頭の中で〈こうなるかしら〉などと思っていたら、そこにいかないでしょうね。かえって邪魔になるでしょうね。
 
鈴木:  邪魔になりますね。あんまり目的意識というのは邪魔になります。縛られてしまいますんでね、そこに。
 
金光:  そうすると、とにかく「息を吐いている」と、「吸っている」と、そこに先ず意識を集中する。
 
鈴木:  特に吐く方に集中したらいいようですね。
 
金光:  ティク・ナット・ハンという方は、ベトナムのお坊さんですけれども、それ以外にもやっぱり呼吸に注意を払っている方というのはけっこういらっしゃるわけでしょう?
 
鈴木:  たくさんいますね。勿論禅のお坊さんはいっぱいいますし、武闘家にもいます。特に日本の古典芸能をやっている方は、〈そうだな〉という呼吸についておっしゃっている方はいっぱいいますね。
 
金光:  一、二そういう方の言葉なり、その呼吸法を紹介して頂けますか?
 
鈴木:  これは意外だなと私が思ったのは、幸田露伴(こうだろはん)(小説家:1867-1947)という方がいますね。この方のお嬢さんで幸田文(こうだあや)(1904-1990)さんという方がいらっしゃって、この方は文章の達人で小説・随筆を書いているんです。『あとみよそわか』という父の露伴について思い出を語った随筆があります。その中に文さんが、薪割りの仕方を露伴から教わっているところがあります。そんな大事な娘に薪割りを教えるのは面白いなと思いましたけれども、その中で、
 
横隔膜をさげてやれ。手のさきは柔らかく楽にしとけ。腰はくだけるな。木の目、節のありどころをよく見ろ
 
とこう言って、薪割りの仕方を教えている。そういう露伴という人は面白い人で、そういった生活の中のことをとても大切にして、後はハタキのかけ方であるとか、豆腐の切り方であるとか、そういったことをこう姿勢とか呼吸というものを通じて文さんに教えているんですね。果ては白粉(おしろい)の付け方から、恋の手ほどきまでしたというんですけども、全部丹田とか呼吸を通して、そういうことを教えている。この露伴という人も面白いなと思いましたですね。
 
金光:  彼の、いわば学問というか、研究したのは大学なんかで教わったことではなくて、自分が中国なら中国の古典を読みこなして、しかも自分の生活の中にそれを取り入れて実践したとこから発言されているようですから、非常に頭で作り上げた理屈ではなくて、本人が実践している生き方を、そういう呼吸法なら呼吸法でも娘さんに伝えるわけですから、これは迫力があるでしょうね。言われた方は大変かも知れませんけども。
 
鈴木:  文さんも随分大変だったと思うんですけども。しかしそれで文さんの文章があれだけ素晴らしいものになったんだと思いますけどね。
 
金光:  やっぱり日本の伝統的なそういう修行の方法の中には、芸能にしても宗教にしても、やっぱり呼吸というのを非常に大事な一番基本的なこととして注目して取り上げていらっしゃるようですね。
 
鈴木:  そうですね。
 
金光:  今の他にもいろんな方がお出でのようですが。
 
鈴木:  意外だなというところで―武闘家とか、禅のお坊さんは当たり前なので―例えば画家の中川一政(なかがわかずまさ)(洋画家、美術家、歌人、随筆家:1893-1991)さんですね。この方にもろに丹田のことを言っているんですね。
 
丹田に力がある時は、身体にバランスが行き渡っている。丹田に力がない時は、肩が凝ったり背中が痛くなるのだ。私は意識的に丹田を考えたことはない。意識しないのに丹田が出てきた。そして考えるに、丹田に力が入っている時が、私の全力が出る時だ。私は考える。人間が一番人間たる時は、臍下丹田(せいかたんでん)(お臍(へそ)の下の丹田)が調っている時である。一番活気なときである。
 
ということをおっしゃっていますね。こういう方が言っているところに興味を持ちまして。
 
金光:  中川先生は一見丹田呼吸とか、そういうものと関係がない方だという気もしますが、そうでなくて、やっぱりちゃんと長年絵に集中なさっていると、丹田の大事さということに、あるいは呼吸の大事さということに気が付いていらっしゃるということですね。
 
鈴木:  そうですね。
 
金光:  しかし中川先生なんかは、どっちかというと、絵描きさんの中ではちょっと変わっているみたいなようですね。
 
鈴木:  そうですね。
 
金光:  伝統的な芸能なり、あるいは修行法―宗教でも仏教なら仏教の修行法の中で、呼吸について、「これは」という方がいらっしゃればご紹介して頂けませんでしょうか?
 
鈴木:  そうですね。中国の天台宗の天台大師智(ちぎ)禅師(538-597)ですね、この方の天台止観(てんだいしかん)ですね。『摩訶止観(まかしかん)』はちょっと長すぎて読み切れないので、『天台小止観(てんだいしようしかん)』は短くていいですね。この中には、「五事調和」ということが書かれています。修行には飲食を調え、睡眠を調え、身を調え、気息を調え、心を調える必要があるということです。呼吸について書いていますね。こんな言葉がございます。呼吸を調えるには、「三法に依るべし」と。三つの方法がありますと。それは、
 
一、下に著(つ)けて心を安んぜよ(下腹部丹田に心を置くこと)
二、身体を寛放(かんぽ)せよ(リラックスすること)
三、気が毛孔にあまねく出入し、通洞(つうどう)して障礙(しようげ)するところなしと思え(気が毛穴から出入りして、滞(とどこお)ることなく通り抜けているイメージをもて)
 
静かで、とぎれず、粗っぽくなくて、吐く息吸う息がなめらかで、息をしているかいないのかわからないような状態で、身体は安らかで心は喜びを感じる、というのが息の姿である、ということです。
 
金光:  「しょうげ」というのは?
 
鈴木:  「障礙(しようげ)」というのは、固まっちゃうというか、拘っちゃう。
 
金光:  毛穴から出入りすると。
 
鈴木:  全身ですね。
 
金光:  鼻から息をしていることだけではないわけですね。
 
鈴木:  そうですね。当然鼻からなんですけども、意識の上ではそういう全身から出ているということが非常に素晴らしい効果が生まれるということですね。
 
金光:  全身から、要するに呼吸をする場合の空気の出入りがあるということは、外の世界と自分とがもう密着していますね。
 
鈴木:  毛穴に、ということは、皮膚と外界との壁がなくなると言いますか、境目がなくなる。
 
金光:  「宇宙と一体」という言葉に言い換えてもいい?
 
鈴木:  はい。「宇宙と一体になる」というと、随分とんでもない、難しそうですけども、呼吸法というのは、比較的それを感じやすいいい方法だと、私は思いますね。
 
金光:  そうすると、それこそ宇宙と一体、あるいは自分を取り巻く周囲と自分が一体として、この今を生きるということができるということが、自分がどこにいてなんていう意識はなくなって、それこそ「空(くう)」という言葉がそこに出てきておかしくない、そういう世界でしょうか?
 
鈴木:  空間―空の間なんていうのは、とてつもない大変だと思いますけど、呼吸法は比較的それを体験させてくれやすいものだと思いますね。
 
金光:  でもそういうふうな呼吸法ができても、今この娑婆の世界というか、この世に生きていると、日々そのいろんな出来事に直面せざるを得ないわけですけれども、そういう場合の処理の仕方なんかも、やっぱり呼吸法をやる以前とは変わってきますか?
 
鈴木:  変わってきます。だんだん初めは意識して意識する呼吸をするんですけども、意識している呼吸が意識しないでできるという。ちょっとややこしいですけどね。そういう感じになってきますと、意識しないけど、意識呼吸をしているという時がだんだん増えてまいります。そうすると、なんかの時に、困難に直面した時に、フッとこう丹田に気力の籠もった呼吸がいつもできる。そうすると、フッとこう中にものを掴まないで、スルリと抜けるような境地といいますかね。
 
金光:  それと同時に、自分の意識で掴まえなくても、自分という存在がこの世界に密着して生きているというと、そこで与えられる自分のやること、仕事といいますか、そういうものも頭であれこれ考えなくても、〈今こういう状況だから、こういうことを自分はした方がいいだろうというのが、そういう思いも自然に向こうの方から伝わってくる〉というような世界に行くんじゃございませんか?
 
鈴木:  そういう感じだと思いますね。これはまったく宗教家でもない東大の薬学部の教授でいらっしゃった清水先生がいらっしゃって、「リアルタイムの創出」という言葉を使っていますね。「リアルタイム」今ここの、現実の創出―創り出す知恵ですね。
 
金光:  クリエートする創造―創り出すということですね。
 
鈴木:  この言葉を、私、呼吸法を通じてピッタリだなと思いましたですね。まさにリアルタイム。刻一刻こう流れてきますから人生。その瞬間その瞬間に、そのリアルタイムにパッと一番いい状況をこちらが創り出すという、そういう知恵ですね。それはやっぱり丹田の知恵だな、腹の知恵だなと思いますね。頭はまた別の役割があると思いますけども、大脳は。そういうことは腹だなという感じが致しますね。
 
金光:  言葉に掴まると、「創り出す」というと、意識で〈ああしようか、こうしようか〉と思って、自分が意図して創るということになるかと思って、そういうふうに思う方が多いかも知れませんけれども、今おっしゃった「創出」というのは、向こうから、〈今そこに置かれているあなたはこういう仕事がいいんじゃないか〉というような、言葉を換えていうと、そういう〈現在の具体的な、何をすればいいかということが、向こうから教えてくださるというか、気付かせる、気付きが新しいものに一歩を踏み出させる〉そういうことになるわけですか?
 
鈴木:  そういうことですね。
 
金光:  さっき紹介してくださった天台大師智(ちぎ)さんの『天台小止観』というのは、日本の仏教に非常に影響を与えたと。これは禅の一番流れの基があそこで集大成されているようなところがあるみたいですから、だから後年の江戸時代のお坊さんなんかも、大体『摩訶止観』なんかを読んでいる方が多いようですね。だから白隠さんなんかも禅病を克服するのにやっぱり呼吸法で克服されていますし、そういう意味ではああいう『坐禅和讃』だとか、あるいは『夜船閑話(やせんかんわ)』なんかご覧になると納得なさる点がけっこう多いんじゃございませんか?
 
鈴木:  『夜船閑話』は宝庫ですね。丹田呼吸を研究するうえでね。私は、もしお釈迦さまが、さっきおっしゃった「入息出息の法」を考えられて、それを受けて中国へ渡って天台大師が作って、日本で白隠禅師が日本的に纏めてくださったと、丹田呼吸も。面白い言葉がたくさんございますね、白隠禅師には。『夜船閑話』を読めば全編これ丹田呼吸の宝庫。丹田呼吸と書いてなくても裏には丹田呼吸のことをおっしゃっていますね。
 
金光:  何か言葉が浮かんでくるものがありますか?
 
鈴木:  白隠禅師はあまりにも私にとっては当たりますんで、どれをとっていいのか、
 
金光:  白隠禅師の言葉は多いと思いますが、具体的にこういうこともおっしゃっているのかという形で紹介して頂ければと思いますが。
 
鈴木:  そうですね。白隠禅師の言葉として一番有名なのが、「内観の法」というのがありますね。一つの歌のような形でイメージ療法的なものですが、四つの言葉でありまして、
 
我がこの気海(きかい)丹田、腰脚(ようきやく)足心(そくしん)、 総(そう)にこれ我が本来の面目(めんもく)、面目なにの鼻孔(びくう)かある。
我がこの気海丹田、総にこれ我が本分の家郷、家郷何の消息かある
我がこの気海丹田、総にこれ我が唯心の浄土、浄土何の荘厳かある
我がこの気海丹田、総にこれ我が己身の弥陀、弥陀何の法をか説く
 
この言葉を繰り返してイメージしてみなさいと白隠は言います。そうするば、気とも言うべき生命エネルギーが腰部、脚部、足の土ふまずの間に充ちてきて、お臍の下の丹田が瓢箪のように充実してくる。そしてボールのように張りのある弾力性に富んだ状態になる。これで病気が治らなかったら、私の首を切り取って持って行け、と自信満々に豪語しています。これが白隠さんの一番面白い言葉だなと思います。禅とか武道家だったら当たり前なんですけども。これはキリスト教の神父さまで奥村一郎(おくむらいちろう)(1923-2014)というカルメル会の司祭の方ですけども、この方の言葉にこんなのがあったんで、私は興味深く書き留めておきました。
 
祈りとは魂の呼吸である。さらにいえば心の奥深くに秘められた神の呼吸とも言えよう。小さな一輪の野の花にも宇宙大の自然が息づいているように、私たちの一瞬の呼吸にも神の愛の息吹がある。祈りとは魂の呼吸である。
 
私は呼吸をこうやって自分の中で、やりたい、こうしたいと思っているのは、「祈りの呼吸」ということです。祈りというのはとても大切だと思って、これは宗教にかかわらず、いつも人間は祈り心でいたいなと思うんですけども、祈りから離れてしまう。呼吸そのものを祈りにすれば一番いいなと思うんですね。何万回かするうちに、それが一回一回が祈りになれば、特に吐く息が祈りになれば素晴らしいなと思う。奥村先生の言葉はまさに祈りの呼吸かということについて言っているような気が致します。「祈りとは魂の呼吸である。心の奥深く秘められた神の呼吸とも言えよう」。
 
金光:  そういう世界を「空(くう)」という言葉で表現したというふうに考えてもよろしいでしょうか?
 
鈴木:  そう思います。ほんとのいのちの根源と言いますか、心の根源そういったものが「空」なんだと。からっぽでなくて、そういうことなんかなと。
 
金光:  これは実践しないとわからん世界があるようですが、そのつもりで私も呼吸に少し心を使ってみたいと思うんです。どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十八年二月二十一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである