今をいきる
 
                 エッセイスト 大 石(おおいし)  邦 子(くにこ)
1942年、福島県会津本郷町(現・会津美里町)生まれ。会津女子高校卒。地元で就職したが、1964年通勤中のバスで事故に遭い左半身麻痺となり、1967年「第四領域症候群」と診断、医師から不治の宣告を受け、自殺未遂を二回起こす。翌年カトリックの洗礼を受ける。しかし右手が動くうちに自分の思いを書き残そうと歌の道へ。以来歌に打ち込み歌集「冬の虹」は福島県文学賞を受賞。「この愛なくば」は大竹しのぶ主演でテレビドラマ化され、昭和五十五年芸術祭大賞を受賞した。十二年余りの療養生活を経て自宅に戻る。以来、車椅子生活を続けながら執筆・講演活動を行っている。
                 き き て  金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「今をいきる」というテーマで、会津美里町(あいづみさとちよう)にお住まいのエッセイスト大石邦子さんにお話頂きます。大石さんは、一九四二年(昭和十七年)のお生まれ、二十二歳の時、会津若松へバスで通勤中に事故に遭って、下半身が麻痺し、長年の闘病の結果、介護を受けながらも一人で生活できるようになった方です。その体験を依頼に応じて講演したり、エッセイに綴って発表する日々を送っておられます。今日は何くれとなく大石さんの面倒を見ていた妹さんとお兄さんを続けて亡くされて間もない大石さんにお話を伺います。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  大石さんの頼りになさっていた身内の方が―妹さんが二年ぐらい前ですか、それからお兄さんが亡くなられたことを伺って、やっぱり頼りになさっていた身内の方が亡くなられると、また一入(ひとしお)感じが違った強さみたいなものがあるんじゃないかと思うんですが、その辺どうでございましたでしょうか?
 
大石:  妹が亡くなって一年ちょとなんですね。兄が亡くなったのはそれから半年後くらいなんですけども、妹というのは私にとって特別な存在だったんですね。私が二十二歳で倒れました時、妹はまだ中学三年だったんですよ。そして一人で高校を出て、それから母が弱かったもんですから東京の学校へ行ったんですけど、私が倒れてしまって寝起きできなくて、四年家政婦さんを頼んでいたんですけども、それも大変ということで、妹にほんとに学校をやめて貰って東京から帰って来たんですね。妹はほんとに自分のやりたい夢を持っていまいてね、それなのに父から懇願されて、やめて帰って来て以来、ズーッと私のベッドの傍らに寝起きして、何年も付き添ってくれたんですよ。そういう妹だったんです。それから後に私がためにと言って、妹も東京に出て行って、それなりの道を歩いたんですけど、ズーッと私を物心両面で支えてくれた妹だんたもんですから、その妹が自分より先に死んでしまうというのは―なんとなく親の場合は諦めがついたんですね。でも妹の場合は諦めがつかないというより、〈何で!〉っていう、〈どうしてまたここでこんなふうに妹が先に逝っちゃうの〉という思いだったんですけど。
 
金光:  お書きになったものを拝見すると、妹さんは、割にお丈夫だったみたいですね。
 
大石:  ええ。もうスポーツマンでした。だから若い時癌が見付かった時にも、延命治療―抗ガン剤もやらなかったんですよ。その時に医者に「あと半年、長くて二年」と言われたのを、「自分の力で、自分の身体は自分で護る」とか言ってね、それから二十三年生きたんです。自分なりにいろいろ努力してね。スポーツやって。だから今回癌が見付かった時には、「もう延命治療も何もしない。家族と共に最期を暮らしたい」と言って、病室も個室ならば「家族が居てもいいです」と言われたことで、慶応病院の個室に入って。私、それをよく知らなかったの。そんなに重いということをね。それで妹の子どもが「インターネットで私に会わせてやる」って。インターネット見たら、インターネットから妹が両手を振って「くうちゃん」と言うんですよ。そしてその衰えぶり。その時に「くうちゃん、私、さようなら≠ヘ言わない」というんですよ。びっくりしちゃって、もう心臓が止まっちゃいそうで。その夜弟に頼んで、電車の切符取って貰って、次の日東京の慶応病院に行ったんです。そうしたらもう起き上がれなくて、私を抱きしめて、何度も何度もほっぺたを押し当ててね。私、ほんとに「頑張れ!」と言いたかったんですけど、ここまで頑張ってきたんだなと思って、「頑張って」と言えなくて、「よく頑張ったね、よく頑張ったね」と言ったら、「う〜ん」と私を抱きしめて、「くうちゃん、私の分も生きて!」と言うんですよ。それが最期の言葉だったです。それが私を待っていたように意識が無くなって、で、四日目に亡くなったんです。福島に震災があってから五年経つんですけども、こんな私が生きていることに対するなんか負い目みたいなのがあったんですよね。みんなに迷惑掛けながら、今なおまたこうして生きているのに、震災で多くの人が流されて行ったのを見た時、なんか生きていることがほんとに申し訳ないような気持ちで生きていたんですけど、「わたしの分も生きて!」と言った妹のこの世で最期の言葉が、「くうちゃん、生きなければダメだよ」と聞こえたんですよね。それで、〈あ、これは妹が私が負い目を感じながら生きているということを、一番よく知っていてくれて、そういうことだったのかな〉と思ったんですね。でもこの一年ほんとになかなか元の気持ちにはなれなかったですけど、いつも何かあると、「くうちゃん、わたしの分も生きて!」と言った妹の最期の言葉が思い出されて、そういう妹だった。兄は―私は兄のこの家に住んでいるんですけど、兄は向こうの離れに住んでいましたけど、毎朝この縁側に来て坐って「生きているか!生きているか!」と言うんですよ。「生きている」というと、「そうか。それはよかった」と言って、毎日そういうふうにして私を朝訪ねて来てくれていた兄だったんです。この兄も入院して、私、最後タクシーで毎日病院に通ったんですけど、一ヶ月間ね。ほんと最期亡くなるその日だけ行かれなかったですよ、目が回って。やっぱり一ヶ月毎日外に出ることがなかったんですね。もうほんとにその兄が、「お前を見舞うと、お前はこれよりもっと苦しかったよな」というんですよ。「お前もこれよりもっと苦しかったよな」ということは、自分が苦しい時に、兄は、〈邦子もこういう思いをしていたんだと、きっと思いながらね堪えていたのかな〉って思ってね。その兄がほんとに昨日、一昨日会ったのに、今日はもう亡くなって冷たくなって帰って来るというのは、そういう現実。私を支えた兄と妹がもうほんとに一年も経たずに亡くなるということは、〈ほんとに人生ってこういうことなの〉って思いましたけど、この二人の兄妹の死というのは、ほんとになんかまた新たな別な悲しみというか衝撃というかね、〈人生を生きるということは、こういうこともまた引き受けていかなければいけないのか〉という思いがありましたね。
 
金光:  でもやっぱりそういう事実も、とにかく受け入れなければ、生かされている以上、くよくよしてもしようがないかなという、そういう気持ちにもなっているんですけど、やっぱりそこでへこたれてしまったら具合が悪い。で、やっぱり「しっかり生きて」と言われたら生きないわけにいかないところがある。でもそういうことを思いながらも、大石さんの場合ですと、話を頼まれたり、あるいはいろんな相談を受けたり、そういう毎日の暮らしというのがあるわけでしょう。ちょっと止めてというわけにいかないとこがあるんで、その辺はどうなさっているんですか?
 
大石:  さすがに初めての経験でしたけど、妹がなくなった後は、ほとんど一年講演にでなかったです。
 
金光:  そうですか。
 
大石:  それで、でもこのままではいけないと。「私の分も生きて」ということは、妹も一生懸命生きて、会社もやっていたのにね。そうなのにやっぱりできるかなと思いながら、講演依頼はいくつもあるんですがね、それを「申訳ないけど」と言ってお断りしていた。また私が「具合が悪い」というと、それが通じるわけです。「すみません」と言えば許して貰えるという、そういうこともあったんです。しかしこのままではいけないと、頑張ってやってみたんですね、ライオンズ倶楽部とか、そういう時に。そうしたらなんとか声も出て、今年は初めて四、五日前に、福島県で最初にできた福島介護福祉専門学校があって、そこの入学式で講演したんです。ここは創立の時に校歌を作ったりした関係で、二年に一度行って入学式で講演するんですよ。今度は介護福祉を必要とする私たちの学校になってきたでしょう。それでなんかほんとに若い人たちがこういう介護の道を選んでくれて、ほんとに心から「ありがとう」と言いたい気持ちで入学式で話をしているんです。そして私もう二十年、こうなんやかんや行っているんですけども、男の人が増えてきたんです。
 
金光:  そうですか。
 
大石:  今までは介護とか、子どもを育てるとか、女の仕事ということで、介護もなんかなかなか大変恵まれないということもあったじゃないですか。でも今度はこれだけ男の人たちが入ってくれば、やっぱり国も考えなくちゃいけないんじゃないかと思うぐらいなんか嬉しかったですね。
 
金光:  そうですか。
 
大石:  若い学生が介護の道に進んで介護福祉師とかそういう道に、
 
金光:  一割とか二割とか?
 
大石:  もっといましたね。
 
金光:  そうですか。
 
大石:  びっくりしました、今年。
 
金光:  それは嬉しいことですね。
 
大石:  嬉しい。私なんか介護される側というのは、ほんとに力を使って貰わなければならないんですよ。だからそうすると、女の人たち腰を痛めて立てないとか、そういう時に力のある心持ちの優しい男性がおられれば助かる。私が思ったのは、男性が増えたのは震災の良い方の影響かなと逆にね。人の役に立ちたいとか、人のために生きたいとか、福島の復興のためとかという思いを、若い人たちが盛んに出していたんですね。そういうことかなと思って、最初に「ほんとにこの道を選んでくれて、ありがとう」と言って講演を始めたんですけどね。
 
金光:  確かに震災の影響というのは、あの頃中学校とか高校の人で、大学へ行っても卒業したらまた福島へ帰ってくるという人がけっこういらっしゃるそうですね。
 
大石:  そうですよ。福島の復興に学校の先生なんかでもそうだし、お医者さんでもそうだし、看護婦さんでもやっぱり戻って来る人たちが増えて、だからほんとにマイナスという苦しみの面というのは、あんな壮絶な何百年に一度しかないものでも、すべてが喪失ではなくてそこから生まれる力というのも、私はやっぱり若い人たちがそういう目覚めをもってくれたというのは有り難いなと思います。
 
金光:  そうですね。遺された人は、「亡くなった人の分まで元気を出して生きなきゃ」ということなんでしょうけど、なかなかそれはできないでしょうけどね。でもやっぱり考え方としては、自分一人というよりも、そういう周囲との繋がりの中で生きている以上、やっぱりその辺を知らん顔をして、自分だけなんとかという生き方だと、やっぱり次ぎに続く力も出てきにくいだろうという気がしますね。
 
大石:  そうですね。
 
金光:  そうしますと、確かにそういう大きな家庭的な事件もあったりしても、七十年以上生きてきた生き方、しかも身体が動かなくなってから、下半身が不自由になってからの五十年の生き方というのは、今も続けてその姿勢で行かざるを得ないというところなんでしょうか?
 
大石:  はい。このままそうだと思います。これで歩けるようになるとかということは、先ずないでしょうから。でもこの身体が頑張ってくれたなと思う。私は自分の身体ってほんとに〈こんな身体、こんな身体〉と思っていたんですよ。
 
金光:  だって事故に遭うまでは非常に活発に動き回っていたんでしょ。その身体がいっぺんにぺちゃんこになったら。
 
大石:  ほんとに余計なかなか受け入れられなかったんですけどね。そんな身体に対して〈嬉しい、有り難い〉と思ったのは、六年前癌をやったんですよ。癌で大きな手術だったんですよ。こっちの会津ではなくて、福島医大まで送られたんですね。手術は無事に済んで、そして〈あ、癌の手術もこのぐらいで済んだらいいな〉と思っていたんですけど、それから三日目の夜、病室がなんか大騒ぎになったんですね。なんでかわからなかったんですけども、「すぐにこれから手術室に行きます」という。
 
金光:  もう一度?
 
大石:  もう一度。そうしたら胸の真ん中辺りに動脈瘤があって、それが破裂したんですよ。だから「一秒を争う」と言われて。それでなんかドラマみたいだったですよ。真っ暗な病棟をストレッチャーに載せられて行って、そうしたらやっぱり「あ、これか。大石さんの身体は何が起きるかわからない」って、会津病院で言われて、だからこちらに送られたんだけど、こんなこと真夜中に会津で起きたら、こんなにたくさんの先生が手術室の前に集まられることはできなかったですね。その時に言われたのが、「大石さん、麻酔はかけられませんよ」と言うんですよ。「三日前に大きな大手術で全身麻酔でやっているので、多分意識が戻らなくなる可能性がある」というので、「麻酔かけないで胸開く」というんですね。私はほんとに震え上がったというか、麻酔なしでここ胸をガッと引きまくって―動脈瘤破裂ということは大変なもの凄い大量の出血で時間くれば死にますでしょう。
 
金光:  致命傷ですものね。
 
大石:  それをやると言われて、さあっと手術室のベッドの上げられてメスが入ったんですよね。わたし、「ギャァッ!」と叫んだんですよ。
 
金光:  それはそうでしょう。
 
大石:  私、人間が追い詰められた状態というか、なんか追い詰められて、もうオカルト的なことって、私、全然信じないんです、今まで。でも人間が多分もう死の瀬戸際まで追い詰められた時って、今、考えるとああいう綺麗な現象って起きるのかと思ったんですけども、メスが入って、ギャッ!と叫んだ時に、今考えて手術室の天井に明るいライトがあって、そこに今まで見たこともないぐらいにもの凄く綺麗な金色の十字架がパッと見えたんです。それがクルッとひっくり返って母になっちゃうの。母の顔が見えたんですよ。そうして気絶しちゃったの。
 
金光:  よかった。
 
大石:  よかったんですよ、ほんとにね。それで分からなくなっちゃったんで。ただ麻酔やっているわけじゃないので、なんか音がよく聞こえるんだけど、もう痛いとか痒いとかなんとかという全然わからなくなっちゃって。そして次の日の午後ぐらいに、目が覚めたら、〈空は青空だし、ああ、まだ生きている〉と思ったんですけど。ほんとにその時に初めて私は、〈自分の身体がほんとに自分が堪えられなくなったような時って、意識を吹き飛ばしても、ああいう痛みにこの身体は堪えてくれたんだ〉ってね、なんか無性にそう思ったんですよね。そうしたら〈ああ、昔、ほんとにこんな身体要らないと思って、何回か死のうと思ってこの身体傷つけた。私自身がこの身体に傷つけてきたのに、この身体は私を生かすためにあの凄まじい痛みに堪えてくれたんだ〉と思ったら、なんか今まで考えたことのないこの自分の身体に対する「愛おしさ」というかね、そしてこれは私の「最大の同士なんだ」というような―この一つの身体なんだから同士ということはないんだけれど―一体なんだと。身体と心が初めて一つになるというか、愛おしく思われた。それまではこんな身体ほんとに嫌だったんですよ。
 
金光:  そうでしょうね、若い頃は特に。
 
大石:  嫌々で、ほんとに〈腕なんか切ったっていい〉なんて思うぐらいだったんですけど、ほんとにそれからですね、少し身体を大事にするということを。
 
金光:  まあ人間の意識というのは、自分中心に考えると、その時の自分の都合のいいように腕がなくとも痛みがない方がいいとか、いろんなことを考えますからね。
 
大石:  そうそう。
 
金光:  でもそれがそういう経験があると、そういう考えはもう吹っ飛んじゃう。
 
大石:  吹っ飛んじゃいましたね。
 
金光:  でも痛いのは困るけれども、それこそほんとに身体と心が一致して、
 
大石:  初めてですね。
 
金光:  それは坐禅で「身心一如」なんていうけれども、大石さんの場合は、メスがそれを身体と心を、しかも気絶さしてくれるというのは。しかも身体の方はそれに堪えて持ち堪えてくれたと。
 
大石:  ほんとに堪えてくれた。
 
金光:  次の日は目が覚めると特別痛いという?
 
大石:  いや、痛いですよ!
 
金光:  大きな傷ですものね。
 
大石:  十六センチぐらいですからね。
 
金光:  そんなに! それは痛いでしょうね。
 
大石:  痛いし、ここが全部真っ黒ですもの、出血で。動脈が出血して。で、アメリカンフットボールの選手みたいになって。だからほんとに生のぎりぎり。だからそれを見付けた看護婦さん、やっぱりプロなんですよね。異変に気が付いてくれたというね。手術後というのは、三十分おきぐらいに見回っている。その時に見付けたんでしょうね。いろんな先生たちが入って来て、「すぐ手術する」と言って連れて行かれた。その時も妹が付き添っていて、真っ暗な手術室の前で真夜中ね、「いくら経っても出て来なくて、もうダメなのかな、と思っていた」って言っていましたけどね。
 
金光:  いわば大怪我ですよね、手術というのは。人工的な怪我、傷ですからね。それに堪えた身体を、今度また自分が受け取って、その身体をコントロールしていくわけですから。でもそれはそれで、やっぱりそうなったらそうなったで、そこで自分に与えられたというか、あるいは悪い言葉でいうと、降りかかってきたいろんな出来事は、自分が対応しますという覚悟をしないわけにはいかないでしょう。
 
大石:  今だって逃げたいけど、やっぱり事故の後のもう絶望というか、若い二十代全部病院でしたから。あの時は落っこちるところまで落っこちて、私はもう人間でなくなったと思って生きていましたからね。
 
金光:  確か最初四年間ぐらいは身動きできなかったんでしょう?
 
大石:  動けなかった。そして排泄とか、そういうのも、
 
金光:  何もできない。
 
大石:  管で取ったりして、
 
金光:  自覚症状がないですからね。頭だけ動くわけでしょう?
 
大石:  頭だけ動くの。だからでも今考えてあれだけ目眩が起きていたというのは、頭の働きですかね。もう凄く吐いてね。吐いて吐いて。その頃に見舞いに来た人たちが、「この世には全部ムダな経験なんかないんだが」とよくいうわけですよ。私、そんなムダでもなんでもこんなの嫌だって。
 
金光:  それはそうでしょう。
 
大石:  「この世にムダな経験ってないんだから」って言われても、腕なんか要らないとか思って、それが結局癌の抗ガン剤の時の苦しみとかなんかの時に思い出して、なるほど、何十年か過ぎて、ムダな経験というのはこんな緑の液体吐くけど、これ永遠には吐かないんだというのは、その事故の時、一年ぐらいよく吐いたんですけど、やっぱりそれは収まる時がある、というのを覚えていたので、あ、この抗ガン剤を打っている間はしょうがない。これがなくなれば収まるんだと思えば、結局〈大丈夫なんだ、収まるんだ、収まるんだ〉と自分に言い聞かせながら抗ガン剤を一年三ヶ月打ったんですけど。でもやっぱり昔の人はほんとに真実を言っているんだなと。自分がこういう苦しい状況に入り込むと、そういう言葉は救いの中の一つになってきてね、それにそうあってほしいというやっぱり願望は、置かれた状況の中でピタッと繋がってくる時があるんですよね。
 
金光:  そういうご体験の話を若い人なんかに話をされて、「苦しいことがあっても、その時は苦しくてもそれを乗り越えると役に立つことがある」みたいなのを大石さんが話をすると、大分伝わり方が違うんじゃないかという気がしますけども。
 
大石:  ほんとに私は子どもに騒がれたらもう講演止めようと思っていたんです。ほんとに騒いだことってないですよ―一回あったんですよ。ここに今ここに置いていないかな、高校生の写真があるんですけど、福島東高校という県立のけっこう優秀な学校に行って、大勢なんですね―四百人から五百人ぐらい、挨拶した途端になんか「ピッピッピッ」とか口笛を吹かれたんですよ。びっくりしちゃって、どうしたんだろうと。私、「ピッピッピッ」と野次られるの初めての経験。私まだ挨拶しかしていないし、なんで私が野次られるんだろうと思ってね。私が、どう挨拶したかといったら、「久しぶりに高校生の前に来て話すの嬉しい」って。「高校生の前で話をするのは嬉しい」と言ったことを多分お世辞言っていると思ったんだと思うんですよ。そう自分に言い聞かせ、「あ、あれはお世辞と取ったんだ」と思ったから、そこから「何故なら私は実は結婚したこともなくて、いつも学校へ行く度に、結婚はいいとして、一人ぐらい子どもがいたら、どんなによかっただろうって、ほんとに心からそう思うんですよ」と言ったら、ピタッと私語がやんだ、会場がね。そして一時間半静かに彼らは聞いたんですけど、終わって一番最初に立ち上がって拍手したのはその騒いだ連中なんですね。それはそれでいいんですけど、そうしたら突然、会場の一人の生徒がパッと駆けて上がって来た。一斉に先生方が立ち上がって、私も一瞬やばいと思って、何されるんだろうと思ったんですね―その頃けっこういろいろあって。そうしたらその一人の高校生がパッと壇上に上がって来て、私、もう何されるかわからないし、ここで死ぬのかなと思ったんですよね。そうしたらその子が私のテーブルの脇に大きな花瓶があって、その花の中から白い百合、麦の穂、それからヒマワリ、白、黄色、緑ですよ、これを取って、私にこうやって捧げてくれたんですよ。私もびっくりしちゃって、そうしたら、その生徒はもの凄い恥ずかしそうな顔したんですね。私は冷やかし半分にやったように思ったんだけど、その顔が冷やかしの顔ではない。逃げて帰ろうとしたから、私はパッと手を掴んじゃって、向こうが恥ずかしそうな顔している手を掴み、「ありがとうね、ありがとうね」と言ったら、下を向くのね。私ね、なんか思わず、ああ、こういう花束って今までこう生きてきて貰ったことあっただろうかって思って、私フッと思って、私は随分高校とか大学とか歩いて来たけども、こういう子どもたちに、私は支えられて生きてきたんだなと。その時の生徒が私に対して後から「迷惑掛けました」と言って写真を送ってくれたんです。彼らが撮った写真を飾って置いたんですよ。改めて兄と妹の亡くなった写真を飾ったので、ちょっとうしろにやったんですね。そんなことがけっこう行くと、先々の学校で、そういう想像もしていない出来事に出会うんですよ。
 
金光:  それはほんとにそれこそハプニングで、人間の予想とは違った次元で降りかかってきて、咄嗟にどうしていいかわからない状況で新しい展開があるという。
 
大石:  そうですよね。だからほんとにあれ忘れられないんですよ。
 
金光:  そういう意味では、「人生って詰まらん」と。「もうわかった」なんて、そういうふうに乏しい経験でそういうふうに取る必要はまったくありませんと。
 
大石:  そうですね。
 
金光:  新しいことが、いろいろ見る目さえあれば、そういうのが見えるべきことがある。それぞれの人にそれぞれそういうものを、ちゃんとその人なりに与えられているということがあるでしょうね。だからせっかく生まれて生きているんだから、できるだけ生かされているなか、辛いことがあろうと、何であろうと、とにかく生きられるだけ生きる方向で、年取ったら年取ったなりにやっていかないとしょうがないと。
 
大石:  それはそう思いますね。
 
金光:  どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十八年五月一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである