日蓮聖人からの手紙D子を亡くした母への手紙
 
                    立正大学教授 北 川(きたがわ)  前 肇(ぜんちよう)
 
ナレーター:  シリーズ「日蓮聖人からの手紙」。日蓮聖人が遺した手紙を毎月一回、十二回にわたって読んでいきます。第五回は「子を亡くした母への手紙」と題してお送りします。お話は立正大学教授の北川前肇さんです。
 
北川:  およそ二千五百年前、インドに誕生されましたお釈迦様が、私たちの人生の有り様を示された一つの教えといたしまして、この世に命を受けたものは必ず死を迎えなければならないということでありましょう。これは誰もが平等に受けなければならない定めであると思うのです。そのことは、この世に生存するすべてのものは移りゆくものである、という真理を示されているのです。そのことをお釈迦様は、「諸行無常(しよぎようむじよう)」という四文字で、私たちに諭されています。そして私たちの生存する苦悩を、この世に誕生する苦しみ、歳を重ねて老いる苦しみ、命を受けている者が遭遇する病の苦しみ、そして死を迎えなければならない苦しみを、「生老病死」の四苦として説き示されています。このように御仏は、私たちが今ここに生きている姿を明らかに示されることによって、この苦悩から逃避することなく、苦悩と向き合い、日々の生活の中で、これらの苦悩を克服する生き方、すなわち真理に基づく正しい生存のあり方によって、一瞬一瞬を、さらに一日一日を、そして一生涯を貫くように教えられていることを知るのです。けれども、このように尊い教えを示されてはいましても、私たち自身がどのように死を迎えるべきか。あるいは他者の死をどのように受け入れるべきか、その場に直面いたしますと、心を取り乱し、自分自身を見失ってしまうというのが、私たち凡人の性(さが)であると思うのです。しかもその死の現実は、年老いた人が先にたち、若き人がとどまるというのではなく、「老少不定(ろうしようふじよう)」の四文字が語りますように、年若き人が先立ち、歳を重ねたものがとどまるということも知るのであります。ところで私は前回「父を亡くした子への手紙」と題し、南条兵衛七郎の子息で、父の逝去の後、南条家の大黒柱としてその責任を担った南条の七郎次郎時光についてお話申し上げました。そして数えの六歳違いの弟七郎五郎が、弘安三(1280)年九月五日、数え年の十六歳にして、突然死去することを少しく触れました。今回は、この七郎五郎の死を巡って、母尼の悲しみに対して、聖人の心のこもったお手紙が、九通ほど残されていますので、その母尼に対する手紙を中心にお話申し上げたいと存じます。聖人が、五十九歳を迎えられた弘安三年九月六日、今日の富士宮市の上野郷(うえののごう)から山梨県身延山へ南条兵衛七郎の五男、七郎五郎の逝去の知らせが届きました。三ヵ月前の六月十五日には、兄の時光(ときみつ)と弟の五郎とは、身延の聖人のもとを訪ねていたのであります。それは弘安三年七月二日付の時光に与えられました手紙の一節に、「去ぬる六月十五日のけさん、悦び入って候」と述べられていますことから、兄弟二人が聖人のもとへ訪問していたことが知られるのであります。また七郎五郎の死去からおよそ半年後の弘安四年三月十八日付の手紙には、
 
さて、亡き五郎殿のことを思い出しますと、いまでも新たな悲しみがわきおこるのですが、実際にお会いしてから、ずいぶんと時間が経ってしまったのではないか、とさえ思われてなりません。
 
と述懐されていますから、この兄弟は身延の聖人を訪問していたことが知られます。前回少しく触れましたように、兄の時光は、のちの弘安五年三月一日から四日まで聖人のもとを訪れていたことから、南条兄弟は直接聖人のもとへ出向くことを慣いとしていたことが知られるのであります。勿論そのきっかけは、父の南条兵衛七郎が死去した際、聖人が鎌倉から富士宮まで墓参されたことに由来しているものと思われるのであります。さて、五十九歳という老いを迎えられた聖人のもとに、十六歳という若き武者の死が報じられますと、聖人はその返事を真筆三紙にわたって認め、使者に託されることになります。その宛所は、「上野殿御返事」とありますことから、南条家の当主である時光宛になっています。その内容は、母尼に対し、大切な御子を失った悲しみを、聖人ご自身の悲しみとして綴られていることが知られるのであります。今、この全文を現代語訳でご紹介したいと存じます。
 
南条兵衛七郎五郎のお亡くなりになられたということをうかがいました。人がこの世に生まれ、死ぬという定めは、智恵ある人も、そうでない人も、身分の高い人、低い人にかかわらず、すべての人の知るところでありますから、人が死んだからといって、その時に初めて嘆くとか、驚くということは、改めて感じるものでは無いということを、私自身も承知していますし、他者へもそのことを教えてきました。けれども、今ご子息の五郎殿のご逝去に直面いたしますと、夢ではないのか、幻ではないのか、と感じられ、心が虚ろで、いまだはっきりと受け止めることができません。私日蓮でさえそうでありますから、まして母上であるあなたのお嘆きは、あなたご自身実の父母にも、兄弟にも死別され、そのうえ最愛の夫を亡くされていますことから、幸いそのような中でお子たちが多くいられることで、それを心の慰めとしていらっしゃったことでありましょう。ところがこのたび、とても可愛いお子、しかも男の子。顔かたちもすぐれ、こころも頼りがいのあるように思われましたから、周囲の人たちも、将来を楽しみにされていました。そのようなお子を亡くされたのは、無情にも、つぼみを持った花が嵐によってしぼみ、皓々(こうこう)と照り輝く満月が、たちまち暗雲に隠れてしまったようだとお思いになられていることでありましょう。私は、いまだ本当のこととは思えませんので、そのことについて、何かお書きすることすらできません。いずれまた、お便りいたします。つつしんで、申し述べました。
九月六日 日蓮 花押
上野殿御返事
 
日蓮聖人の著述を拝見いたしますと、道理や文献を重視される仏教者であることが知られるのでありますが、この真筆三紙のお手紙は、決して道理を説かれるのではなく、大切なお子を亡くされた母尼の悲嘆の極みを推察され、その母尼の悲しみに添われながら、ただ涙されている日蓮聖人がそこにあることがうかがえるのであります。つまり七郎五郎の死を決して客体化されるのではなく、大切な命が失われたことに対しまして、この事実を受け止めるには、日蓮聖人ご自身の心が乱れ、呆然と立ちすくまれていると告白されているのです。このように、聖人ご自身の悲しみを描写されることによって、母親である上野尼の心中を十分に押し量られていることが知られるのであります。しかも聖人は、七郎五郎の死去の事実を未だ受け入れることができず、心の整理がつかないことから、改めて筆をとることを約束されて、この手紙は結ばれているのであります。『昭和定本日蓮聖人遺文』に従い、順次南条氏に宛てられた手紙を抽出いたしますと、おそらく七郎五郎死去の後日、すなわち三十五日忌(小練忌(しようれんき))、四十九日忌(大練忌)、百箇日忌等に南条家からの追善供養の品々が届けられ、聖人はその折、菩提のための廻向をせられたものと拝察されます。そしてその内容も順次経文へと変化していることが知られます。そこで亡き子息の南条七郎五郎に触れられている手紙を整理いたしますと、九篇ほど確認できますが、四十九日忌に当たって長文の手紙が与えられておりますガイドブックの三番目に挙げました手紙を中心にお話申し上げたいと存じます。七郎五郎の死去の知らせに対する手紙が、先ほど拝読いたしました弘安三年(1280年)九月六日付の第一番目であります。第二番目は、第一紙十行の断簡の手紙が一番目と同じく、今日の富士宮市の大石寺に所蔵されています。その十行を原文でご紹介いたします。
 
白米一袋、芋一駄(いちだ)(馬一頭分の荷物)給(たま)ひ了(おわ)んぬ。抑(そもそも)、故なんでう(南条)の七ろうごろうどのの事、いままではゆめ(夢)か、まぼろし(幻)か、まぼろしかとうたがいて、そらごととのみをもひて候へば、此の御ふみにも、あそばされて候。さてはまことかまことかと、はじめ(始)て、うたがいいできたりて候。
 
このように、一紙十行で、後半が欠けていますが、この手紙は七郎五郎の死去から間もない手紙でありますことから、第一書と同様に死去の事実が受け止められない心情を述べられながらも、白米一袋と芋一駄とが、故七郎五郎の追善供養のために届けられた事実から、故人の死去を夢か幻かと疑われていた状況から、現実のことと報ぜられていることもございまして、夢か幻かという認識が誤ったものであったかと、かえってご自身の疑問を提示されることによって、遺された南条家の人々への悲しみに寄り添う日蓮聖人の深い思いやりを感ぜずにはいられないのであります。次いで、第三番目の手紙は、故七郎五郎の四十九日忌、すなわち満中陰忌(まんちゆういんき)にあたるものであります。この手紙は、弘安三年十月二十四日付けで、宛名は「上野殿母尼御前御返事」となっています。しかも聖人の真筆は、三紙の断簡が残されているだけでございますけれども、第二十八紙の十三行が、富士宮市の小泉久遠寺(こいずみくおんじ)に、次いで第二十九紙の本文七行と末尾二行からなる一紙が、同じ富士宮市の北山本門寺(きたやまほんもんじ)に護持されていますことから、この手紙は、全二十九紙という長文の手紙であることが知られるのであります。既に述べましたように、第一番目の手紙は、三紙という簡潔なものであるのに対しまして、四十九日忌追善供養の手紙がいかに長文であるかが知られるのであります。なお『日蓮聖人御遺文講義』第十四巻の解釈に従いますと、この手紙の全体は、八段に分けられていますので、この解釈に従いたいと思います。まずこの手紙の第一段は、故七郎五郎の四十九日忌の菩提のために供養の品々が送られたことに対するお礼が認められています。すべて現代語訳でご紹介いたします。南条の故七郎五郎殿の四十九日のご冥福のためにお送りいただきました品々の記録に次のようにあります。
 
鵞目(がもく)、すなわち銭二貫文、白米一駄(いちだ)、芋一駄、―一駄というのは、馬の背に担わせる量を一駄と呼ぶようでございます―すり豆腐、蒟蒻(こんにやく)、柿一篭、柚(ゆず)五十箇等有り難く頂戴いたしました。追善供養のために法華経一部を読誦し、自我偈(じがげ)を数回お唱えし、南無妙法蓮華経のお題目を百千遍お唱えしてご廻向申しあげました。
 
このように、子息七郎五郎の追善のため、多くのご供養の品々が、身延の日蓮聖人のもとへ届けられているのであります。このことからも、南条氏が、聖人の宗教活動を支える有力な信徒だったことがうかがえるのであります。このご供養の品々を受け取られた聖人は、法華経一部、すなわち法華経八巻二十八品を読誦され、「如来寿量品(によらいじゆりようぼん)」第十六の偈文であります五百十文字の自我偈を数回、そしてお題目を数多く唱えて追善の廻向をなされた事実が知られるのであります。このことからも、聖人は仏教者として、死者への追善供養を営まれていることが知られるのであります。そこには聖人は単に仏教理論を説く人ではなく、仏道の実践者として生者を導くと同時に、死者の安らかなことを祈られる法華経の行者としての姿が鮮明となるのであります。次いでこの手紙、第二段へと移りますが、ここでは釈尊のご一代の教え、すなわちご聖教(しようぎよう)の中で、法華経の教えが最も尊いことを、より具体的に経文等の引用のもとになされているのであります。この箇所を拝見いたしますと、文永元年(1264)十二月、すなわち十七年以前に、母尼の夫であります病床にあった兵衛七郎に対しまして、「教(きよう)・機(き)・時(じ)・国(こく)・序(じよ)」の「五義(ごぎ)」の摂理のもとに、末法の私たちにとって、いかに法華経の教えが尊いものであるかを長文の手紙、かつ細やかに示されている心遣いと同様のものも感じるのであります。次いで第三段では、この法華経に帰依を捧げていた子息の故七郎五郎殿の成仏は疑いないことを記されているのであります。すなわち次のようなものでございます。
 
故七郎五郎殿は、いまの日本国の人々と比べてみますと、似ることのないお人でした。ご幼少の頃から賢い父の遺されました法華経信仰を継承され、歳がまだ二十歳にも満たない若さで、「南無妙法蓮華経(なむみようほうれんげきよう)」のお題目を唱えて故人となり、成仏されました。法華経の方便品に、一人として成仏しないものはないと説かれているのは、このことに他なりません。乞い願われることがありますとすれば、母上が我が子五郎殿のことを恋しくお思いになれるのであれば、「南無妙法蓮華経」とお唱えになり、夫の南条殿と故五郎殿と三人が一つのところに生まれるようにとお願いをなさいませ。一つの種はどこまでも一つの種。別の種はどこまでも別の種で、同じ妙法蓮華経の御仏の種を心に植えるならば、同じ仏の種が成熟して、同じ妙法蓮華経の仏の国へお生まれになられることでありましょう。そして、親子共々三人が顔を揃えられた時のお喜びは、どれほど嬉しくあられることでありましょうか。
 
このように法華経の教えをもととして、先にこの世を去った父と子と、遺された母とが、妙法蓮華経の仏の種によって仏の国という一つのところによみがえることを保証されているのであります。確かに私たちは、有限的な世界に生きておりますと、このように再生や再会を説いたといたしましても、その説示に限界が伴うものであります。しかしそこに宗教的な永遠なる存在を想定し、さらに永遠なる仏の浄土が解き明かされることによりまして、死を超克した命の再生や、死者との再会が宗教的信仰的事実として説き示されていることを知るのであります。このように、故七郎五郎の四十九日忌を迎えた手紙の内容が、初めにご紹介致しました九月六日の手紙とは、その表現方法に違いが見られることを知るのであります。そこにこそ日蓮聖人の時と所に応じた、そして信徒への導きがなされていることを知るのであります。次いで第四段では、法華経への信仰を捧げる人には、仏法を守護される天の神々たちのみならず、釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏が常に守護されることを説いて、次のように示されているのです。
 
この世に尊い法華経を、故五郎殿はご信心なされて仏におなりになって、今日は四十九日となるのでありますから、すべての御仏たちが霊山浄土にお集まりになって、五郎殿を両手に坐らせてくださり、あるいは頭を撫で、あるいは抱いたり、あるいは喜ばれることでありましょう。それはあたかも満月が山の端から昇り、春の花が初めて咲き誇るように、御仏たちがいかに喜ばれ、お子を可愛がられることでありましょう。
 
このように四十九日忌を迎えた故七郎五郎が、御仏からの守護を受けられていることを日常の場面に託して表現されているのであります。そしてそれは母尼が、この子息が十六歳までいかに慈愛に満ちた育て方をなされていたのかを描写するものであった、と拝察できるのであります。次いで第五段では、三世十方の御仏たちが、この法華経、およびその信仰者を守護される由来を示され、第六段では、輪陀王(りんだ)と白馬との説話を引き、馬鳴(めみよう)菩薩が法華経によって祈られたことで、輪陀王(りんだ)の統治される世が如何に泰平に治まったか、という故事を示されています。そして第七段では、法華経を保つ信仰者は、諸仏のみならず、日本国の神々たちの守護があることを再び説かれることになります。そして最後の第八段において、愛しい子を失った母尼への慰めを示され、合わせて法華経信仰を勧められて、その手紙は結ばれているのであります。
 
抑も故五郎殿が、お亡くなりになられてから、すでに四十九日になります。この世が無常で、移りゆくものであることは道理ではありますが、人様が亡くなられたことを聞くだけでも悲しみに耐えられないものであります。ましてや母の身にとって、また妻の身にあってはなおさらのことであります。そのご心痛のほどが推察されます。ところで人の子には幼い子もあれば、大きく成長した子もあり、また見目のよくない子もあり、五体の不自由な子もありますけれども、可愛いという情愛には変わりはありません。故五郎殿は、男の子である故、すべてのことに通じて、心の優しい人でありました。夫の故上野殿は、あなたがまだお若い時に死別されましたので、その時は随分とお嘆きもひとしおのことでありましたから、お腹にこの子五郎殿さえなかったならば、火にも入り、水にも入りたいお思いにもなられ、夫の後を追いたいと思われたことでありましょう。しかしこの子が無事に誕生いたしましたので、誰かにこの子の将来を頼んで、身をも投げ、夫の後を追うつもりで心を慰められつつ、この十四、五年を過ごされてまいられましたことでしょう。それであるのにどうしたらいいのでしょうか。あなたは二人の男の子に荷(にな)ってもらおうと頼もしく思われていましたのに、今年弘安三年九月五日、月が雲に隠れ、花が風に吹き散らされてしまったように、夢であるのか、否夢であるまいか。夢であるならば、あまりに長い夢ではあるまいか、と嘆きつつ、確かに四十九日を迎えたのです。もしもこの別れが本当であるならば、いかにすべきでありましょうか。咲いた花が散らずに、つぼみの花が枯れたように、老いた母が残って、若い子が先立つとは、まことに情けのない無常のはかない世の中でありましょうか。このような頼りのない無情の浮き世を捨て、この世の価値にとらわれることなく、故五郎殿が信仰を捧げられていました法華経に御身を任せ、永遠にして、決して追われることのない御仏のまします霊山浄土へとまいられる覚悟を決められることが尊いことであります。父は霊山へ在し、母は娑婆世界にとどまっていられる。その父と母との中間にある故五郎殿の心中を思い計りますと、哀れにもまた悲しいことであります。まだ申し上げたいことも多くありますが、ここでとどめることにいたします。畏れながらも謹んで申し上げました。
十月二十四日 日蓮 花押
上野殿母尼御前御返事
 
このように子息の四十九日忌にあたり聖人は法華経の行者として、死者をしっかりと霊山浄土へと導かれ、また生者をその御仏の在す霊山浄土へと導く信仰を示されていることが知られるのであります。そして母尼へ与えられました九篇目の最後のお手紙は、翌弘安四年(1281)十二月八日付でありますが、聖人は病気のために体が衰え、老いを迎えられたことで、ご自身の最期を強く意識されております。そしてその手紙の結びは、次のように記されているのであります。
 
私日蓮は、病気のため皆様方からの手紙に対してお返事も書かずにいましたが、故五郎殿のご逝去のことがあまりにも悲しく思われますので筆をとった次第です。私自身、もはや長くこの世にとどまることはないでありましょう。きっと近いうちに霊山浄土で五郎殿とお会いすることと思います。母であるあなたより先にお目にかかるならば、母上がどれほど嘆き悲しまれていたかお伝えいたしましょう。恐々謹言。
十二月八日 日蓮 花押
上野殿母尼御返事
 
このように母尼よりも先に死を迎えることを覚悟されている聖人は、自ら霊山浄土へ赴いて、母の悲しみを子息の七郎五郎殿に伝えることを約束されているのであります。では第一番目の手紙であります子息の七郎五郎の訃報に対する返書を原文で拝読しておきたいと思います。
 
南条七郎五郎殿の御死去の御事、人は生れて死するならいとは智者も愚者も上下一同に知りて候へば・始めてなげ(嘆)くべしをどろ(驚)くべしとわをぼ(覚)へぬよし・我も存じ人にもをしへ候へども・時にあたりて・ゆめ(夢)か・まぼろし(幻)か・いまだわきま(弁)へがたく候、まして母のいかんがなげ(嘆)かれ候らむ、父母にも兄弟にも・をく(後)れはてて・いとをし(最愛)きをとこ(夫)に・す(過)ぎわかれたりしかども・子ども・あまた(数多)をはしませば心なぐさ(慰)みてこそ・をはしつらむ、いとをしき・てこご(子御)・しかもをのこご(男児御)・みめかたち(容貌)も人にすぐ(勝)れ心も・かいがいしくみ(見)へしかば・よその人人も・すずしくこそみ候いしに・あやなく・つぼ(蕾)める花の風にしぼみ・満つる月の・にわか(俄)に失(うせ)たるがごとくこそをぼすらめ、まこととも・をぼへ候はねば・かきつくるそらも・をぼへ候はず、又又申すべし、恐恐謹言。
  弘安三年九月六日          日 蓮  花 押
   上野殿御返事
 
     これは、平成二十八年八月十四日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである