戦場で出会った十字架
 
                  日本聖公会沖縄教区司祭 石 原(いしはら)  絹 子(きぬこ)
一九三七年、現在の沖縄県南城市に生まれ。
                  き き て       西 川  啓
 
ナレーター:  今日お話し頂くのは、日本聖公会(せいこうかい)沖縄教区の司祭石原絹子さんです。石原さんは、七歳の時に沖縄戦を体験します。そこで十字架と出会い、戦後三十年近く経って、移住先の熊本で語り部としてその体験を語り始めます。やがて沖縄に戻り、司祭になります。二ヶ月に及ぶ地上戦を生き延びた七歳の少女の瞳に、沖縄戦はどのように焼き付いているのか。そして何故その記憶を七十一年経った今も語り続けるのか。「戦場で出会った十字架」石原絹子さんのお話をお聞きください。
 

 
西川:  戦争が終わって、七十一年が経って、今、あの戦争を振り返ってどう思われますか?
 
石原:  戦争を振り返って思いますのは、まずいつも私が繰り返し思いますのが、父も母も生きていたならば、三十三歳と三十七歳の若さで亡くなったから、まだまだ子どもたちを育て上げるのに一生懸命な年齢ですよね。これから働くぞというふうになったときに戦争に巻き込まれていったという。そうした父の思い出というのは、胸の中はどんな思いだったんだろうな。多分私が想像できないような父の悔しさ悲しさがあるだろうなって思うんですね。母の場合は、母もまた子どもたちを育てるのに本当に私たち子どもたちを大事に育ててくれたので、母への思いというのはものすごく強くて、「生きる時も一緒で、死ぬ時も一緒で」と、合言葉のようにして、ズーッと戦場を逃げまわったんですけども、七十一年経って、戦争は多分消えていったのかなと思うんですけど、そうじゃなくて、「新たな思い」というのがなぜか不思議と繰り返し出てくるんですね。父だったら、母だったら、三年生の兄だったら、どうだったろうかなって。そこはもうわからないけれども、わからないけども繰り返し繰り返し自分の心の中で、〈もしかしたら、ああだったかな、こうだったかな〉って思いますね。父は戦争に行っていませんのでね。防衛隊として行っていますので、母と私たち―子どもたちだけ残っていて、母はなんか全身やけどを負ってしまうんですね。首里城が堕ちて、南部の方に逃げるようになった時に、母も一緒に逃げて行くわけですけれども、ある防空壕みたいな小さな隠れ家を探すわけですね。そこで私たち家族の母と小学三年生の兄と私と、三歳と一歳の妹が居るわけですね。そこに隠れていました。その時にはもう本当に爆弾が雨のように落ちてくる中を、夜逃げまわってやっと見つけた防空壕ですね。ある時突然日本兵が入ってきて、三歳と一歳の妹を見て、「この子どもたちを殺すか。そうでなければここから立ち退け!」って。「ここは使う」というわけですよね。そうしたら、母が言ったですよね。母がその時言ったのは、すごく記憶に残っている。「この何より大事な子どもたちを、あなたたちに殺させては生きられない!」って言ったんですね。その兵隊さんを見ると恐いですよ。殺気が場内に、防空壕の中にあっていて、私も泣きながらブルブル震えていたんですけど。この妹たちどうなるだろうと思ったら、私が頑張らなければいけないと。咄嗟に「お母さん、一歳の妹を私がおんぶするよ。三歳の妹は私が手を引くから大丈夫だよ」って、ぶるぶる震えながら言ったんですね。そして、「早くこの防空壕から出て行こう!早く行こう!」って。その時母がズッと繰り返して言ってくれたのが、「生きる時も一緒だよ、死ぬ時も一緒だよ。怖いことないよ!」って、繰り返し言ったんですね。出て行くと、防空壕の外は本当に辺り一面人が居て、空が真っ赤に染まっているんです。初めてあんな光景を見て、足がすくんで動けなくなったんですね。爆弾がどんどん落ちてきて、妹をおんぶして、とにかく逃げなければいけない。どこに逃げたらいいのか、どこ行けば助かるのか全く分からないけども、前の人が逃げるから、それについて逃げる。摩文仁丘(まぶにのおか)に逃げて行くわけですね、南部戦線に。誰か知らないけれども、、私の足をつかんでいる人がいるんですね、その逃げていく時に。「助けて!助けて!」というんですけど、これが誰なのかわからないけども、私も恐ろしくなってですね、足で蹴飛ばして、私はとにかく進んで行ったんですけれども。昼も夜もですね、戦場は濛々(もうもう)としているから。花火のような照明弾を、昼もどんどん打ち上げて、辺りは煙でわからないぐらいの爆弾が落ちてくるわけですね。私たちもだからそうした中で、私はふと自分に返ったんですね。そうすると、今まで一緒にいたはずの母がいない。兄がいない。その辺が凄く私は今でもわからないんですけど。私たちが爆風で飛ばされて別のところに行ったのか。私たち三人―妹の手を引いて、おんぶしている三人が爆風で飛ばされたのか、それとも母たちが飛ばされたのかわからない。とにかく居ないわけですよ。お母さんを探さなければいけないということで、一生懸命何か必死になって何か探したんですけども居ない。周囲に誰か助けてくれる人はいないだろうかと思って周りを見ると、誰も生きた人はいない。死体ばっかりズーッと転がっているんですね。もうどうしていいかわからない。「助けて!助けて!」って、誰もいない。お母さんを探さなくちゃいけないということで、三歳の妹の手を引いて、「お母さん!お母さん!」と死体の山を踏んづけ踏んづけ行ったんですね。そうすると、何日も経って、腫れている死体を小さい者は跨ぐことができないからそれを踏んづけて行こうとすると、パンとはらわたがパンパンと。膿やらウジ虫がドロッと流れてきて、それが私たちにかかるんですね。でも臭いとか、もう汚いとか、そういう感覚全く失ってしまっているんです。匂いが全くわからく分からなくなっていましたね。そうして三歳の妹の手を引いて、お母さんを必死になって探しましたね。「お母さん!お母さん!」と探して、やっと探し出した時には、たくさんの一面血だらけの中に、岩の下敷きになって、母の血が飛び散っている。もうたくさんの人が死んでいる。母も兄もそこで亡くなっていました。そのあまりの悲惨さに、私は悲鳴をあげたんですね。悲鳴をあげて、恐ろしくて悲鳴上げて後ずさりしたけど、また思い直して、「お母さん!死なないで生きて!」一生懸命揺り起こしたんですね。「生きている時も一緒、死ぬ時も一緒と約束したでしょ!お母さん起きて!死なないで!」もう必死になって起こすけれども、冷たくなったいることで。兄のところに「兄さんも起きて!起きて!」一生懸命揺る動かしたけれども、亡くなって血だらけの中に。あまりの恐ろしさに三人ぶるぶる震えていたんですね。そうするともうどれくらい時間が経ったのか、それすらわからないんですけど、ふと我に返ったときには、防空壕を追い出された時おんぶしていた一歳の妹が私の背中で冷たくなっているんですね。おぶったまま。その人間が亡くなった後、冷たさというのは異常な冷たさで私に伝わってくるんですね。生きた心地もなくて、今度は三歳の妹と抱き合ってぶるぶる震えていると、妹がいうんですよ。「お水を頂戴!」って。「お姉さん、お水を頂戴!お水を頂戴!」っていうんです。もうお水も何日も飲ましていない。でもここでやっぱり死体ばっかりで一滴の水もない。妹に言ったんですね「お姉ちゃん許して、ごめんね!ごめんね!」と、ズッとそういうふうに言って頭を撫でていると、妹も察したのか目にいっぱい涙を浮かべて、私の顔をじっと見ながらですね、眠るようにして亡くなっていったんですね。妹の顔にも蛆が湧き出してきて、妹の顔が紫色にだんだん変わっていくと、もう恐怖心と、そして死んでしまった寂しさと悲しさと諸々の混乱した状況の中で生きていけない。もうみんな死んでしまったから、私も死ねばいいんだと思って、もうこれ以上恐い思いをしなくてもいいんだ。これでやっとお母さんに会える、兄さんに会える。そんなふうに思っていると、遠ざかる意識の中で、むしろ安堵さえや悦びさえ味わいました。これで死ねるんだ。もう恐い思いをしなくていいんだ。〈そうよ〉繰り返しながら自分で思いながら気を失ってしまったんですね。そうして助けられたんですね。私を助けてくれたのは、沖縄の人でもなければ、日本の兵隊さんでもなければ、「鬼畜米兵」と教えられてきた米軍の衛生兵に私は助けられるんですね。私は、ずっと思うんですけども、その死体がいっぱい転がっている中で、生きた人が一人もいないのに、その中で妹たちが死んで、私はうずまっている。この米兵はどうして私が生きていることを知ったんだろう、って。今も考える時があるんですよね。でも私は、その米兵に揺さぶり起こされた。朦朧(もうろう)とした意識の中で、初めてこの米兵―鬼畜米兵を見た。でも私がこの米兵の見たときに恐いとも何とも思いませんでした。不思議となんとも思わなくて、その時に米兵が私を揺さぶっている時に―後から知ったんですけれども―十字架。金の十字架が胸に揺れていたんですね。助けられて、十字架とその米兵の顔がちっとも怖くなかったということと、米軍に連れて行かれて、収容所にたくさんの大人たちと一緒に載せられて収容所に連れて行かれるんですね。収容所に連れていかれたときに、初めて実感として〈家族がいない。家族はやられたんだ。みんな死んだんだ〉ということを改めて、自分で認識するわけですね。そうすると、今までの状況の中で、恐ろしさと悲しさと寂しさと入り混じったものを前にして混乱状態になってしまうわけですよね。そうしたら収容所の近くに米兵のチリ捨て場があって、その横に不思議と急拵えのテントがあって、そのすぐそばに十字架みたいなのが立っているんです。あの時に、米兵の胸にあった十字架、私が見上げた時に揺れているのが見えたんですね。私は不思議とそれが記憶に残っていたんですね。その金の十字架―十字架とわからないですけど、キラキラ光るものが―テントの横の棒みたいなのにあったんですね。不思議に思って。そして、おそるおそるテントの裾をあげてみると、年配の神父様がおられて、私に手招きするんですね。私も初めは怖かったんですけれども、でもずっとおいでおいでするからもう行って、中に入ってみると、お一人だけ年老いた年配の―多分神父さんだと思うんですね。その方が「どうしたのか?」というから―片言の日本語が話せたんですね。私もその時は、それを聞き取ることができていて、「どうしたんですか? 一人ですか?」っていう感じで訊かれたんですね。だから、「逃げて行って、みんな亡くなって私一人です」って。私も泣いたんですよね。そうすると、神父さんも、こんなしてずっとうつむいて、頭をうなずきながら聞いていて、私もだから、まさかこの方が泣くとは思わないから、私が泣いた時に、この神父さんも一緒に泣いてくれたんですね。だから私は、そこで神父さんに対する警戒心もみんなほぐれてしまって、もう信頼感が生まれてくるわけですね。そうすると神父さんは、奥の方を行ってタオルみたいなのを持ってきて、もう汚れきっている私に、その顔を拭いてくれて、手を拭いてくれて、ミルクをくれたんです。何日も多分お食事もしていない私にとっては、本当に美味しくて一気に飲んでしまったんですけども。その時私が落ち着いたのを見て、神父さんが話してくれたんです。「イエス様は子供が大好きだよ」って。「イエスさんは汚いところで生まれたけれども、あなたのことを汚いと思っていないよ」って。「イエスさんも、あなたが好きだよ。子供が大好きだよ。だから怖がらないで。目には見えないけれども。いつでもあなたを守っているよ」って。「あなたの夢の中で、恐い夢を見ても、傍に必ずイエス様が付いているから怖いことないよ」って。「お父さんも、お母さんも天国からしっかりしっかりと応援しているよ」と。だから前向きの話をしてくれているんですね。このテントがあったのは、後で聞かされたんですけど、沖縄戦では戦争孤児がいっぱい居たそうです。その孤児を救わんがためにやったらしいんですけども、私もその中の一人なんですね。
 
西川:  石原さんが、その沖縄戦の悲惨な戦場を、七歳の少女として生き延びて、その時にアメリカ兵の首から下がっていた十字架と、それと収容所のテントにまた十字架があって、そこで神父さんと出会う。そのことは今も石原さんの心にどのように残っていますか?
 
石原:  一応そこで途切れるんですけどね。さらに父方の方に移されるわけですね。そうすると私は、その時には中学生になっているわけですね。中学校へ通う道中に教会があるんですね。
 
西川:  戦後の話ですね?
 
石原:  そうです。そこに十字架があった教会があるんですね。でも、「教会」というのがまだ意味がわからないから、人々がみんな賛美歌など歌いますでしょ。その歌音が聞こえるわけですね。私も行きたいと思ってですね、おばに言ったら、「そんなのに行かんでもいいよ」と注意されたんですね。そうすると、いけないかなと思いながら、やっぱりなんか惹かれるんですね。惹かれて、そこでまた通うようになって、神様のお話を聞くんですけど。また学校を卒業すると同時に、また途切れてしまうわけですね。そうすると、結婚した時に、主人の母が熱心なクリスチャンだったんです。母がとにかく教会に行くことにものすごく熱心で、もう本当に何をおいても日曜日に教会に行くことが一番だったものですから、そこでもって何かそこでしっかり信仰を吹き込まれたような感じで、主人の母は―姑ですよね。そこで洗礼を受けていますと、今度は姑はいうんですね。「本土の方に教会を作って、あこで牧場を作って」と―そこから熊本の話になるんです。熊本の信徒として教会に行きますでしょう。今度は熊本にある熊本聖三一教会が県庁のすぐ横にあるんですね。そこに通っていて、三十五、六(歳)かな、そこで「沖縄戦の話を聞きたい」というから、話していたら、そこに中学校の教員もいたわけですね。それから大学の先生もいて、「あなたのお話はどんな説教よりも素晴らしいです」と褒めてくれたんですね。〈え!皮肉におっしゃっているのかな〉と思ったら、「なんでかわかるか?」というから、「いいえ。わかりません」と言ったの。「あなたの話は真実だからです」って。「あなたの話していることは真実だから、事実だから、どんな説教よりも素晴らしいです。是非広げてほしい」ということをおっしゃってくださったんですね。
 
西川:  こういう体験を人前で語るというのは、お辛いとか、勇気がいったんじゃないないですか?
 
石原:  勇気が要りました。でもみんなの希望だったんですね。「沖縄戦を聞かせてほしい」って。私の場合は、子供として戦争体験をした。実際に沖縄に米軍が上陸して来た。そういう中にいるということで興味があったと思うんですね。ですから私はその状況をかいつまんで話したんですね。中学校の先生も聞いておられて、「自分の中学校で話してほしい」と言われたんですね。学校のこと全く考えていなかったから、ビックリしたんですですけれども、その日本の学校でちょうどあの時、学校がすごく荒廃している時代だったんですね―学校の窓ガラスは割る、机は壊すという感じで。とにかくマンモス校で、校舎がないから生徒がいっぱいいて、中学一年生から三年生まで、二千人余りがいて、とにかく暴れまくっているわけです。先生方も手に負えない。
 
西川:  熊本の中学ですよね。一九八○年代、校内暴力があった時代ですよね。
 
石原:  そうですね。あの時代は本当に学校では先生方も父兄も手に負えない。先生方も手に負えないということで、今度は警察にお世話になっている。警察のいうことも聞かないって。荒れ狂った子供たちの心を鎮めるにはどうしたらいいかといった時に、「その沖縄戦の辛さというのを、この子たちに伝えて欲しい」ということをいうわけですよ。「とんでもないです。私はこういうことをやったこともないです」と辞退したんですけども、「是非、是非」ということで話に行きましたら、一年、二年、三年で二千人越していますでしょう。わいわいしているわけですよ。その時に、私が来るからということで、体育館に生徒を並べているわけですね。その間を先生方が棒を持ってですね、生徒の周りをぐるぐる回っているわけです。始まる際に校長先生のおっしゃってくださったことが、「どのようなことがあるからわからない」って。「相当失礼なことをするかも知れないけれども、その子供たちのことを許してほしい、理解して欲しい」とおっしゃったんですね。だから、私も、〈あ、これは坐って話せるような話じゃないんだな〉と思って、ズッと立ち上がって話し始めたんです。父兄の人たちも呼ばれてズッと後ろに立っておられたんですね。事実は事実として力一杯話そうと思っていたがものですから、泣きながら話したら、今までわいわいわいわい騒いでいた、棒を持って回っていた先生方も、みんな静かになって、水を打ったように会場が静かになったんですね、生徒が。私もその時になって初めて座って話を続けたんですけれども、そこから語り部としての始まりなんですね。
 
西川:  最初ざわざわしていた二千人の生徒が、水を打ったように静かになった。それも石原さんのお話になった、どんなことが彼ら彼女たちに伝わったんでしょう?
 
石原:  沖縄戦の話をして、「父もない、母もない、住むところもない、食べるものもない。その中で私は生きてきたって。あなたたちは、このような中で、みんなに守られながら学校に来て勉強もできる。なんでもお父さんお母さんに頼めばそれもやってくれる。ママがいてるって。でも私はそういうことがまったくなくて、学校を出る時も、PTAへ来てもらったこともないし、運動会も一人でしたって。そして学芸会の時も見て欲しいと思ったけれど、それを見てくれる人いませんでした」というお話をして、
 
西川:  石原さんも泣いておられる?
 
石原:  私が泣いた、初めに。
 
西川:  聞いている人々も、
 
石原:  みんな泣きました。初め暴れていたんですね。泣いて聞いてくれて。そういうことがあったものですからね、本当に。泣いているもんですから、私が。でもね、泣かずにはいられないような話をしているから、心を捉えたと思っているわけですよね。それがもう熊本市に広がって、あっちこっちの近くの部落に広がって、福岡に広がって、東京に広がって、京都も広がって、語り部ばっかりしていて。
 
西川:  その最初の話をしたときに、それだけ自分にとっても痛みのある辛い体験を語ることは、やっぱり相当勇気をふり絞られたんじゃないですか?
 
石原:  苦しめられましたね。だから私としては、今年で止める。もうしないって。何度も何度も思いましたね。そうしますと、やっぱり電話がかかってきたり、手紙が来たり、依頼文がきたりすると、〈あ、私は、神様に生かされているんだから〉―その時は宗教が少しずつ分かっている。神様に支えられている私だから語らなければいけない。平和をを一番望んでいる神様のためにも話さなければいけない。亡くなった父や母、それから必死で彼方に亡くなっていった二十万近くの人のためにも、やはり平和を語らなければいけないという、その思いがズッと根底にありましたね。今でもですから、いろいろ高低差はあってもやっぱり根底にあるものは、やらなければいけないという、語らなければいけない。生かされているんだからって、その思いがありますね。
 
西川:  最後に一つだけ質問させてください。最初にお父様お母様のことをおっしゃいました。お父様お母様に今成長なさって、沖縄で司祭として立派にやっておられます。今、お父さんお母さんに呼びかけたい言葉をおっしゃっていただけますか。
 
石原:  そうですね。「お父さんお母さん、戦後七十一年になりました。私は、お父さんお母さんの子供として生まれて、一緒に過ごした日は短いわけですけれども、でもその恩は決して忘れてはおりません。今でも、父が生きていたら、どんな暮らしをしていたんだろう。今までどうだったんだろう。今はどんなことをしているんだろう。お母さんが生きていたらどうなったんだろう。お母さんはどんな思いで、私たちを育てあげようとしたんだろうか。本当にいろんなことを思いながら生きております。そして何よりもお父さんやお母さんが本当に天国で安らかに憩い、そして天国から子供たちのための家にいてくださる、祈ってくださる、そういう思いを抱きながら生活していっております。これからもまた本当に沖縄が、日本が平和であるように、私は短い人生であるけれども、私に出来ることをもうしばらく続けていきたいと思っています。どうか天国から見守ってください。そして神様の御許で安らかに憩われてください」。
 
西川:  石原さん、今日は本当にありがとうございました。
 

 
石原さんは、こう平和を訴え続けています。
 
「人間が人間でなくなる、あの戦争を再びこの地上に繰り返してはならない」
 
     これは、平成二十八年八月二十八日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである