聖書によむ「人生の歩み」A子ども・教育
 
          関西学院大学名誉教授・東京女子大学元学長 船 本(ふなもと)  弘 毅(ひろき)
 
ナレーター:  宗教の時間です。聖書によむ「人生の歩み」その第二回「子ども・教育」。お話は、関西学院大学名誉教授で東京女子大学元学長の船本弘毅さんです。
 

 
船本:  聖書によむ「人生の歩み」の第二回は、第一回の「誕生・いのち」に続いて、「子ども・教育」の問題を取り上げて考えてみたいと思います。我が国では少子高齢化が急速に進んでいます。高齢化に注目が向けられがちですが、少子化―子どもの数の減少は、既に三十年を越えて続いており大きな問題です。テキストブックでは、執筆時、即ち昨年末において、もっとも新しい統計を用いて、総人口は前年に比べて二十八万四千人減少し、子どもの数は一六五四万人で、総人口に対する比率は、十三パーセントであると記しました。しかしこの四月十五日に、総務省が二○一三年十一月一日現在の人口推定を発表しました。それによりますと、総人口は三年連続の減少で、二十一万七千人減少し、一億二千七百二十万八千人になりました。十四歳以下の子ども人口の割合は、総人口に対して十二・九パーセントと過去最低になりました。一方、六十五歳以上の高齢者は、二十五・一パーセントと四分の一を越え、少子高齢化がいっそう進んだことが明らかになりました。我が国には他国にあまり例を見ないのではないかと思いますが、少子化担当大臣が置かれ、国の政策として少子化対策が講じられていますが、有効な策を打ち出すには至っていません。世界的に見れば、子どもが三十パーセント、大人が七十パーセントというのが普通ですから、十三パーセントを切り、五十年後には九パーセントとなると言われる日本の子どもの数は、容易ならざる状況であると言わねばなりませんし、社会的経済的にさまざまな問題を生み出してくることは明らかであります。以前は、我が国では家庭は、五人というのが標準でした。即ち両親と子ども三人がごく普通であり、子どもたちは互いに遊んだり、喧嘩したりしながら成長し、社会のルールを身に付けてきました。しかし一人っ子が圧倒的に多くなってきた現在の社会では、このような状況は大きく変化しています。親は子どもを産み、子どもを愛して育て、子どもは親を信頼し、親を頼りにし、また甘えて育つというのはごく自然なことでした。しかし今、我が国では、親と子の関係が揺らいでいます。子どもをどう育てたらよいかわからない親、子どもを愛せない親も増えています。各地に子育て支援センターが建てられ、相談に訪れる人はあとを絶たないと言われています。世界の十一カ国(日本、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデン、韓国、フィリピン、タイ、ブラジル、ロシア)の十一カ国を対象にして行われた青年意識調査の結果が報告されています。「あなたは、どんなときに充実していると感じますか」という質問に対し、日本の青年の一位は、「友人と仲間といるとき」、二位は、「スポーツや趣味に打ち込んでいるとき」、三位は、「仕事に打ち込んでいるとき」、四位は、「親しい異性の友だちといるとき」、そして五位が、「家族と一緒にいるとき」でした。日本では、五位に過ぎなかった「家族と一緒にいるとき」を一位に挙げたのは、アメリカ、フィリピン、タイ、ブラジル、二位に挙げたのは、イタリア、フランス、スウェーデン、三位に挙げたのは、ドイツ、ロシア、四位に挙げたのは、韓国でした。「悩みや心配事があれば、誰に相談しますか」という問いに対して、日本の一位は、ここでも「友だちや仲間」でした。しかし他の国々では、青年たちは、困った時には家族、特に母親に相談する、と答えていました。日本では、家族や教師ではなく、友人、仲間が重んじられているように見えます。しかしそれでは日本の青年たちは本当に信頼し得る友人や仲間を持っているのか、ということを考えますと、疑問を抱かざるを得ないのではないでしょうか。携帯電話やスマホでは話し合っていても、顔と顔を合わせて、親しく話し合っているという姿は、あまり見かけなくなりました。そして、そこに見えてくるのは、若者たちが真に心を許し合える友人や仲間を持っていなく、極めて孤独だということです。インターネット依存の疑いが強い中高生が、全国に五十二万人いると厚生労働省の研究班が推定しており、不登校児は十万人を越えています。子どもを育てる、そのことを喜びとする社会を作り出していくということが、今緊急の課題であると言ってよいのではないでしょうか。教育を考える時、思い出す言葉があります。フランスの哲学者ジャン・ギットンの次のような言葉です。「学校とは、一点から一点への最長距離を教えるところである」。考えてみると、日本の教育は、最長距離ではなく、最短距離を走り抜くことを教えてきたのではないかと思います。この「一点から一点への」は、いろいろに考えることができます。入学から卒業まで、就職から退職まで、人間の誕生から死に至るまでなどが考えられます。それぞれに与えられた一回限りの人生を、如何に深く楽しく有意義に生きていくのか。そのことを学校は教え、考えさせるところである筈だと、ギットンは言いたかったのではないでしょうか。関西学院大学に勤めていた頃、卒業生の結婚式を司式(ししき)したり、お祝いの会でスピーチを頼まれることがよくありました。新しい人生の出発点に立つ卒業生たちの希望に満ちた表情は美しいものでしたし、その前途の祝福を祈らずにはいられませんでした。その時よく私が話したのは、「人生は緩やかなに放物線を描くように展開していくものではなくて、むしろ折れ線グラフのように、行ったり来たり、上がったり下がったりしながら、紆余曲折を繰り返しながら展開していくことでしょう。そして人間は、順調な直線曲線の歩みの時よりは、挫折や苦難を通して、強められ深められ、他者への思いが生きたものになるだろうと思います」ということでした。最長距離を生きるというのは。非常に含蓄に富む言葉だと思います。本来教育とは、すぐに役に立ついろいろのよい人材を作り出すことではなく、長い人生の歩みを歩み抜く力や思いや愛や責任を育てることである筈です。先月学んだように、聖書は、人間は偶然この世に存在するようになったものではなく、神の愛の御手の中で、生きる目的と使命を与えられて、この世に送り出された存在だと語っています。そのような一人ひとり、生きる意味をもつ掛け替えのないものを、ほんとに人間として育てることが教育の本来的な使命だと思います。聖書は、教育についてどう語っているんでしょうか。先ず旧約聖書から考えてみましょう。イスラエルの子どもたちの教育は、両親によって行われました。乳児期の教育の責任は、母親が担い、日常生活における基本的なことが教えられ、子どもたちは母親の感化を受けて成長しました。父親は、子どもたちが成長するにつれて生きるための技術を教える責任を担いまいた。農業・牧畜・手工業のやり方などを、父親は子どもたちに伝えました。しかしそれだけに留まることなく、イスラエルでは、父親は子どもに技術を教え込むと共に、世界観やイスラエルの信仰を伝え、子どもたちの生活に、いのちと平安を与える役割も担っていました。イスラエルの歴史を貫いて働かれる神の救済の事実が、父と子との対話の中で問答形式で教育されたのでした。例えば出エジプトを導いたモーセの後を継いで、イスラエルの民のカナン進入を成功されたヨシュアは、ヨルダン川を渡った時、ギルガルの地にヨルダン川から取った十二の石を建てました。それは後の時代の人々が、この十二の石は何を意味するのか、と尋ねるだろうから、その時イスラエルの民は神に導かれて、エジプトからこの地に戻って来ることができたという救いの歴史を語るためであったと、ヨシュア記の四章二十一節以下に記されています。有名な十戒の五戒は、「あなたの父母を敬い」と規定しています。これは十戒の後半、即ち前半が神と人間の関係の規定であるとすれば、後半は人と人との関係を規定するわけですが、その最初に置かれている規定ということになり、これは極めて重い位置を占めていることになります。この場合、父・母を敬いというのは、ただ両親の権威を認めているのではなくて、子どもたちの教育する両親の責任との関係で理解されなければならないと言われています。即ち両親は子どもと教育という重要な務めを委ねられた者であり、そのためには主のみ言葉に聴き従い、信仰に生きることが求められたのでした。箴言(しんげん)の一章にある
 
(しゆ)を畏(おそ)れるることは知恵の初め
無知な者は知恵をも諭(さと)しをも侮(あなど)
わが子よ、父の諭(さと)しに聞き従え
母の教えをおろそかにするな
それらは頭に戴く優雅な冠
首にかける飾りとなる
 
は有名な聖句ですが、旧約聖書において教育の目標は、第一に、正しい知恵を与え、第二に、真のいのちと平安と幸福を与えることでありました。この場合の知恵は、ですからギリシャ的な知性や理性とは異なり、人間の生きる正しい道、あるいは人間の人格に深く関わる教えとして理解されていたところに、旧約聖書の教育観の特色を見ることができると言えるでしょう。次に新約聖書における教育観に目を移したいと思います。イエスは、ガリラヤ湖畔で伝道活動を開始されましたが、それに先だって十二人の弟子を選び、彼らを傍に置いて共に行動すると共に、彼らを各地に派遣して伝道活動に加わるよう求められたと聖書は記しています。マタイ福音書九章の三十五節以下にはこう記されています。
 
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣(の)べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
(マタイによる福音書九章三五節)
 
ここに出てくる収穫のための働き手は、当時の伝統的な解釈では、終末の時に遣わされる天使と考えられていたのですが、イエスは、今この時を特別な時として捉え、イエスと共に神の創造的ミッションに参加することを求められたのでした。マタイ福音書の最後に、復活の主は、弟子たちに残した委託命令が記されています。
 
イエスは近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(マタイ二十八章一八―二○節)
 
ここではすべての民を私の弟子にしなさいという命令が、洗礼を授けることと教えることという、二つの具体的な仕方でなされるようにと語られています。マタイ福音書の教育的志向性を読み取ることができると思います。これは狭義のケリュグマ福音とは区別された教え、信仰によって生きる生き方への教育が問題にされていると言ってよいと思います。使徒パウロは教会の職務について第一コリントの十二章でこう述べています。
 
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒(しと)、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物(たまもの)を持つ者、援助する者、管理する者、異言(いげん)を語る者などです。
(「コリントの信徒への手紙一」十二章)
 
この「教師」は、信仰と生活の実践について、教会に属する人たちを導いた人たちのことだと考えられます。教えの内容は、イエスの言葉に基づいて、信者が信仰と愛に生きることを勧めたと思われます。ここに出てくる三つの職務、使徒、預言者、教師という、最初の彼らの三つの職務はいずれもみ言葉の説き明かしを中心とした務めですから、教会の歩みは常に主の言葉の上に堅く立っていたことを明らかにしています。ですから教育は教会の本質的な働きであり、神の委託に答える宣教の業(わざ)であるとパウロは理解していたのでした。「伝道」と「教育」と「奉仕」という業は、互いに深く結合しており、教会はこの委ねられた務めに励みつつ、この世に対する神のミッションに参加することが求められているのです。次に視点を少し変えて、教育の意味を考えてみたいと思います。日本の教育の歴史においては、近代の学校教育は、他者と競争し、そこから抜きん出ることを勝利者とみなす傾向があったと思われます。しかし聖書は、人間が何をなしたかという成果を問うのではなく、人間が自分に如何に忠実に生きたかという生き方を問題にしていると思います。このことは私たちにイエスが語られた「タラントンのたとえ」を想起させます。主人公は僕(しもべ)たちにそれぞれ五タラントン、二タラントン、一タラントンを預けて旅に出たという話です。やがて帰って来た主人は、僕(しもべ)たちと精算を始めます。五タラントン預けられた僕(しもべ)は、五タラントンを別に儲けて十タラントン、二タラントン預けられた僕は、二タラントン儲けて四タラントン持ってきます。この二人は、初めは三タラントンの差でしたが、結果は六タラントンの差がつきました。しかし主人はこの二人をまったく同じ言葉で忠実なよい僕(しもべ)だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ、と褒めています。一方、一タラントンを預かった僕(しもべ)は、失うことを怖れて、それを地の中に隠して置き、そのまま主人のもとへ持って来ました。しかし主人はこの僕(しもべ)を、怠け者の悪い僕(しもべ)だ、と叱って追い出し、その一タラントンを十タラントンの人に与えたというのです。働きの量、成功したか否か、金儲けをしたかではなくて、その人がその人に相応しく生きた否かを問題にしているのです。私はかつて、国連の事務総長として尊い働きをして、今もその名を世界の人々に覚えられているダグ・ハマーショルドの言葉を思い出します。彼は困難な時代に、国連の事務総長として国際紛争の解決のために、献身的な働きをした人でした。不幸なことに一九六一年、コンゴに至る途中、搭乗機の事故のために北ローデシアで亡くなりました。激務の中で、ダグ・ハマーショルド氏は、自ら「わたしの、わたし自身との、そうしてまた神との関わり合いに関するいわば白書のようなもの」と呼んだ日記を付けていました。その中にこんな印象的な言葉があります。
 
「ほかの人たちよりすぐれているでしょうか?」ときには、彼語る、「いかにも、ほかのひとたちよりはすぐれている。」しかし、こう語るばあいのほうが多い、「なぜ、そうでなければならないのか。おまえは、おまえのなりうる者になっているか、それとも―ほかの人たちと同様に―おまえのなりうる者になっていないか、いずれかなのだ。」
(『道しるべ』鵜飼信成訳、みすず書房二四―二五ページ)
 
この短い言葉は、いろんな機会に、私への厳しい問いかけでもありました。自己のなり得るものになって生きる。あなたは、あなたらしく、あなたの人生を生きているか、と、私たちに問いかけているんです。新年度の始まった四月一日の「天声人語」は、「今年の新入社員を「自動ブレーキ型」と呼ぶそうだ。名付けた日本生産性本部によれば、その心は何事も安全圏、壁や障害物を察知して未然に止まるのだそうな」と書き、「風雨あろうが、実り多かれと若い者にエールを送る」と締めくくっていました。温かい、そして厳しい激励の言葉だと思いました。人は聖書によれば、土の器に過ぎません。弱い壊れやすい存在です。しかし神は、この土の器の中に宝を思い、恵みと力を与えて生きるものとしてくださったというのです。真実の教育、これからの教育は、ただ人と競い合って自分を高めるのではなく、その人に委ねられている使命に忠実に生きる人間を育てるものでなければならないのではないでしょうか。近代化の流れの中で、人間の理性や技術や科学が手放しで賛美され、人間至上主義あるいは人間万能主義、人間楽観主義が謳歌されてきました。しかし世界は今、それらが生み出した重い課題の前に立たされています。東日本大震災は、そうした問題を顕わにし、私たちは巨大な課題の前にたじろいでいるのかも知れません。教育はただ技術や知識の伝達にとどまらず、個としての人間のもつ魂の問題や罪の問題と真実に関わらなければならないでしょう。一人ひとりの人間の存在の根拠を問わねばならないでしょう。マルコによる福音書の中に、イエスと子どもの関係を描写した次のような文章があります。これは他の福音書にも共通して記されている記事でもあります。
 
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤(いきどお)り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
(マルコ一○章一三―一六節)
 
キリスト教教育の原点は、ここにあると言ってよいと思います。現代は、人のいのちが軽んじられています。他者のこと、周りの人のことに目も心も向けず、ただ自分だけを大切にしている人が溢れています。人との比較においてではなく、あるいはその人の有用性においてではなく、神の前における一人を大切にし、それゆえに他者もまた私と同じ掛け替えのないいのちを生きている者として関心を寄せ、共に生きることを教え導くキリスト教教育は、このような時代の中で重要な課題と使命を担っていると言えるでしょう。創世記の創造物語では、罪を犯して、神の前から隠れようとしたアダムとエバに至って、神はどこにいるのかと呼び掛けられました。私たちは、いつもどこにいるのか。どこに生の根拠をおいて生きているのかと問われる存在だと思います。神の言葉に立ち、導かれることが求められていると思います。人は、生まれ、やがて終わりを迎えます。この二点の間を如何に深く、如何に豊かに生きるかを正しく導くのが、神の言葉、聖書の福音であり、キリスト教教育の使命です。子どものいのちを掛け替えのないものとして育て、その生を豊かに生き抜くように導きたいものだと思います。
 
     これは、平成二十六年五月十一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである