魂のしぶとさを信じて
 
                東洋大学准教授・哲学者 稲 垣(いながき)  諭(さとし)
1974年、北海道生まれ。青山学院大学法学部卒業。東洋大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。2006年「衝動の現象学 フッサール現象学における感情および衝動の位置づけ」で東洋大学文学博士。東洋大学文学部助教、自治医科大学教授。
                き き て       菊 池  正 浩
 
ナレーター:  今日は、「魂のしぶとさを信じて」と題して、東洋大学文学部准教授で哲学者の稲垣諭さんにお話を頂きます。稲垣さんは、一九七四年、北海道の生まれ。専門は現象学で、人間の心や身体が不安定になった時に、世界がどうように見えているのかを研究しています。大学の講義の中で生きづらさを抱える多くの学生と対話を重ねてきました。聞き手は菊池正浩(きくちまさのり)ディレクターです。
 

 
菊池:  先生のご専門が、「現象学」ということですけれども、簡単にお話頂くと、どういうことになりますでしょうか?
 
稲垣:  「現象学」という学問は、十九世紀末から二十世紀の初頭にドイツで生まれた現代哲学の一つなんですけども、心の問題、取り分け僕が研究をしているフッサール(Edmund Husserl:ドイツの哲学者。現象学の創始者。数学の研究から出発し、心理主義を排して純粋論理学を提唱。のち厳密な学としての哲学を目指し、先験的意識の本質構造に基づいて対象をとらえようとする現象学に到達。ハイデッガー・サルトルらに強い影響を与えた:1859-1938)と呼ばれる現象学を作った人なんですが、〈人というのは、意識がどうやって世界と関わっているのか〉それを基本的なテーマとしてやった人ですので、もう少し分かり易くいうと、〈心と世界、あるいは自分―私と世界が意識という現象を通して、どう繋がっているのか〉ということを明らかにしようとしている学問なわけです。通常、僕たち何気なく生きていると、心と世界が関わっているなんて意識もしませんし、気付いたりしないんですけども、そうなってくると、今度逆に病気ですね、例えば身体が不自由になってしまったり、あるいは精神の苦しみを抱えている人たちからみると、やっぱり世界と私が関わっていくあり方が、普通に生活している人と大分異なってくるということがわかりますので、むしろ健康な心というか、安定した心を明らかにするために、むしろ〈病気を抱えている人たちからしか見えてこない世界というのがあるんではないか〉ということを、現象学を研究しながら考えるようになって、それだけ最近はリハビリテーションの現場、殊に脳梗塞とか、脳卒中とか、さまざまな障害、麻痺なんかを抱えている患者さんが、どういうふうに世界を見ているのか。例えば「片麻痺」と言って、実際に左手があまり動かない、麻痺をして痺れている患者さんなんかがいますけど、その患者さんって、動かない手を物のように扱う。つまりテーブルの上にドンと置くんですね。自分の身体だのに、物のように扱っていて、で、聞いてみるんですよ。「今その手をドンと載っけたけど、あんまり自分の身体という感じはしないんですか?」と聞いてみると、「もう厄介だと。こんなものなくてもいい」とか、そういうことを言ったりするんですね、その患者さんが。ただリハビリのプログラムで実際に訓練をしていくと、身体の麻痺が少し回復してきて、例えば自分の手の重さみたいなものを感じるようになってきて、今度は「自分の手が重くて辛い」と言うんです、患者さんが。ただよく見てみると、あんまり手をぞんざいに扱わなくなってきたりするんですね。そうすると、〈あ、自分の身体の一部分が戻ってきた〉というような―本人はそういうことを言わなくても、外から見ていると、あ、なんか自分の身体との関わりが変わってきて、世界に出ていく。世界と関わる際にも、そのことはちゃんと反映されるようになってきたり、つまりやっぱりそういう病気を抱えながら、その中に生きて世界と関わっていくことでしか見えてこない経験というのがたくさんあるということがわかって、実際の現象学という学問というのは、さっき言いましたが、世界と私がどう関わっていく、その関わりの多様性みたいなことを明らかにする学問なんですけれども、こういう分析というのは、これまでやられてきてないな、ということもあって、今ここまできているという感じですね。
 
菊池:  どういうふうに講義を進めていらっしゃるんでしょうか?
 
稲垣:  「今日の講義で話したことを、何でもいいから、とにかく自分の身近な経験と対応付けてみてほしい」ということを言ってですね、それで「リアクションペーパー」という紙に書いてもらうようにしたんです。そうすると、そこには的外れなものもあったりはするんですけど、ほんとに凄い事例があったりもするんですね。あ、こんなふうにして世界を捉えていたんだ。まさにそれというのは現象学をやることと同じなんだという、そういう回答があったりした場合に、翌週そのリアクションペーパーの内容、それを学生にまたフィードバックすると、今度はそれに応じて、また次の時にはもっと興味深いというか、面白い視点からの事例が出てきて、例えば非常に簡単な事例からいうと、「私は感情を抑えられず、学生同士でも喧嘩をしてしまう。その時には実は相手を殴ってしまったこともあるが、殴ったことに痛みはないんだと。実際に家に帰った後から、手の痛みが出てきて、それと共に後悔がドーッと押し寄せてくる」とか、まあこういうなんというか、ちょっと告白めいた話みたいなことから、もっと深刻なものになってくると、「自傷行為(じしようこうい)」といって、自分で手首とか、肩とか、そういったものに傷を入れると。で、「自分でも止めたいけれども、どうすれば止められるかわからない」という。ただその中で同時に「自分の身体に傷を付けることの中で、自分は生きていることを確認するんだ」とか、そういった意見が出てきてですね。
 
菊池:  自傷行為というのはリストカット(手首を切る自傷行為を指す言葉。手首(wrist)を切る(cut)をことから造られた和製英語)とか、リアクションペーパーに書いてくるわけですか?
 
稲垣:  はい。「そんなことを書きなさい」とは一言も言っていないんですけど、例えば講義のあるテーマの流れからでいうと、「私はこの経験しかないんだ」と言って、その自傷行為―リストカットの話を書いてきたり、あるいは嘔吐ですね―実際は「摂食障害」というふうに言われたりもしますけれども、食べたものをとにかく吐くという、そういったことを告白してくる学生が出てきたり、という形になっています。基本的に同じ行動を取ることの中で、やっぱり僕たちの日常もそうなんですけど、同じ職場に行って、同じ信用できる人たちと会話をして、その同じ部屋に帰って寝るという。ある種の反復を通す中で、心というのは、ある意味での安定を取り戻すことができるわけですね。じゃ、安定を作るものは何なのか、というのはおそらく人によって固有ですし、仕事なのかも知れませんし、趣味であったりするのかも知れませんが、その中で癖というのもありますよね。やっぱりその人個人は、貧乏揺すりもそうですし、爪を噛むというのもそうですが、あれをしている時って、ほんとはしなくていい筈なんですけど、している時ってなんか落ち着きを作り出すことがありますね。ですから心と、例えば世界の関係を明らかにするという時に、不安だったり、苦しかったりすると、その心と世界の繋がりをこう揺れ動いてしまう中で、もう一度安定を取り戻すための、ある種の生存のための戦略みたいなものがあるだろう、ということを考えていて、その場合に反復する行為というのは、大きな安定を作るための手掛かりになっているんじゃないか。だとすると、つまり安定を作るところまではいいんですが、自傷行為であったり、あるいは吐き続けてしまうとか、この安定は、安定は安定なんですけど、次ぎに繋がる安定ではないですよね。どちらかというと、自分の身体を傷つけるわけですし、これを別の安定状態にもっていくということは、何なんだろう。どのような形にすると、今の形とは違う安定状態になるんだろう、ということを、これは医学部で勤めていたというのもありますので、精神科の先生方、あるいは臨床心理士の先生方なんかと一緒にですね、まさに研究をしている最中ということになっています。
 
菊池:  リストカットであったり、嘔吐を繰り返す。それは安定なのかというような思いもあるんですが、
 
稲垣:  本人は知らない。ただその時その時できることをやっているんですけど、ちょっと長期的に見てみると、どうも型を反復しながらやっているという。この反復を止めると、多分その人にとってはもっと大変な状況にいくんだろうという意味での、だからなんか褒められるべき、ほんとに推奨されるべき安定ではないのは確かなんですけど、それをやる中でなんとかここまで来ているんだという、そういう意味での安定ですね。実際そのことを他者に伝えたり、そういったことを専門的な、ある種の専門家と一緒に試みを行っている人たちもいるんですけど、多くの場合は、「この行為なんかはそうですけど、初めて言います」とか、ですので、「公表する時は匿名でお願いします」とか、そういったこともあって、その時になんというか講義の中で一つそういう事例として使って貰えるということ自体が、その学生にとって、ああなんかこのことを伝えてもいいんだと。かつなんかそのことに共感をしてくれる他の学生もいるんだという、なんかそういう繋がりができたり、で、ある意味でそのことを直接僕に言ってくる学生もいたりして、本人一人でしかなかったその破滅的な方向に進んで行ってしまうような安定状態を、誰か一人でもその話を聞いてくれたり、あるいは講義で他の学生からのリアクションがあったりすることで、ちょっとずつ変化していくというのもあるというのも、実際学生がそう言っているという部分もあって、取り分け大学の授業に出て、講義を聞いて、リアクションペーパーを書く、というぐらいの日常生活が送れている、ほんとに正常とも、病気とも言えないグレーゾーンの中で必死に生きている者たちがこれだけいるんだ、ということが講義の中でわかってきたというのがあって―哲学ですからその学生と一緒に問いを立てていくということをこれまでやってきていることですね。僕はそれをしたいというよりは、学生と一緒に考えていると、自ずと距離が取れるような方向性が出てくるという場面があって、こういうことをいうと多分学生は頭がいいですから、すぐ役だっていくというのがあるというのが一つと、あともう一つは、僕の研究にかかっているある意味学生から学ばせて貰っている部分が多くて、こういう生き方というか、世界との関わりがあるんだという、これもあまり言葉にはしたくないんですけど、尊敬ではないんですが、凄いなという感じですね。そういうことが学生に伝わっているのかわかりませんけど、だから学生も応えてくれるんではないかという気は、今していますね。そこにやっぱりカウンセリングとか、医学的なある種の制度に載っかってしまっていることとは違うですね、人と人との交流という部分があるんじゃないかという気もしています。
 
菊池:  ご著書の文章の中で非常に心に残るのが、「最後に大切になるのは心でも身体でもない。魂のしぶとさだ」という、その言葉が非常に印象に残るわけなんですけれども、「魂のしぶとさ」というものをどうやったら、人は獲得することができるだろうかというふうに思うんですが?
 
稲垣:  これもとても難しい問題なんですけれども、哲学の歴史の中で「魂」という言葉というのは、やっぱりズーッと残り続けてきていてですね、これ「心でも身体でもない」と言いましたけど、これもほんとは難しいんです。非常に心とも近い言葉でもありますけれども、例えばネズミとか、動物でもしぶといネズミと、そうじゃないネズミというのがいたりするんです。それは何かというと、実験の中で、ちょっと可哀想と言えば可哀想なんですが、溺れさせるような実験をする中で、すぐあきらめるネズミと、あきらめずにズーッとなんというかそこから池みたいなところから、とにかく這い上がろうとするネズミがいたりするんですね。その場合にこの違いというのは何かということを考えていった場合、身体だけでもないし、心だけでもない。その生きていること丸ごとというような意味合いを考えた時に、やはり「魂」という言葉が残ってきたんじゃないか。それで魂というものがよりしぶとくなるためには、あるいはより逞しくなるためには、どのようなことが必要なのか、ということを、この学生も話もそうですし、リハビリテーションの現場でもそうですし、最近は精神疾患で苦しんでいる患者さんと共にちょっと考えていきたいという。そちら側の方向にいったというのが大きな流れとしてあります。
 
菊池:  その中でも「Resilience」という言葉を、先生は非常に使われていると思うんですけれども、「快復力」という英訳される言葉なんでしょうか、魂のしぶとさと、「Resilience」のことについてちょっとお話頂きたいと思うんですが。
 
稲垣:  もともと何を考えようとしていたかというと、「健康って一体どういうことなのか」ということを考えようとしていて、健康な条件ということを考えると、なかなか難しくて、よく考えるのは病気でないことぐらいなんですけれども、病気でなければそれで健康なのかと言えば、なかなか難しい。例えば身体に病気はなくとも、劣悪な環境にいたら、その人は健康と言っていいのか。つまり健康であることの中には、実は病気を持つ持たないだけではなくて、どのような環境で、その人がどのような能力を上手く発揮できているか。だから慢性的で、ちょっと大変な病気を抱えている人も、非常に生き生きとして働きながら生きている人もいるわけで、そういう人って健康なんじゃないかと思えるわけですよね。その場合の、じゃ健康ということを取り出す、上手く理解する際に、「Resilience」という概念が、これも二十年、三十年ぐらい前から使われている言葉ではあるんですけど、「回復力」とか「復帰力」とかというふうに訳されたりもしますけど、こういうことなんですね。一方で非常に固い頑強なものがあって、他方で非常に弱い脆い脆弱なものがあって、このどちらでもない部分をなんとか特徴付けようとしていて、頑強なものというのは確かにちょっとやそっとの衝撃では壊れないんですけど、ある意味での脆さを持っていて、どっか一箇所にひび割れみたいなものができると一気に壊れていってしまう。それに対して脆弱なものというのは、ちょっとした刺激でも揺らいでしまって、それで壊れていってしまうものであるのに対して、「Resilience」というのはどういうことかというと、「壊れてもいいんです」という話なんですね。問題はただ「壊れてもいいんです。戻って来れれば」ということなんです。だから「ちょっと揺らいでしまっても、また戻って次ぎに進めるようになるという」そういったものとして特徴付けられないかという部分があってですね、やっぱり人生を生きていると、いろんな物事にぶち当たって、苦しんだり、落ち込んだり、辛い思いをすることがあるけど、でも「また進めるんだ」という、こういうところに戻ってこれるかどうか。ここの部分を特徴付ける指標として「Resilience」という言葉があるんですね。これなかなかほんとに難しいんですけど、高齢者でどんどん歳を取っていくと、同じ八十歳でも全然こう違う八十歳という生き方があって、一方で例えば八十歳になっても岩に登ってクライマーみたいな人がいたり、例えば海外旅行を楽しんでいたりというお年寄りの方がいる他方で、やっぱりなかなか家から出ることができない。家から出るとしてもいろいろなものが億劫になって、家の周辺の何百メートルというところを生活圏として生きてしまっている人もたくさんいてですね、この違いって一体どこにあるんだろうということの中に、やはり選択肢ではないんですけど、その人が今年なんとか一年の中で、自分はこれができるようになったとか、これはできなくなってしまったとか、そういったことの選択肢の幅のようなものがあって、この幅というのがどれだけこうなんとか豊かにもっている人とですね、あるいはそれがどんどん縮小していってしまう人がいるということが、なんとなく非常に大きな問題としてあるんじゃないかという気がしていまして、典型的には、「あれだけが自分の支えだった」といって、何かそれができなくなってしまうと、もうなんとか次ぎに進めなくなってしまう人と、「あれはできなくなってしまったけど、今度あれを見付けちゃった」といって進んでいける人がいて、その場合に常日頃からなんかああいうことも自分はできるなとか、選択肢を見付けていけるなんかしぶとさじゃないですけど、いつでもなんかいろんなところに自分ができることがないかということを探して生きていく人と、そうじゃない人の大きな分岐点があるんじゃないかという気がしていまして、ですから学生もそうですし、患者さんもそうなんですけど、その人が生きていることの中では見えなくなってしまっている選択肢とか、可能性や能力というのが、多分どんな歳を取っていようが、若かろうが、同じような問題として残っていて、そこに対して問いを立てながら選択肢を見付けていけるかどうかというのが、健康、つまりResilientな健康というところの問題に繋がっていく筈だと。それが少しずつ自分でも、あるいは大きく人の協力の中でできること自体が、魂のしぶとさみたいなことに繋がっていくんではないか、ということを原則として考えながら、今研究をしているということになっています。例えば過食嘔吐という、とにかく大量に食べては吐くということを繰り返している学生がいて、止めたいけれども止められないという学生がいる際に、吐くって相当体力がいるわけですよ。「今ここで吐いてみよ」と言われても、そう簡単に吐けないじゃないですか。ただズッと過食嘔吐を繰り返している学生なんかに、「僕にとっては、吐くって相当大変やけど、どうなんですか?」と聞くと、「もうそんなことはない。トイレの便器を見て口を当てて、ある体勢をとると、けっこう自動的に出てくる」というんです。それほど苦にもならないという。そうだとすると、そんなにほんとに吐く必要があるんだろうか。とにかく出せばいいだけの話なのかどうかということで、「ちょっとじゃ吐く際に、今週いっぱいは濃密な嘔吐をしてみてほしい」と。それから一週間に何度か吐くということを言っていた学生に対しては、「今週一回だけ濃密な嘔吐をして貰いたい。その代わり二週間は吐いちゃいけない。それぐらいの思いを込めて吐いてみてほしい」という。そんなことを言ってみると、「できるかなぁ?」とかと言って、「でもやってみます」というふうに言って、次の週の講義の時にやって来るんですけど、「やってみました」と。「今週一週間は吐いてない」というんです。「ただ濃密かどうかわからないから吐いちゃうかも知れない」と言って。「ただ濃密に吐いたり、希薄に吐いたりとか、そういうこと考えたこともなかった」といっているんですね。そういう経験を一つでもすることが、何かに繋がっていくんじゃないか。これまでただ単調に、「あ、吐きたいな」と言って吐いていただけの中で、「そうか。今日はじゃ濃密な吐きをやってみよう」とかですね、そういうこれまで考えたこともないし、やったこともなかったような経験が、かつ学生にとって無理のない、これぐらいだったらやってみるか、みたいなところのうまい問いと共に選択肢ができるかどうかというのが大きいんではないかという気がしていますね。学生が持っている、これまで持ってきた、あるいは行ってきた選択肢の境界のさらに一歩先って一体何なんだろうという、ぎりぎりの一歩先って何なんだろうというところで考える癖が付いてきた。それぐらいいろんなことをやって、それでも上手くいかないんだという学生が多いので、
 
菊池:  魂のしぶとさ、心のResilientというものを、やっぱり多くの人が少しでも前に一歩進んでほしい。どんなふうに後押ししてあげられるかということをちょっと考えるんですけれども。
 
稲垣:  いや、これはほんとに明確な答えがあるような問題ではなくて、ほんとに哲学の歴史の中でもズッと考え続けられてきた魂の平安というか、安らぎみたいなものを求めるというのは、ズッと残っている問いなので単純な答えはでないんですけれども、ただやっぱり人間―この社会の問題もあるのかも知れませんけれども、どうしても不必要な苦しみというか、不必要な深刻さみたいなものを抱え込んでしまう。そういった部分がやはりあるんではないかという気がしていて、例えば一週間後に試験なんかの発表があるとしますよね。そうすると、その一週間〈受かったんだろうか、落ちたんだろうか〉とズッと悩んで苦しむ人が多いと思うんですけど、悩んだり苦しんだりすることによって、もし成績が上るなら悩んだり苦しんだ方がいいに決まっているんですけど、変わらないですよね。そうだとすると、その一週間はとにかく苦しむこととは別のことに時間を活用した方が有意義で、実際結果が出て、受かったら喜べばいいし、落ちたらそれだけ悩めばいいわけですよね。でも多くの人はそれが難しいわけじゃないですか。でも学生はずっと考え続けてしまう。こういう場合に、自分のこの苦しみはある種の武装の苦しみなんだろうか、という問いを持てるかどうかというのは非常に大きくて、ほんとに身近な人が亡くなってしまったり、深刻になって、その人の死を受け入れる。例えば実際に死を受け入れる期間がある時というのは、深刻に受け入れる中で、その人が死んでしまったということを少しずつ少しずつ身体に馴染ませていく。そういう必要な苦しみと、ほんとに今この自分で持っている苦しみというのは、ここまで強く、あるいは激しいものとして引き受けるべきなのかというのは、いつでも考えなければいけないことだと思うんですが、ここがわからなくなっていって、かつそれを繰り返していくと、どんどん不必要な苦しみを抱え込む生き方になっていくという思うんですね。そういうものをほんとは自分自身で吟味しながら、ここまで苦しむ話じゃないよな、というふうに思えるかどうかという部分が非常に大きくて、その際に濃密な、さっきの吐き気みたいな話とも繋がるんですけど、ちょっとその中にユーモアが入っているんです。で、それを言った時、その学生と僕は二人で笑え合ったんですよね。この感じというのが、実はその深刻さや辛さや苦しさから、少し距離を取る一つのある種の処方箋と言ってもいいぐらいの大きななんか手掛かりだと僕は思っていて、だからそういうことを積み重ねていく中で自分のこれまでの苦しさの積み重ねとは、違う積み重ね方を、ちょっとずつちょっとずつしていくということが重要なんじゃないかという気はしています。
 
菊池:  今日は有り難うございました。
 
     これは、平成二十八年六月五日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである