日蓮聖人からの手紙B臨終を迎える信徒への手紙
 
                    立正大学教授 北 川(きたがわ)  前 肇(ぜんちよう)
 
ナレーター:  シリーズ「日蓮聖人からの手紙」、日蓮聖人が遺した手紙を、毎月一回、十二回にわたって読んでいきます。第三回は、「臨終を迎える信徒への手紙」と題してお送りします。お話は立正大学教授の北川前肇さんです。
 
北川:  日蓮聖人は、伊豆流罪が赦免されました翌年、即ち文永(ぶんえい)元年(1264年)、四十三歳の秋、亡き父の墓参、あるいは齢を重ねた母親への見舞い、そして恩師道善房(どうぜんぼう)へのご挨拶を兼ねまして故郷の安房国(あわのくに)(現在の千葉県)東条(とうじよう)の郷(ごう)(鴨川市)を訪ねられました。勿論信徒の天津(あまつ)の領主工藤吉隆(くどうよしたか)やこの地の信徒への教化活動を目的とされていました。けれども、東条の郷の地頭であります東条景信(とうじようかげのぶ)は、長年の怨みを晴らすために聖人の帰郷を待ち望み、命を奪おうと狙っていたのであります。この東条景信は、清澄寺(きよすみでら)周辺に棲息しております鹿等を狩りをし、また清澄寺の山内に住む僧たちを念仏者に改宗させ、さらに北条幕府の権力を盾に従来の荘園領主の土地を横領し、自己の支配下におこうと企んでいたのであります。即ち聖人が出家・得度されました清澄寺や同じ地域の二間寺(ふたまでら)も含まれていました。聖人は二箇寺を守ること、あるいは聖人の両親が御恩を蒙っておりますことから領家側に味方をされ、荘園の領主へ土地が戻るように北条幕府へ訴訟を起こされ、その結果地頭の野望は砕かれ、二箇寺はもとの荘園領主の側に戻ったという出来事がございました。これらの事件は、聖人がお題目を称え始められました建長(けんちよう)五年(1253年)の頃であったことが、清澄寺の浄顕房(じようけんぼう)や学匠たちに与えられました手紙の一節から伺えるのであります。聖人の帰郷は、立教開宗から満十年目を迎えていましたから、東条景信はこの訴訟に破れた怨みを抱き続けていたとしても不思議ではありません。しかも聖人は、立教開宗の折、仏教の教主釈尊を中心とする仏教観のもとに「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えることを勧められておりますことから、念仏の信仰者でありました東条景信が、信仰上の怨みを抱いたと致しましても当然のことでありましょう。立教改宗後、聖人が清澄寺を下りられるきっかけは、景信等が師範道善房に圧迫を加えたことによるとも伝えられています。これらのことから、東条景信にとって、一つには世俗的権力の拡大を日蓮聖人から阻止されたということ。二つには西方の教主阿弥陀仏への信仰は誤りであることの批判を受けていることなどから、宿年の仇がそこに存していたものと推察できるのであります。そして東条景信は、十一月十一日の夕方、午後五時頃、日蓮聖人の一行十人ほどの集まりでありますが、その一行を襲うことになります。今日の暦では十二月の初めに当たりますから、関東地方にあっては日没から既に一時間ほど経過していたものと思われます。聖人一行十人のうち、三、四人は在家の信者で、残りは出家の弟子でありましたから、武器を持った景信一行にとっては容易に目的を果たせる状況であったと思われます。この襲撃によって弟子の一人はその場で即死、二人が重傷を負い、聖人ご自身も頭に傷を受け、左手を骨折するという状況で、この時聖人ご自身は死を覚悟されましたが、信徒からの援護もありまして危機を脱せられたのであります。これを「小松原法難」あるいは「東条法難」と称しております。聖人はこの法難後、傷を癒やされるために暫く小湊(こみなと)の地に滞在されますが、その地には後に聖人の弟子寂日房日家(じやくにちぼうにけ)(1258-1315)によって一寺が建立され「日蓮寺」と称し、御法難の養生の跡として護られてきております。ところで聖人が傷を癒やされるために小湊に滞在されていました折、一人の男性信徒が重病の床にあるとの知らせが届けられました。彼は、南条兵衛七郎(なんじようのひようえしちろう)と称し、鎌倉幕府の御家人として鎌倉に出仕の折、聖人に出会い、念仏信仰からお題目の信仰へと改めた人物であります。南条氏の出身地は、伊豆国田方郡(たがたのこおり)南条(なんじよう)(今日の静岡県伊豆の国市)であったと考えられ、同じ北条の地にありました北条氏と、出自(しゆつじ)は同じであります。兵衛七郎が聖人と出会った頃には既に駿河国(するがのくに)富士郡(ふじのごおり)上野郷(うえののごう)(今日の静岡県富士宮市)に移り、地頭職として上野の郷の領主でありましたことから、聖人は彼のことを上野殿(うえののとの)あるいは殿(との)とも呼称されています。聖人は、南条氏が重い病気に罹っているとの知らせを受けられましたことから二十紙を越える長文の手紙を与えられることになります。その奥付には「文永元年十二月十三日」とありますから、小松原法難後およそ一ヶ月後であったことが知られます。そしてこの長文の手紙は、先師の研究を参考に致しますと、三つの章に分けることができます。先ず第一章は、南条氏が病気であるということから、そのお見舞いと同時に、私たちがこの世に命を享けている以上、死は必ず訪れるものであることから、死後の世界、即ち後生(ごしよう)の宗教的な安らぎをしっかりと定めるようにと教示されているのであります。第二章では、私たちがその後生の安心(あんじん)を得るためには、私たち自身のはからいでは決して達成できるものではないという立場から、日蓮聖人独自の仏教観、即ち聖人の法華経信仰に基づく私たちと法華経との有機的連関性が述べられることになります。これが日蓮聖人独自の教範である「五義判(ごぎはん)」であります。最後の第三章は、日蓮聖人自ら若き日に念仏信仰の誤りに気付き、立教開宗以来法華経信仰を貫いてきたことを記されているのです。けれども、その法華経信仰生きることの難しさを、去る十一月十一日の夕方、東条景信から受けた襲撃の有様を詳細に記され、それをもととして、「病床にある南条氏が法華経信仰を貫徹することによって、いわゆる今生の只今受けている病気平癒は勿論のこと、死後は必ず釈迦牟尼仏の在す浄土へと参られることを保証され、もしも病気が治ることがあれば一刻も早く対面して、直接に法華経の教えをお伝えしましょう」と記され、筆が置かれているのであります。では改めて南条氏に対する聖人の心の行き届いた手紙を拝見してみたいと思うのです。第一章から順次に辿ることに致しましょう。先ず南条氏宛ての手紙は、次の文章で始まります。現代語訳でご紹介致します。
 
(貴殿が)ご病気であると聞きましたが、本当のことでありましょうか。
謹んでお見舞い申し上げます。この世のすべては移りゆくものでありますから、私たちが仮に病気にも罹らず健康であったとしても、死を免れることは決してありません。まして病を得ている人は言うまでもありません。では無常の世に命を享けている私たちにとってもっとも大切な生き方とは何かというと、道理のわかる人は自己自身の死後のこと、即ち死出への旅立ちの後、往くべき所をはっきりと思い定めておかなければなりません。
 
このように手紙の冒頭には、南条氏の病気見舞いと人生の最重要課題が、死後の安心にあることを単刀直入に記されていることを知るのです。ではこの一節を改めて原文でご紹介致しましょう。
 
御所労(ごしよろう)の由(よし)、承り候ふはまことにてや候覧(そうろうらん)。世間の定めなき事は病なき人も留まりがたき事にて候へば、まして病あらん人は申すにおよばず。但し心あらん人は後世(ごせ)をこそ思ひさだむべきにて候へ
 
私は学生時代から今日までこの一節を拝読してまいりましたが、この一節から受ける印象は、聖人が人生を見詰められる透徹した眼と南条氏に対する聖人の深い愛情がその文章から感じられるのであります。この文ののち聖人は次のように綴られます。ここから第二章へと移ることになります。
 
又後世を思ひ定めん事は私にはかなひがたく候。一切衆生の本師(ほんし)にてまします釈尊の教えこそ本(もと)にはなり候ふべけれ
 
即ち道理に目覚めた人の大切な要件が、自己の死後をしっかりと見定めることであるとすれば、一体どのような手立てによって、それは達成できるのでしょうか。自己自身の才覚によるべきものであるのか、と尋ねてみますと、聖人ははっきりと自己の死後について思い定めるということは、私自身の能力では決して成就するものではありません。生きとし生けるもの、即ち一切衆生の根本の師範であります釈尊の説き遺された教えこそがその本(もと)となるのです、と断言されています。既にご紹介致しましたように、聖人ご自身が自ら出家・得度されて、その目標とされた理想的な姿というのは、仏教の教主釈尊の御心を知れるものとして、末法の日本国の人々を宗教的な安らぎの世界に導くものとなる、ということでありました。つまり聖人は、生きとし生けるものにとっての最高の価値が存するのは、釈尊の御教えであると定められていることを知るのです。そこには、釈尊と私たち、あるいは釈尊の教えと私たちの生き方とを相対化した時、改めて申し上げるまでもなく、仏教の教主釈尊、あるいはその教えこそが、宗教的な絶対的価値を持っていることを知るのであります。では改めて、聖人が末代凡夫の自己の限界性を強く自覚され、後生(ごしよう)思い定めることの根本は、釈尊の教えによらなければならないと断定されることの意味内容を、ここで少しく尋ねてみたいと思うのです。そもそもインド、あるいは西域で編纂されました仏教経典が、紀元後一世紀に中国へもたらされ、漢語に翻訳されることになります。それらの経典は、今日的な表現を致しますと、種々の思想内容が含まれております。決して一つの立場から全体を包括することは不可能でありましょう。このように経典の内容が多岐に渡っていますことから、この教え全体をさして、伝統的には「八万法蔵(はちまんほうぞう)」と申し上げたり、「八万四千(はちまんしせん)の法門(ほうもん)」と称しているのであります。勿論これらの経典が多く存することは、この世に生存している私たちの苦悩や宗教的課題というものが、それぞれに分かれているからに他ならない、という解釈が生まれてくることになります。勿論それらの経典が、ブッダ世尊の説かれたものであるという解釈には、仏教の具えている原則として「三法印(さんぼういん)」あるいは「四法印(しほういん)」という真理が大前提となっております。ところで日蓮聖人の著作やお手紙を拝見しますと、これらの多くの経典を信仰的示唆のもとで、どうように受け止めるべきかという課題を設けられている時、一つの立場として中国の南北朝時代の梁(りよう)・陳(ちん)・さらには隋の時代に活躍されました天台大師智(ちぎ)(中国の僧侶。天台宗の実質的な開祖であるが、慧文、慧思に次いで第三祖とされている:538-597) が立てられました仏教経典の位置づけ、即ち教相判釈(きようそうはんじやく)(仏教の有機的秩序立て)を根本の拠り所とされていることが知られるのであります。それは一語で表現致しますと「五時八教判(ごじはつきようはん)」と呼ばれるものであります。即ち天台大師は、大師が閲読されましたすべての経典―お経の典籍でございます―その一切の経典を釈尊の生涯にわたる教えであるという前提に立たれまして、そこに順序次第があるという解釈を施されるのです。勿論天台大師が、このような「五時八教判」を想定される背景には、天台大師以前勝れた仏教の研鑽者がありまして、おれぞれの教相判釈、即ち今日的な表現を致しますと、どれぞれの思想的信仰的な立場から仏教観を主張されていたのであります。それらを詳細に検討されました結果、天台大師は十人の勝れた学匠たちの説を総合する形で「五時八教判」を立てられたと言えるのです。日蓮聖人はこれらの先師たちを中国の南方に位置する学匠たち三人、洛陽や長安の北方の中国で活躍される学匠たち七人をさして「南三北七(なんさんほくしち)」と称されています。そして天台大師の立てられた@華厳時(けごんじ)A阿含時(あごんじ)B方等時(ほうどうじ)C般若時(はんにやじ)D法華涅槃時の五時、あるいはそれぞれに説かれています華厳部、阿言部、方等部、般若部、法華涅槃部の五部の経典の部類分けに基づいて、第五番目の法華涅槃部の経典、その中でも法華経を最上の経典として位置づけられているのです。そこで聖人はさらにこの法華経が今末法の日本国に生きる私たちと、如何に深い関係性を有しているのかを五つの範疇(はんちゆう)、即ち「五義(ごぎ)」に分けて実証しようとされているのです。ところで聖人が、「五義」即ち五つの道理、五つの法則と明記されている著述は聖人の伊豆流罪中に著されました『顕謗法抄(けんほうぼうしよう)』に、
 
夫れ仏法を弘めんと思わん者は、必ず五義を存して正法を弘むべし。五義とは、一には教、二には機、三には時、四には国、五には仏法流布の前後なり。
 
とはっきり示されています。天台大師の「五時八教判」が、釈尊ご一代にわたって説かれている教えの内容を、法華経の立場から思想的信仰的に分析されているのに対しまして、聖人の「教、機、時、国、仏法流布の前後」の「五義」は、法華経という経典、即ちその教えが、末法の「機」、末法の「時」、末法の日本国に如何に有縁の教えであるかを説示され、五番目の「仏法流布の前後」即ちこれを「序」とも称し、末法以前、聖人が法華経を弘められる以前に、どのような教えが広まっているかを確認し、それに続く今の世に法華経の教えが広まるべきか、客観的に述べようとされていることが知られるのであります。ところで、病床にある南条氏宛ての手紙に、後生(ごしよう)を定めるために、釈尊の教え、分けても法華経の教えが、今の私たちにとって欠かせない教えであり、凡夫の私たちが救われる教えであるのかを、「五義」の面から説かれていることは、南条氏が聖人の伊豆流罪以前、聖人の居住されている草庵において、直接にその法門を聴聞していたことを物語っているのであります。今「五義」の詳しい内容につきましては、ガイドブックをご参照頂くことに致しまして、この「五義」が説示されましたのちの文に注目したいと思います。現代語訳でご紹介致します。
 
ただし、貴殿は、私(日蓮)から、この五義を聴聞されて、念仏信仰を捨て、法華経を信仰されるようになりました。しかし、もしかしたならば、上野郷へ帰られた今は、法華経信仰を捨て、念仏信仰に戻られたのではありませんか。
もしも、法華経を捨てて、念仏信仰者となられたとすれば、あたかも峰の石が谷へころげ落ち、空から雨が大地に落ちることと同じであるとお思いください。無間地獄(むげんじごく)(阿鼻地獄(あびじごく))へ堕ちることは間違いありません。法華経の「化城喩品(けじようゆほん)」には遙かな昔(三千塵点劫(さんぜんじんでんごう))の以前、大通智勝仏(だいつうちしようぶつ)の時代に、法華経の教えを頂いたと説かれ、また「如来寿量品(によらいじゆりようほん)」には五百億塵点劫の久遠の昔に、久遠のみ仏から、仏となる尊い仏種を植えて頂いたと説かれていますが、今日まで成仏できずにいるということは、大いなる悪い導きの師(悪知識)に出会い、法華経を捨てて、念仏等の方便の教えに心を移したからにほかなりません。貴殿の一族であります南条家の人々は、念仏者でありますから、きっと念仏を勧められることでありましょう。自分の信じている教えでありますから、すすめるのは当然でありますが、悪魔に魅せられた法然聖人一門に惑わされている人たちである、と思って、法華経に対して、大いなる信心を起こして、けっして、念仏の教えに心を寄せてはなりません。正しい教えが広まることに対しては、障りをなす大悪魔は、貴い僧や父母兄弟等にとりついて、正しい信仰者がこの世、そして死後の世界を定めるために仏を求めていくその課程において、大いなる障害となるのです。そこで如何なる誘惑があったとしても、あるいは法華経を捨てなさいとだますようなことばがあったとしても、けっして、信用してはなりません。
 
このように聖人が重い病に遭遇している南条氏に説示されている中心は、仏教の教主釈尊、分けてもその釈尊の真実である法華経の教えに、自己の身命(しんみよう)を捧げる信仰を貫き通しなさい、ということであることが知られるのであります。つまり法華経に対する不退転の信仰を強調されているのであります。以上がこの手紙の第二章の部分に当たります。そしてこの手紙は、最後の三章へと進むことになります。第三章では、聖人ご自身が既に述べましたように、三十二歳の立教開宗以来、常に釈尊仏教への回帰と、西方阿弥陀仏に対する念仏信仰を批判されてきましたが、ついにそのことを論破することのできない人々は、武器を持って聖人に迫害を及ぼすということ、そしてその法難がこの手紙を記される約一ヶ月前の十一月十一日であったことが記されています。そのことによって法華経の経典には、この教えを広める者には種々の法難が興起することが予言されていますことから、聖人は今その文をこの身体全体で体験したというご自覚のもと、ご自身のことを日本第一の法華経の行者であることを明示されているのです。そしてこの手紙の終わりには、南条氏が病気のために聖人よりも先に死出の旅に立った時の法華経の絶対的な救いと、現在その救い等を記されて筆を置かれることになります。その部分を現代語訳致します。
 
もしも貴殿が、私日蓮よりも先に、この世からあの世へと、死出の旅にお立ちになられたならば、あの世であなたがお会いするでありましょう大梵天王や帝釈天王、さらに毘沙門天王等の四大天王などの仏法を応護される神々たち、あるいは死後の世界を支配されている閻魔大王等の前で、つぎのようにはっきりとおっしゃってください。
「私兵衛七郎は、日本第一の法華経の行者である日蓮房というお方の弟子であります」と。けっして、それらの神々や閻魔大王等はあなたに対して粗末な対応をされることはありますまい。
けれども、貴殿が、一度は念仏信仰に心を寄せて弥陀念仏を称え、一方では法華経のお題目を唱えるというような二心(ふたごころ)があり、また、お題目を唱えることを、他者に聞かれることを恐れられるような優柔不断な信仰であれば、如何に貴殿が黄泉(よみ)の国へ旅立って種々の神々たちへ「わたくしは日蓮房の弟子です」とおっしゃったとしても、けっしてそれを信用されることはないでありましょう。後になって、そのことをうらみに思われることがあってはなりません。
ただし、法華経のもつお経の力は、この世における祈りのもととなるものですから、もしその法華経の信仰の力によって、貴殿の病気が平癒し、ご存命の加護を得られたことがあるとすれば、早く早くお会いして、私は貴殿に直接申し上げたいものです。
ことばは、文では容易に尽くしきれませんし、また文はこころを十分に表すことができませんので、ここでとどめおきたいと思います。謹んで申しのべました。
文永元年十二月十三日
日蓮 花押
なんでうの七郎殿
 
このように、聖人ご自身法難による重傷をおわれながらも、重い病にある駿河国上野郷の南条氏に厳しくも温かな手紙を認められていることを知るのです。なお伝承によれば、この手紙を受け取った兵衛七郎は、翌文永二年三月八日、妻及び九人の子を遺してこの世を去っているのです。その知らせを受けられました鎌倉にありました聖人は、墓参のため遙々と富士郡(ふじごおり)まで赴かれることになるのです。では結びに小松原法難の有様を記されました一節を拝読しておきたいと思います。
 
今年も十一月十一日、安房国(あわのくに)東條の松原と申す大路(おおじ)にして申酉(さるとり)の時、数百人の念仏等にまちかけられ候て、日蓮は唯一人十人ばかり、ものゝ要にあうものは、わづかに三四人なり。いる矢はふる雨のごとし、うつ太刀は稲妻のごとし。弟子一人(いちにん)は当座にうちとられ二人(ににん)は大事のてにて候。自身もきられ打たれ、結句にて候いし程に、いかが候けん、うちもらされていままでいきてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさり候え。第四の巻に云く「しかも此の経は如来の現在すらなお怨嫉多し、いわんや滅度の後をや」。第五の巻に云く「一切世間に怨多くして信じ難し」等云云。
されば日本国の持経者はいまだ此の経文にはあ(合)わせ給はず。唯日蓮一人こそよ(読)みはべれ。「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」是なり。されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり。
 
これは、平成二十八年六月十二日に、NHKラジオ第二の
「宗教の時間」に放送されたものである