日蓮聖人からの手紙@日蓮聖人の生涯と病気の女性信徒への手紙
 
                    立正大学教授 北 川(きたがわ)  前 肇(ぜんちよう)
1947年、福岡県生まれ。1971年立正大学仏教学部宗学科卒業。76年同大学院博士課程満期退学。2000年、立正大学文学博士。1974年立正大学仏教学部助手、76年講師、80年助教授、88年教授、元仏教学部長。副学長。日蓮宗の僧。東京都世田谷区妙揚寺住職。
 
ナレーター:  シリーズ「日蓮聖人からの手紙」その第一回、日蓮聖人(1222-1282)が遺した手紙を毎月一回、十二回にわたって読んでいきます。信徒たちが直面した死別や離別の悲しみ、病の苦しみ、親子・兄弟関係の葛藤などに対して、日蓮聖人が、時に優しく、時に厳しく、仏の教えを説いており、現代の私たちも考えさせられる内容です。お話は立正(りつしよう)大学教授の北川前肇さんです。
 
北川:  これから私たちは十二回にわたり、鎌倉時代に活躍されました仏教者の一人、日蓮聖人が信徒へ与えられた手紙を拝読してまいりたいと思います。では「法華経の行者日蓮」と自ら称されている聖人が、宗教活動を開始されまして、今日までおよそ七六○年あまりの歴史的時間を経ていながら、改めて聖人の手紙を拝読するということは、一体どのような意味があるのかを考えてみますと、日蓮聖人の教えは、今日においても多くの人によって信奉(しんぽう)され、生きる指針として仰がれ、更にその教えと共にする人たちが集う宗教教団が形成されています。勿論私自身もその一つの集団に帰属する者ではありますが、しかし聖人の生き方や考え方というものは、それらの人々だけに占有されるものではなく、インドに誕生された仏陀釈尊が既にお諭(さとし)くださっていますように、人生における生老病死(しようろうびようし)等の苦悩や現実社会とどのように関わりを持ち、また私たち自身の理想的な生き方とは何かという課題を考えるうえで、聖人の教え、分けても聖人の手紙がそれに対する示唆を与えるものであると考えられるのであります。ところで日蓮聖人は数え年六十一年の生涯において、鎌倉幕府からの処罰として二度の流罪や更に多くの法難を体験されながらも、一方では『立正安国論(りつしようあんこくろん)』を代表とする著作や仏教研鑽の跡が確認できます書写本や要門集、更には有縁の人に与えられた手紙など多く認められています。特に手紙に限定致しますと、真蹟が今日まで伝えられているもの、あるいは真蹟が伝承されながらも不慮の事故で失われたもの、更には聖人の直弟(じきてい)たち、即ち直接教えを受けた弟子たちによって書写され、今日まで伝えられているものを確認致しますと、およそ二百篇を越えているのでございます。このように聖人の真蹟が伝承されている根底には、聖人の教えは法華経に説かれている釈尊の教えを末代の凡夫である私たちに対する救いの教えとして示されているという宗教的信仰があって、その立場から聖人の手紙を受け取った人たちが、聖人の認められた一文字一文字の手紙に対して宗教的信頼を寄せていることを見逃してはならないと思うのであります。聖人が自ら「法華経の行者」と称されていることは、既に述べましたけれども、この「法華経の行者」というのは、仏教の教主釈尊の真実が『妙法蓮華経』即ち「法華経」という経典に説き示されているという絶対的信頼のもとに、この教えをすべての人々に伝え、人々の苦悩を除くという利他の精神、即ち菩薩として他者を救いたいという誓願のもとに仏の仕えとして生きる人を意味しているものと思われます。では聖人は御仏の仕者という立場から多くの人たちに手紙を差し上げられていますので、その内容を尋ねてみたいと思うのでありますが、聖人の手紙による信徒への導きは、その生き方や聖人の体得されている教えと切り離すことはできません。そこで先ず第一に、聖人の生涯とその教えについて述べてみたいと思います。その後第二には、聖人が病気の女性信徒で下総国(しもうさのくに)(現在の千葉県)に在住しておりました富木常忍(ときじようにん)の妻に与えられた手紙を通しまして、その内容に触れてみたいと思うのであります。日蓮聖人は、承久(じようきゆう)四年(1222年)、この年は貞応(じようおう)と改元されますけれども、古代日本を総称致します場合の「五畿七道(ごきしちどう)」のなか、東海道の安房国(あわのくに)(現在の千葉県)の長狭(ながさ)の郡(ごおり)東条(とうじよう)の郷(ごう)、即ち現在の千葉県鴨川市小湊(こみなと)の地に誕生されています。数え年十二歳を迎えられた聖人は、東条の郷の中にございます天台宗清澄寺(きよすみでら)にその後得度され、仏弟子としての生き方を選ばれるのであります。仏道の師範は道善房(どうぜんぼう)(?-1273)でございまして、兄弟子には聖人が生涯にわたって交流された浄顕房(じようけんぼう)と義城房(ぎじようぼう)とがあります。聖人が仏道修行の過程において目指されました理想的な仏弟子としての姿は、後年表されました著作や手紙等からうかがいますと、「日本第一の智者」となることでありました。「智者」というのは、御仏の真実、御仏の心を知る智慧を具えた仏弟子、あるいは広くは仏教の知識を有する高僧を意味しております。では聖人の目指された「智者」というのは、どのような仏弟子として実践する人であったのでしょうか。私たちがこの世にいのちを受け、人として成長していく課程におきまして、時間的には過去に生きた人たちから、現在のみならず未来へ繋がる人々に対して、その広大な恵みに対し報いることのできる人ということになります。つまりこの世でいのちを受けた者として、この世に有縁の人たちに対する利他の精神を持って生きるという立場でございます。若き聖人が智者を目指される修行というのは、まさに刻苦勉励の日々であったと拝察されます。それは十二歳から三十二歳にわたるまでの数えの二十一年間におきまして仏教研鑽の道がそれを物語っております。二十一年間は清澄寺に留まるのではなく、鎌倉、あるいはさらに京都比叡山、三井の園城寺(おんじようじ)、更には奈良や高野山まで歴訪して仏教研鑽を積まれたと伝えられております。当時の八宗十宗(はつしゆうじつしゆう)(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・天台宗・真言宗の八宗に、禅宗・浄土宗の二宗を加えていう)を研鑽し、多くの典籍や一切経を閲読された聖人は、その結果建長(けんちよう)五年(1253年)四月二十八日、故郷の清澄寺において早朝旭日に向かって「南無妙法蓮華経(なむみようほうれんげきよう)」の題目を十遍ほど唱えられ、その日の正午、清澄寺で修行している学問僧に対しまして、釈尊の真実は大乗経典の中でも『妙法蓮華経』に示されていることを告げられるのであります。聖人数え年三十二歳のこの宗教活動の出発点をとても重視されると同時に、後の人々はこの四月二十八日を「立教開宗(りつきようかいしゆう)」と称し、今日まで大切に宣旨(せんじ)として重んじてきているのでございます。ところで聖人が一切経の中で、法華経を最重要な経典として位置づけ、その修行の中心はお題目を唱えることにあると称されましたことは、先ず念仏信仰の人でありました道善房に背くことになりましょう。また当時の多くの人々は、西方の極楽浄土の阿弥陀仏に帰依し、現世のみならず未来世の往生を願う信仰を営んでおりました。それはまた聖人が幼少年期に目の当たりにされた事実でもあります。そう致しますと、この立教開宗は、これらの信仰への批判を意味することになります。さらに東条の郷の地頭であります東条景信(とうじようかげのぶ)は熱心な念仏信仰者であり、地頭職の権力を駆使して従来の荘園領主の領有地であります清澄寺や二間寺(ふたまでら)を押領し、支配下に置こうとしていたのであります。それ故に聖人の立教開宗は、この東条景信の信仰に対する直接の批判となりました。これらのことから聖人立教開宗は、身近な人との宗教的世俗的な衝突に留まるだけでなく、当時の為政者に対する政治的、更には宗教的批判に及ぶことを既に予測されていたのであります。しかし一方では、若き求道者である聖人が、御仏の真実を知る者としての智者を目指されておりましたから、もしもこの二十一年間にわたる仏道研鑽の結果を自己の内面に留め、沈黙を守り他者に伝えなかったとしたならば、それはまさしく御仏に背く宗教的罪人(つみびと)、即ち謗法者(ほうぼうしや)となることを意味したのであります。ここに聖人は真実を伝えるべきか、あるいは迫害を恐れて沈黙すべきかの岐路に立たれるのであります。建長五年四月二十八日の立教開宗、宗教活動の最初の時に予想されました通り、その後は先ずは地頭東条景信からの圧迫がございまして、兄弟子の浄顕房、義城房と共に清澄寺を下りられることになります。鎌倉での布教活動に専念される聖人の下にやがて富木常忍(ときじようにん)や四条金吾(しじようきんご)、南条兵衛七郎(なんじようのひようえしちろう)等の信徒たちがその教えを聴聞し、また出家の弟子も聖人の下へ集まることになります。このように鎌倉での活躍中正嘉(しようか)元年(1257年)八月二十三日、鎌倉を中心とする関東地方に大きな地震が襲います。季節は収穫期でございますので、この大震災は生命を支える収穫物に大きな被害を与えました。次いで翌年も八月一日に台風が吹き荒れ、これも同様に取り入れ時期でございましたので、大きな損害を与えることになります。二年連続の飢饉は多くの人々を疫病、飢餓、病死等に向かわせることになります。この惨状を聖人は決して対岸の火事として放置されることはありませんでした。聖人は改めてこの惨状の原因を尋ね、またこれらの災難を取り除く方法を知るために、釈尊の説かれた一切経を繙いて、それらの課題に取り組まれたのであります。そして遂に災難が興起する道理とその経典の証拠等をもって『立正安国論』一巻を先の執権であります北条時頼(ほうじようときより)に上奏されたのであります。聖人三十九歳の文応(ぶんおう)元年(1260年)七月十六日のことであります。しかしこの上奏によって聖人が居住されている草庵が焼き討ちになり、また翌弘長(こうちよう)元年(1261年)五月十二日には、幕府は聖人を逮捕し、伊豆国伊東へ流罪人として配流(はいる)するのであります。数えの三年後に赦免された聖人は、翌文永(ぶんえい)元年(1264年)、四十三歳の秋、ここ故郷へと帰られます。聖人の帰郷を耳にした地頭東条景信は、私恨を晴らすため、十一月十一日の夕刻、聖人を松原大路(まつばらおおじ)で待ち伏せをし襲撃するのであります。弟子の一人が即死、二人が重傷、そして聖人ご自身も頭に傷を受け、左腕を折られるという重傷を受けられました。また聖人一行を招くことにしておりました信徒の工藤吉隆(くどうよしたか)もこの横難(おうなん)に殉死することになるのです。その後聖人は鎌倉へ戻って布教に当たられたのでありますけれども、中国大陸では、モンゴルが、いわゆる蒙古国でございますけれども、その勢力を拡大し、宋を圧迫し、さらに朝鮮半島を支配し、その力をもって日本を窺うという世上不安な状況が展開しているのであります。しかし既に『立正安国論』において、国内の政権争いと国外からの侵略ということを経文を基に聖人は予言されていたのであります。これの状況に加えて鎌倉における良観房忍性(りようかんぼうにんしよう)の宗教活動や社会活動に対しまして、聖人は厳しい批判を向けられることになります。このことが直接の由縁となって聖人は再び鎌倉幕府から佐渡国への遠流(おんる)が決定し、逮捕となり、また弟子や信徒への処罰が実行されるのであります。五十歳を迎えられた聖人は、五十三歳まで数えの四ヶ年間をこの佐渡で送られることになります。しかし聖人にとって厳しい流人としての生活ではありましたけれども、その内面におきましては法華経の行者としてのご自覚が深まり、聖人の法難は法華経を人々に広めることによって、さまざまな迫害に遭遇する、という御仏の予見を、聖人自身が身体をもって実証したということの確信となります。ここに日蓮聖人が、中国の陳(ちん)、隋の時代に活躍した天台大師智(ちぎ)の教義を母体として、聖人の法華経学は形成されていますけれども、末法救済の大切な教え、即ち本法は釈尊から久遠の弟子である本化(ほんけ)地涌(じゆう)の菩薩に手渡されているという宗教的付嘱の世界を根幹とすることによって、聖人の独自の信仰的救済の世界が明らかとなります。ところで佐渡の流罪の赦免後、鎌倉へ戻られた聖人は、四月八日幕府の招きで北条得宗(ほうじようとくそう)家に仕える平左衛門尉頼綱(たいらのさえもんのじようよりつな)と対面されます。それはモンゴル問題でありましたが、聖人はご自身の変わらぬ立場を述べて退席され、翌五月十二日、鎌倉から信徒の波木井実長(はきいさねなが)(1222-97)の領地である甲斐国(かいのくに)巨摩郡(こまごおり)波木井郷(はぎいのごう)へと向かわれます。今日の山梨県身延町(みのぶちよう)であります。この地で数えの九ヶ年間、修行に専念されると同時に大部の著作を執筆され、また門下の育成や信徒の教化に当たられます。やがて聖人はご自身の老いと病とを感じられ、弘安五年(1282年)九月に身延山を後にして、武蔵野国荏原郡(えばらごおり)池上の郷((現在の東京都大田区池上)へと向かわれ、この地の地頭池上宗仲(いけがみむねなか)の邸宅にて、十月十三日の午前八時頃に入滅を迎えられたのであります。そして弟子・信徒たちによって送葬儀が営まれ、聖人のご遺体は荼毘にふされるのであります。以上「日蓮聖人からの手紙」というテーマの第一回目に当たりますことから、日蓮聖人がどのような宗教者であったかを知って頂きたく、その生涯とその教えについて少し詳しくご紹介申し上げました。そして三十年間にわたる聖人の宗教活動、すなわち弟子・信徒への交流は、まさに一枚の布が縦糸と横糸とによって織られますように、常に両者が交差しているという事実が存していることを知るのであります。ところで日蓮聖人の女性信徒の中に、病気に苦悩する在俗のまま出家の姿をした一人の人物がありました。富木尼(ときあま)です。彼女は、伝えるところによりますと、今日の静岡県富士宮市(ふじのみやし)の出身で、同地の豪族でありました小林定時(こばやしさだとき)に嫁いでいたのですが、その定時が戦死しました後に下総国八幡庄(やはたのしよう)(今日の千葉県市川市)に在住の富木常忍(ときじようにん)の元へ再び嫁したと言います。夫の富木常忍は下総の国を守護職にありました千葉氏に仕える事務官で、その出身は今日の鳥取市でありました。日蓮聖人の立教開宗から間もない頃に聖人に帰依をした人物であります。富木尼は富木氏のもとへ嫁ぐ時、二人の男の子があり、兄は後に日蓮聖人の弟子となります伊予房日頂(いよぼうにつちよう)(1252-1317)で、弟は日蓮聖人の弟子であります佐渡公日向(さどこうにこう)に就いて学問を修め、後に白蓮阿闍梨日興(びやくれんあじやりにつこう)に随った寂仙房日澄(じやくせんぼうにつちよう)(1262-1310)であります。彼女は富木氏の元へ嫁して齢を重ねました富木の母上、即ち姑に仕え、臨終を看取ったことが知られます。尚夫の富木常忍は、日蓮聖人が入滅した後に出家を致しまして、常修院日常(じようしゆういんにちじよう)と称しています。この夫が永仁(えいにん)七年(1299年)に死去致しますと、富木尼は娘の乙御前(おとごぜん)と共に出身地の富士宮市北山へと厭世をし、その御書が今日も護持されています。さて今日聖人が与えられました富木尼への手紙は、『昭和定本日蓮聖人遺文』に収録されている真蹟、現存のものが四点確認できます。その中でも富木尼の病気に対して聖人が心配されているお手紙は、聖人は身延山へ入山された翌年の文永(ぶんえい)十二年(1275年)二月七日の「可延定業御書(かえんじようごうごしよ)」と名付けられた手紙と、もう一篇は、文永十二年は四月に「建治(けんじ)」と改元されますから、建治二年三月二十七日の「富木尼御前御書」の手紙であります。「可延定業御書(かえんじようごうごしよ)」は、真蹟十紙が千葉県中山法華経寺に現存し、また「富木尼御前御書」は真蹟八紙が同じく法華経寺に護持されております。では「可延定業御書」の初めの部分を読んでみましょう。
 
夫れ病に二あり。一には軽病(きようびよう)、二には重病。重病すら善医に値(お)うて急に対治すれば命猶存す。何(いか)に況(いわん)や軽病をや。
業に二あり。一には定業、二には不定業。定業すら能(よ)く能く懺悔すれば必ず消滅す。何(いか)に況(いわん)や不定業をや。
 
このように富木尼に対しまして、「病気には軽い病気と重い病気とがあって、仮に重病であったとしても、名医のもとで早く治療を施せば快復して命を長らえることができます。まして軽い病は治しやすいことはいうまでもありません」と述べられ、続いて仏教で説く「業(ごう)」というもの、即ち私たち行為によってのこす潜在的な力というものには、二つがあって、一つは、前世から定まっている業の報いとしての定業です。二つ目は、報いを受ける時期が定まっていない不定業である、というのです。しかし定業が、私たちの過去世における身と口と心、即ち「身口意(しんくい)」の三業によって犯した宗教的罪による報いを受けて定まっているものであり、この世の一つの宿命であったと致しましても、十分に自己の罪を改め、懺悔(さんげ)という御仏の前で罪の赦しを乞い、その罪を悔い改めることによって消滅します。ましてや不定業が消滅しない筈はありません。このように富木尼の手紙に示され、病気のこと、そして私たちの受けなければならない一つの定めについて触れられていることを知るのです。単刀直入に人生の課題につきまして、聖人が記るされていることは、夫である富木常忍から「かたびら」一着の供養が届けられていることに対する返書が、同日に認められておりますから、夫と妻とがそれぞれ身延の聖人のもとに御供養物を差し上げたことが窺いますし、そのために富木尼の手紙に時候の挨拶等を省くことになられたのではないか。大切な訪問をストレートに述べられたのではないかと拝察されます。そして聖人が富木尼へもっともおっしゃりたかったことは、確かに私たちの生存の形というのは、一つの宿命的な側面を持つのでありますけれども、それらの定まった運命や病気であったとしても、私たちの生き方やさまざまな手立てによって、その運命を変更することが可能である。殊に宗教的な懺悔や一切経の中でも法華経という尊い教えは、全世界の人たちに人たちの良薬であると示されていることからも、女人の病気の良薬であることを冒頭の文続いて記されていることを知るのです、次いで建治二年三月二十七日の手紙を拝見致しますと、先ほど触れました夫の富木常忍の母が、二月下旬に九十歳という高齢を迎えて死去致しました。常忍六十一歳の時です。常忍は母の遺骨を首に掛けて下総国から甲斐の国身延まで参詣し、聖人から母の追善の廻向と悲嘆を癒やす教えとを賜っているのであります。そしてその冒頭の文を現代語訳致しますと、次のようになります。
 
矢が力強く飛ぶことができるのは、弓の力によるものです。雲が進むのは竜の働きによるものです。夫のおこないは、妻の力によるものというのが、世のならいです。いま夫・富木殿が、はるばると山深い身延の里までおいでくださったことは、妻であるあなたのお力によるものであると感謝いたします。
 
このように、聖人は留守宅にある富木尼の助力に感謝を示され、「今ときどのにけさん(見参)つかまつれば、尼ごぜんをみたてまつるとをぼう」と、夫富木氏にお会いしたことは、あなたにお会いしたように思われます、と、情感のこもった文章を綴られています。そして、聖人と夫富木氏との会話の一節が記されています。
 
このたびの母との死別の悲しみは深いものであります。しかしながら、母の臨終が安らかであったこと、妻が老母をしっかりと看取ってくれたこと、本当に有り難いことである、と喜ばれていました、と記されています。
 
この文に続いて聖人は、この富木尼に対して気に掛けられると同時に、病気のことへと筆が進められ、そして富木尼の置かれている境遇、あるいはご自身の悩みというものは、世の人々が今受けている大変な「文永の役」(1274年)のことを想起し、そのことを比較した時に、自らの病の微小なること、そしてさらにはあなたの信仰を貫徹すること、そのことを強くお示しになって、この手紙は結ばれているのでございます。
 
     これは、平成二十八年四月十日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである