日蓮聖人からの手紙C父を亡くした子への手紙
 
                    立正大学教授 北 川(きたがわ)  前 肇(ぜんちよう)
 
ナレーター:  シリーズ「日蓮聖人からの手紙」。日蓮聖人が遺した手紙を毎月一回、十二回にわたって読んでいきます。第四回は「父を亡くした子への手紙」と題してお送りします。お話は立正大学教授の北川前肇さんです。
 
北川:  前回、私は、日蓮聖人が四十三歳の文永(ぶんえい)元年(1264年)十一月十一日、小松原法難を受けられた後、その傷を癒やすために滞在されていました故郷の安房国(あわのくに)小湊(こみなと)の地から、重い病と闘っている駿河国(するがのくに)富士郡(ふじごおり)上野郷(うえののごう)在住の信徒であります南条兵衛七郎(なんじようひようえしちろう)に宛てられた二十紙を越える長文の手紙についてご紹介申し上げました。そしてこの手紙を受け取りました兵衛七郎は、翌文永二年(1265年)三月八日、妻及び九人のお子たちを遺してこの世を去ってしまったのでございます。この知らせを受けられた鎌倉に戻られていました聖人は、墓参のため、今日の神奈川県鎌倉市から静岡県富士宮市まで赴かれましたことが、のちの南条家の人々に与えられました手紙から知られるのであります。そこで今回は、父であり、上野の領主である兵衛七郎が死去したのち、聖人と南条家の人々との関わりにつきまして尋ねてみたいと思うのであります。殊に父の跡を継承したのは、兵衛七郎の妻と九人の子どもたちでありますけれども、子どもの中でも、女子四人、男子五人のうち、次男の南条七郎次郎時光(ときみつ)が当主となり、一族を束(つか)ねることになります。そこで聖人と次男時光との関わりに注目することに致したいと存じます。ところで日蓮聖人と南条家の人々との交流が確認できる手紙と致しましては、昭和定本『日蓮聖人遺文』に基づき聖人の真筆等遺されているものを中心に時系列的に整理致しますと、聖人四十三歳の十二月十三日付の南条兵衛七郎宛のものから、聖人の最晩年の弘安五年(1282年)三月の南条時光に宛てられたと思われます「筵三枚御書(むしろさんまいごしよ)」と名付けられた手紙まで、およそ四十通を数えることができます。殊に聖人が亡くなられる弘安五年の三月上旬の手紙であります「筵三枚御書」は、南条氏から敷物として筵三枚と生の若芽一株が送られたことに対する礼状であります。その冒頭には、次のような言葉が記されています。
 
(そも)そも三月一日より四日にいたるまでの御あそびに、心なぐさみてやせやまいもなをり、虎とるばかりをぼへ候上、此の御わかめ給ひて師子にのりぬべくをぼへ候。
 
即ち現代語訳致しますと、
 
さて貴殿が三月一日より四日に至るまでの身延のわたくしのもとでのご慰問により、心が晴れやかになり、老いと病とに冒されているわたしのやせ病も治り、虎でも捕らえることができるような元気を取り戻しましたし、そのうえ生の和布(わかめ)をお届け頂いたことで、獅子、即ちライオンでも乗りこなせるような快適さです。
 
というのであります。このように六十一歳を迎えられた聖人の下に、若き武者で、しかも南条家のみならず駿河方面の法華経信仰者たちの中心的人物として重要な役割を担っている南条時光が訪問することによって、老いと病とに遭遇されている聖人の大いなる励みとなったことを直接に表現されていることが知られるのであります。この文から聖人と時光との豊かな信頼関係が保たれていることを知るのであります。そこでこのように聖人と信徒との交流の一端を伺います時、老いを迎えられた聖人にとって、若き武者との交流は、聖人ご自身にとっての老いと病との苦悩を癒やされるうえでの大いなる励みとなり、またこの年の十月に聖人は、大田区池上の地において死を迎えられることになるのでありますが、若き時光の存在は未来への法華経信仰を継承する人物として大いなる希望の光であったものと拝察されるのであります。ここに聖人と南条時光との関係性は、人生の導き手としての聖人とその教えを受ける信徒という一方向的な面にとどまらず、法華経信仰の面に着目致しますと、老いを迎えられる聖人にとって、南条時光は聖人の法華経信仰の担い手であり、末法万年の未来へと続く法華経信仰の礎となるべき人物として、尊い存在として位置づけられていることを知るのであります。ところで最晩年の聖人の下へ時光が訪問するという出来事は、偶然によるものではなく、弘安五年(1282年)から遡ること十八年前の文永二年(1265年)時光の父・南条兵衛七郎が死去した折、鎌倉から聖人が富士宮の南条氏の墓前に廻向のために参拝されているということ、そしてその折に未亡人となった母尼やお子たちに対し弔問されているという事実を見逃せないのであります。この時時光は十歳に満たない少年であったと思われますが、その後佐渡流罪を許された聖人が、文永十一年(1274年)五月十七日身延へと到着され、翌六月に三間四面の庵室が完成致しますと、翌七月二十六日に上野郷から「銭十貫文、即ち一万枚の鵞目(がもく)(穴のあいている銭)と川苔(かわのり)二帖、生姜二十束が届けられることになります。この時時光自らこれらの品々を身延の聖人のもとへ届けたものと推察されます。ところで時光につきましては、その詳細は明らかではありませんが、所伝(しよでん)によりますと、正慶(しようきよう)元年(1332年)五月一日、七十四歳をもって死去したと言います。そこで逆算致しますと、時光は正元(しようげん)元年(1259年)の生まれとなりますから、文永二年三月、父との別れは数えの七歳の時で、聖人が墓参されたのはこの年であると考えますと、聖人が出会われた時光は、まさに七歳の童子であったと思われます。そして九年後、身延の聖人のもとを訪れた時光は、十六歳の若武者に成長していたことが知られます。そこで改めて、聖人が幼くして父を亡くした時光に対する聖人の心遣いについて尋ねておきたいと思うのです。そのことによって聖人が記憶の覚束ない子に対して、その父親像を鮮明に描かれ、時光が見事な若武者として成長したことを称讃されることによって、時光の生き方を支え、死者としての父親と生者として遺された時光とを分断することなく、いのちの連続性と父と子を不二一体として捉えられることで、法華経信仰の継承とを説かれることを知ることになると思うのであります。では聖人の文永十一年から弘安五年までの身延における数えの九カ年間の生活において、初期の頃に注目し、日蓮聖人と南条氏、あるいは時光との関わりを見てみたいと思うのであります。先ほど少し触れましたように、聖人が身延に到着されて七十日余りが過ぎた文永十一年七月二十六日付の真筆二紙の手紙が現存しております。この真筆は、常陸太田市の久昌寺(きゆうしようじ)に所蔵されています。昭和定本では、「上野殿御返事」と名付けられていますから、父の兵衛七郎の跡を継承している次郎時光宛ての手紙と考えられます。『日蓮聖人遺文辞典 歴史篇』の解説では、子息の時光が自ら身延の聖人の下へ御供養の品々を届けたことに対する母尼への手紙と見做しています。そこでこの説に従いまして。現代語訳でこの手紙をご紹介致したいと存じます。先ず鵞目(がもく)十貫、川苔二帖、生姜二十束のお礼が述べられますと、次のように記されています。
 
鎌倉で、ご夫君南条兵衛七郎殿と出会いました時には、その場かぎりのことではあるまいかと思っておりましたところ、少しもお忘れになることなく、この度のご供養のことなんともお礼の申し上げようもございません。故七郎殿さえご存命であれば、常に心置きなくご供養を頂くことができるのですが、お亡くなりになってしまったので、どうなることかと心配し、また嘆いておりました。けれども、ご夫君は、ご自分の形見として、ご子息の時光殿をお遺しくださったというのでしょうか。容姿がお父上にそっくりであるばかりでなく、お心まで似ていられることはとても嬉しく思います。故上野殿は、法華経信仰を貫いて、安らかにご臨終を迎えられたとお聞き致しましたので、その折富士郡上野郷にあります御墓へ参り法華経読誦してご廻向申し上げました次第です。またこの度は種々のご供養物をお届けくださりお礼の申し上げようもありません。今年は殊に農作物が不作で、飢饉の折に、身延山での初めての山中の生活で、大木の根元に木の葉を敷き詰めたような庵室の様子をどうぞご想像ください。この度読誦致します法華経の広大な功徳の一分を、亡き殿へご廻向申し上げたく存じます。ああ、親というのは、善い子どもを持つべきであるなと感動し、亡き父と今のお子とを思う時、私日蓮に涙が溢れてまいります。法華経の「妙荘厳本事品(みようしようごんのうほんじほん)」第二十七に説かれています国王の妙荘厳王は、婆羅門(ばらもん)の教えに帰依していましたが、浄蔵(じようぞう)・浄眼(じようげん)の二人の子によって導かれ、法華経の教えに入りました。かの妙荘厳王は、外道の教えを信ずる悪人でした。しかし、故七郎殿は法華経を堅固に持(たも)たれる善人です。かの妙荘厳王とは比べるまでもありません。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
七月二十六日 日蓮 花押
御返事
 
この手紙からございますことは、兵衛七郎の死去から数えの十年の歳月が経っていながらも、南条家から身延の日蓮聖人のもとに尊いご供養の品々が届けられていることに、聖人はその喜びを率直に表現されているということであります。そしてその記述の中から知られますことは、父と子についてであります。先ず第一に、聖人が鎌倉において出会われた父の兵衛七郎との関わりについては、かりそめのものではないかという認識でありましたが、その志は父の死去ののち遺族にまで受け継がれているということであります。第二には、聖人が文永元年十一月の小松原法難後に差し出された南条氏宛ての長文のお見舞いの手紙は、如何なる困難に遭遇しても法華経信仰を貫徹するようにとの教示でありましたが、病床の兵衛七郎は、聖人の教えに従って法華経信仰を貫き安らかな死を迎えたということであります。第三には、兵衛七郎の訃報を受けられた聖人は、鎌倉から富士宮へ墓参のために出向いて廻向されているということであります。おそらくこの折に未亡人である上野母とも出会われ、さらに形見としてのお子たちを見舞われたと思われます。次いで子どもの時光のことでありますが、父の兵衛七郎の姿・形がそっくりであるばかりでなく、他者への心遣いや法華経に対する信仰心の深さまで受け継いで見事な若武者であると称讃されていることであります。これらのことを整理致しますと、時光にとって父との死別は、数え年七歳であり、この手紙が認められている文永十一年七月は、十六歳を迎えるということであります。この間の養育に当たられたのは母尼であり、また家族や周囲の人々であったものと推察されます。その意味において、聖人が時光の見事な成長を称讃され、見守られているということは、時光が人生を生き抜く上での勇気が与えられ、これまでの生き方が全面的に肯定されているということを意味するものと思われます。それと同時に、大切な夫を亡くしながらも、未亡人として南条一族を支え、多くの子どもたちを養育されてきた母尼に対する称讃を、この手紙からうかがえるのであります。そしてこの手紙の結びに、亡き父と子息の時光との関係性を、法華経の第二十七章に説かれる妙荘厳王が、仏教以外の教えに帰依しながらも、浄蔵・浄眼の二人の子どもたちが導いた説話を紹介されながら、南条家の父と子は、法華経信仰という固い絆が存在していることを説かれることで、法華経信仰の尊さを記されているのであります。この手紙は、わずか二紙の短いものではありますが、聖人の法華経信仰に基づく南条家の人々との深い関わりと合わせて聖人の喜びが強く感じられるのであります。では次ぎに、聖人が身延へ入られました同じ文永十一年十一月十一日付けの「南条七郎次郎殿御返事」という宛名のある手紙の一節を拝見することに致しましょう。この手紙は、日蓮聖人の弟子の一人であります白蓮阿闍梨(びやくれんあじやり)日興上人の書写されたものが、日蓮遺文集として存在しております。特にこの日蓮遺文集は「御筆集(ごひつしゆう)」と呼ばれ、富士宮市の大石寺(たいせきじ)、北山本門寺(きたやまほんもんじ)との二箇所に二本が現存すると言います。しかも今日の書写学的な研究では、日興上人の筆ではなく、他筆であるとの見解が提示されていますが、日興上人在世中の成立であることに異論は存しないようであります。そこでここでは南条氏に宛てられた手紙を、日興上人存命の頃の手紙、即ち書写されたものと見做して拝見したいと思います。先ず冒頭には、清酒(すみざけ)二管(ふたつつ)、柑子(こうじ)みかん一篭(ひとかご)、こんにゃく十枚、やまのいも一篭、ごぼう一束等地元で醸造されると思われます清酒、あるいは豊かな大地の恵みのもとに栽培されました柑子みかん、こんにゃく芋を原材料とするこんにゃく、あるいは自生の山の芋、根菜としてのごぼうなどの品々が日蓮聖人の元へ届けられたのであります。聖人はこれらのご供養の品々に対する謝礼を述べられましたのち、「阿育大王や教主釈尊が、過去世において尊い施しの行を実践されたことによりまして、大王が仏陀となられた」ことを記されています。次いで法華経の「法師品(ほつしほん)」の文を引用されましたのち、「文の心は仏を一劫が間供養したてまつるより、末代悪世の中に人のあながち(強)ににく(憎)む法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりととかせ給う」と、御仏に対して長い時間をかけてご供養捧げる功徳よりも、末代悪世の中において如来の使いとして法華経を人々に伝いようとする法華経の行者を供養する功徳の尊いことを記されているのであります。そして聖人は、ありし日の時光の父のことを回顧されつつ、幼い時に父を亡くした子どもである時光の境遇に涙を流されていることを知るのであります。現代語訳でご紹介致します。
 
時光殿は幼少であられたので、父上のご記憶ははっきりしないかも知れません。亡くなられた父上は、殺生を生業とする武士でありましたが、ただ一筋に法華経の教えを尊ばれていましたので、安らかな臨終正念(しようねん)であり、御仏の浄土へと旅立たれたとお聞きしました。その親の跡をお継ぎになって、貴殿も法華経をご信仰なされているのですから、亡き聖霊(しようりよう)もどれほどあの世の草の陰から、即ち草葉の陰から喜ばれているかと思われます。私日蓮は、ああ、お父上でご存命であれば、どんなに嬉しく思われていることかと悔やまれてなりません。この法華経を受持する人々は、自分以外の人たち共々久遠の御仏の在す霊山(りようぜん)浄土へとまいり、そこでお会いさせて頂けるのです。まして、亡き父上と貴殿とは親と子で同じように熱心な法華経を信じておられるのですから、同じ霊山浄土へお生まれにならない筈はありません。ところで、貴殿はお心のうちで、他の人は、親と子が共々に長生きして、五十歳、六十歳までも親と白髪を競いあっているのに、自分はまだ若い身でありながらも、親に早く死に別れ、教え諭の言葉も受けることもできなかったと残念に思われていることでありましょう、と貴殿のご心中を推し量りますと、私日蓮は涙が溢れて止まることはありません。
 
この手紙の一節からうかがえますことは、聖人は時光の幼少年期に死別した父親のことを、法華経信仰の立場から、父は武士であったにも関わらず熱心に法華経を信じ、死を迎えるまで変わることがなく、安らかな臨終であったこと、そして久遠の御仏の在す霊山浄土へとまいられているということ。合わせて子息である時光も同じ法華経へ信を捧げていることから、故父上もどれほど喜ばれているかと称讃され、同じ霊山浄土へと出向くことができ、また同じ霊山浄土へと生まれることができることを保証されているのであります。このように、聖人は法華経の行者として死者である父を霊仙浄土へと導き、また信仰を一にするものは、同じ浄土へと生まれることを、時光に示されることによって、死者と生者との信仰上の宗教的な出合の場、つまり永遠の浄土を説き示されていることを知るのであります。しかしこの一節は、これら宗教的訓示に留まってはいないことがうかがえます。即ち幼少年期に父上と死別した時光の今日までの十年間の悲嘆の極み、あるいは孤独の悲しみや寂しさを推し量られる聖人は、自らを時光の境遇に置き換えられることで、とどまることのない悲しみの涙を流されていることを知るのです。波乱に満ちた人生を歩まれている五十三歳の日蓮聖人が、十六歳の若き時光の境遇に身をあてて、悲しみの涙を流されていることを知った時、時光はおそらく無条件で聖人の言葉を信じ、これから遭遇するであろう困難な出来事をも克服する源泉となったものと思われてなりません。それほどまでに、聖人の言葉は若き時光の魂に届いたものと思われてならないのであります。では最後に文永十二年(1275年)一月下旬に差し出されました南条氏宛の手紙を拝読しておきたいと思います。この手紙は、日付や聖人の署名、宛所が欠けていますが、真筆三紙が富士宮の大石寺に所蔵されております。その内容から南条氏宛てのものであることは確かでありますが、この手紙は聖人の弟子であります日興上人が、南条氏の元へ届けたものと推察され、またその内容から「春之祝御書(はるのいわいごしよ)」と名付けられています。ではそれらの全文を現代語訳でご紹介致しましょう。
 
新春を言祝(ことほ)いでから、すでに多くの日が経ちました。さて亡き父上との交流は、それほど長い期間ではありませんでしたが、何事においても打ち解けて親しみのあるお心を持ったお方でありましたので、大変頼りに思っておりましたところ、まだ壮年でありながらお亡くなりになりましたので、日蓮はその離別が余りにも悲しいものでありましたから、敢えて相模国鎌倉から駿河国上野郷まで出向いてお墓にお参りした次第であります。その後駿河国へ出向くことがあれば墓参致そうと思っていたのでありますが、それも叶いませんでした。この度私が身延山に入るに当たりましては、鎌倉幕府からの監視も厳しく、周囲の方々へご迷惑を掛けることになると思い、内緒で行動致しましたので、富士郡西山に在住の西山入道(にしやまにゆうどう)(大内氏)にも知られないで来たのですから、どうすることもできません。お父上の御墓所のすぐ近くを通ったのでお参りができなかったことが気がかりで仕方ありません。その思いを果たすため、この手紙を持参する、はわき房(日興)を、正月のうちに参らせ、ご墓前で法華経のもっとも肝要な教えが説かれています自我偈(じがげ)一巻を読誦させようと思い遣わした次第です。お父上のお残しになられたものは何もなく残念であると、私、嘆いていましたところ、貴殿のような立派な形見をお遺しになられたことを喜ばなくてはならないと思うところです。亡くなられたお父上は、木の下の草葉の陰に埋葬されて、おそらく訪れる人はないでありましょう。仏法を聴聞しようとしても、それもできません。どんなに寂しい思いをされていることでありましょう。そのような境遇に思いを馳せますと、涙が止(とど)めなく流れてまいります。お父上は、貴殿とこの度私の遣わしました法華経の行者日興が一緒にご墓所を参詣されましたならば、どんなにお喜びになられることでしょう。どれほど嬉しがられることでありましょうか。
 
この手紙の文から、この書簡は上野郷の南条氏のもとへ弟子に託されたものであると同時に、聖人の代わりに父南条兵衛七郎のお墓に参り廻向させることが目的であったことが知られるのであります。そして聖人が、亡き父との死別の悲しみを記されることによりまして、時光にとって死別の悲しみは自己のみならず、聖人の悲しみでもあると、改めて体感する時、時光はその悲しみから乗り越えることになったのではないかと思われます。その後時光には種々の課題が興起することになります。例えばその一つが、二十歳の弘安二年(1279年)に直面する「熱原(あつわら)法難」という大きな法難でありますし、三年後の弘安五年二月頃時光は病魔に襲われることになります。しかし、これらに加えて弘安三年(1280年)九月五日、最愛の弟七郎五郎が突然死去することになります。その悲しみは母尼だけではなく、老いと病魔に遭遇されている聖人ご自身も同様であります。尚このことにつきましては次回にお話申し上げたいと存じます。
 
     これは、平成二十八年七月十日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである