日蓮聖人からの手紙A病気に苦しむ男性信徒への手紙
 
                    立正大学教授 北 川(きたがわ)  前 肇(ぜんちよう)
 
ナレータ: : 日蓮聖人が遺した手紙を、毎月一回、十二回にわたって読んでいきます。第二回は、「病気に苦しみ男性信徒への手紙」と題してお送りします。お話は立正大学教授の北川前肇さんです。
 
北川:  今日の私たちが、日蓮聖人のその教えを信奉する信徒との関係性を考えます時、鎌倉時代の道徳の規範が、縦の上下関係を軸としておりますことから、聖人と信徒との関係性も同様に、縦の上下関係が強いのではないかと思われるのであります。確かにそのように理解するのが一般的であろうかと思うのです。しかし聖人にとって宗教的な絶対的価値を、釈尊の教法であります法華経に求められておりますことから、法華経を説かれる教主釈尊及びその教えを前にした時には、出家者としての聖人とその教えに導かれる信徒の両者には、宗教的な絶対的平等観がうかがえるのであります。言い換えますと、聖人は法華経の教えを信徒へ伝える師範であり、即ち導き手であり、信徒はその教えを信じ、日常生活の中にその教えを活かしていくことを軸と致しますことから、両者は導く者と導かれる者との関係性が存していると言いましょう。しかしこの両者が共に宗教的な絶対的価値を共有する時、その導き手もその教えを信奉する信徒たちも、共に宗教性永遠性を有する共通の霊山浄土(りようせんじようど)へとまいるという、同一的時間性と同一的空間性とに共に生きるということを教示されていることを知るのであります。ここに両者が宗教的同時性の時間性と空間性の中に存在していることがうかがえるのであります。例えばそのことを端的に表現されております手紙と致しましては、聖人が五十二歳の佐渡流罪中もっとも大切な書であるとの認識のもとに執筆されました『如来滅後五五百歳始観心本尊抄(によらいのめつご、ごひやくさいにはじむ、かんじんのほんぞんしよう)』この書は略称致しまして、『観心本尊抄(かんじんほんぞんしよう)』と称しておりますが、その送り状、即ち今日では『観心本尊抄副状(そえじよう)』と呼ばれています手紙の末尾には、
 
一見を歴(へ)(き)たるの輩(ともがら)、師弟共に霊山(りようぜん)浄土に詣でて、三仏の顔貌(げんみよう)を拝見したてまつらん。
 
と記されているのです。即ち現代語訳致しますと、
 
この観心本尊抄を読まれた弟子、信徒たちの方々と共に法華経が説かれている釈迦仏、多宝仏、十方分身諸仏が在(ましま)す永遠の霊山(りようぜん)浄土へとお詣りし、その宗教的歓びを噛み締め、その御言葉を信受したい
 
という内容を認められているのであります。このような手紙を拝見致しますと、宗教的な導き手の聖人と導かれる信徒たちとの関係性は、発信者と受取手という側面がみられると共に、両者は共に宗教的な永遠性の中に共生し、その救済性が象徴的に表現されております霊山浄土に在す御仏への智慧の世界が明示されているのであります。そこでこのような視点から改めて聖人と信徒との交流に目を向けてみますと、聖人が波乱に満ちたご生涯でありましても、若き日において、求道に邁進されておりますことから、釈尊の真実を求められるという生き方は、生涯変わることはありませんでした。即ち聖人の仏教典籍に対する研鑽は、佐渡流罪中におきましても、『開目抄(かいもくしよう)』や『観心本尊抄』という法華経の核心に迫る大切な著作として完成し、また佐渡流罪後、身延に入山されたのちも、五十四歳の時には『撰時抄(せんじしよう)』、翌五十五歳の時には『報恩抄(ほうおんしよう)』という著作を著されていますことから、聖人の仏教研鑽の意欲と執筆活動とには目を見張るものがあります。そしてそのことは、聖人の教えを受け入れる人たち、つまり聖人の教えを理解する弟子、信徒たちの存在を見逃すことができないのでありますし、また信徒たちがその聖人の教えを受け入れつつ、聖人の法華経観に基づく信仰生活、更には仏教研鑽の日々を聖人に対する布施という物質的な援助と共に教えを領解(りようげ)するということで、聖人を精神的に支えるという大切な人たちであったことも知られるのであります。ところで下総国(しもうさのくに)八幡庄(やはたのしよう)(今日の千葉県市川市)に在住の一人の男性信徒がありました。大田乗明(おおたじようみよう)(1222-1283)です。彼はこの地に在住の富木常忍(ときじようにん)と共に下総の守護職であります千葉氏に仕える人物でありました。初めは大田乗明(おおたのりあき)と称し、入道ののちに「乗明(じようみよう)」と名のったと思われます。大田氏は「左衛門尉(さえもんのじよう)」の任官でありましたから、この官位が唐名の称号であります「金吾(きんご)」でありますことから、日蓮聖人は大田金吾殿とも称される。入道していましたことから、大田入道、乗明上人等々と称されています。また同じ八幡庄曽谷郷(そやのごう)の領主と考えられます曽谷教信(そやきようしん)という信徒がありますが、富木氏、大田氏、曽谷氏の三人は、深く仏教を理解する能力を有していたことが推察されるのであります。それは先ほどご紹介致しました『観心本尊抄』が、文章は漢文体でありますし、またこの書が届けられる宛所は、富木常忍ではありますが、副状(そえじよう)の文面には、大田殿、教信御房の名称が見られますことから富木氏、大田氏、曽谷氏の三人は、聖人の教義理解者として認識されていたと思われるのであります。また聖人が身延入山の翌年三月十日、宛所としまして、曽谷入道殿、大田金吾殿という二人の名前を記されました長文の漢文体の書簡を認められているのでございます。この真蹟の手紙は、今日四十六紙からなるものとして大切に保存され、今日千葉県市川市の中山法華経寺(なかやまほけきようじ)に護持されておりますし、また国の重要文化財に指定されている見事な筆蹟の書簡であります。この文章も漢文体、いわゆる白文体(はくぶんたい)(本文だけで注釈を施さない漢文。口読・訓点を施さない漢文)でございまして、この書簡には日蓮聖人にとって本門法華経の教えに基づく「南無妙法蓮華経」の尊い教えが開示されている大切な書であります。この手紙の一節には、次のような内容が認められております。現代語訳致します。
 
聞くところによりますと、貴殿(曽谷教信)および大田金吾殿の所有されている越中国(えつちゆうのくに)の領地内、さらにはその近辺の寺々に多くの仏教典籍があるということです。お二人は、ともに私(日蓮)の大檀那(すぐれた信徒)です。どうか、それらの書物を必要としておりますので、お集めいただきたく、私の願いを叶えてください。
 
というのです。この文章からうかがえますことは、一には、身延の日蓮聖人は多くの仏教典籍を求めることで、仏教研鑽に邁進されているということであります。二には、信徒の曽谷教信と大田金吾の領地内には、多くの仏教典籍が存在していたとの情報をもとに、その収集を依頼されているということであります。三には、両者はこれらの書籍を収集する能力を持った信徒であるということなどがうかがわれるのであります。そして両者の社会的身分は、曽谷教信は曽谷の郷を所有している領主であり、大田金吾は越中の国、即ち今日の富山県に領地を持っていたことがうかがえるのであります。また聖人の他の記述から歴史研究者であります中尾堯(なかおたかし)(仏教学者、立正大学名誉教授。日蓮を中心として研究:1931-)先生は、「大田乗明は、越中国に地頭職を持つ武士で、「越中大田保(えつちゆうおおたたほ)」と関連があるのではないか」と指摘されています。また大田氏が地頭職でありましたことから、大田氏は積極的な聖人への支援が可能であり、併せて彼は漢文体の手紙や著作を読解する十分な識字(しきじ)能力を有していたことから、仏教の教義に対する能力も有していた者と推察できるのであります。さて、聖人が大田氏に与えられました手紙を昭和定本に従いまして、真蹟が現存しているものから年代順に抽出致しますと、四篇の手紙が確認できるのであります。そしてこの他にも大田氏の妻へ与えられた手紙が一通存しております。この大田氏の妻女への手紙は、聖人五十九歳の弘安(こうあん)三年(1280年)七月二日付のもので、今日真蹟二十一紙が中山法華経寺に貯蔵されております。その冒頭には、八ヶ月分の白米が届けられたことに対しますお礼が認められています。即ち夫の大田氏とは別の供養の品が、その妻から聖人のもとへ届けられていることが知られるのであります。ここに妻女ではありましても、夫からの経済的自律性が伺いますが、そのような視点から夫の大田氏へ与えられた手紙に注目してみますと、その一節に大田氏が相模国(さがみのくに)鎌倉から銅銭二結(ふたゆい)、即ち二貫文(二千文)の銭を甲州身延の聖人のもとへ届けていますけれども、聖人は「今、乗明法師、並びに妻女は銅銭二千枚を法華経に供養す」と記されていますことから、銅銭一千枚は夫・大田氏の供養として、残りの一千枚は妻女からの供養として受け取られていることが知られるのであります。このことからも聖人の女性信徒の中にも前回ご紹介致しました富木氏の妻や、今回の大田氏の妻女たちの自律性を、私は強く感じているところでございます。ところで大田氏に宛てられました七篇の手紙の中で、特に注目されますことは、聖人が身延へ入山されました翌年、即ち建治(けんじ)元年(1275年)十一月三日、五十四歳の時に大田氏の病気見舞いの手紙として漢文体の文を認められていることであります。この手紙の奥付には、十一月三日「大田入道殿御返事」とありますことから、聖人のもとに大田氏から届けられた手紙に対する聖人の返書であることが知られます。大田氏が聖人と同じ年の生まれであるという説に従いますと、大田氏は五十四歳を迎えていたことになります。その冒頭には次のように記されています。現代語訳でご紹介致しますと、
 
あなたからのお手紙を拝見致しました。痛みに襲われるご病気にお悩みとのこと、一度はなんと気の毒なことと嘆きましたが、再び考えてみますと、かえってあなたにとっては祝福すべきことであると喜んだ次第です。
 
というのです。この文章には、大いに驚かされます。今日私たちが病気に罹りますと、私たちにとりましては、好ましくない出来事であり、悲嘆すべきであると受け止めることが一般的であるからにほかなりません。たしかに聖人は、大田氏の病痛に対して、「先ずは悲しく思います」という見舞いの言葉を記されていますが、「再びその病気のことを考えてみますと、喜ぶべきこと」として受け止められているのであります。でも大田氏のこの病痛の原因は何であったのかを尋ねてみますと、お手紙の一節に、「あなたの罹っている悪い病」―「悪瘡(あくそう)」とありますから、皮膚にできる腫(は)れ物による痛みであったことが推察されます。それは大変な痛みを伴うものでありました。そして冒頭の文について聖人は、仏教経典やそれらの経典を注釈致しました書籍から十四箇所にわたって引用文が列示されているのであります。例えばその経典と致しましては、『維摩経(ゆいまきよう)』『涅槃経』『法華経』の文でありますし、論疏と致しましては『大智度論(だいちどろん)』あるいは天台大師の口述されました『法華玄義(ほつけげんぎ)』や『摩訶止観(まかしかん)』、あるいは妙楽(みようらく)大師が『摩訶止観』を注釈された文等の、いわゆる合計十四文でございます。このように聖人が、十四の文章を列示された意図は何であったのかと尋ねてみましても、私は容易に理解できないのでございますけれども、今一つの考え方を述べさせて頂きますと、先ずは大田氏の仏教素養の深さが考えられます。大田氏は既に述べましたように、識字能力を十分に具え、仏教典籍に対する深い理解を持った人物であることが知られます。そこで経典の中に見られます、例えば釈尊ご在世の在俗の信者として登場致します『維摩経(ゆいまきよう)』の維摩居士の病気のこと、あるいは『大般涅槃経(だいはつねはんきよう)』には釈尊がご入滅に当たりまして、心界に病気を現され、右の脇を下にして臥されましたこと、また『法華経』には法華経をお説きになります釈尊に対しまして、十方世界から見えた仏たちや、あるいは菩薩方が釈尊にご挨拶をされる時に、「少病少悩であらせられますか」と尋ねています。勿論御仏は、悟りを開かれたお方でありますから、本来御仏の身には病はなく、また心に悩みがなく、それらは御仏とは無縁の存在である筈なんですけれども、しかしここには御仏が私たちをお救いの手を差し伸べるに当たって、身に病があり、心に悩みをお持ちであるという、そういう側面がここに示されていることが知られるのであります。つまり「少病少悩」というその御仏に対しますご挨拶の言葉は、同時に御仏が大慈大悲をもって私たち衆生を救ってくださるという、その救いのお働きを象徴している言葉であると思われるのでございます。例えばそのことは、天台大師が私たちの生存のあり方を十種、即ち十界と見做されて、例えば地獄界、餓鬼界、畜生界の三悪道、あるいは三界と。さらには修羅界、人間界、天上界の三界を加えまして「六界」、即ち「六道輪廻」と捉え、更にはその上に声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の四種界を併せまして「十界」と見做されているわけでありますけども、その十界がそれぞれに互具する、具わっている、その十界が互具することに百界となることを説いています。そう致しますと、私たちは迷いのために種々の苦悩に支配されておりますけれども、また御仏にも菩薩界以下のこの苦界をおそなえである。本来の御仏には清浄の世界のみがあって、人々の苦悩、いわゆる私たちの迷いの世界はお持ちでない、存在しないと考えるのでありますけれども、しかし御仏の救いの働きというものを中心にみた時、御仏にもまた迷いとしての苦界、即ち宗教的悪が具わっていると、このように解釈されているのでございます。そう致しますと、御仏が大慈大悲によって、私たちを救わんがために、病と、そして苦悩とを具えられているということが解釈できるのでございます。ところで大田氏宛ての病気見舞いの手紙に、仏教典籍からの十四文の引用文の後、聖人はこれらの文をもとと致しまして、「あなたのご病気の原因を考えますと」と、そのようにこの筆が進められております。勿論仮に大田氏が仏教に対する素養がまったく存しないのであれば、このような記述方法は意味をなさないでありましょう。あえて聖人が大田氏に対して仏教典籍から病気に関する文を引用されておりますことは、病に対する客観性と論理性とを大田氏に与えることができると判断されたことによりまして、このような大田氏に対する聖人独自の導きをなされたものと思われるのであります。そして聖人が大田氏の病気を喜びであると認識されます根拠は、この十四箇所の引用文の中に存している筈でございますし、そのことによって聖人は、大田氏の今日までの仏教的信仰生活における生き方・姿勢を正しつつ、法華経信仰の尊さ、あるいは大田氏の改まる法華経信仰のあり方へと導かれるために、筆が進められているものと思われます。さて十四箇所にわたります文を列示された聖人は、以上、多くの経論釈の文を引いて、「ここにあなたの病気が起こる原因を尋ねてみますと、天台大師の口述されました『摩訶止観』巻八の章に示されている六種以外のものではありません」と述べられています。その文は十四箇所引用されました中の第八番目に当たります。その文を現代語訳してみましょう。
 
病気の起こる原因を明らかにしましょう。その明らかにしていく中で六つの要因が考えられます。一には、私たちの身体を構成する地水火風の四大元素の不具合によって起こる病気。二には、私たちが摂取致します飲み物や食べ物等に対して、節度を欠くことによって起こる病気。三には、仏道修行の過程において心を調える坐禅の修行が、道理に反することで起こる病気。四には、私たちに仏道をさまたげる悪鬼が障りをなして起こる病気。五には、天上界の悪魔の仕業によって起こす病気。そして最後の六番目の原因は、私たちの生存のあり方というものは、過去、現在、未来にわたる行為、即ち定まった因果の法則の連続性による定業(じようごう)にあるんですけれども、前世からの悪い業が現在世に現れることによって起こる病気だ」というのです。
 
以上が六種なのであります。このように天台大師の『摩訶止観』の文を引用されますことによって、大田氏の病痛もこの六種に由来することを指摘され、殊に第六の業病がもっとも特に治しにくい病気であるというのであります。つまり如何なる歴史上の名医でありましても、この第六の業病は治し難いと説かれることで直ちに宗教的世界、あるいは御仏の教えの世界へと筆が進められているのであります。つまり聖人が、第六の業病と考えられる根底には、病気の原因を世俗的な、あるいは日常的な行為の結果であると見做されているのでありませんで、もっとも重い宗教的罪、即ち御仏の教えに背くことによって起こる病気と認識されておりますから、この宗教的な罪を消滅することによって、その病―業病を消滅するという認識方法であります。そこでどんな名医でありましても治すことのできない罪によって起こる宗教的病気は、自己の信仰の過ちに気付き、その信仰を基に懺悔すること、つまり正法を本にしてこれまでの過ちを悔い改めることによって、悪業が消滅することを聖人は力説されていることを知るのであります。今日的な表現を致しますと、私たちがこの世に生きている以上、病気に直面することは必定であります。けれども、それが起こる要因を日常的な場面だけにおいて考えるのではなく、信仰的宗教的な面からも、しっかりとその病の要因というものを捉える力、あるいは三世の眼を持って捉える力が必要であることを説かれているように思われてなりません。ところで聖人が大田氏の病痛の要因を天台大師の教説に従って、私たち自身の犯した悪業によって現在世に引き起こされたものと指摘されているのでありますけれども、では大田氏は一体どのような教えによって釈尊に背くことになったのかを尋ねてまいりますと、大田氏は聖人と出会う以前、熱心な真言の教えに帰依した人物であったことが知られます。勿論何故に真言の教えに誤りがあるのかを、聖人は法華経信仰の立場から詳しく諭されておりますけれども、その内容をうかがえましても、大田氏が仏教理解が深いものであったかが知られるのであります。そして大田氏に対する聖人の決定的な導きと致しまして、「あなたは過去からの宿縁と今生における仏の大慈悲を受けられたことで、私・日蓮に出会い、これまでの宗教的な罪を悔い改める心を起こされました。もしそれがなければ、未来世に重い病を受けなければならないのでありましょうけれども、法華経信仰によって、むしろ今現在軽い皮膚の病に罹られたのでありましょう」と諭されているのです。つまり今の大田氏の病気は、重い病ではなくて、軽い病として受け止めるべきである、と述べられているのです。即ち聖人は、大田氏の病痛の要因を、過去世の謗法罪(ほうぼうざい)であると厳しく指摘されつつも、現在の熱心な法華経信仰によって、むしろ未来への重き病というものが、現在世において、むしろ軽い病として受けているんだと指摘されることで、大田氏の現在の強い法華経信仰の道を称賛されていることを知るのであります。そして大田氏の悪い皮膚の病は、必ずや平癒することを力説して筆を置かれているのであります。この後大田乗明は健康を回復し、弘安五年(1282年)十月十三日、日蓮聖人は、今日の大田区池上の地で入滅を迎えられますけれども、その葬送儀に当たっては鐘を持つ信徒として参列をし、大田氏は翌六十二歳をもってその生涯を迎えたのであります。またその子息は聖人のもとで出家し、「日高(にちこう)」と称し、中山法華寺の祖であります富木常忍の跡を継承しているのであります。
 
     これは、平成二十八年五月八日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである