この不毛を乗り越えて
 
                   東方学院講師  (しやく) 悟 震(ごしん)
1947年、韓国生まれ。1990年、駒澤大学大学院人文科学研究科仏教学専攻博士後期課程満期修了。1993年、公益財団法人中村元東方研究所専任研究員に就任。1996年-2004年、東京大学東洋文化研究所協力研究員を兼任。1999年-2001年、東京大学講師を兼任。1988年、東方学院講師を兼任。1997年、スリランカ国立ペラデニヤ大学客員研究員を兼任。2000年、スリランカ国立ルフナ大学客員研究員を兼任。2006年-2009年、駿河台大学文化情報学部非常勤講師を兼任。2010年-2012年、財団法人仏教学術振興会事務局長。2009年-2015年、大韓民国ソウル大学客員研究員を兼任。2009年-2016年、スリランカ国立ペラデニヤ大学客員研究員を兼任。2012年-NPO法人中村元記念館東洋思想文化研究所(島根県松江市)副所長。2013年-公益財団法人中村元東方研究所専任研究員
                   き き て  成 田 由 美
 
ナレーター:  今日は、「この不毛を乗り越えて」と題して、東方(とうほう)学院講師の釈悟震さんにお話頂きます。釈さんは、原始仏教と比較宗教学がご専門で、インドの宗教思想における多元的共存と寛容についての研究などに取り組んでこられました。そうした研究の中で十九世紀後半にスリランカで行われた仏教徒とキリスト教徒との論争についての詳細な記録に出遇いました。果たして異なる宗教の共生は可能なのか。現代の世界に通ずるこの問題についてお話を伺います。聞き手は成田由美ディレクターです。
 

 
成田:  今日は釈さん、どうぞよろしくお願い致します。
 
釈:  こちらこそよろしくお願い致します。
 
成田:  先ずは釈さんは、韓国の生まれということで、釈さんと仏教の出合というものはどんなものだったのか、お話頂けますか?
 
釈:  私は、子どもの時分から仏教が好きというようなことでございまして、〈仏教の生きとし生けるものはすべて同等のものであり、すべてが平等である〉というような仏教の平等的な精神ですね、そこに憧れて十三歳の時に出家をさせて頂いたのが、仏教との出遇いのはじめてでございます。そもそも私はソウル(韓国)生まれでございましたので、私自身の自宅に近くに寺がありまして、よく寺で遊んだりしていて、そういう身近な環境のこともあって、仏教に興味を一早く持っていたということが真実であると思います。しかしながら私の父親は大変旧習的な考え方ですので、〈親を捨てて出家をするなんてそれはとんでもない親不幸者だ〉ということで、私が寺で修行する際に、幾度も父親が私を連れ戻すために訪ねて来られましたんですけれども、そのうち私自身は―多分三回目だと思いますね―三回目には、「今後は一仏教徒としてお出でになるのはいつでも歓迎しますけれど、自分の肉親・親子関係でお出でになるのならこれぐらいにして頂きたい」ということを強く申し上げたら、頑固なお父さんは涙を流しながら帰って行きました。それ以来五十年間一回もお会いしたことはございません。それ以来仏教の修行ということをズーッと続けてやっておりました。これは仏教が、すべてがお釈迦様以来そうでありますように、一番の究極的な目的は悟りを開くことなんですね。悟りを開くと申しますのは、やっぱり神通力を得たりとか、そういうものではありませんでして、〈すべての生きとし生けるものを幸せにさせるために悟りを開くんだ。悟りを開いた後は、そういう一切の生きとし生けるもの、あるいは人間、神々さえも喜ばれるような内容を教えて差し上げるための悟りなんだ〉ということが一番究極の目的。それを仏教の用語から言いますと、「涅槃」だとかですね、「悟り」ということになりますでしょう。ということで、ほんとに文字通り出家ですね。家を離れて肉親までも、もう縁を切って、ただひたすら修行して、という意味で出家をお願いしてまいりました。その上で韓国の方では、男は十九歳で、徴兵制がございますので、今回は行かなくちゃいけないわけですね。その兵役を終わらないと、男は海外へ出られない。その時代でありました。それはちょうど昭和五十二年頃でしたんですね。昭和五十二年頃は、そういう韓国の状況がそういう状況でございましたので、やっぱり実践修行と同時に仏教を現代的に勉強したいと。ということになると、やっぱり日本の大学や、あるいは日本の仏教界において勉強するのが一番よろしいんじゃないかなということを考えました。ということで、昭和五十二年に日本にまいりまして、今日に至っております。
 
成田:  今回は、スリランカで、かつて行われた「キリスト教か仏教か」という宗教論争についてお話を頂くことになっているわけですけれども、この「キリスト教か仏教か」の宗教論争といったものはどういったものなんでしょうか?
 
釈:  これは日本で中村元(なかむらはじめ)先生のご指導とご進言を頂きまして、『キリスト教か仏教か―歴史の証言』という書物を与えて頂きました。これはちょうど今から一四三年前に―一八七三年でございますので、明治六年ですね。明治六年の八月二十六日と二十八日の二日間、セイロン―今のスリランカですね、コロンボから南の方に車で約一時間行ったところにパーナドゥラー(Panadura)という漁村がございます。そこに一万人の群衆の前で仏教とキリスト教徒の間で行われた宗教の教義論争ということで、それを纏めたものがこの『キリスト教か仏教か』(一八七三年八月、大英帝国の植民地支配下にあったスリランカ(英領セイロン)で、仏教とキリスト教の間で行われた、いわゆる「パーナドゥラー論戦」の全記録である。当時のスリランカ仏教を代表する論客であったグナーナンダ長老と、キリスト教宣教師(メソジスト派)二人との公開宗教的論争は、他宗教との融和・共生を目的とした友好的な対話ではなく、あくまでも自宗教の優位、正当性を打ち立て、雌雄を決するための言論による熾烈な戦いであった)の書物でございます。それでこの資料は、学術的、あるいは宗教史的な価値の非常に高いものと学界でよく言われております。この地域の名前が「パーナドゥラー」ですので、「パーナドゥラー論争(Panadura Vadaya) 」と世界的に知られた論争でございます。これは近代宗教史の中において生じた歴史的な知言を取り上げたもので、東洋的寛容思想の先駆的な中村元先生の懇切なるご指導による研究の一端であるということが言えると思います。この論争は当時イギリスによる植民地支配という状況のもとで強引な改宗政策を推し進めるキリスト教会の乱暴なやり方に抗議をするために、仏教側がキリスト教側に提案したということの始まりでございます。
 
成田:  具体的にはどんな内容のことが争われたんでしょうか?
 
釈:  そうでございますね。これは先ず概略的に申しますと、一番目に、仏教の経典とキリスト教の聖書―新約聖書、旧約聖書に書かれている内容に関する矛盾点というものに対して、お互いにその正邪を確認して対論したということでございます。二番目は、その中に書いてある教理ですね、キリスト教の教理、仏教教理のお互いの矛盾点というものを探り出して、それでどちらが正しいかということを争うということですね。三番目はキリスト教側の神様と仏教側の仏様と、神と仏の品格の問題ですね。どちらがほんとに品格があるものなのか。仏教と言ってもここは大乗仏教でございませんので、パーリ仏教―原始仏教そのものですから、これブッダというとお釈迦さまだけの話なんですね。釈尊―ゴータマ・ブッダの品格は果たしてどういう経典で書かれている内容そのものと矛盾しないのかと。お互いに論争したということですね。概略的に申し上げると、霊魂の存在を、例えばキリスト教側が、「仏教の教理では霊魂が存在しないとしているけれども、それではそれは宗教上、あるいは世間社会人に通念上道徳が成立しないのではないでしょうか」と、キリスト教側が仏教側に対しての疑問から始まるわけですね。これに対して仏教側は、「もし、キリスト教の説くような不滅の霊魂が存在するならば、殺人を犯しても別に問題ないということになってしまうのではないですか」という反論をしてですね、「たとえ殺人によって肉体が破滅されたとしても、霊魂が不滅であるから滅せられることなく、人間に不滅の生命あるいは霊魂が存在すると考えることによって、逆に倫理道徳が成立しないことになる」という趣旨の切り返しを、キリスト教側に仏教側がいうわけですね。いわゆる霊魂不滅論が道徳成立するための絶対必要条件であるというキリスト教側の誤った前提を正す形を仏教側はとっているわけですね。また、キリスト教の神の性質について「出エジプト記」二○章五節の「あなたの神、主であるわたしは、妬む神(jealous God)であるから」を引いて、「キリスト教の神が妬みという重大な欠点を持っている以上、全知全能の神でもなく救済の神ともなりえないのではないか、また、唯一絶対の神といっていながら、各地域の神の名を用いて『聖書』が訳されているのは、神の唯一性が多様性をもつということになり矛盾するのではないか」という疑問を投げかける。非常に論理的に、「あなた方が持っている聖書は矛盾しているんだ。だからそれがあなた方の宗教の全知全能的な一番世界唯一な素晴らしい宗教と果たして言えるんだろうか」と。しかし一方においては、やっぱり仏教とキリスト教両方にやっぱり矛盾点というものがありますので、それはキリスト教が今度は切り返して、仏教側に、「仏教では、五蘊(ごうん)―〈色・取・想・行・識〉という人間の五つの構成要素、つまり不滅の霊魂を立てず、人間存在の諸相を説明する概念と縁起という不滅の霊魂を立てずに因果応報という縁起の道理によって倫理道徳の基礎づけがなされている」という考え方に関して、「このような考え(縁起説)を深遠であり、なおかつ難解なものであると考えるのは、これらが今すぐに分からない難解なものであると主張する者(仏教徒)たちだけである。つまりこれらの教えは優れた教えであるという風評だけを聞いて、それを鵜呑みにしている仏教徒たちだけが、これらは優れた教えだと納得しているに過ぎません」と厳しく指摘をするわけですね。教義のさまざまな内容を論争し続ける。二日間ズーッとやる。この論争の模様は、「セイロン・タイムス」に掲載され、後日シンハラ語による単行本として発行、この単行本が英訳される。そしてさらにこの論争は、当時たまたまスリランカに滞在していたアメリカの学者であったピーブルズ(J. M. Peebles)博士によって記録され後に出版された。このような論争をリアルに記録されたものがほとんどないですね。十九世紀にスリランカで実際にリアルに記録されており、今日に世界的に研究の対象になっている。資料的な価値が重要であるということは、学界あるいは世界の宗教史上重要視される資料集であるわけであります。またこれに対して、キリスト教・仏教側両者が、それぞれよって立つ教義と信仰の違いの溝は、この対論で埋めることはできなかったんですね。普通は議論をして溝をどんどん埋まることはできるんだけど、これはまったく平行線のまま終わっている。
 
成田:  この論争にどのような反響を残したものなんでしょうか?
 
釈:  この論争に関しては、いろんなさまざまな評価というものがございますけれども、一応先ほど申し上げたピーブル博士がおっしゃっているように、「キリスト教側の対談者たちは、今や己の判断の誤りを悟り、もはやそれ以上の挑戦をしなかった」とか、あるいは「この時の対論は、キリスト教側の思惑に反し、仏教がキリスト教よりも優れているという印象を参会者一万人の多くの人々に与えるという結果になってしまった」と。討論の報告書は英訳されているわけですね。英語に翻訳されて、その話を聞いて、その様子を聞いた上で非常に大きな影響が及んだということは間違いないわけで、この対論を機に植民地支配下おいて競り合ったスリランカの仏教徒は、自らの信仰や伝統に対する自信を回復して、更にはこの論争が引き金となって新しい仏教の近代仏教運動が世界に広まることになったわけです。それでこの論争は、当時どのような人々に、特に欧米の知識人に受けとめられ、どのように評価されたか。またその後世界の諸国にどのような形で波及していったのか、ということを申しますと、これが論争というのを知ったアメリカのオールコット(Henry Steel Olcott:アメリカ生まれ。神智学協会の創始者の一人で、最初の会長。プロテスタント仏教の始まりに影響を与えた:1832-1907)という、この方はアメリカの南北戦争のとき陸軍大佐で英雄なんですね。オールコットはこの書物を読んで、〈仏教がこんなにキリスト教と違うのか〉ということで非常に自信を持たれた。彼はニューヨークでキリスト教神智学(しんちがく)教会を作った人なんですね。根っ子からのキリスト教徒なんだけども、この論争の見聞を読みまして仏教に転向するわけですね。仏教に改宗をして単身でスリランカに渡って、その時同僚で一緒に仕事をしていたブラヴァツキー(M.H.P.Blavatsky:1831-1891)という夫人と共に一八八○年五月にスリランカに渡って、実際にはスリランカ南部の港町があるゴールへ船でまいりまして、そこの近いお寺で仏教徒としての戒律を受けるわけですね。即ち仏教徒になる儀式を終えるわけです。それでその後、同年六月には仏教徒神智学協会(The Buddhist Theosophical Society)を設立した。この教会は、仏教徒の子弟たちが仏教教育を受けることができるよう、仏教学校設立をめざし、実際にやっております。今でもスリランカに行くと、この仏教徒神智学協会による学校がいまだに運営されております。いまだにそこは英語の教育や、あるいは仏教を英語で学ぶ教育や、パーリ語の勉強だとか社会福祉関係だとか、さまざまな仏教の精神に基づいた教育を未だにズーッとやっております。これはオールコットなりの仏教理解というものを非常に基礎付けられる一つの大きな実際的な運動であったわけですね。彼はキリスト教的な発想で、仏教を近代化に非常に邁進して、多くの教育機関や仏教教団の組織化を行って、その運動は仏教の近代化に大きな貢献をなしております。そしてその中で教育を受けたのが仏教復興運動の指導者になったアナガーリカ・ダルマパーラという人であります。彼はコロンボの非常に富裕層の家庭に生まれて、基礎的な教育はキリスト教系の学校で教育を受けて、それは「パーナドゥラー論争」に触発され、グナーナンダに師事し、オールコットの来訪当初より通訳などで関係を深めた。それは子どもの時にこの論争地には居ていたわけですね。それでオールコットがスリランカに来た時に通訳を務めたりとか、仏教徒神智学教会を一緒に運動したとか、仏教復興運動というのに携わった。インドにおいて仏教の聖地ブッダガヤを仏教徒の手に取り戻そうとする運動をやって「大菩提会」を設立する運動だとか、いわゆる仏教の近代化運動に象徴的な存在になるわけであります。日本から遙か遠い小さな島国で、前世紀に行われたこれらの論争は、決して日本人にとっても無縁とは言えないというところがあるわけであります。それは即ち日本がご承知の通りに明治初めに廃仏毀釈という、大きな仏教側から見ると大変悲しい出来事がございましたんですが、その廃仏毀釈の後、日本における仏教復興運動というものは、草の根から芽がひとりで出ていたということでは決してないわけですね。これがやっぱり仏教が復興するための様々な経緯というものがあったわけです。これは即ちスリランカでこの論争の仏教側の対論者であったグナーナンダというお坊さんが発した起動力が、ついに原坦山(はらたんざん)(1819-1892)をして行動を起こさせたのである。原坦山は幕末から明治期の曹洞宗のお坊さんであり、学者でもあるわけです。この方は東京帝国大学で初めて仏教を日本において公的な大学で仏教を一番初めに講じた先生でいらっしゃるわけですね。だからこの原坦山(はらたんざん)という方は、自分の仏教に対する精神、考え方、帝国大学において仏教を講じる一番の一声というのは、やっぱりオールコットさんや、あるいはグナーナンダ師の精神そのものを述べ始めるわけですね。ここにこの精神に基づいて、自分が帝大において講義をするに当たって、「学問的には、仏教はこうあるべきではないですか」と、第一声として述べるということは、即ち日本の仏教のリーダーが、この論争が波及された影響の一つであるということに繋がるわけであります。まさにこの論争というものは、日本の仏教学会の発展にまで大きな影響を与えてくれたものであるといっても絶対過言ではないということであるわけであります。以上のような南アジアの一漁村で引き起こされたこの論争は、仏教の復興運動を引き起こし、また欧米人に仏教への関心を高めることになったことは、現在世界各地で進められている宗教間の対話が大きな影響と希望を与える一事例としてなるのではないかと私は思うのであります。いろいろさまざまな宗教間の対決、つまり宗教間における厳しい批判を通じて、結果として異なる宗教間の相互理解を深め、更には新しい共生関係を生み出す可能性と、その主義や思想となる異文化の世界や人類において互いのご理解や寛容を持つということは、この論争によっても明らかであると同時に、今なお新しい啓示として生きつつあると思われるのであります。またこれを少し敷衍して申し上げますと、今日ともなりますと、仏教とキリスト教の対話、それは教義の優劣を争う論争はこの意味は失ってきている時代であるわけですね。異宗教間の教義上の対論をする時代ではなくなっております。宗教的な対論は、所詮対論だけの対論であり、論争に過ぎません。前向きで建設的なものは何も生み出すということはないのは、今世界的によく知られていることであります。仏教の伝承では、何をしようとも、そこに対して邪魔をされたくないし、邪魔もしないと、そのような仏教歴史がございます。積極的に他者を批判し、そういうような姿勢は特別の教義と教団を除いてはそんなに強くはないと私は思っております。これに対して一神教や代表的な宗教としてキリスト教とイスラム教などでございますが、体質としては非常に排他性が強いけれども、それでも事態は大きく変化を致しまして、仏教とキリスト教に関する限り限り、もはや対論や論争をする場合ではなくて、対話(ダイアログ:dialog)の時代に今は入っているのはもう周知の通りでございます。事実現在の世界の宗教界でも対話のためのいろいろな努力をそれぞれがなさっております。しかしながら今日の世界の至る国々においては、私がみる限りにおいては、言われるほど対話的なもの、あるいはそのような環境は十分とは思われません。今なお相互の宗教批判を繰り返す事例が数多く見出されているわけであります。これは私としては非常に残念に思っております。結局は人類が恒久的に平和で安穏に生活をするためには、相手を尊重し理解することに尽きることでございます。不毛な争いを越えて共存共生する寛容の道を探るしか道がないのではないかと、私は結論付けるわけでございます。これは即ち釈尊の教えの真髄に戻るということになるのではないかと、私は思っております。
 
成田:  今日は釈先生、有り難うございました。
 
     これは、平成二十八年五月二十九日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである