仏教ブームアメリカの今
 
           武蔵野大学仏教文化研究所所長・僧侶 ケネス 田 中
一九四七年、山口県生まれ。日系二世の両親と一九五八年に渡米。一九七○年、スタンフォード大学卒。一九七三年、米国仏教大学院修士課程修了。一九七八年、東京大学大学院修士課程終了。一九八六年、カリフォルニア大学バークレー校大学院博士課程終了。一九九八年、武蔵野大学政治経済学部教授・武蔵野大学仏教文化研究所長。国際真宗学会会長。
           き き て            平 位  敦
 
ナレーター:  「仏教ブームアメリカの今」と題して、武蔵野大学仏教文化研究所所長で僧侶のケネス田中さんにお話を伺います。田中さんは、昭和二十二年生まれ。十歳の時に両親と共にアメリカに渡り、やがて浄土真宗の僧侶として得度。その後はアメリカに仏教が広まっていく様子をつぶさに見ながら、アメリカ仏教の研究にも取り組んできました。今日は田中さんに、今アメリカを席捲している仏教ブームと、田中さんご自身のテーマであるアメリカに浄土真宗を布教する取り組みについてお聞きします。聞き手は平位敦(ひらいあつし)ディレクターです。
 

 
平位:  ケネスさんは日系二世のご両親をお持ちになって、十歳の時に渡米されたということなんですけど、昭和三十三年(1958年)ですね、その頃アメリカで仏教というと、どんな受け入れ方をされていたんですか?
 
田中:  それは、私がよくいうことは、仏教とは何かアジアのカルト(もともとの意味は「正当な宗教に対する新しい宗教」という位置づけだったが、現在では「極端な(時に危険な、また反社会的な)思想を持った宗教又は団体」という意味で使われる。宗教とは関係なく、あまりに極端な思想を持った団体でもカルトという単語を用いることがある)のようにしか考えられていなくて、一般の宗教認識は、「お臍(へそ)を見ながら瞑想するようなアジアの古いカルト宗教だ」というように言われていまして、ほとんどの人はやはり仏教はあまり知られなかったんですよ。今でも覚えているのは、中学生の時に、「お前の宗教は何か?」と聞かれた時に、「私は仏教徒」と胸を張って言えなかったんですね。それは一つは、今言ったような社会全体のイメージとして、私自身もよく仏教のことを知らない。ですから、自信をもって言えなく、小さい声で、「私はこの町の仏教会に行っています」と言ってですね、堂々と言えなかったというのは鮮明に覚えています。
 
平位:  そうするとアメリカ人の仏教徒なんてほとんどいなかった?
 
田中:  ほとんどいなかったですね。一九五○年代に詩人とか、そういうような人たちが仏教に興味を持ち始めた。ゲーリー・スナイダー(Gary Snyder:アメリカ合衆国の詩人、自然保護活動家。20世紀のアメリカを代表する自然詩人:1930-)とか、ヒッピー(1960年代、アメリカ合衆国において、青年層を中心に起こった運動を支持した人々の呼称。反体制・自然賛美派の若者。既成の社会体制と価値観からの離脱を目ざす対抗文化countercultureの運動が生じた1960年代、この運動とそれを担った人々のことをヒッピーと呼ぶ)の前の人たちが仏教に興味を持ち始めて、それが一つの一九六○年代に発展していく土台を作ってくれたんですね。
 
平位:  それは一つのカルチャーというか、文化的な若い人たちの文化みたいなことですか?
 
田中:  そうですね。だから反主流というか、社会に対する反抗のような仏教ということなんですね。またすべてみんな人々は、同じ家に住んで、同じ仕事をして普通の生活をしているけれど、仏教のような世界観をもつと、何か人生がもっと変わってくるとか、生き生きしてくる。そのような反抗、反発文化の中での仏教でした。鈴木大拙(すずきだいせつ)(禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である:1870-1966)という方が、その時代にかなり仏教を本格的に説き始めて、六十年代の初めに鈴木俊(すずきしゆんりゆう)(昭和の曹洞宗の僧侶。アメリカに禅を広め、欧米では、鈴木大拙と並んで「二人の鈴木」と呼ばれている:1905-1971)というもう一人の偉大な鈴木が、「サンフランシスコ禅センター」を始めて、そこが禅の中心地の一つになっていったんですね。そういうようなことと同時に、一九六五年に移民の法律が変わって、アジアからどんどん移民が増えたんですね。で、仏教徒の数自体も増えていった。それはアジア系仏教徒のことですけれど、同時に改宗者の人たちが増えていく。特に禅とチベット仏教と東南アジアのテーラヴァーダ(上座部)仏教が増えていった。その三つが改宗者にとっては魅力的になるんですね。その理由は、その三つにはっきりした瞑想法―メディテーション(meditation)があるからですね。
 
平位:  改宗者と言いますと、つまりアメリカ人であって、キリスト教を捨てて仏教徒になる。
 
田中:  そうですね。英語で「convert」―改宗者として、自分が意識的にキリスト教、またはユダヤ教を捨てて、仏教になるという人たちが増えていったということですね。
 
平位:  それは七十年代以降?
 
田中:  そうですね。六十年代から始まっているんですけれど、七十年代、八十、九十年代に急速に増えていくんですね。だから今三百万人ぐらいが仏教徒ですね。そしてそれ以外に仏教徒と断言しないけれど、仏教のことを非常によく知って、自分自身も実践しているというような人たちを、私は、「同調者」と呼んでいますけれど、同調者は二百万人位。そうすると五百万。今瞑想している人は、ある統計では毎日一千万、二千万の人たちがなんらかの瞑想をしていると言われているんですよ。
 
平位:  毎日ですか?
 
田中:  毎日。
 
平位:  凄い数ですね。毎日一千万?
 
田中:  毎日一千万、二千万。それは何故かというと、瞑想―特に「マインドフルネス(mindfulnes)瞑想」―マインドフルネスメディテーション(mindfullness meditation )が最近非常にブームになっていますから。
 
平位:  「今マインドフルネスが大変ブームになっている」とおっしゃいましたけど、日本にいる人間にはなかなか知らないので実感がないと思うんですけど、今例えばアメリカではどんなふうにブームになっているのか詳しく教えて頂きたいんですけど。
 
田中:  本来は仏教の基本的な瞑想法なんですよね。サティパッタナー(satipatthana)という、「サティ」の訳が「念」なんですね。だから真実を念じる。心を念じる。心の働きに気付くというか、それにもっと客観的に見るとか、そのような目的をもって瞑想する。その瞑想の仕方というのは、基本的には、誰でも入っていける簡単なものなんですよね。基本的に呼吸に集中する。これは坐禅と似ていますね。違いが少しありますけれど、基本的に誰でもできて、そしてどこでもできるということで、有名なマインドフルネス瞑想を一般化したジョン・カバット・ジン(Jon・Kabat-Zinn)という人がボストンの方にいまして、彼は何をしたかというと、この瞑想法を宗教の枠から出して、そしてマサチューセッツ大学医学部で、そういうクリニックのようなコンテンツ(contents)の中で瞑想法―マインドフルネス瞑想を実践し始めてストレス軽減法ということを成立させたんですね。
 
平位:  そしてストレスを無くす治療をやったということですか?
 
田中:  そうです。それもちゃんとした八週間ぐらいのプログラムができまして、それをやることによって、ある程度自分のストレスを軽減する方法を身に付けていく。その中には「悟り」という仏教の目的というのが希薄になっているところで、マインドフルネス瞑想に対する批判もありますけどね。
 
平位:  ただそういうことによって、アメリカに凄く広まっていったということなんでしょうかね?
 
田中:  そうです。だからストレス軽減だけじゃなくて、例えば痛みを軽減する。もう一つは、免疫を高める。だから医学的な要素がしっかりしてあるんですね。あと心理療法の世界で導入されて、瞑想を行うことで、自分の心をもっと見詰める一つの手段として取り入れられた。あとはスポーツの世界で集中力を高めるとか。あとは企業でもかなり取り入れられているんですよ。グーグルとかアップルとか、ああいうような会社では、会社全体が組織的にマインドフルネス瞑想を導入して社員にやらせている。いつでもマインドフルネス瞑想のできる場所が用意されていると。軍隊では、PTSD(Post Traumatic stress Disorderの略語で、心的外傷後ストレス障害と訳されいる)というトラウマ(trauma:個人にとって心理的に大きな打撃を与え、その影響が長く残るような体験。精神的外傷。外傷体験)に悩んでいる兵士が瞑想をやることによってトラウマに対応できる。あと鬱(うつ)、特に鬱の再発防止に有効的だということがよく言われていますね。
 
平位:  グーグルなんかの企業で瞑想するというのは、仕事がばりばりできるようにするということですかね?
 
田中:  そうです。まあ日本でもそういうことはあったと思うんですよね。新入社員をお寺に連れて行って坐禅させる。それと似ていると思いますよ。精神修養というようなところですけど。明らかに一人ひとりの悟りのためにやっているのではないですから、そういう意味で本来の目的から外れていると言って批判のもとになるんですけど。ただ私としてはそれをどうそれをみるかと。仏教という立場から見ると、本来の目的から外れているんじゃないかという批判的に見ますけれど、逆に仏教の目的の一つとしてというか、主な目的は、人々の苦しみを軽減するということであれば、ストレスを軽減して、先ほど言ったいろんなあらゆるニーズに対応して、人々がハッピーになる。ハッピーになれればそれも仏教の目的じゃないかと思うんですよ。日本ではお寺に行って現世利益的な行いがありますよね。要するにおみくじとか、御守りを買ったりとか、線香の煙を顔に向けたりとか、子どもの頭の方に当てる。それが本当の仏教だと思っている若い人多いんですよ。だけどそれは本来のものじゃない。だけどそういうことがあって多くの人に仏教に触れるチャンスなんですね。アメリカでは、瞑想が同じような役割を果たしていて、私の友人である仏教学者がいて、彼は『Mindful America』という素晴らしい本を書いたんですね。Jeff Wilsonという方です。オックスフォード大学(Oxford University)から出ていまして、これ最近出た本で、私も最近読んで凄く詳しくこの現象を巧みに捉えているんですよ。彼と会った時に、彼がとても面白いことを言ったんです。それは「マインドフルネス瞑想は、アメリカの現世利益ですから」と。それ聞いた時、私もハッとしましたよ。日本では瞑想というと、オーム真理教のイメージがまだ強いようで、瞑想に対する抵抗がありますけど、アメリカでは瞑想(メディテーション)というと、もう子どもからお年寄り、けっこうすんなりと入っていく人が多いですよ。抵抗全然ないんです。どちらかというと、やりたいぐらいと。
 
平位:  そうすると、ケネスさんがお子様でアメリカに来た時とはもう全然様変わりですかね。
 
田中:  そうですね。それほど宗教のパラダイム(paradigm:ある時代に支配的な物の考え方・認識の枠組み。規範)がシフト(shift)していると思うんですよ。信じる宗教から目覚める宗教に移行していると。それはやはり基本的には、こう言ったら失礼だけど、わけのわからないようなことを信じるよりも、瞑想とか、ある意味修行として自分の意識を目覚めさせるという方向の方がすんなりくる人が増えていると思うんですよ。その中の多分一番注目されているのが仏教だと思うんですよ。
 
平位:  信じる宗教から目覚める仏教と。信じるというのは、例えばキリスト教の人格を持った神様を信じる。天地創造の物語を信じると。
 
田中:  特にキリスト教ではイエスさまが処刑された後、復活したと。復活することによって、イエスさまが神であるということを象徴すると思うんですね。それがなければ、なかなか神であるイエス(Jesus)ということは、イエス(yes)と言えない―今のしゃれだった―イエスと言えない。これはキリスト教をバカにした気持ちは全然ないですれど、私は駄洒落(だじやれ)が好きなので、ちょっと抑えきらなくて出てしまったんですけれど。それもこれ私が言っていることではなくて、仏教に改宗した人たちの中に、そういうことを個人の体験として話しているんですよ。自分はそのようなお話(ストーリー)―聖なるストーリーであるかも知れないけど、それも信じられないと。それを私の宗教というか、スピリチュアルなことをそこに託されない。先ずそれを徹底できないと。だけど仏教の方だったら瞑想から始まりますから、もうこれは普遍的なものですよね。アインシュタインがもう百年前に言ったことで、「科学と宗教が矛盾しない宗教が必要である。そして物事を深く考えるような人に対して興味を充たしてくれるような宗教が必要である」と。これは「広大無辺の宗教」と言うんですね。英語では「cosmic religion」と言って、今までの「道徳的な宗教(moral religion)」とか、「畏れの宗教(religion of fear)」とか、もう時代遅れで、今度は「cosmic religion(広大無辺の宗教)」が必要である。その代表的なのが仏教だとはっきり言っているんですよ。そういう意味で物事を少し深く考えていくような人たちにとっては、仏教は無視できない。アメリカでは仏教の本はどこでもありますから、一回ぐらいは手に取って見ると。最近は「メディテーション・センター」というのは、どの町でもありますから、私は昔よく「中華料理はどの町でもあった。今はメディテーション・センターは、ある程度の町だったらある」と。これは先ほど最初に言った状況からもうほんとにガラッと変わりましたよね。仏教の教えと言っても、特に「四法印(しほういん)」という教えがあって、
 
一.一切皆苦(いつさいかいく)―「すべての作られたものは、苦しみである」
二.諸行無常(しよぎようむじよう)―「すべての作られたものは、無常である」
三.諸法無我(しよほうむが)―「すべてのものは、我ならざるものである(もしくは、実体がないものである)」
四.涅槃寂静(ねはんじやくじよう)―「涅槃は安らぎ(幸福)である」
 
「一切皆苦(いつさいかいく)・諸行無常(しよぎようむじよう)・諸法無我(しよほうむが)・涅槃寂静(ねはんじやくじよう)」と言って、このような考え方というのは普遍性をもっていて、誰でもすんなり入っていける。諸行無常なんかは、日本では『平家物語』の最初に出てくる諸行無常観で、感傷的で悲しい悲しいで終わりますけれど、アメリカ人にとってはもっとダイナミックというか、積極的に人生の変化に対応していく哲学。今生まれておってもこれズーッと続かないと。悪いことも続かないよと、よくいくんだよと。うちの武蔵野大学の学生さんにそれ話すと、凄く元気付けられると。彼たちの中にはやはり人生あまりよくいかないようなところあるけれど、それに挫けず変わっていくんだよと。もう一つは、諸行無常の捉え方は、「今」を強調するということで、これはある意味でお釈迦さんも同じようなことを言っているんですけれど、アメリカでは顕著にそれが強調されるんですね。ですから諸行無常だから目の前にある今語っている人と、今一緒に食事をしている人、今食べている食事をたっぷりと味わう。人生って今しかないんだよと。私、その「四法印」を、英語でちょっとくだけた言い方で説明しているのは、例えば「諸行無常」は「My face is Impermanent」。「一切皆苦」というのは結構厳し過ぎるからすべてが苦だというわけですね。だから「Life is a bumpy road」いうんですね。でこぼこ道(bumpy road)だというんですね。「でっかく考えよう、ちっちゃく考えるな」というように言ってね、わかりやすくユーモアをもって話すということを、私一つ心がけていますから、一般の人にとって、アメリカ人でもやっぱりあんまり真剣真剣でやるよりも、ある意味で気楽さをもって説明するというのも重要だと思うんですよね。日本では仏法を説く時に非常に長い伝統があって、あまり砕けた話はできませんけれど、アメリカでも宗教ユーモアが凄く盛んなんですよ。だからそういう伝統というか、私それを受け継いでいるので日本に来てもユーモアを持って話する。これはアメリカであったユーモアですけれど、ある仏教徒の検死官がいました。検死官というのは亡くなった人の死んだ理由を決める医者ですよね。検死官がいて、彼は首になりました。何で首になったかと。それはいつも同じことしか書かないと。何で死んだか―死因ですよね―いつもいつも何を書いたか。「生まれたからだ」と。それは仏教では「生死(しようじ)」というんですね。「輪廻転生(りんねてんしよう)」のことを、「生死」生まれて死んで、生まれて死んでと。だから肺炎とか、心不全とか書かなくて、いつも同じことしか書かない。「死因」―「生」生まれたからだと。ある人がある時、もしかしたら、これは癌だと言われたんですね。その時にその人はこのジョークを思い出したと。で、すんなりとその宣告みたいなものを受け入れられたというんですね。まあ生まれたからいつかは死ぬんだと。だからユーモアもある意味での支えになる時もあるんですよね。もう一つは、「どうしてお釈迦様は電気掃除機でソファーの下の狭い隙間のところを綺麗に掃除することができなかったのですか?」英語で言ったら、「Why couldn't the Buddha vacuum under a sofa?」。その答えとして、「それは、お釈迦様にはアタッチメントが無いからです」。英語では「Because he had no attachment」。アタッチメントがなかったと。その「アタッチメント」というのは、二つ意味があるんですね。一つは電気掃除機につく掃除機の先っぽにつく狭いところを吸収するアタッチメント(くっつける器具)が必要である。しかし釈尊はアタッチメントを持っていない。もう一つの意味は、「執着」という意味です。悟っているお釈迦さまはすでに煩悩・執着を断っているので、執着(アタッチメント)はないのであると。これアメリカで私お寺に来た人に―一般のアメリカ人ですよ―いうとみんな笑ってくれるんですよ。それでけっこう受けて、それによって僕に興味を持った人も一人二人いますからね。楽しい宗教だと。
 
平位:  先生は十歳でアメリカに渡って、長らくアメリカで活動されて、そして今の武蔵野大学に籍を置いておられますが、今後の活動の目標としてどんなことを考えておられますか?
 
田中:  それは私が何ができるかというと、やはり浄土教が専門ですから、勿論アメリカの仏教も囓っていますから、その二つを考慮しながら、浄土教―特に真宗ですね、私は今宗教的には真宗の僧侶でもありますし、それを分かり易く説いていきたいなと思うんですね。
 
平位:  今日お話されたように、アメリカではどちらかというと、瞑想(メディテーション)ということにみなさん興味を持っておられる。そうすると浄土真宗はまたそれとは少し違う教えで、アメリカの人にどうやって受け入れて貰おうかというのは、なかなか難しいところもあるんじゃないかと思うんですが。
 
田中:  そうですね。二つのレベル、二段階あると思うんですね。やはり一応少しでも興味をもっている人にとっては、私は「念仏メディテーション」というのをやっているんですね。それは瞑想―椅子に坐ってですね、呼吸だけに集中するんじゃなくて、私はその浄土教とか浄土真宗の特徴というのは、やっぱり他力ですよね。じゃ他力は何かということで、人格的な阿弥陀さんだけを説いていれば、人々はついてこれないし、ということは、人格的な阿弥陀仏というのは象徴であって、代表しているんです。何を代表しているかというと、「無量寿」無量のいのちと、「無量光」無量の光ですね。特に「無量のいのち」というのをどのようにして体得するかということ、
 
平位:  無量と言えば、無限のという意味ですか?
 
田中:  「無量」量り知れない。量ははかりできないいのち。それが本来の「アミターバ」が「無量光」で、「アミターユス」というのは「無量寿」なんですよ。それが漢訳されていますけど、大体「阿弥陀仏」となって、「阿弥陀」というとけっこう人格的に捉えられちゃうんですよ。だけど親鸞も言っているように、「阿弥陀仏」は本質的には「無量光」と「無量寿」なんですね。それで私は「念仏メディテーション」を実践する時には、もっと誰でもわかるような、体験できるようなことを先ず思いましょうと。例えば「無量寿」というと、命ですよね。「いのち」というと、今日頂いた食事、今日頂いた肉と魚とそういうものが一つの例ですよと。あと精神的な「いのち」というのもありますからね、我々が支えてくれた両親とか我々を支援してくれた先生とか、そういう例をたくさん自分で考えて貰って、そして念仏を称えながらですね、「なん〜まん〜だ〜ぶ〜」と言って、それも一緒にやる時もありますね。それを称える時に、一つひとつ自分が「無量寿」と思ったことを考えてください。そうすることによって、自分が如何にして、日本的にいうと、「生かされている」と。「他力という大きな働きの中に私は物質的にも精神的にも社会的にはいるんだ」というようにして、自分のものになってくると、阿弥陀仏という人格的な阿弥陀の意味がもっと深まると思うんですよ。そして「私と阿弥陀仏は一体である」というところで、そして最終的にはある意味でその大きな働きの中に私は今でも生かされていて、いつかこのいのちが無くなった時には、そういう「大きないのちの中に戻っていく」と言って、「同時に一体である」と。だから私はある意味で極端にいうと、「私は阿弥陀仏です」というところまで。勿論ここには浄土教にはやっぱり念仏という聞く宗教の方なんですね。見る宗教よりも聞くというのが重要視されますから、「なむあみだぶつ(南無阿弥陀仏)」という音を聞くというか、それが「一如(いちによ)」。「一如」というのは、大乗仏教でみんなこう認めていますけれど、阿弥陀仏というのは一如の表れでもあるし、阿弥陀仏自体もなかなか捉えにくいので、「なむあみだぶつ(南無阿弥陀仏)」という音、言葉、それが我々に提供されたと。だから我々もそれを称えることも重要なんですね。だけどその「なむあみだぶつ(南無阿弥陀仏)」という音というのは、この一如、一如自身が自分を表現しているというような言い方もできるんですね。自己表現していると。その「一如」という言葉は英語でいうと「oneness」という言葉、造語みたいな「one」―「一」ですね。「ness」というのは抽象的な「ness」。「oneness」という言葉が、私は好きでよく使います。すべての根源的な存在というか、私もその一角であると。だから実際は一如しかない。一如があって、そしてそれを表現する一つの形が阿弥陀仏。自分もその一如の一部である、というふうに言えることができると思うんですよ。そのようにちょっと理性的に考えるとそのように「大きな一体である一如の一部が私だ」と言えると思うんですけれど、宗教的にはやはり自分はその中の一部である。そしてそれに出会うことによって大きな喜びと落ち着きがあると。だからそれに目覚める。だから私は浄土真宗はよくキリスト教とよく似ているので、信ずる宗教のように言われるんですよ。だけど、私が主張するのは、いや、そうではなくて、仏教ですから、やっぱりこの一如がまた阿弥陀様に目覚めるということです。だから「南無阿弥陀仏」の「南無(なむ)」というのは「私」であって、阿弥陀仏ですよね、だからセットなんですね。そういうようなことも浄土教をアメリカで説いていくとか、西洋に説いていくのはいろいろなチャレンジが難しいところもありますけれど、そのような方向で考えています。
 
     これは、平成二十八年四月三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである