ヒトラーに抵抗した教育者 アドルフ・ライヒヴァイン
 
                  秋田大学名誉教授 對 馬(つしま)  達 雄(たつお)
1945年、青森県生まれ。1968年東北大学教育学部卒、72年同大学院教育学研究科博士課程中退[2]。1984年「3月以降プロイセン=ドイツにおける初等学校問題とディースターヴェーク構想」で教育学博士(東北大学)。秋田大学教育学部教授、教育文化学部教授、学部長、理事・副学長歴任。2010年定年退任、名誉教授。2016年7月23日秋田魁新報電子版のコラム「北斗星」が「沈黙の勇者」(ユダヤ人を救うために命を懸けた3000人を超えるドイツ市民。業績を自ら語らないことから「沈黙の」と呼ばれる)の歴史を記した對馬の『ヒトラーに抵抗した人々』を、「勇者の礼賛で終わることなく、行動とその結末を客観的に記している。非力な市民が強い意志をもって凶暴な権力に立ち向かったという事実に、感動させられる」と評価した。なお同紙の取材に對馬は「かつて郵政民営化を巡って敵味方を明確に区分した小泉政権の政治手法に、ナチスと通じるものを感じた」と執筆動機を述べている。
                  き き て    西 川  啓
 
ナレーター:  あなたは、アドルフ・ライヒヴァイン(1898-1944:刑死)という人の名を知っていますか? 彼はヒトラーに抵抗し、教育に人生を捧げた人でした。一九三三年、ドイツで選挙を経てヒトラー政権が生まれます。その年、ライヒヴァインは大学教授の職を辞め、ベルリン郊外の小さな村に小学校教師として赴任する道を選びました。三十五歳の青年教師のライヒヴァインは、そこで奇跡とも言える素晴らしい教育を行います。しかしやがてナチスによるユダヤ人抹殺、そして第二次世界大戦が起こり、ライヒヴァインは、ヒトラー打倒の地下運動に身を投じます。そして一九四四年、当局に逮捕され、処刑されます。このライヒヴァインの生き方は、今、日本で生きる私たちに何を伝えてくれるのでしょうか。今日はライフワークとしてその研究をなさってきた秋田大学名誉教授對馬達雄さんにお話を伺います。
 

 
西川:  對馬先生が長年研究をなさってきたアドルフ・ライヒヴァインという人はどんな人だったんでしょうか?
 
對馬:  彼は、ナチスの時代に生きて、そしてあるいは教育者として、これから反ナチの抵抗者として刑死した、そういう人物です。ナチによって処刑されたのは、彼がティーフェンゼーという学校で教育を行う。そして戦争は避けられないと。そういう中でやはりこのままではどうにもならないということから、抵抗者の道を選ぶわけですけれども、そしてベルリンに出てテログループを作ってまいります。彼が四十六歳の時ですけれども、「七月二十日事件」(1944年7月20日に発生したナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラー暗殺未遂とナチス・ドイツ政権に対するクーデター未遂事件。ナチス・ドイツの政策への反対や、第二次世界大戦における連合国との和平を目的としてドイツ国防軍の反ナチス将校グループが計画、実行した。ヒトラーの暗殺とクーデターは共に失敗し、実行犯の多くは自殺もしくは逮捕、処刑された)というヒトラー暗殺未遂事件がありますが、それに関わったために逮捕され、そして刑死するという、そういうことです。
 
西川:  一九三三年に、ヒトラーが政権を取った。トルコへ亡命する道を選ばずにドイツに残ったと。それは何のために残った?
 
對馬:  それは彼自身は、教育活動そのものに対して非常な関心と熱意がもともとあったんですよ。子ども好きで、子どもを育てるということに対する大きな彼の夢みたいなものがあったんですね。それで彼は、ナチスの時代になった時、ほんとに迷ったんですね。彼には初めはトルコのイスタンブール大学の経済学の教授のポストが、スイスに亡命後の仲間たちから紹介されたんですが、それもすべて断って、ティーフェンゼーの村に入って行った、と、そういうことなんですね。自分たちが亡命すると、亡命することでドイツを身捨てたと。見捨てた後、ドイツはどうなっていくんだろうと。なんとかドイツの未来をどんなに苦しくても、多少妥協したり、そして生き延びていくためには、苦しむことも出てくるだろうけれども、それでもドイツはいつまでもヒトラーの時代ではない筈だ。そのためには新しいものをつくるためにここに残っていこう、という思いがあったということですね。それともう一つは、ヒトラーが政権を取った後、亡命する人たちが出てきます。ところが亡命できる人は限られていたんですね。実際にお金がなかったり、あるいはコネがなかったりした人はできなかったんですよ。ライヒヴァインの場合は、トルコの大学に行くこともできたんですが、でもそれさえやっぱり自分がそうすることで、もっとそれを必要としている人たちの道を奪うことになるんじゃないかと。ドイツの未来、それとより困っている人、その人のために譲ろうと。この二点ですよね。
 
西川:  それで一九三三年、ベルリン郊外の一農村の小学校にライヒヴァインは赴くわけですね。
 
對馬:  彼はティーフェンゼーの住民がわずか三百人ほどの、そういう村の学校の教師として六年余り、その小学校、しかも教師は自分一人だけで、そして四十人ほどの六歳から十四歳までの子どもたちがいた、そういう学校で、彼は自分の理想とする、あるいはヒトラーの時代にあっても、それにめげないようなそういう教育の実践を続けていった。アドルフ・ライヒヴァインの前任者という方が、「反ヒトラーだ」というようなことで辞めさせられまして、五ヶ月間学校が休校状態にあったんですよ。子どもたちにとっては、先生が来た、やっと先生来てくれたということで大いに歓迎されるし、それはいいんですが、ただこの村そのものは、やっぱり当時の農村というのは、取り分け「ヒトラー万歳!」―ある意味ヒトラー支持基盤であったわけで、ティーフェンゼーでは非常にそういう傾向が強いところだったんです。ですから、ライヒヴァインについても非常に警戒心と不信感というものが根強かったんですよ。彼自身が元社会民主党の党員であったというようなことから、彼には当局の目がいつも光っていたんですよ。当時まだナチスになってから、新しいナチズム(ナチ党の思想と政策)の思想に基づいた教育的なカリキュラムというのはなかったんですよ。それでそういう間隙をぬって、彼はナチスの教育体制の中でもなし得るような、そういう教育を目指そうとしたわけですね。
 
西川:  そこでの子どもたちと教師・ライヒヴァインの様子というのはどんな様子だったんでしょう?
 
對馬:  この四十人ほどの学校なんですけれども、これは教室が一つだけで、それで大体大きさが三十五平米(u)の教室だったんですよ。それ一つだけですよ。
 
西川:  どんな建物?
 
對馬:  この学校は平屋で、庭を前にして間口五メートル、奥行七メートルの教室と通りに面した小さな教員宿舎だけですよ。先ず一番に、学校用の家具を制作する。そういうのを全部子どもたちに計画を与えまして、計画を作らせて、これをやっていく。それが「作業学習」というものなんですけれども、子どもたちの手で作っていくんですね。
 
西川:  どんな物を作ったんですか?
 
對馬:  それは、カーテンで二つに仕切られた教室で使用する横幅の広い作業机と、戸外の夏期学校用の二つの机と四脚の長椅子を作る。そういうものです。学校の庭園に花を植えたり、野菜を植えたりとか、そういうこともありますけれども。温室も作ったりする―ハウスの温室ですよね。温室づくりにあたっては、子どもたちにすぐそれを作らせるといったところで、これは無理です。まず材料をどうするか。それをどういうふうに作っていくか。こういうことのために先ず材料については、古いレンガ製造工場の取り壊された煙突のレンガが利用され、子どもたちは使えるガラス板を家中さがし回って集めて、そういうものを持って来させる。それから実際に作り方を教えて貰わなければいけないから、村のそういうプロの人に実際にやり方を教えて貰う。仕事を持っている人でも、「子どものため」と言われたら、やっぱり断るわけにいきませんから、例えば大工さんのたしなみのある人は来て、それを教えてあげられるわけですよ。その一方で子どもたちは、そのために設計図を作る。これを学ばなければいけません。
 
西川:  子どもたちが作るわけですか?
 
對馬:  子どもたちに作らせるわけです。設計図を作るというのは、これは長さがどうだとか、何センチとか、何メートル、これについて学ばなければいけません。当然その知識が必要なわけですよ。ですから測定の仕方、計算の仕方、これも自ずと生きた知識として学んでいくわけですよ。算数の勉強になっているわけです。算数の勉強になり、あるいは理科の勉強になり、だから総合学習授業ですよ。しかもそういうことをよくわからない、そういう子どもたちに対しては、年長の子どもたちが、学校は夏は七時から、冬は八時に始まる。それより三十分ぐらい前に子どもたちが自発的に来まして、そのわからない子どもたちにそれを教えてあげる。非常にまとまりのある学校を―「教育の共同体」と言いますか、そういうものを作っていったわけですよ。ですからこういうことをしていますと、ナチスが、「ヒトラー万歳」だとか、ヒトラーのために「遺伝学」がどうのこうのとか、あるいは「人種学」がどうだなどと言っていることと、まったく異質の世界であり得たわけですよ。ただし一方視学官が訪ねて来た時には、「ハイル・ヒトラー!」とドイツ式挨拶(直立して指を揃えた右腕を斜め上に挙げ、ハイル・ヒトラー!と叫ぶ)をしたりする。ライヒヴァイン本人も大変苦しむんです。「今日はじめて私は本当に嘘をつきました。視学官に〈ハイル・ヒトラー!〉と挨拶したのですから」と、友だちに告白して書くような、それほど自分には辛いことであっても、でも子どもたちのためにそういう形で授業を続けていったわけですね。要するにそういうわけでティーフェンゼーの学校といったようなものは、これはその学習の形態そのものを通して、「子どもたちが互いに人格的に関わり合う隣人関係だ」というんですけども、「隣人関係の生きた姿、生命体である」と、そういうふうに表現するんです。「学童が互いに、人格的に密に関わる隣人関係の生命体である。これこそが教育共同体である」こういうふうに彼は書き記しているんですね。その時に問題になるのが、このティーフェンゼーの子どもたち四十人の中に二人の知的な障害者がおったんですよ。言うまでもなく、ナチスにとっては、障害者だとか、あるいは遺伝性の疾患児というのは、民族の邪魔者であると。経済的な損失になるんだと。社会的に有害な者である。障害者を排除し、あるいは抹殺したのがナチスであったわけですよね。ライヒヴァインはどうしたのか、ということが問題になるんですが、当然ヒトラーが一番最初に、一九三三年に政権を取った時にやった施策の一つが、子どもを生ませないようにさせる。正確には「遺伝性疾患児出生予防法」と言いますけれども、そういうふうな法律が出されまして、その障害者については、特に彼らを隔離して補助学校という、そういうものを作りまして、「そこに就学するように」という指示が出されたんです。実際は補助学校と言ったところで、これは最後は抹殺される事態になっていくわけなんですけれども。それで彼は、ナチスのそういった施策に従うということは到底許せないことであったわけですよ。彼の命を懸けて守らなければならない原則であったわけですね。その指示が何度もきます。彼は、それに対して、「いや、自分の学校というのは、今受験学校として活動しているんだ。従ってそういうことを含めて自分たちは、子どもたちの教育というものを行っているんだと。補助学校に子どもを送るということは、それはできない」ということで、彼は在職した一九三九年五月まで、その子どもたちを最後まで守っていきます。彼は、『創作する生徒たち』という本の中でこういうことを書いているんですよ。
 
教育共同体の価値は、そこで心身障害児のおかれている状態から容易に知ることができる。学習の遅れている子どもたちの促進グループを設けないで成果を上げることがどんなに困難であっても、子どもは一人としてなおざりにされてはならない。弱者をいたわり、支え合うことこそが、この隣人関係の社会連帯的な豊かさなのである。
 
ですから彼にとっては、それは教育信念であると同時に、人間として生きる上でも、彼の人生観といいますか、そういうものであったんだといってもいいでしょうね。
 
西川:  ナチスの教育とライヒヴァインの教育というのは、どのように違ったんでしょうか?
 
對馬:  ナチスの場合は、一言で言えば、こういう言葉がありますよね。「金太郎飴的な人間」つまり没個性の人間を再生産することです。男の子は民族共同体を守る兵士として、女の子は沢山な民族の母として、取り替え可能なごとく教育する。そのための鋳型に嵌めるような教育・パターン。これが一口で言えばナチスの教育と言ってもいいでしょう。ナチスのスローガンに、こういう言葉があります。これは大きな垂れ幕に出る言葉ですけれども、「君は何ものでもなく、君の民族がすべてである」と。これはナチスの世界観をよく表しています。そうではなくて、ライヒヴァインは、「あなたたちは一人ひとりがそれぞれ個性をもつ。いろいろな形の姿を取るだろうが、それこそがあなたたちなんだ。それを大事にしよう」。それから何よりも彼の行ったことで、子どもたちの一生の思い出に残ったことがあるんですよ。それは何かというと、彼自身が、この自分がティーフェンゼーで六年間、毎年やっているんですが、上級生十歳から十四歳までの子ども学業の仕上げとして、「夏の大旅行」というものをやったということですよ。このナチスの時代にそういうことをやるということ自体は、まさにライヒヴァインならではのものであったと思うんですね。「夏の大旅行」というのは、これはほぼ二週間、普通は自転車で利用して、それでお金はできるだけかけないで、大遠足ということなんですね。先ずこの旅行をするためには、参加する上級生全員が、そのための準備が必要になります。その準備というのは、数ヶ月間にわたるわけですよ。これはレリーフを作ったりとか、目的地に関する歴史や地理、文化、行く途中の土地の特徴、特産物などの下調べが、授業の中でも集中的に行われる。また旅行案内書や写真、地図、宣伝用パンフレットなどが入念に検討された。そして予め自分たちの頭の中に大体それを入れていくわけですよ。そしてその後に目指す土地に行くわけです。それが数百キロ離れたところに行くわけですよ。ベルリンの外れから今はポーランド領になっているズーッと離れた東プロイセンというところまで行く。それから次の年は、ベルリンからシュレスヴィヒ=ホルスタインまで行く。これも遠いですよ。そこまで行くわけですよ。そして行くのにお金がかかるわけです。その経費をどうするか。経費はそのため何年も前から、毎年子どもたちに積み立てさせているんですよ。その時貧しい家庭の子どもたちにはその出費をできるだけ少なくさせると。これは他の子どもたちが援助すると。そういう形をとってとにかく全員が参加する。このことについて、ライヒヴァインは、親しい友だちに語っている手紙があるんですけれどもね。こういうことを言っているんですよ。
 
貧しい農業労働者の子どもたちも等しく参加の機会をもったことは当然です。さもなければ、私たちはむしろこの旅行を中止したでしょう。何故なら、私たちの教育では、共同社会という概念を、模範的にまじめに口先だけでなしにとらえようとしているからです。
 
ともかく学童たちはテントを張って、あるいは農家の納屋を借りて、その破れた屋根から星空を眺めて、そして身を休める。そして仲間同士で語り合い、そして眠りに就く。それが二週間も続くわけですよ。そうすると、自ずと仲間同士の間に助け合う、そういうふうな機会になりますよね。彼は、やっぱり開かれた世界、世の中が産業化がどんどん進んでいる、そういう世界に対して、子どもたちに自分の目で見開かせる。それからその中で生きる気構えと言いますかね、その中に気構えに育てるという、そういう意図がまたあったということですよ。そしてそのために、それを実際に実現するためには、やっぱり子どもは主体的な自己である必要があったわけですよ。つまり自ら考える力を持つ子ども、それを育てませんか、というものがあったわけですね。それがライヒヴァインの願いであったと思います。ティーフェンゼーが、ナチス時代にあってもまったく別の世界として、特にそのことを表しているのは、彼の教え子たちの実際の思い出「ライヒヴァイン先生について対談」というのは、二回ほど行われているんですよ。東ドイツの時代と、その後統一ドイツになってから、一九九○年代と。二回目の対談、これは速記録となって残っております。ある一人の女性なんですけれども、こう言っているんですよ。
 
ライヒヴァイン先生は、決して知識を詰め込む熱心な教師ではありませんでした。私たちは先生に対して不安や恐れをもつことなく、心から尊敬していました。先生は自分を批判してもいいよと言われました。でも私たちは先生の指示にはいつも従いました。でも無条件に服従したのではありません。先生は「隣人関係」を築きましたが、先生の真の権威を私たちは尊敬していましたから、先生と生徒という関係の「境界」は崩れませんでした。先生は、私たちをはっきり自分の考えをもつような人間、世界に「開放的」であるような人間に教育しようとしてくれました。
 
これはライヒヴァインの教育にして、ナチスという時代にあってなし得た希有の事柄なんでしょうね。
 
西川:  ライヒヴァイン自身は、最後にヒトラー暗殺未遂事件で逮捕されたと。ナチに処刑される前に家族への手紙を書き残していますよね。
 
對馬:  特に有名なものに、十一歳の長女レナーテというその子に宛てた手紙。これがもっともよく知られているものです。彼は逮捕されて非常な拷問を受け、それで喉も潰されてしまう。それから痩せ衰えている。そしてほんとにもう無惨な姿になりながらも、だけど結局は彼は最後まで精神的に潰されるということもなくして、処刑の四日前に書いたものなんですけれども、その手紙について一部省いて読んでみることに致しましょう。
 
愛するレナーテ
父さんはあなたとの間であったいろんなことが昨日のことのように思い出されます。あなたはしっかりした少女に成長し、道を歩んでいくことになりますね。今、おじいさんとおばあさんのところにいるそうですね。父さんはそれをとても嬉しく思っています。あなたも、機会があったら、いつも人には親切にしなさい。助けを与えたりする必要のある人たちにそうすることが、人生で一番大事なことです。だんだん自分が強くなり、楽しいこともどんどん増えてきて、いっぱい勉強するようになると、それだけ人びとを助けることができるようになるのです。
これから頑張ってね、さようなら。
お父さんより
 
結局は、彼自身の人間に対する深い愛情、弱者をいたわるという、やっぱりその基本にはキリスト教でいうところの「隣人愛」という、もうこれだけは絶対人間の生き方として守っていきなさいと。そういうことを語っている内容の言葉だというふうに思っています。
 
西川:  そうですね。
 
對馬:  掛け値無しにその人の本質的なものが滲み出たそういう言葉であるだろうと。自分はこうしてきたんだ。だからあなたもこのような形で生きて頂戴という、そういう思いがこの言葉にはあるというふうに私は感じ取っております。
 
     これは、平成二十八年七月三十一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである