親鸞聖人からの手紙K救われることは救うこと―第二十一通
 
               武蔵野大学名誉教授 山 崎(やまざき)  龍 明(りゆうみよう)
 
ナレーター:  「親鸞聖人からの手紙」その第十二回「救われることは救うこと」、お話は武蔵野大学名誉教授の山崎龍明さんです。
 
山崎:  「親鸞聖人からの手紙」、今回が最終回となりました。本日は「救われることは救うこと―往相と還相の回向」と題してお話致します。お手紙第二十一通でございます。私なりに親鸞聖人の手紙を読んでまいりました。手紙は四十三通ありますが、その中でほんの少ししか取り上げられなかったことを申し訳なく思っております。従来聖人の教えの特徴は三つあると言われます。
 
一、「本願他力の教え・本願力の教え」。
(私を中心とした仏道・仏法から、阿弥陀如来を中心とした仏道を生きる)。私は、「自我中心の世界から仏中心の世界」とこういうふうに表現をしています。
二、「悪人の救い」。
(善なる者、あるいは智慧ある者の教えではなく、煩悩というものを持った悪なる者、あるいは無智なる者、疎外された者の救い)。
三、「往生成仏(おうじようじようぶつ)」。
(さとりの世界である浄土の教えを学びながら人生を生き抜き、そして浄土に往生して、そこからまた多くの苦しみ・悲しみ・悩み・傷付く人々の救いのために働きに出る―「還相(げんそう)」の働き。
 
これらの教えを中心として手紙を読んでまいりましたが、最後に、教えの中心と言ってもよろしい「往相と還相」という教えについて考えてみたいと思います。なかなかこれは難しいことですが、親鸞聖人の教えは、阿弥陀如来の本願に約束された人間の解放と言いましょうか、救いということから「救いの宗教」と一般に言われてまいりました。「自力の仏道」というのは「さとりの宗教」こう言われます。浄土真宗は、「救いの宗教」というのが一般的な考え方です。このような考え方に、私は実はちょっと疑問を持っています。それでは「さとり」と「救い」というのはどのように違うのだろうか。このことも考えてみなければなりません。かつて私は、テレビで一年間お話をさせて頂く縁がありまして、その時少し詳しくこの「さとり」と「救い」についてお話を致しました。もしご関心がありましたら『初めての歎異抄―親鸞との出会い―』という本が日本放送出版協会から出ておりますので、お読み頂けたら幸いです。私が、「浄土真宗は救いの宗教」ということについて若干の違和感がありましたのは、親鸞聖人が晩年、「さとり」という言葉をしばしば述べているということなんです。例えば八十五歳の時の言葉ですけども、
 
弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取(せつしゆ)不捨(ふしや)の利益(りやく)にて
無上覚(むじようかく)をばさとるなり
 
どういうことかと申しますと、
 
一切の人々を救うと言われた阿弥陀如来の教えを信じたいものです。その教えを信ずる人は、みな必ずその人を摂(おさ)め取ってやまないという利益にあずかり、このうえなきさとりを得ることができるのです。
 
このように親鸞聖人は述べます。また「大般涅槃(だいはつねはん)をさとる」とか、「このたびさとりをひらくべし」とか、「かならず滅度(めつど)をさとるなり」とか、言葉は難しいんですがこういったものも見られます。聖人はかなり力を込めて、「阿弥陀仏の教えはさとりである」と言われていることに、私は注意したいのですが、「阿弥陀仏の教え」というと、今日では「救い」ということが一般的なものとなっております。勿論このことに誤りはないんですが、救いに私たちの力は微塵(みじん)も必要とせずに、阿弥陀如来の願いによって救われていくのです。このことを誤解して、「すべて阿弥陀如来がいいようにしてくださる」といったように身を委ねて、自ら歩くことも、自ら求めることも否定してしまうような傾向があります。私は、救いは阿弥陀如来の教えの働き、しかしその中で私たちがその教えの導きによって精一杯、いのちを尽くしてこの世を生きる。それが親鸞聖人の世界だと考えております。さてよく言われることでありますけれども、親鸞聖人の念仏の教えというのは、いわゆる単なる死後の救いではない。このことを私は確認をしておきたいんです。聖人の教えがどちらかと言いますと、親鸞聖人以後、大分親鸞聖人と離れていってしまった。こういう懸念を私は感じます。誤解をされるかも知れませんが、親鸞聖人の教えが、ただ死後の往生浄土にのみ限定されて、今ここでどう生きるのかという大切なことが忘れられてしまったならば、それは親鸞聖人の教えとは少しずれてくるんではないかと、こういうことなんです。ちょっと具体的に申しますならば、親鸞聖人以前の、ただ極楽を願う浄土教、そこから一歩進めて、今、ここを阿弥陀仏と共に生きるという、こういう親鸞聖人の浄土教が、親鸞聖人の没後、また単なる極楽往生を願う教えになってしまったのではないか、こういう懸念が私にはあります。私のおよそ五十年間の研究、信心の生活に於ける課題というのは、実はこのこと一つにあると言っても言いすぎではないと思っております。さて手紙の第二十一通を読んでまいりますと、最初にちょっと原文で申しましょう。
 
安楽浄土に入りはつれば、すなはち大涅槃をさとるとも、また無上覚をさとるとも、滅度にいたるとも申すは、御名(みな)こそかはりたるようなれども、これみな法身(ほつしん)と申す仏のさとりをひらくべき正因(しよういん)に、弥陀仏の御ちかひを、法蔵菩薩われらに回向(えこう)したまへるを、往相(おうそう)の回向と申すなり。
 
難しくて少し恐縮ですが、どういうことかと申しますならば、
 
さとりの境界(きようがい)である浄土に生まれると、直ちに大いなるさとりを得るといったり、また、無上覚―この上なき真理―をさとるといったり、滅度―寂滅のさとりに至るといったりしますのは、言葉は異なっているようですが、これらはみな法身―法性、真如(真理)という仏のさとりを開くことを示すものです。そのさとりを開く正しい因―たねを、阿弥陀如来は誓願―本願に誓われ、法蔵菩薩が修行をかさねて阿弥陀仏となって、私たちに恵み、与えられることを、往相―念仏と共に生き生きと生き、浄土へ向かう人生の歩み―の回向というのです。
 
こういうことになりましょうか。さてこの「往相(おうそう)」というのは、「往く」という字に「相」―往く相ですから私たちが教えと共にこの人生を生きる。そしてさとりを目指す。これを「往く相(すがた)」と書いて「往相」と申します。そしてそれは同時に還って来る。これを「還相(げんそう)」往くことは同時に還ることである。これが他の方にあまりない親鸞聖人の教えの大きな特徴なんですね。その教えと共にこの現実を生きる人たちのことを、親鸞聖人は、「諸仏の御心にひとしい人である」とか、「諸仏にひとしい」とか、こういう褒め言葉をもって表しておられます。晩年の親鸞聖人は、さまざまな著述を通してこのことを積極的に説いています。先ほど申しました「さとり」というのは、むしろ晩年に至って盛んに用いられる言葉でありまして、お若い頃にはあまり「悟る」ということは、親鸞聖人は述べておられません。さて、「浄土」というのは、「浄らかな土」と書きますけど、これは「さとりの世界」。平等、あるいは無差別なさとりの世界。それに対して仏教では、「穢(よご)れた土」と書いて、「穢土(えど)」という言い方がありますね。そのさとりの境涯に対して、私たちの世界は欲とか怒りとか愚かさという煩悩によってなりたっている。そういう意味で汚れたところ「穢土」と、こういうふうに。それはまた迷いの世界ということを意味する言葉なんですけれども、ただ親鸞聖人は、その浄土というさとりの世界と、私が生きるこの穢土というものは絶対的に隔絶した、離れた世界ではない。勿論浄土は、穢土ではありませんから、浄土と穢土とは違うんですけども、そのさとりの世界と、私のいるこの迷いの穢土という世界を切り結ぶものが実は阿弥陀仏の教えであると。こういうふうに親鸞聖人は示されるわけです。仏教の言葉で言いますと、「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」つまり迷いが即ちさとりであり、また「生死即涅槃(しようじそくねはん)」、言葉は難しいですが、生き死にですね、私たちの生き、そして死んでいく人生の迷いという生死(しようじ)そのものがまた同時にさとりであると。煩悩がそのままさとりであり、生き死にの迷いがそのままさとりの世界であると。煩悩と菩提(さとり)とはまったくそういう意味では、二元的なものではないという表現であると申しあげたらよろしいかも知れません。親鸞聖人は、「阿弥陀仏と申すは光の仏にてまします」とこう言っておりまして、それは阿弥陀仏の教えを光に喩えたものなんです。光は平等無差別に誰にも届きますね。作家の吉川英治さんは、若い頃、苦しい奉公の中で支えになったものは、母親から来た手紙にいつも書いてあった「朝の来ない夜はない」という言葉だったそうです。朝は光です。誰にでも朝はやってまいります。平等に。その光が私の心の中まで届いてくれたら、いのちが明るくなります。光はすべてのものに恵みをもたらす。阿弥陀仏はその光に喩えることができるということを、親鸞聖人は、
 
仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。
 
阿弥陀仏は即ちこれ不可思議光如来なり。土―浄土ですね。またこれ光明土、無量の光に溢れた場所であると。こういう表現も親鸞聖人が用いられます。さて少し具体的に本日の主要なテーマであります「往相と還相」ということについて少し考えてまいりたいと思います。手紙にはこのように書いてあります。
 
このアミダ如来より私たちに与えられる救いの世界を、往相の回向というのです。この与えられた本願を念仏往生の願といいます。この念仏往生の願をひたすら信じて、二心(ふたごころ)のないことを、一心に念仏を修(しゆ)する道―一向専修(いつこうせんじゆ)―というのです。アミダ如来の往相の回向―念仏者としての私の歩み。浄土へ向かっての歩み―と、還相の回向―浄土で仏となりこの土に還って人々の救い従事する―について、この二つの回向の願を信じて二心のないことを、真実の信心というのです。この真実の信心は、釈尊とアミダ如来の二尊のお導きによっておこるのであると、御心得ください。謹んで申しあげます。
 
手紙にはこういうふうに書いてあります。簡単に申しますならば、「往相と還相」という二つの回向は、ともに阿弥陀仏の教えによって私にもたらされた世界であるということを、この手紙の中で親鸞聖人は述べておられます。これは非常に親鸞聖人の独創的な、非常に独自なと言いましょうか領解(りようげ)でありました。アミダ如来よりこの私に賜る信心によって、迷いの世界を超えてさとりの世界に生まれる。そしてそこで仏のさとりを開きますから、成仏する。だけどそれが実は究極的な目的ではなくて、そこが親鸞の独自な理解なんですけどね、そこからこの迷いの世界に還って人々を救う。その救いが成就する、というのが親鸞聖人の教えの世界であったと、このように申しあげることができます。言葉を換えて申しますならば、私自身が悟って安らかな境界に生きればいいというんじゃなくして、その境界に立つものは同時に、人々の苦しみを担うものでなければならない。人々を救うものでなければならない。さとりはそういう働きをもっているんだ、働きを発揮するんだ。それを「還相」という言葉で表現をする。これは親鸞聖人は大乗仏教というものを非常に意識しておりましたね。前に申しましたが、「浄土真宗は大乗の至極なり」と手紙にはありますから、大乗仏教の究極、それが浄土真宗である。大乗仏教とは何かというと、今申しました「自利即利他」ですから、私の救いがあなたの救いにならなければならないという。これが自利と利他という大乗仏教の精神ですね。この辺りに親鸞聖人の教えの大きな特質がある、こう申し上げてもよろしいかも知れません。代表的には親鸞聖人は難しい『教行信証(きようぎようしんしよう)』という主著で、
 
つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。
 
こころ静かにアミダ仏の教えを考えてみると、二つのアミダ如来からのたまわりものがある。一つには私がアミダ如来の教えと共に生きる往相という姿。もう一つは、さとりの世界である浄土に生まれて仏となり、この土に還って苦しみの人々を救う活動をする還相という、この二つがあります。
 
これは私は親鸞聖人の教えの究極ではないかと、こういうふうに理解を致しております。このことは、親鸞聖人が和讃という易しく書かれた詩の中に、
 
弥陀の回向成就して
往相・還相ふたつなり
これらの回向によりてこそ
心行(しんぎよう)ともにえしむなれ
 
つまり阿弥陀仏の救いの教えが成就完成した。それは実は往相・還相という二つの世界であると。これらの回向、この二つの賜り物によって私の救いが完成するんだ、こういう表現が見られます。ここで還相は還ることと申しましたが、昔からこういう問いがあるんですけども、還相というのは一般的にいうと、浄土から人々の救いのためにこの土に還る、ということですが、私はこれを私なりに理解しますと、私自身を阿弥陀仏の教えに導いてくれた方、多くの方がおります。今日私がここで仏教者として生きているという中には、実に若い時から多くの方々が私を導いてくれた。実はその私を導いてくれたそういう方々が私にとってはさとりの世界から還られた還相の菩薩方であると、そういう理解を私はしております。だから誰が還って来て、どうなったのかというんじゃなくして、私を導き育ててくれた方が、私自身にとっての尊い還相のお方であると。親鸞聖人はこういうお考えをもっておられた、と言ってもよろしいかと思うんですね。そして仏教は「慈悲の宗教」と言いますけども、親鸞聖人はこれも今申しました和讃の中に、
 
往相回向の大慈より
還相回向の大悲をう
如来の回向なかりせば
浄土の菩提はいかがせん
 
言葉はちょっと難しいですが、どういうことかというと、往相回向と言われる大いなる阿弥陀仏の慈悲から、還相回向という大いなる慈悲を得ることができる。もしこういうアミダ如来の私に対する賜り物がなかったならば、浄土に生まれてさとりを開くことがどうしてできただろうか、いやできないと。こういうふうに読むことができると思うんですね。つまり往相というもの、これを大乗仏教でいうと「慈悲」。還相回向というのは「利他」他を利する、他を救う。この大乗は「自利」と「利他」の教えですから、こういうところから阿弥陀仏の教えが大乗の究極である、という言葉が親鸞聖人によって示されたんだろうと、こういうふうに申します。また親鸞聖人は、「還相の回向」人々を救うということは、これは「利他教化地(きようけじ)の益(やく)」とこう書いていますからね、究極的に苦しみ・悲しみ・悩んでいる人々を救い導くという尊い利益(りやく)である、ということを強調をしていることも、私たちは見落としてはならないと思います。この他さまざまなことがありますが、先ほど「二尊」と申しましたね。例えば「釈尊・釈迦」「阿弥陀仏」二つのものです。親鸞聖人は、これは例えば釈尊が説かれた阿弥陀仏のお経、そういう意味では釈尊と阿弥陀仏は別のものであるという場合には、これは「二尊差別」―「差別」と書いて「しゃべつ」と読むんですが、「差別(さべつ)」というのは仏教語でして、誰を差別するというんじゃなくて、違うものが二つあるということが「差別」という言葉の意味で、これ「しゃべつ」と読むんですが、だから現実的には歴史的な実在である釈尊と釈尊によって説かれたお経の主人公で阿弥陀仏は別のものですから、これは釈尊と阿弥陀仏が別のお方であるという場合が、その二尊が差別―異なるものである。同時に「二尊一致」という考え方がありまして、これは釈尊と阿弥陀仏―つまり釈尊と言ったら、その先に阿弥陀仏の教えがある。阿弥陀仏と言ったらその陰に釈尊がおられる。こういう考え方が親鸞聖人の釈尊と阿弥陀仏のお考え、これを「二尊一致」というふうに浄土真宗の学問の方では、昔から学んでいるわけであります。さていろんなことを申してまいりましたけれども、少し纏め的に申しますならば、究極的には浄土真宗の教えというのは、阿弥陀仏の立てられた願い、一切の人々をお救いするという願いによって成り立っております。その阿弥陀仏というのは、智慧と、そして絶対なる優しさである慈悲を持たれた仏でありますから、その智慧と慈悲を持たれた阿弥陀仏を、親鸞聖人は「無礙光(むげこう)如来」と言いまして、何によっても妨げられることのない無限の光と輝きをもったブッダ、それを「阿弥陀仏」と、親鸞聖人はこうおっしゃった。ですけど、阿弥陀仏という仏を、単に「もの化」したり、「もの」として見る。「もの化」したり、あるいは偶像化するところから誤りが生じてまいります。聖人が、先ほど申しました「阿弥陀仏は光なり」とこうおっしゃったのは、このことでありますね。「さとり」の智慧を「光」に喩えます。親鸞聖人が尊敬されました曇鸞(どんらん)大師は、「光明は智慧の相(すがた)なり」と。阿弥陀仏は光に喩えられている、というふうにおっしゃっておられる。光はどこまでも届きます。人と場所を問いません。人間と善し悪し、賢い、愚か、あるいは地域、こういうものをまったく問わずに、あらゆるものを、あらゆる場所で照らし続けるものが光であります。この光の普遍性、無限性、こういうものに阿弥陀仏を光に喩えるということが出てまいります。それに類する親鸞聖人の和讃というのはたくさんあるんでありますが、ちょっとここでは時間の関係で割愛したいと思いますが、親鸞聖人が御和讃の中に、先ほどから還相は還るということを言いましたが、こういう私の好きな御和讃がありまして、
 
安楽浄土にいたるひと
五濁(ごじよく)悪世(あくせ)にかへりては
釈迦牟尼仏(しやかむにぶつ)のごとくにて
利益(りやく)衆生はきはもなし
 
どういうことかと言いますと、真実のさとりの世界に生まれる人は、この五つの濁り、仏教で説く五濁(ごじよく)―五つの濁りの思想なんですが、「時代悪」「思想・信仰の濁る時代」「煩悩の濁り」「人間の資質が著しく低下する濁り」「いのちの濁り」これが五つの濁りなんですが、この五濁の世に還って来て、釈尊のように人々を利益ですから、救うことが限りないのですと。つまり無限に多くの人々を救うことができるのです。それが今申しました「安楽浄土にいたるひと、五濁(ごじよく)悪世(あくせ)にかへりては、釈迦牟尼仏(しやかむにぶつ)のごとくにて、利益(りやく)衆生はきはもなし」。私の言葉で言わして頂くと、だから私たちがさとりの世界にいくということでなく、往って還るですから、直線でなくして、円のように往っては還り、往っては還りという教えの連環性というんでしょうかね、そういう形で親鸞聖人は、さとりというものを捉えていたと、私は考えてもよろしいと思うんですね。私はくどいようですけども、アミダ如来の教えに生きる者は、自己の救いと同時に、他のために尽くす者でなくてはならない。混沌とした社会の中で、その苦しみに喘ぐ人々に、私は何ができるか。あるいは何をしなければならないのか。そういう信仰課題ですね。アミダ如来からそういう信心の課題を賜ったものを、私は念仏者と言いたいと思います。基本的には、自己が仏となり、他を仏とする、ということは言うまでもありません。今申しましたが、混沌とする今の私たちの社会を、私は親鸞聖人が示されました教えを一つの灯火として、先ほど申しました五つの濁りというもののただ中にある私たちの社会に、私は少しでも明るく、そして確かな教えというんでしょうかね、拠り所を発揮したいと、こんなことを私は今日大変混沌とした社会の中で、私たちの信仰者としての課題が、この辺りにあるのではないかなということを考えることがよくあります。お聞き頂きましてどうも有り難うございました。厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。
 
     これは、平成二十八年三月十三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである