近世の仏教者に学ぶ
 
                  東京大学大学院教授 蓑 輪(みのわ)  顕 量(けんりよう)
1960年、千葉県生まれ。1983年、東京大学文学部インド哲学学科卒業。1990年、東京大学大学院人文科学研究科単位取得満期退学。1991-93年、日本学術振興会特別研究員。1993-97年、財団法人東方研究会専任研究員。1990-98年、千葉県立衛生短期大学非常勤講師。1996-98年、東洋大学文学部非常勤講師。1998-2000年、東京大学文学部非常勤講師。2000年-2010年、愛知学院大学助教授、のち教授。2010年-、東京大学大学院人文社会系研究科教授。
                  き き て     金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「近世の仏教者に学ぶ」というテーマで、東京大学大学院教授の蓑輪顕量さんにお話頂きます。蓑輪さんは、一九六○年(昭和三十五年)のお生まれ。インドから中国を経て日本に伝わった仏教の瞑想の流れを研究している方で、今日はその流れを受け継いだ江戸時代の仏教者の瞑想を中心に伺います。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  蓑輪先生は、仏教の瞑想とか、それからインド、中国を通って日本に伝わってきた仏教が、どういう形で日本にきているかというようなところを研究なさっていらっしゃるご本もあるわけで、その辺を拝見したところで、例えば一番仏教の教えの本(もと)であるお釈迦さんは、瞑想論の立場なんかからお考えになると、どういうことを言おうとなさったとお考えでしょうか?
 
蓑輪:  お釈迦さまが教えを説かれるようになった一番最初のきっかけというのは、多分私たちが生活の中で感じる悩み苦しみから如何にして逃れるのか、というところにあったと思います。それで具体的に悩み苦しみから逃れるために、自分の心を観察するということをなされたというふうに考えています。インドには、お釈迦さま以前から人間の心を見つめるという伝統というのが存在していました。その中でお釈迦さま自身も同じように自分の心を見つめていくということをされたんだと思いますけれども、心の観察の仕方には、二つの大きな流れがあった、というふうに考えられています。一つは、自分の心の働きを鎮めていく。心に何ものも生じないようにしていく。そのような観察の仕方は「サマタ」(意識をただ一点に集中させ続けることによって、瞑想の対象と一体となり、究極の智慧そのものとなるのである。この状態を三昧(サマタ)と呼ばれる)と呼ばれました。もう一つは、心に生じてくるさまざまなものをそのままに観察していくというあり方がとられました。こちらの方は「ヴィパッサナー」(ものごとをありのままに見るという意味。瞑想の対象を定めずに心に去来する現象を一心に観察する)。東アジアの世界に入りますと、「観」という名前で訳されるようになりました。「観察」の「観」ですね。その「観」のやり方というのは、実は言葉を使って実際に今起きているものを観察するやり方から入っていって、やがて言葉を使わないで〈そのまま見つめていく、気付いていく〉というところにいきます。大事な点は、その言葉を使わないで気付いていく点にあるのではないかと思います。具体的にどうのようなことをしているのかと言いますと、例えば呼吸が、入ってくる、出ていくというのも静かに見つめていきます。この時に言葉を使わないでズーッと見つめていくと、やがて鼻のところからその奥に、そして肺の方に入っていくところまで感じられるようになってきます。実際に今自分の身体が受け止めているさまざまな感覚も観察の対象になってきます。例えば音を聞いたり、あるいは身体が何かに触れたり、こういうものも観察の対象になります。音を聞いている時に、ただその音を聞いているというのが大切になりまして、そこのところで〈これは何々だ〉というような判断をしないような聞き方だというのが目指されています。そこから実はお釈迦さまの悟りへと繋がっていく大事な点が見えてきます。どういうことかと言いますと、判断または了別(りようべつ)ということをいうんですけども、了承とか分別というんですけれども、私たちの普通のあり方というのは、外界の音を聞いたり、あるいはものを見たりすると、すぐ自動的にそれがどういうものであるか、というのを瞬時に判断します。そこからさまざまな思いが生じて、例えば良い物であればもっと欲しいとか、あるいは良い音であればもっと聞きたいとかというふうに、次から次へと展開していきます。それが実は悩み苦しみの最初の元になるのではないかというふうに考えていますので、そこに心がいかないようにしていく、というところに瞑想の観のポイントがあるのではないかと思います。
 
金光:  今のお話を伺っていると、自分の心の非常に細かいところまでを忠実に見て、しかも自分の判断をくださないで見る、というふうにお話頂いたわけですけれども、実は大乗仏教で、瞑想の中で「四念処(しねんじよ)」というのがありますね。日本に来ているのを拝見すると、
 
1.身念処(身念住)
わが身は不浄であると観察する。身体におけるすべて(息、行、住、座、臥、身体・行動のすべて)が不浄であることを観察する
2.受念処(受念住)
感受は苦であると観察する。一切の感受作用(外部の感受作用、内部の感受作用)は、苦しみにつながることを観察する
3.心念処(心念住)
心は無常であると観察する。心は常にいろいろなこと考え、一瞬たりとも止まることなく変化し続けていることを観察する
4.法念処(法念住)
諸法は無我であると観察する。諸々の法(この世のすべてのものごと)には、本質的な主体(我)というものは存在しないことを観察する。意識の対象(考え、想像)を観察する
 
と書いてあるんですが、その説明が、「身念処」は〈わが身は不浄である〉、「受念処」は〈感受は苦である〉、「心念処」は〈心は無常である〉、「法念処」は〈諸法は無我である〉と、哲学みたいなところがありますけれども、こう言われたってなかなかピンとこないんですが、その先ほどのご説明を伺っていると、自分の身体なり、心なりを忠実に観るという、これは判断以前の事実を観るということで、この事実を知るというのが、今まで聞いている仏教の教えと、事実を観るというのが基本にあるというのでは随分印象が違うんですが、それが非常に大事なところだということも言えるわけですね。
 
蓑輪:  その通りだと思います。実は漢訳の資料の中にも「如実知見(によじつちけん)」という言葉が出てきますが、〈実の如くに知見する〉なんですけど、それは〈私たちの身体が受け止めているものを、ありのままに見る〉ということです。先ほどの「身念処」にしましても、〈身体が不浄である〉という言い方が出てきましたが、これは実は少し時代が下ってからの言い方でありまして、身体のさまざまな動き、それを観るというところが基本になっています。実際には歩いているのを観察したりとか、あるいは身体の動きを、例えば手を上げたりとか、何か動作をしたりとかというのも気付きの対象になっています。これが初期の、例えばパーリ語で書かれています『大念処経』というのがあるんですけれども、その中では身体の動きを観察するという形で出てきます。それがいつの時代ぐらいかまだはっきり私自身も研究していないところなんですけども、漢訳資料になりますと、「身体が不浄である、苦である、無常であるものである、というふうに観察することだ」というふうに変わっていってしまうんですけれども、実は初期の段階では〈ありのままに見る〉というところにポイントがありました。
 
金光:  私もいろんな方のお話を伺っていて、やっぱりほんとにこの人は仏教を身体で生きていらっしゃると思われる方のお話を伺っていると、「自分の判断をくだす前に、とにかくありのままの事実を見るんだと。最初はなかなかそれができないと。先ず自分の頭で受け止めて、自分の枠の中へ入れて〈これはこう、これは違う〉とかというふうにして判断するんだけれども、その判断以前の事実をそのまま見るということができたら、世界が変わって見えてくる」というようなことをおっしゃるんですね。だから先生のおっしゃる通りだというふうに思うんですが、時間が短いもんですから、一足飛びにそういうお釈迦さまの教えを体得したような方が、江戸時代―近世には随分お坊さんもいらっしゃるようですので、その江戸時代の仏教者の活動の中から、現代の私たちが、今おっしゃったような仏教の基本である事実を如何に受け止めるか。それを事実の受け止め方というのが、それこそ現代まできている禅宗だとか、それぞれの宗派の得意みたいなものがあるんでしょうけれども、どうも宗派が違っても、ほんとに仏教を体得なさっていると思う方がおっしゃるのは、そういう言葉以前の世界を感じたところで発言なさっているんじゃないか、というような印象を受けているんですが、先生がご研究になっていらっしゃる近世の仏教者の中で、そういうお釈迦さまの教えというのが、勿論自分流にというのが入るんでしょうけれども、例えばどういう方、こういうふうな受け止め方があって、それが一般に広く受け止められた、というような例があればご紹介頂けませんでしょうか。
 
蓑輪:  江戸時代の仏教の中で、そういう「修行」と言いますか、「行」の部分に関わるんだと思うんですけども、有名な人物として盤珪永琢(ばんけいようたく)(江戸時代前期の臨済宗の僧。不生禅を唱え、やさしい言葉で大名から庶民にいたるまで広く法を説いた:1622-1693)という方がいらっしゃいます。この方が残された資料の中に、「私たちはいろいろなものを見たり聞いたりしているけれども、何か自分の心の中にそれに反するような嫌なことがあったりすると、そのまま素直に聞くことができない」というようなことを述べていらっしゃいます。それからもうお一人挙げるとすれば、江戸時代の有名な方ですと白隠慧鶴(はくいんえかく)(臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧:1686-1769)という人がいらっしゃいます。白隠さんもそういう点では、あるがままに受け止めていく。それから自分の心がさまざまな働きを起こしているんだ、ということに先ず気付かせるということをしっかりやっていました。例えば有名な「隻手(せきしゆ)の音声(おんじよう)」という「両掌相打って音声あり、隻手に何の音声かある」という公案があるんですけども。「隻手」とは片手のことを指します。当然ですが、両手を打つと「パン」と音が響きます。しかし、片手の場合はどんな音がするでしょうか? 両手を打つと音が出るが、片手にはどんな音があるかということを問うものです。絶対にあり得ないことですので、そういう質問をされますと、誰もが〈えっ!何なんだろう〉というふうに考えると思います。ですから白隠さんの言葉の中には、「大疑団(だいぎだん)が生じやすい」というような言葉を述べています。ですから自分の心が、実はさまざまな働きを持っていて、そこから私たちの認識が出発しているんだ、ということを気付かせるために非常に良い問題だったんだと思います。ですから江戸時代の仏教者の中で、今おっしゃられた私たちの心がどのようなことを起こして、この現実の世界を認識しているのかというのを気付くために工夫をしたお坊さんとして、盤珪永琢(ばんけいようたく)とか白隠慧鶴さんを挙げることができるかと思います。ところで実際に仏教の中には、そのように自分の心を観察するというのと、伝えられてきた経典や論書等を勉強するということも一方で存在していました。実はインドの時代から存在するんですけれども、それが中国に入りますと、「学」と「行」という言葉で言われました、仏教には大きく二つの流れが存在していて、学問的な研鑽をすること、つまり資料を読んで自分で考えていくというやり方と、それから「行」―実際に体験をしていくという、この二つが存在していました。ところが日本に入ってきますと、その伝来の当初から学問的な部分が少し強調されたところがありまして、これが教理とかというものを大変に展開させました。実は現在の日本の仏教が宗派仏教に陥っているのは、教理の部分を仏教のすべてだというふうに思ってしまったところに原因があるのではないかと思います。実はそうではなくて「行」の部分、お釈迦さまが実際に悩み苦しみをどう超えていくのか、というふうに考えられて、一番大事にした部分が多分「行」の部分だと思うんですけれども、そちらの部分に焦点を合わせれば、各宗門が伝えているものの中には、やはり悩み苦しみを超えていくための具体的な手立てが示されていると思います。そこに焦点を当てれば現在の宗派仏教というのを、少し超えていく可能性があるのではないかと考えています。
 
金光:  白隠さんのお書きになったものの中に「法華経とか、念仏をすれば、突き詰めていくと同じところへいくんだ」というような表現があったような気もするんですが、一見法華経は法華経で、しかも宗派仏教としての法華経というのは、他宗派の経典はダメだみたいなところで頑張っていらっしゃるところもあるようですが、お念仏なんかと共通点というのは、あるもんですか? というのはおかしな質問ですけれども、それはどういうふうにお考えでしょう?
 
蓑輪:  「お念仏」も「お題目」も、現在の日本ですと異なったものというふうに認識されています。それは何故異なっているかというと、その背景に持っている教理・教学がかなり異なるわけですね。ところが実際に口に出して称えるという点から考えていきますと、両方とも「行い」であり、「行」の世界に入ります。不思議なことに日本のお題目にしても、お念仏に致しましても、その古い時代のものを伝えているところがありまして、そこではみんな実はゆっくり称えるという特徴があります。同じようなものに「釈迦念仏」というのも存在していまして、普通私たちが「お念仏」とか「お題目」と言いますと、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」「南無妙法蓮華経(なむみようほうれんげきよう)」というのを、すぐ頭に浮かべてしまいますが、実際に奈良の地には「南無釈迦牟尼仏(なむしやかむにぶつ)」というふうに称えるお念仏が存在しています。実はこれがとてもゆっくりと称えるもんです。どうも「お題目」「お念仏」をゆっくり称えるというのが実は自分の心の働きを静めていくという点で、非常に大きな働きをしていたようでありまして、そこに共通点を見出すことができるかと思います。
 
金光:  お念仏の方なんかも、よくおっしゃるのは、「自分のようなこんな人間だ」というか、要するに自分の欠点というか、自分には貪欲とか怒りとか愚痴だとか、そういうのが充ち満ちているんだと。ところがそういう人間を助けてくださる、お救いくださるという、その自分の悪いところを随分表現なさるんですね。ところがそれじゃ自分の悪いとこばっかり見ていると、落ち込んでしまうんじゃないかと、素人考えだとそういうふうに思うんですが、そこのところに「南無阿弥陀仏」という如来さんが出てくると転換というのが出てくるわけでしょうか。
 
蓑輪:  おそらく「南無阿弥陀仏」と称えることと、そのような罪障深きと言いましょうか、悪なるものを持った私たち衆生ですら、〈仏様の誓願によって実はもう救われているんだ〉というところから出発していきますので、〈阿弥陀さんの本願を信じることで〉というふうによく言われますけれども、そこのところで親鸞聖人とかの書かれたものの中に「はからいのない心」というのが出てまいります。つまり自分たちの罪障深きものを持っているという時に、それをそのまま認めていくというのは、ある意味で〈はからいのないあり方だ〉と思います。そうすると、〈はからいがなく、あるがままに認めていける〉という点から考えていきますと、それは仏教の持っていた修行のあり方と繋がってくるところがありますので。
 
金光:  むしろそういう事実を知って認める方が、それに掴まらなければ、かえって身軽に解放される。そういう体験をお持ちなんじゃないかなと想像するわけですけれども。
 
蓑輪:  その通りだと思います。江戸時代の真宗と言いますか、浄土宗の信者さんたちの中に、「何事もあなたまかせのなむあみだぶつ」という歌を詠まれた方がいらっしゃいまして、これ妙好人と言われる方の有名な歌なんですけれども、そこへ詠まれている境地というのは、本当にどんなことが起きても、それに拘らずに、今おっしゃられた掴まらずに流していけるということを意味しているんだと思います。それが実際に心に起きてきているものに対して、それに拘ることなく、見つめているのとほぼ同じような状況だと思いますので、そしてそれができるのはやはり大いなる浄土真宗の方たちにとっては、阿弥陀様の力みたいに考えていけば、多分そこで悩み苦しみから離れていっているんだと思います。実際に「お題目」や「お念仏」を称えている時に、やはり心の中にいろいろな思いが生じてきます。その思いを気づけるというのが、やはりとても大事なところでありまして、そしてそのような思いがきても流せるようになってくる。何か「お題目」や「お念仏」に委せてしまうということで、お釈迦さまが目指していたところとかなり近いと言いますか、実際にそういうところにいけるんだと思います。
 
金光:  今日はそういうお話を伺って、じゃ自分もそれをやってみよう、というようなことを考えても、なかなか実際にやるのと、聞くのとは随分違うわけで、しかも盤珪禅師なんかの場合も、「不生の仏心」と。「親の産み付け持った仏心は、不生にして霊明なものでござって、不生で一切の事が調いまする」(仏心とは、仏の大慈悲の心、仏性のことを云い、その仏心は人々の親が産みつけてくれた生得のものであるから、後に生じたり滅したりするものではないという教え)ということをおっしゃいますけれども、これ一見易しそうで取り付く島がないとこもありまして、後が続かなかったというのは、白隠さんだと「隻手の音声」の公案などによって、そこへまっしぐらにその考えを集中しなさい、というような方法があるんですけど、「不生の仏心」に生まれて、お前さんが自分の都合で、エゴの考えでそういうことをやるから仏心を自分の思いに変えてしまうんだ、みたいなことをおっしゃっていますけれども、実際の問題としてはなかなか難しいとこでございますね。
 
蓑輪:  そうですね。「不生の仏心」というような言い方が出てくるその背景に存在しているのは、やはり東アジア世界の基本的なものの考え方が影響を与えているんではないかと思います。それは何かと言いますと、根源的な何かみたいなものが存在している。人間も実はそことの関わりがあるというような捉え方がやはり存在していまして、そしてそこから展開してきますと、もう〈人間そのものが仏にほかならないんだ〉というような感覚というのが、特に禅宗の中では強く主張されます。ですので、盤珪禅師が言われる「不生の仏心」というのは、そういう〈己自身が仏にほかならない〉というところを、別の言葉で多分表現したものなんだと思います。でもこれはなかなかに実感ができにくいですので、実際になんらかの体験を通して自分のエゴを介さないでというようなことは、体得していくのはなかなか難しいと思いますので、そういう点で盤珪禅師の場合には語録しか伝えられていませんけれども、具体的にもう少しどういう工夫をなさっていたのかというのがわかってくるといいと思うんですけど、残念ながらそれがよくわかっていませんので、それだけに盤珪さんの教えみたいなものは、その当時は非常に広まったと言われているんですけれども、その後に継承されたというようなことは、あまり聞いておりませんので、そういう意味で白隠さんのように具体的な手立てを示したというところに大きな力があったんではないかなと思います。
 
金光:  現在、日本テーラワーダ仏教協会(パーリ語(古代インドの言葉)で、“thera”長老の“vaada”教え、を意味する。大乗仏教に対する伝統的仏教を指す。上座仏教、上座部仏教とも呼ばれる)のスマナサーラ(1945年生まれ。スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。長年にわたって、日本で根本仏教の解説と、瞑想実践の指導を行う)さんから本(もと)のパーリ語からの言葉を易しくこう解説して頂きますと、現代の私たちに、人間の身体なり心なりが、具体的に毎日朝から夜までどういうふうに動いているかとか、そういうのを一々克明に知らせて頂くような修行方法、坐り方みたいなものも、パーリ語の言葉をそのまま訳して頂くと、非常に現代の人にわかりいい点があるものですから、そういう意味では非常に新鮮な感じがする。それで短い時間の間にけっこういろんな方が、テーラワーダの教えを聞くようになっていらっしゃるのかなと思っているんですが、ただそれと日本の仏教というのは、ちょっと離れすぎているような印象を、そちらに行っていらっしゃる方はもっていらっしゃるようですけれども、またお釈迦さまのおっしゃったのを、中国から日本に来たそれをほんとに熟(こな)している方にとっては、全然両方とも別のものではなくて、一本の繋がりの線みたいなものは当然あるわけでございましょうね。
 
蓑輪:  それはその通りだと思います。ただ東アジア世界ですと、ものを表現する時に、象徴的に表現するとかというのは、けっこう好まれたところがあります。特に中国でおそらくそれは絶対的な王権が存在していた地域では、何か言うにしても、詩的なシンボリズムを使うというようなことがあったりして、直接には言われなかったと。それから特に中国の禅宗の人たちが、〈自ら気付くということが大切だ〉というふうに考えたようでありますので、あんまり懇切丁寧に教えないというようなことがあったんだと思います。その点ですと、上座系の人たちはパーリ語で書かれた経典は、懇切丁寧に〈これでもか〉というぐらいに説明しますので、そういう意味で分かり易いと思います。両方とも基本的なところは変わっていないと思うんですけれども、大乗の世界になってきた時に、特に強調されているのは、人と人との関わり、他者性みたいなところ、特に「慈悲」という言葉で言われますけれども、そこの部分が凄く正面に出てくるというのは、ちょっと感じているところでありまして、上座系の仏教にないといっているわけではないんですけれども、先ず自らの心を調えていくというところに凄くポイントをおいてしっかりやっているんですけども、他者との関わりを考えた時に、まだ自らがそういう境地に辿りつけていなくても、他者のことをきちんと考えていかなければいけないという点から考えていきますと、マハーヤーナ(大乗仏教。伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の分派のひとつ。自身の成仏を求めるにあたって、まず苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)を救いたいという心、つまり大乗の観点で限定された菩提心を起こすことを条件とし、この「利他行」の精神を大乗仏教と部派仏教とを区別する指標とする)と言いますか、大乗の部分にちょっと軍配が上がるようなところがありまして、その点では、東アジア世界に伝わった大乗の世界というのは、やはり良い部分があるのではないかと思います。最近ですと、ベトナムの仏教者の方でティク・ナット・ハン(ベトナム出身の禅僧・平和運動家・詩人。ダライ・ラマ14世と並んで、20世紀から平和活動に従事する代表的な仏教者であり、行動する仏教または社会参画仏教の命名者でもある。アメリカとフランスを中心に、仏教及びマインドフルネスの普及活動を行なっている:1926-)という方が随分活躍して「マインドフルネス」という言葉を、あの人たちよく使っていますけども、その「マインドフルネス」をティク・ナット・ハンさんが実際に実践してですね、みなさんにお話する時には、「これは実は東アジア世界にちゃんと伝わっていたんですよ。大乗の世界にもきちんと伝わっているものだ」ということをいつもおっしゃっているそうです。ですので、実は「マインドフルネス」という言葉で呼ばれているものも、瞑想の中でお釈迦さまが言われたそのやり方であり、その効能というのがきちんと存在していた。ただその説明の仕方が東アジア世界独自になってしまって、少し分かり難くなっちゃったというのがあるのではないかと思います。現在いろいろのところでお釈迦さまの教えというのが見直されてきていまして、例えば教育の世界でもその辺りのことに関心を持っている方がいらっしゃいますし、一番多いのは多分臨床心理の世界でお釈迦さまの瞑想から見付けられたものを応用しようというのが出てきています。心のケアという点で、仏教が伝えてきた瞑想も、ものの見方、心に生じてくるさまざまな悩み苦しみを流して受け止めていくというようなところで、貢献できるんではないかというので、そういう方面からアドバイスをしている方たちもいらっしゃいます。アメリカでの話なんですけれども、「マインドフルネス」という言葉は少し分かり難いというようなことがあって、「contemplative(瞑想的な、凝視している)care」という言い方も出てきていまして、〈自分の心を見つめていくことによって自ら自分の心をケアしていくんだよ〉というような言い方も今出てきています。
 
金光:  そうしますと、現代でもいろんな説き方をなさってる方がお出でになるわけですので、そういう方の教えから自分に合っているものを選んで、そこから仏教が昔から伝えてきている大事な世界へ近づくという、その方向というのは、これから可能性としては大いにあると受け取っていいわけでございましょうね。
 
蓑輪:  そうだと思います。
 
金光:  どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十八年三月六日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである