道元禅師の仏教観
 
                 東京大学大学院教授 頼 住(よりずみ)  光 子(みつこ)
神奈川県生まれ。1983年お茶の水女子大学文教育学部哲学科卒、1991年東京大学大学院人文科学研究科倫理学専攻博士課程満期退学。94年「道元における善と悪 -「正法眼蔵」「諸悪莫作」巻の註解のこころみ」で東大博士(文学)。1991年山口大学講師、95年助教授、96年お茶の水女子大学助教授、教授、2013年東大人文社会系研究科倫理学科教授:1961-)
                 き き て     金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、東京大学大学院教授の頼住光子さんに「道元禅師の仏教観」というテーマでお話頂きます。頼住さんは昭和二十六年(1961年)のお生まれ。日本の倫理思想史がご専門ですが、長年道元禅師の哲学や仏教を研究している方です。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  今日は、「道元禅師の仏教観」というようなことで、道元禅師の思想とか哲学なんかをズッと昔から研究なさっている頼住先生にお話をお伺いしたいと思うんでございますが、『正法眼蔵(しようぼうげんぞう)』というのは非常に難しいと言われているんですが、その中で道元禅師が非常に大切にしていらっしゃった「現成公案(げんじようこうあん)」という中に、仏教についての基本的な道元禅師の考え方が述べられている下りがあるもんですから、その辺のとこからお話をお願いできたらと思いますが、最初にちょっと私がその下りを紹介させて頂きます。
 
仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
 
ここでも一般に考えられている言葉とは随分違う意味ではないかと思われるような言葉が随分出てくるわけですが、これを現代の言葉で紹介して頂くと、頼住先生、どういうことになりますでしょうか?
 
頼住:  はい。非常に有名な「現成公案」の中の一節でございますけれども、先ず一番最初の文章ですね。「仏道をならふといふは、自己をならふなり」という、この文章でございますけれども、先ず「自己をならふ」ということが、一つポイントになってくるかと思います。仏道というのは「己事究明(こじきゆうめい)」己(おのれ)の事を究明する。究めあきらめるというふうに言われておりまして、自分というのは何なのか、ということですね、考えていくんだというふうに一番最初に言っているわけです。
 
金光:  「あきらめる」というと、現在の一般の言葉では、それこそ「もう考えるのをやめる」とか、そういう意味ですけれども、これは「明らかにする」という意味ですね。
 
頼住:  はい。そうです。
 
金光:  ところが自己を明らかにするという自己というのは、これまことに掴みにくいもので、一定の決まった自己なんてあるかと思うと、子どもの頃の自己もあれば、青年になっての自己もあれば、年取っての自己もあれば、ほんとにその時その時に自己と思っている自己というのは、随分千変万化しているような気がするんですけれども、その辺はどういうふうに進めていくんでしょうか、道元は?
 
頼住:  道元禅師は一番最初の文章の次ぎ二番目の文章で「自己をならふといふは、自己をわするるなり」というふうにはっきりとおっしゃっているわけですね。自己というのは、私たち何か自己があると思って、生まれた時に、例えば「何の何子」という名前を付けられるそういう自己があって、その「何の何子」は、死ぬまで「何の何子」として同じなんだ、というふうに私たちは考えてしまっていると思うんですね。普通に日常生活を送るということであれば、それで特に問題はないんですけれども、仏教で考えようとしている自己というのは、そのような自己ではないんですね。どういうことかと言いますと、私たちが生まれる前はどうだったのか。死んだ後はどうだったのか。それを考えた時に、じゃ私たちは無くなってしまう。無から無へと戻るのかという、そういう問題になってくるかなというふうに思います。仏教は、「何の何子」というところにリアリティがあるんじゃなくて、生まれる前、そして死んだ後、それ何だったのだろうか。そこに本来の自己というのがあるんじゃないのかという、そういうことを考えていく。それが仏教ではないかなと思います。そしてそれを考えていったんではないかなというふうに、私は思っております、
 
金光:  一時期、現代でも「自分探し」という言葉が流行ったことがありますけれども、私、いつもあの言葉を聞くたびに疑問に思っていたのは、果たして自分というものを見付けることができた人がいるんだろうかと。固定した自分というものはなくて、自分というのはなんか決まっているというように思っている自分でさえ随分千変万化しているわけですけれども、 今の頼住先生のお話を伺うと、仏教の場合は、生まれる前と死んだ先のことまで含めての自己ということですと、これ現代人の考え方ではちょっと取り付く島がないというか、どうしたらどういうふうに、それこそ考えたらいいんだろうか。それこそ考える自分も忘れろという方向にいく、「自己を忘るるなり」という言葉もあるわけですけれども、この辺はどういうふうに道元禅師はおっしゃっているんでしょうか?
 
頼住:  ここで言っているこの「自己をわするるなり」の自己というのは、「自己に対する執着を忘れる」というそういうことを言っているんだと思うんですね。自己に対する―私たちが「何の何子」という名前を付けられて、生まれてから死ぬまであると思っているそういう「わたし」というものを忘れた時に、本来の本当の「わたし」というものが見えてくるという、そういうことを仏教は言おうとしているし、道元もそれを表現しようとしているというふうに、私は思っております。だから「自己を習う」というのは、まさにここにいる私たちのことをよく考えていくと、むしろ「自分が自分だと思っているものが自分ではなかった」というような、ちょっと逆説的な言い方になりますけれども、そういう自体が起こるんだよということを、道元禅師は言おうとしているのではないかなと思います。
 
金光:  最初に紹介した文章の中に、今のお言葉に続いて「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」―「万法」というのは、すべての―「法」というのは、「存在」というような意味もあるようでございますから、要するに宇宙全部全体にその証(あかし)をせられているんだというのが自己だ、ということになると、これはまったくスケールの大きな話です。それでいて、じゃどうすればいいのかという。そのどうすればというのは、自分自身をどうするかという、そこへ既に執着している自分、もう日頃から考える癖としては自分中心の考えしか生まれてこないような、出てこないような生き方をしているもんですから、ここでちょっと突き放されるというか、じゃ、私はどうすればいいの、と、書かれた道元禅師に伺いたいような気持ちになるわけですけれども、そこのところはまた説明くださっているわけでしょうか?
 
頼住:  はい。「万法に証せられる」というのは、今おっしゃって頂きましたように、あらゆる存在ですね、全宇宙のあらゆる存在によって「証(しよう)せられる」―「証」というのは、証明される、明らかにされるということで、これは仏法でいうところの「悟り」という意味なわけですね。要するにありとあらゆるものによって悟らせられているから、わたしがわたしを忘れることができる、ということで、要するに私たちは自分というものが何か確固たる一つのものとしてあって、自分と他人というのが別個のものとして、また自分と他の存在というものが別個のものとしてあるんだ、というふうに考えがちなんですけれども、仏教の立場からは、そうではなくて、ありとあらゆるものが、実は一つのものとしてお互いに関係し合い働き掛け合って、その時々にこの「わたし」とか、相手が、その時々にそのようなものとして成り立っているのであって、関係が変われば、また時間や空間が変わっていけばどんどん変わっていくんだという、そういうことを言っているわけですね。そういうあり方として、私たちがあるということを、例えば仏教の少し専門的な用語で言いますと、「縁起(えんぎ)」であるとか、「空(くう)」であるとか、そういう言い方で説明をしているということになるかと思います。「空」と言いますと、私たちはなんかこう空っぽで何もないというふうに思いがちなんですけれども、これは私の言い方なんですけれども、「関係的な成立」ということで、「関係の中で、今ここで、このようにして成り立っている」という、そういうことを「空」であったり、「縁起」であったりという言葉は言おうとしているんだと思うんですね。実体として変わらないものは何もないけれども、でもお互いに関係しあって、今ここでお互いが成り立っているんだという、そういうことを言おうとしているかと思います。だから本当の自己というものを考えた時には、何か本当の自己というのはどっか別のところにあるわけではなくて、今ここの自分のあり方がそういう関係しあって、今ここでこのようなものとしてあるという、そういうことではないかなと思います。
 
金光:  今お話を伺いながら、一番最初に「現成公案」という言葉をいきなり出したんですけれども、文字の説明を全然しなかったわけですが、この文章のある「現成公案」というのは、現在ある状態を現状というふうに、「現状がどうだ」なんていう言葉を一般には使われますけれども、その「状態」の「状」ではなくて、「成就」する、「成る」という「成」と―「現成」ということですので、現在は刻々と今という時を成就している。それが私たちを含めての宇宙の存在、我々という人間の存在のあり方を示しているわけですけれども、それが「公案(こうあん)」という―「公案」というのは禅の公案とか、よく聞くんですけれども、「現成公案」」という場合は、どういうふうに考えたらよろしいんでしょうか?
 
頼住:  「公案」と言いますのは、禅僧がそれを解くように与えられる問題でございますね。要するにこうある問題がここでこうやって成就しているということで、解くべきものがここでこうやって成就して、今まさに自分にこう働き掛けてきているという、そういうことを言おうとしているのではないかなというふうに、私は思っております。
 
金光:  自分という存在自体が問題であると。自分の問題を、「あなたはどういうふうに突き詰めていくか、解決するか、それが仏法の本来の目的でありますよ」ということをおっしゃっているんでしょうね。それを踏まえながら、私、以前に聞いた有名な鈴木大拙(すずきだいせつ)さんの言葉を思い出したんですけれども、あの方の言葉でこういうのがあるんですね。
 
人間の意識というのは、焦点(フォーカス)の当たるところしか見えないんだ。ところが焦点の当たるところは、それこそ無限の広がりをもっていて、時間的にも空間的にも無限の広がりをもっていることによって、焦点の当たる存在ができているんだ。ところが人間の意識というのは、一点、自分が見たい考えたいところしか見えないもんだから、その現実の方は刻々と移り変わっていく。そうすると、人間が意識で考えることは妄想になる。現実離れした妄想になりやせんかと。ところが困ったことに、人間は妄想を面白がる。妄想は妄想を生んできて、どんどん現実離れした方向にいってしまうんだけれども、本当は人間が生きている、生きているということを自覚する意識を、それこそ自己中心の、自分の都合のいい焦点のところしか見ない。それを離れたところに存在している事実を知るのが本当の仏心であり、有無を言わさぬ事実を知るのが仏教の真である。
 
ということをおっしゃって、これはやっぱり広い意味での宗教全般に通じることではなかろうかと密かに思っているんですけれども、今の道元禅師の言葉を頼住先生が解説くださったのを拝聴していますと、まさに無限の広がり、時間的にも空間的にも無限の関係の中に生かされている自分というものを、どういうふうにあなたは知りますか、と。そこのところを追求するのが禅でありますというような、仏法でありますというようなご説明に伺ったんですけれども、大まかなところはそんなところでよろしいんでしょうか?
 
頼住:  はい。私も大変共感しながら伺わせて頂きました。確かに鈴木大拙先生がおっしゃった「フォーカスする」ということあると思うんですね。勿論フォーカスすることは、人間が認識することとして大切なんですけども、そこに執着が入ってずれてしまう。やはりそこのずれを直していこうというのが、仏教の教えではないかなというふうに思います。
 
金光:  執着を離れるというのは難しい。事実、生きているのには非常に難しいことになるわけでございますね。
 
頼住:  そうですね。そこで道元禅師としては、「修行」ということをおっしゃっているんだと思います。「修行」というのは、禅宗の場合には、坐禅が先ず中心にあるんではないかなと思いますけれども、坐禅というのは何をしているかというと、何もしないんですね。例えば草とか木がそこにあるように、人間もそこにあるんだという、そういうことを実感として受け止めるために、坐禅というのがあると思って、私たち日常の普通の行為というのは、「何かのためにこれをする」という目的手段。「これをする」と言っても、それも何かの別のまた目的のための手段として、それがずっと連鎖していくということで、それを一度止めましょうということだと思うんですね。そこを止めて、私たちがありのままの存在にもう一度なるために坐禅をするということであって、それ日常の行為とはまったく違うレベルの行為ではないかなというふうに、私は思っております。禅宗の場合には、作務(さむ)ですね―掃除をしたり、お料理をしたり、全部修行になりますけれども、それは同じように私たち料理をしたり掃除をしたりしますけれども、やはり行為の位置づけが違っている。その禅寺におけるありとあらゆる行為の一番中心にやはり坐禅があって、その坐禅というのは何もしないこと。それが行為の中心にある。何もしないというのは、目的手段の中で行為を捉えないで、それに徹するという。その行為自体が目的であって、何かの目的のための手段としての行為ではないという、そういうことではないかなというふうに思っております。
 
金光:  これは「現実」と言いますけれども、刻々とその私たちはいつも「今」という時間を生きているわけですけれども、その「今」という時間は、私なら私が自分で頭の中で「今」という時間を、時を呼ぶわけではなくて、頭で考えたから今があるんではなくて、今というのは考える以前にそこにあるわけですね。これも自己というものに引き当てて考えますと、自分が生まれようと思って生まれた人は一人もいないと思うんですね。それから自ら命を絶つ人は別ですけれども、やっぱり死ぬ時もほとんどの人は、向こう様から―向こう様と言いますか、お迎えが来て、しょうがないと思って、いろんな思いはあるでしょうけれども、思う以前にもう既に肉体の方は細胞の活躍がだんだん止まって―自動的に止まるんだそうですね―あるお医者さんに聞いたら、臨終にしょっちゅう立ち会っているお医者さんは、その最後の方肉体が分解する歯車が動き始めたら、もう誰にも止めようがない。意識以前の問題だ、ということをおっしゃっているんですね。そういう意味ではやっぱり自分を考える、自己を考える時にも、そういう自分というものが頭で考えることによってそうなるのか、事実はどうか。現実をとにかく先ず見なさいと。思いというのを、一度剥がして手放すというところが、これはなかなか現実には難しいとこですけれども、だからこそ修行があるんだというようなところで、修行というのを位置づけるのかな。そうするとただ坐るだけが修行ではなくて、日常生活の中にも修行というのはあるわけですね。
 
頼住:  そういうことになると思います。坐るというのがやはり象徴的な行為ですけれども、そこの今おっしゃられた「放れる、自分の思いを放れる」という、それがやっぱりポイントになるんじゃないかなと思います。
 
金光:  「放下著(ほうげじやく)」とよく言いますね。放ってしまえと。その辺がやっぱり訓練の一つ、修行の一つということになるわけでしょうか?
 
頼住:  そうですね。確かにその時その時刻々といろいろなことを思ったり、感じたりというのはあると思いまして、それはそれで一つの自然な流れで、そこに執着する。嫌だなと思ったら、嫌なまま流していけばいいということでなくて、嫌だという思いにとらわれない。嫌なら嫌で流せばいいというようなことではないかなというふうに、私なりに受け止めております。
 
金光:  それはそれで置いておいてですね、この前たまたまテレビ見ていたら、鈴木大拙先生の言葉で、「それはそれとして」ということをおっしゃっていましてね。それで夫婦喧嘩した人がお互いに相手のことをいろいろ話されるのを「ふんふん」と聞いていらっしゃって、その後で「それはそれとして」別の話をなさるんだそうですね。ですから今のあれも「それはそれとしておいて」そちらの別のことをやっていると、なんというか、日頃の実践、心がけだけではなくて、実践することによって、これは運動選手が運動のトレーニングするのと同じような、訓練するのと同じようなところが生き方にもあるということになるわけでしょうね。
 
頼住:  そういうことがあるんじゃないかなというふうに私自身は思っております。
 
金光:  道元禅師が非常に、例えば『典坐教訓(てんぞきようくん)』とか、お台所を預かる人たちの心得だとか、それから『赴粥飯法(ふしゆくはんほう)』と言いますか、ご飯食べる時はどういうふうに食べるかという日常生活のそういう食べ方みたいなものも随分細かく指示して、教えていらっしゃるようですね。
 
金光:  道元禅師が、ご自身が中国に行って学んだ仏法は、釈迦から直接的に代々伝えられてきたものが自分は学んできているという、非常に強い思いをお持ちで、そして自分が中国で見てきた禅寺のさまざまな生活のやり方というのは、これも釈迦から直接的受け継がれてきたという非常に強い思いがあると思います。だから釈尊が教えてくれたように自分たちも振る舞っていくことで、自分たちの生活の形を正し、心も正されていくんだということではないかなと思います。
 
金光:  お釈迦様がそうやって、自分が実践なさったことを、後世の我々もその生き方をその通りに真似すれば―真似するというか、その通りに食べるにしたって、掃除するにしたって、いろんな形でそれを実践していけば、仏さんの世界というか、お釈迦様がお説きになった世界と同じところで生活することができるというふうにお考えになったということなんでしょうか?
 
頼住:  そうだと思います。
 
金光:  これはしかし現代の私たちは、ものを学ぶというか、その時には先ず読んで、自分の頭でこうだと思って、それを実践するみたいなところがあるわけですけれども、道元禅師の『正法眼蔵』なんかたまたま時々拝見すると、そういうふうな自分のこれまで考えてきた枠の中に入れようとすると、随分外れてしまうようなことがいっぱいありますね。あれはどういうふうに近づいていけばよろしいんでしょうか?
 
頼住:  おっしゃったように、非常に『正法眼蔵』というのは難しゅうございまして、私自身何十年も読んでおりますけれども、わからないことだらけで。
 
金光:  先生、割合分かり易く解説してくださっているように思いますが。
 
頼住:  いいえ、とんでもないです。やはり道元禅師自身が、非常に明晰に語ることもできる方だと思いまして、先ほどおっしゃってくださった『典坐教訓』などは非常に分かり易く書かれているんですね。そういうふうに分かり易く書くこともできる人が、『正法眼蔵』のように、かなり難解に書いているというのは、これを読むこと自身が私たちの先入見を突破するという、そういう働きをもっているんじゃないかなと思います。
 
金光:  執着する枠があるのを壊されるわけですね。
 
頼住:  そうだと思います。
 
金光:  その枠があると、枠からはみ出たことは全部受け入れないのは、その枠を壊しなさいと。そうするとこの世界も次第にわかってくるよ、という方向を示していらっしゃるということなんでしょうか?
 
頼住:  「枠を壊しなさい」というふうに書いてあるのではなくて、読むことによって枠が壊れていくような、そういう文章を作られているということで、これは凄く私たちにとっては、読むこと自体が非常に自分の何か根元的なものに触れるような、そういう体験になるんじゃないかなと思います。それがやはり『正法眼蔵』を読む魅力かなというふうに思っています。
 
金光:  そうしますと、先生の場合は、何十年も読んでいらっしゃるということは、やっぱり最初は跳ね返されることもけっこう多かったということで、
 
頼住:  そうです。最初の頃はほんとに三行読むのに何時間もかかるというような、そういう状態。それでもわからないというようなことだったんですけども、でもわからないながらに大変魅力的な文章で、これが読めるようになりたいというふうに凄く思いました。
 
金光:  面白いですね。要するに本当にわからないんだったら、それ取り付く島がないかと思うと、それだけじゃなくて、だけどわからないけれども、あそこには何かあると。何か道元禅師が一生懸命伝えようとなさっているものが、その言葉の背後に、言葉を通して私たちにも伝わらないわけではないだろうというような、そういう感じを起こさせる部分がちょいちょいあるわけですね。
 
頼住:  そうなんです。道元を読んでいて一番楽しいというか、嬉しいのが、わからなかったところがある時に、ふっと思い付いて、〈あ、こういうことを言っていたのかな〉というふうに、いろんなところとそうすると繋がってきまして、やはりそのことが何ものにも替え難い楽しさと言いますか、日常的に私たちがしている時には感じられないような何かを、そういう時に感じられるというふうに私は考えております。
 
金光:  その世界は、前におっしゃいましたけれども、いろんな関係の中に書くものがそれこそバラバラにあるんではなくて、そういういろんなものがバラバラに存在しているように見えるものが、実はずっと繋がって関連しているというような、いわばばらばらの世界がこう非常に広い世界に繋がって見えてくるというような、そういう世界でもあるわけでしょうか?
 
頼住:  はい。まさに今おっしゃってくださったことが、私の感じていたことを言ってくださったなというふうに思ったんですけれども。非常に開けてくる。自分が狭い中にバラバラに閉じ込められていたのが、こう開けてきて繋がってくる。まさにそういう言葉で言えるような体験かなと思います。
 
金光:  そうしますと、道元禅師がお生まれになったのは、一二○○年だと思いますが、今はもう二○一六年ですから、もう八○○年経っているわけですけれども、時代は鎌倉時代と現代では随分離れているんですけれども、但しそういうご体験をお持ちになる頼住先生は、『正法眼蔵』乃至その他いろんなものに道元禅師のお言葉があるのを読んでいらっしゃると、自分と無縁の世界とは次第に考えられなくなって、生きていらっしゃるわけでしょうか?
 
頼住:  そうですね。勿論距離があると言えば距離があるんですけども、距離がありながら、でもどこかで通じ合うという、そういう体験ではないかなというふうに思っております。それは人間にとって非常にある意味普遍的な世界ではないかなというふうに感じております。
 
金光:  そういう意味では、それこそ生死―生きていることと死ぬことが一如であるとか、まあ仏教の話だと、そういうのがしょっちゅう出てくるわけですけれども、何を言っているのか全然、生きているのが息ができなくなったら死ぬではないかと、はっきりわかるではないかというような次元ではない生き方が、この世の中にも現実にあったんだと。しかも現代でもその世界は通じる世界であるということも言えるわけでしょうね。
 
頼住:  はい。そのように思っております。よく大乗仏教では、海と波の喩えなど使いますけれども、私たちが一つの波だとしたら、その波が波として盛り上がるためには、長い時間、そして広い海の空間が必要で、またその波が盛り上がってまた元に戻っていくという、何かそういう非常に悠久のイメージと言いますか、そういうものの中に生きているんだということを伝えてくれているんじゃないかなというふうに思っております。
 
金光:  そういう意味ではちょっと読んだだけではとてもじゃないけど、歯が立たない文章が多いわけですけれども、それだけにいわば、その二階の奥屋があるというふうに思って改めて読み直してみるというのも、大いに意味があるのかなと思いながらお話を伺いました。どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十八年五月十五日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである