聖徳太子の実像を探る
 
                  駒澤大学教授 石 井(いしい)  公 成(こうせい)
1950年、東京都立川市生まれ。早稲田大学第一文学部東洋哲学専攻卒業、同大学院人文科学研究科後期課程単位取得退学。博士(文学 早稲田大学)。駒澤大学仏教学部教授。専攻は、漢字文化圏諸国の仏教と関連する文学、歴史、芸能など。
                  き き て  金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「聖徳太子の実像を探る」というテーマで、駒沢大学仏教学部教授の石井公成さんにお話いただきます。。石井さんは、一九四五年(昭和20年)の生まれ、専門の仏教だけでなく、日本や東洋の歴史、さらに考古学や美術史の方面からも聖徳太子を研究され、大正大蔵経(たいしようだいぞうきよう)テキストのデーターベース作成にも尽力した方です。聖徳太子は、今からおよそ千四百年前(西暦574年)に生まれ、 六二二年に四十九歳で亡くなっておられますが、聖徳太子と明記された生前の記録は見当たらないそうです。しかし今日まで、日本の政治や文化などに大きな影響を与えた偉大な人物として、史実・伝承をとりまぜて、毀誉褒貶、時代により人により実に様々な評価を受けている方です。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  今日は聖徳太子についてのお話をお伺いしたいんですが、石井先生は、最近「聖徳太子の実像を探る」ような方向のご本をお書きになりましたけれども、膨大な虚実取り混ぜての情報量の中で、どういう点に力を入れて探求してこられたんでしょうか?
 
石井:  はい。私の第一の出発点は、基本資料を正確に読み直そうということです。というのは、聖徳太子の伝記、あるいは憲法十七条が載っている『日本書記』、あるいは太子が亡くなるときに、「どうぞ、病気が治りますように」ということで、周りの人たちが請願して作った法隆寺の釈迦三尊像の光背面、または天寿国繍帳(てんじゆこくしゆうちよう)の銘文など、基本的な資料があるわけでわけなんですが、実は現在の目から見ると、正確にこれまで読まれていないということがあります。というのは、これまで『日本書記』については、古典文学体系などが非常に信頼のできる注釈として使われてきましたが、なんといってももう五十年前のものです。それに関わられた先生は、坂本太郎(さかもとたろう)先生、井上光貞(いのうえみつさだ)先生、家永三郎(いえながさぶろう)先生、そして大野晋(おおのすすむ)先生ですけど、これらの方は日本の歴史学者と国語学者。それ以後『日本古典文学全集』などという新しい注釈が出ますけれども、やはりやっているのは国語学者、中国文学者、神道の学者などです。つまり実は仏教学者がいない。聖徳太子の頃は、仏教が非常に大きな役割を果たしてきた。その仏教は中国から韓国に伝わり、韓国から日本に入ってきたものですね。そうなると、中国仏教と韓国仏教をしっかりやらなければ、聖徳太子の時代の仏教は分からないということになります。ところが韓国仏教、中国仏教の専門家が入っていなかった。そして、しかもこの数十年で韓国仏教と中国仏教の研究は非常に進歩しました。また考古学の方でも、いろいろな発掘が行われて新しい文物が出てきました。それからもう一つは、これまではいちいち読むほかなかったお経など、その他の仏教文献が全部電子化されました。そうすると、一秒のうちにすべてが検索できる。というのは、実はこの電子化については、私自身十年以上関わった者ですけど、これによって非常に仏教の出典―この文章はこのお経を使っているんだとか、この文章はこの注釈に基づいているんだということがわかるようになったわけですね。ですから、これらを反映する必要がある。これが一つの点です。そして、もう一つの点は、語法の面です。語法―つまり言葉遣い、文体などですね。というのは、これまで国語学者などが『日本書記』の研究などに関わっていたのですが、この二十年ぐらいで大幅に進歩したのは、変格(へんかく)漢文の研究です。つまり日本人だとか韓国人がやりがちな漢文の間違い―妙な漢文というものに対する研究が、この二十年ぐらいで大幅に進みました。私自身、中国の学者、韓国の学者、日本の学者たちにお集まりいただいて、四年間、国際共同研究をやりました。これらによって、先ほど申し上げたような基本資料を見直すと、「あ、これまではこんなに正しく読まれていなかったんだ」ということがわかってきたわけですね。それによると、聖徳太子のイメージも変わってくるということがありました。これが私の研究の大きな出発点ということになろうかと思います。
 
金光:  その結果、先生、どういう方向へ行いかれましたでしょうか?
 
石井:  そうすると、例えば『日本書記』の場合、この部分を書いた人と、この部分を書いた人は違うということがわかってくるわけですね。ですからこの部分は、多分漢文がよくできる人が書いた。この部分はあまりできない、多分日本人、あるいは渡来系の日本人が書いたということがわかってくる。そうすると、何がわかるかと言いますと、「聖徳太子居なかった説」というのがあります。あの人たちは、聖徳太子は架空の人物であると。『日本書紀』を作る最終段階で、「道慈(どうじ)(在唐17年の後、718年に帰国した)というお坊さんが、一気に聖徳太子を理想的な人物として描いたんだ」という話でしたけど、そういう説はもう成り立たない。文章が違うということは、いろいろなところから引っ張ってくっつけたものだということになりますから、一人の人が想像で作ったなんていうことはあり得ないということがわかるわけです。
 
金光:  随分ショッキングな発表だったもんですから、印象に強く残っているんですが、それがしかし、元の証拠が怪しいとなると、やはりご破算にならざるを得ないという点が出てきたわけですね。
 
石井:  はい。そうです。ですから、聖徳太子居なかった派の人たちは、実はそれらの基本資料を漢文として、文章として読んでいなかった、ということなんですね。つまり単語だけ、目についた単語だけを注目して、あれこれ想像していた、ということになるわけです。
 
金光:  そうしますと、そういう資料を外して考えると、どういう方向に行くんでしょうか?
 
石井:  そうすると、これまでは聖徳太子はなるべく否定するというのが科学的、近代的な研究だということになっていたんですが、しかしそういうふうに語学に注意し、仏教の出典に注意して読んでいくと、比較的『日本書紀』に書かれている事柄は、事実を反映しているということが分かってきました。勿論大げさに書いて、「聖徳太子は偉い」と賞賛する立場で書いてあるんですが、全くゼロから作り上げたわけではなくて、何かしらもとになる資料があって、それを大げさに書いている場合が多いということがわかってきたということです。
 
金光:  それで確かなものとしては、天寿国繍帳(てんじゆこくしゆうちよう)の銘文だとか、釈迦三尊像の銘文みたいな、これは確かなものと考えてよろしいんでしょうか?
 
石井:  私自身はそういうふうに考えております。というのは、これまで実は釈迦三尊像の銘文も、『天寿国繍帳』も使われているお経に気がついておらず、正しく読めていなかったんですね。というか、もっと驚くべきことは、憲法十七条ですね。憲法十七条は、みな誰もが知っていて、「第一条、以和爲貴、無忤爲宗(和(わ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗(むね)と為せ)」。こんなに有名なのに、実は出典がわかっていなかったんですね。「和を以て貴しと為す」というのは、儒教の『論語』里仁篇の「礼之用和為貴(礼の用は、和を貴と為す)」に基づくものであって、あるいは『礼記(らいき)』儒行篇の「礼之以和為貴」も同様の例とみてよいでしょう。これはわかっていました。ところが、「忤(さか)ふること無きを宗と為せ」つまり人と衝突しない、争わないということを根本の立場にしなさいというのは、これまで出典がわかっていなかったわけです。実はコンピュータが発達して、それらの仏教文献が検索できるようになると、実は、「無忤(さかふること無し)」という言葉は、僧伝にしばしば見える語であり、とりわけ梁(りよう)や陳(ちん)などの南朝国家において、『成実論(じようじつろん)』に基づいて大乗経典を解釈していた系統の人々が尊重した徳目なんです。大体六世紀の頭から後半ぐらいにかけて、特に中国南の地方の江南(こうなん)のお坊さん、尼さんについて言われる言葉だということなどがわかってきたわけです。そうすると、やはりこれは完全に憲法十七条は、儒教と仏教で書かれていると。しかも仏教で書かれている江南のお坊さんたちというのは、実は『三経義疏(さんぎようぎしよ)』の背景となっている仏教の教理と同じ系統のものなんですね。『三経義疏』も実はこれまでは中国の本だと。それを遣隋使が持って帰ってきて、聖徳太子は読んだだけなのだという説が盛んだったんですが、実は『三経義疏』も調べてみると、変格漢文、つまり中国の漢文ではない文体で書かれていることが分かりましたので、ですから聖徳太子がどこまで書いたかもわかりません。つまり百済(くだら)、あるいは高句麗(こうくり)から、学問僧が家庭教師として送り込まれている。ですからその人たちがどこまで関わったかはわかりませんが、少なくとも中国の本でないということは、もう証明されましたというか、これは私が証明したのです。しかもそれらが実はみな結構似ていると。古い時代で似ているということがわかってきました。ですからみんな「後の作だ、後の作だ」と言って否定されてきたものが、「いや、実はそうではなくて、わりと古いものであって、意外に信頼できるということが、今回の研究でわかってきたということです。
 
金光:  そうしますと、確かに日本流の漢文で書かれているにしても、当時の書いた人たちは、『法華経』とか、『維摩経(ゆいまきよう) 』とか、『勝鬘経(しようまんきよう)』そういうものはちゃんとご覧になってはいたわけですね
 
石井:  はい。そうです。そして注釈を書くとか、講義をするなんていうのは、この当時、あるはずがないというのが、否定派の言い分なのですが、実は中国の有名な皇帝やその皇太子は、お経の講義をやったり、注釈を書いたりするんですね。ですから日本はそれを真似ていたわけです。ですからあり得ないじゃなくて、むしろ大いにあり得るわけなんです。
 
金光:  日本も、中国の文化そういうものをなんとか制度にしても、そういうものを日本に輸入して、日本でそういうものを確立しようと、そういう方向でなんか国のみんなの方向がそちらへ向いて、みな努力していたような時代のように受け取っているわけですが、やっぱりそういう傾向は、日本人全体の中にあったわけでございましょうね。
 
石井:  そうですね。日本は、つまり韓国の諸国―百済(くだら)、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)などと、非常に複雑な関係にありまして、それらの国より自分の国が上だということを言いたかったんですね。ですから、おそらく仏教においても、実際にはそういう国から学ばなければいけない状況であるのに、しかしそれらの国よりも優れているんだということを示したいという状況にあったと。その一例が、『三経義疏』だというふうに、私は考えているわけです。ですから、実際には百済や高句麗から来た家庭教師のお坊さんが補助している。しかし日本でできたと。それを逆にまた海外に持っていって示したいという、そういう状況で作られたんだというふうに考えています。ですから現在で言えば、アジアの諸国がオリンピックを開催するようなものですね。「どうだ」と。「わが国でもこれだけのことができるんだ」と。まさに同じ状況だと思われます。
 
金光:  なるほど。で、そういう方向でいっているのが、ちょっと方面は違いますけれど、「日出ずる国の天子」みたいな、外交の中の言葉で、隋の大皇帝に「日出ずる国の天子」なんていう言葉を使っているのも、その一端の表れというふうに見られるわけでしょうか?
 
石井:  そうなんですね。ですから「そんな、こんな言い方をするはずがない」というふうに否定派はいうんですが、実は中国の歴史書を見ると、まさに「日出ずる国」なんていう言葉を使った外交文書があったわけですね。中国の南の南朝国家である梁(りよう)の皇帝に対して、「日の出ずる国の皇帝陛下様。あなたは仏教を広めていて素晴らしい。私は礼拝致します」なんていう外交文書を出してくる。そういう外交文書で使われていた言葉だったということですね。そういうことが、どんどん研究が進むことによってわかってきたという状況です。
 
金光:  としますと、その当時の日本人も一生懸命そういう向こうの文献なんかも、向こうで勉強した人が持って帰ったら、こういう文字が、こういう言葉があったよ、というようなことで、「よし、じゃ、これを使おう」みたいなことになった可能性も十分考えられますですね。
 
石井:  はい。外交マニュアルみたいな、外交文書を書くマニュアルみたいなものがあったんだろうと思います。ですから、相手をこういうふうに褒めるんだと。ただその際、日本はわりと島国で危機感が薄いですから、割と自分は偉いんだという調子で書いてしまって怒られたんだろうというふうに思っています。
 
金光:  中国の記録の中には、「日出ずる処の天子、書を日の没する処の天子に致す。恙無きや」という、こんな失礼なことを書くのは、まだ文化が発達していないせいだというようなことで、ダメだと、皇帝から叱られたというのも残っているようですね。
 
石井:  そうですね。ですからお叱りの使節がやってくるわけですね。こちらはそれを受けて、ただし完璧に相手のいうことには従わない。尊重はするけれども、一応日本は日本の独自路線でいくという立場をとったわけですね。それぞれの国では、しかし相手は自分の国に従ったみたいな書き方で歴史記録が残っていくと、そういうことだろうと思います。
 
金光:  記録を中心に考えた聖徳太子像というと、今のようなところから、当時の姿勢といいますか、生き方乃至対外的な方向では、こういうふうな姿勢でやるんだ、というのは大体伺うことができたと思うんですが、現実に聖徳太子が亡くなられた後、また随分聖徳太子の影響というのは随分続いているわけですが、聖徳太子自体がどこまで自分たちの一族が続くとか、そういうことはあんまりお考えになっていらっしゃらなかったんでしょうか?
 
石井:  これは聖徳太子、いわゆる上宮(じようぐう)王家がどうなるかは、みなわかっていたというのが、鎌倉から室町ぐらい―中世にかけての太子伝、いわゆる伝記の中には出てくるんですけど、あれはやはり作り話だと思います。太子自身は、この先どうなるだろうと、おそらく蘇我氏は、どこまで味方してくれるのかとか、自分の息子は天皇になれるのかとか、いろんな不安を抱えながら、そのまま亡くなったんではないかというふうにみております。ただ一つ大事なことは、太子の周辺の人たちは、聖徳太子のことを、お釈迦様のような、仏さまとは思ってはいなかったようですけども、死んだ後、天に生まれる。天に生まれて、また人間世界の王様の家に生まれる。そこで修行して、また亡くなって、天に生まれ、また天から人間世界の王様のところに生まれてきて、そこで出家して仏になる。つまり二回か三回の生まれ変わりを重ねた後、仏さまになる存在として見ていたと思われます。ですから、その意味では、お釈迦様にある程度重ねて見ていた。ですから、後になって聖徳太子信仰が起こってくるというのは、聖徳太子の亡くなる頃から既にそういう要素があったと考えるべきだというのが、今回資料の分析からはっきりしてきたことです。
 
金光:  としますと、周囲のというか、蘇我氏とか、そういう豪族がある程度滅びたにしても、その豪族の中だけでも随分あの時代は、縺(もつ)れに縺れて殺戮(さつりく)が繰り返されるような時代であったようですけれども、そういう中で聖徳太子は、やっぱり事実は冷徹にご覧になって。
 
石井:  かなり冷静で悲観的な見方をしていたと思います。それは憲法十七条を見ればわかるんですけど、人間というのはどうしても間違うものだみたいな、そういう見方をしていますね。ただし、それは一般の氏族、豪族に関してであって、自分自身に関しては、どちらかというと、賢明なる存在とみていたのではないかと思われます。というのは、結局そういう教育を受けてくるわけです。中国でも皇帝は、「あなたは普通の人とは違う」というふうに教え込まれて、そして特別な教育を受けて育っていくわけですね。聖徳太子の場合も、多分同じだったと思われます。
 
金光:  そうですね。血筋としても、そういう天皇になる資格は十分持った血筋に生まれていらっしゃいますし、殊に若い頃から賢いことでよく知られていますと、帝王学といいますか、そういうものを若い頃教えられるのも、これも自然の勢い、自然の方向として、そういう教育はお受けになっていらっしゃったでしょうね。
 
石井:  はい。ですから、多分百済から来た人、百済から来たお坊さんなどの教育を若いうちから受ける。ですから私自身は、聖徳太子は、百済の言葉を喋っていたのではないかと考えています。つまり現在の平成の天皇が皇太子でいらっしゃった頃、アメリカ人の婦人が来て英語を教えるような形で多分習っていたであろうと。というのは、その頃仏教に関しては、今でも百済ふうなといいますか、韓国ふうな読み方がまだ残っているんですね、注釈の中で。
 
金光:  そうですか。
 
石井:  つまり「何々は」というのを、法隆寺なんかに残されている文献は、「何々イイ」というんですけど、この「イイ」というのは、韓国語の「が」に当たるものなんですね。つまり伝統を誇る法隆寺の学問は、朝鮮語を交えて訓読するやり方を今日まで伝えているのです。ですから、多分その頃の難しい儒教の注釈、あるいは仏教の勉強しようとかいう時は、かなり百済語は使ったのではないか。それは日本の明治初期の大学なんかが、英語やドイツ語で授業をやっていたような、あれに近い状況だっただろうと思われます。それがやがて二十年、三十年、五十年経って、だんだんだんだん日本語でそれが出来るようになっていった。そのきっかけを作ったのは、多分聖徳太子だろうというふうに考えています。
 
金光:  そういう意味では、多方面に聖徳太子のお考えなり、あるいは勉強されたことが影響を後世に残しているということは言えるわけでございますね。
 
石井:  はい。ですから、これだけ聖徳太子については、いろいろな伝説があるわけですけど、これほどいろいろな伝説が残っており、あるいは聖徳太子の名前の呼び方も、それこそ「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」「厩戸王(うまやどおう)」「上宮太子(じようぐうたいし)」だとか、いろんな呼び方が残っているんですけど、これほど様々な名前が残っている人はいないので、これは早い時期から伝説化されていたんだろうというふうに思われます。
 
金光:  大体「聖徳太子」という言葉自体は残っていないんだそうですね。
 
石井:  はい。「聖徳太子」という言葉自体は、奈良時代の『懐風藻(かいふうそう)』という漢詩集に出ておりまして、これが大体八世紀の半ばぐらいなんですが、ただし「聖徳」という言葉と「太子」という言葉は、七百二十年に撰進された『日本書紀』に出てきますので、要素は実は『日本書紀』でも揃っているわけです。私は、おそらく「聖徳」という言葉は、太子が生きているうちから使われたであろうと。そして「太子」という言葉は、律令制が確立されなければ使われないというのが、太子を否定する人たちの主張なのですが、実は朝鮮半島では、もう六世紀の初め頃から太子という言葉は使っておりました。そういう人たちが、日本に来て教えるわけですから、聖徳太子のことを「太子」と言ってでも別に不思議はないということです。
 
金光:  しかし、後世の伝説にしても、南嶽慧思(なんがくえし)(慧思禅師:中国の天台宗開祖の天台智(ちぎ)の師の南嶽慧思:515-577)の生まれ変わりだとか、あるいは「片岡飢人伝説」(皇太子が片岡に遊行したところ、道の傍らに飢えた人が横たわっており、名を尋ねても応えなかった。皇太子は飲食を与え、衣を脱いで飢えた者を覆い、「安らかに臥せ」と言って、「飢えて臥せっている旅人が哀れであることだ」という歌を詠んだ。翌日、使者をつかわして見に行かせたところ、飢えた者は既に死んでいたために、皇太子は大いに悲しみ、その場に埋めて墓を立て固く封じさせた。数日後、皇太子は侍者に対して、あの者は凡人でなく、必ず「真人」であろうと語り、見に行かせると、墓は封じてあったのに、開けてみるとしかばねが無く、衣が棺の上に置かれていたと報告された。そして皇太子は、侍者に衣を取ってくるように命じ、その衣をいつものことのように身につけたため、世間の人は大いに不思議なことだとし、「聖の聖を知ること、其れ実(まこと)なるかな」と言って、いよいよ皇太子を畏れかしこまったことだった、とあります)という、なんかちょっと現代から考えると、〈あれっ!〉と思うような伝説もできているようですけれども、こういうのもやはりそういう元々の聖徳太子という方の大きな人間像というのを伝え聞いた人が、じゃ、こういうこともあったんではなかろうか、みたいな形で作り上げたものなんでしょうか。
 
石井:  「片岡山の飢人説話」は、ちょっとわからないんですけども、聖徳太子がお経の講義をした時に、天から花が降ってきたというような伝承もあるんですが、実はこういうのは褒める時の決まり文句なんですね。誰々がお経を講義すると、実に見事なので天から花の雨が降るようであったと。「ようであった」みたいな言い方が次第にこう「降った」というふうに変わってくるわけでして、ですからいくらこんなことはないだろうというふうに、そこだけ捉えて否定すると、元になった事実まで否定するのは、ちょっと行き過ぎたろうと。勿論全く後になって作られた説話というのはたくさんあるわけです。しかしだからといって、すべての伝説が後代になって作られたものではないということですね。
 
金光:  それから先ほどのお名前のことですけれども、私、現代の教科書のことなんかほとんど知らないんですが、「厩戸(うまやど)」というのは、これは元はそういう形で呼ばれていたものなんでしょうか?
 
石井:  ところが「厩戸」という言葉は、実は四天王寺系の資料に出てくるものでして、法隆寺系の資料には出てこないのですね。実は「厩戸王」という言い方は、あれは文献には全く出てこない名前なんですね。あれは聖徳太子はあまりにも伝説化されているから、やはりなるべく客観的に考えましょう、というふうに考えた広島大学の小倉豊文(おぐらとよふみ)(1899-1996)先生が、「仮にこういう名前で呼んでおく」というふうに設定したのが、「厩戸王」なんですね。ところがそれを後にベストベストセラーになりました田村圓澄(たむらえんちよう)先生が、『聖徳太子』という本をお書きになりますが、この中で「信仰上の人物としての聖徳太子」「歴史上の人物としての厩戸王」というふうにして、何の説明もなしに使ってしまったので、実は日本史の専門の研究者も、なんとなく「厩戸王」が本名だと思い込むようになってしまったんです。ですから実は「厩戸王」こそいなかったのです。
 
金光:  そうなんですか。
 
石井:  ところが教科書に載っているんですよね、一部の教科書ですが。ですからこれはちょっと考えていかなければいけないんじゃないかなと思います。
 
金光:  そういう意味でも、現代のような科学文明が発達していた時代ですと、「嘘」と「実」の区別というのは、これからはもっとはっきりすることができる方向にいけるでしょうね。
 
石井:  はい。ですから大事なことは、古代に関しては古代人の常識で考えなければいけないとこですね。我々現代から考えれば、この当時、こんなのがあるはずがないというふうに考えるんですけど、昔の人の考え方は全然違いますので。ですから、こんな伝説は死んでから百年ぐらいだろうとか、そういう考え方は全くダメです。実際、この当時中国の皇帝なんかを見ても、もうまさに聖人君子として、あるいは神であり、仏であるというふうに絶賛するのが礼儀ですね。ですから、そういうふうに書かれているから、いや、これは百年後の伝説だなんていうふうにいうことは全くできないということです。
 
金光:  じゃ、そういう意味では、これからも聖徳太子の実像については、はっきりした姿が次第に出てくる可能性は十分あるだろうという気がするんですが、一つだけ、私、先生の本を拝見した中で、今まで見過ごしていたんですけれども、親鸞聖人の和讃の方に、聖徳太子を褒め讃える和讃が存在しておりますですね。
 
石井:  「和国の教主、聖徳皇」と詠って敬慕している。
 
金光:  あの親鸞聖人は、しかも六角堂でお参りしたときには、観音様の予告といいますか、受けたというような話まであって、本当に親鸞聖人のこの世は信心と、それから聖徳伝説というのが非常に密着しているなと。聖徳太子のような方を、親鸞聖人があれだけ大事に、これこそ日本に長く伝えて大事ににしなければいけない人だという和讃を作っていらっしゃるというのは、これはやっぱり考えなければいけないことかなというふうに思いながら拝見したんですが、あの点については、先生、どういうふうにお考えでしょうか?
 
石井:  これが非常に不思議なことなんですけど、親鸞は熱烈な聖徳太子信仰を抱いているんですけども、『三経義疏』などきちんと読んでいるようには思われないんですね。ですから、おそらくただ若い頃の親鸞が悩んでいたのは、自分の欲望について悩んでいたと。特に女性関連の欲望を抑えられないと。ところが日本の過去において、奥さんがいながら、子供までいながら、仏教の道を歩まれた。そして人々を浄土に導く存在となったという例として、聖徳太子がいたというのが、親鸞にとっては重要な点だったろうと思われます。実際親鸞も結婚するわけですし、ですから聖徳太子はいろいろな面がありますし、いろいろな伝承もあります。そうすると、それぞれの時代の人が、全部自分にとって望ましい在り方として聖徳太子を見るということですね。ですから私は、授業などでもいうんですけれども、聖徳太子をどのように見ているかを調べれば、それぞれの時代、あるいはそれぞれの人がわかるんだということですね。ですから親鸞が描いている聖徳太子は、あくまで親鸞が見て、こうであってほしいと望んでいた聖徳太子だったということだと思います。
 
金光:  やっぱり時代によって、随分評価が偏ったり、褒められたり、貶されたり、もう毀誉褒貶、これほど凄まじい、しかも逆転逆転みたいな人はないようですが。
 
石井:  「和を大事にした平和主義者だ」と言われるかと思うと、物部守屋(もののべのもりや)に対する戦争に勝った「戦の神だ」と武士に信仰され、江戸時代で国学が盛んになってくると、神国―神の国に仏教などという外国の汚らわしい教えを入れた大悪人ということになりまして、で明治時代時代になると、大きな国と平等の外交をやった外交の偉人と。戦争中は天皇第一主義である立派な国家主義者、戦後は話合いを尊ぶ民主主義者、本当に時代によって評価が変わりますので、ですから本当に我々は、聖徳太子について考える際は、自分は心の中では、どういう聖徳太子であってほしいと思いながら研究しているのか。それは自分は何故そう思いたいのかということを反省するということが、実は聖徳太子研究にとって一番重要なことだと考えているんです。
 
金光:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十八年八月七日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである