日蓮聖人からの手紙E父との葛藤に直面する兄弟への手紙
 
                    立正大学教授 北 川(きたがわ)  前 肇(ぜんちよう)
 
ナレーター:  シリーズ「日蓮聖人からの手紙」。日蓮聖人が遺した手紙を毎月一回、十二回にわたって読んでいきます。第六回は「父との葛藤に直面する兄弟への手紙」と題してお送りします。お話は立正大学教授の北川前肇さんです。
 
北川:  私は、既に前五回にわたりまして、日蓮聖人が信徒たちの直面にする病気の苦しみを克服するように指示された手紙。あるいは重い病気に遭って、如何に臨終を迎えるべきかについて諭されている手紙。さらには父を亡くした若い子息に対し、悲しみに共鳴されつつ生きる指針を示されている手紙。そして大切なお子を亡くした母に対する宗教的な慰めの手紙等について見てまいりました。そのような中にあって、聖人は私たちが必ず受けなければならない死の問題について、しっかりと死を見つめ、そして如何に臨終を安らかに迎え、あわせて死後に赴くべき宗教的永遠の世界を示されているかを学んできたように思うのであります。勿論お釈迦様が私たちに示されました「生・老・病・死」の課題は、過去の人たちが克服すべき課題にとどまらず、只今ここに生きている私たち自身にとって、人生の大きな課題であることは改めて申すまでもありません。ところで聖人の信徒に与えられました手紙を細かく拝見して気付くことは、聖人が私たちの克服しなければならない課題を、すでに釈尊の教えであります経典や、さらに先主の表されました仏教典籍、あるいは歴史的事象を記しました典籍等の文を根拠としつつ、如何にそれらの課題を克服すべきかを適切に示されているかということであります。殊に私たちの人生の重要課題であります死の問題につきましては、それを決して回避することなく、遺され人々の悲しみの世界に分け入り、信徒の悲しみに涙しつつ、永遠の御仏のまします霊山浄土(りようせんじようど)の世界へと導かれていることを知るのであります。そのことは日蓮聖人ご自身にとって、死の問題は幼少年期から人生の最重要な課題であり、その死の問題をどのように克服すべきかという死生観の問題が、同時にこの世における唯一度の今の人生を、どのように生きるべきかという人生観と表裏をなしていたものと思われてなりません。言い換えますと、私たちがこの世に誕生したことは、必ず死が訪れることを意味していますから、自己が死を迎える時に、どのようにあるべきかという「臨終正念(りんじゆうしようねん)」の四文字で表現される課題が、そこには存在していたと思われます。「臨終正念」というのは、私たちが臨終という死に直面したとき、如何にそれを受け入れて、心を乱すことなく、つまり邪念によって自己を見失うことなく、仏法のもとで心安らかに死を迎えるかという状態を指しています。聖人の手紙の一節に、信徒たちから「臨終正念」が報告されたことに対して、大変に喜ばれている箇所が多く見られますが、それは聖人ご自身の問題でもあり、また信徒たちの大切な問題であったことを知るのであります。ところで、前回十六歳の子息を亡くした母尼に与えられた手紙を拝見してまいりました。そしてこの悲しみのお知らせを受けられた聖人は、既に五十九歳という老いを迎えられていました。確かに聖人は、その二年後の十月十三日に、数え年の六十一歳で死を迎えられることになります。そして聖人がその晩年に表されました弘安年間のお手紙、即ち門下に与えられました手紙等を拝見いたしますと、聖人ご自身の直面されている老いや病気について、率直にその事実を示されていることを知るのであります。前回ご紹介いたしましたように、日蓮聖人が上野母尼へ与えられました弘安四年(1281)十二月八日の手紙の一節には、自己が病気と老いとによって、間もなく霊山浄土へ旅立つことに対する覚悟を示されていることを確認いたしました。その手紙の前半部分を改めて拝読しますと、次のように述べられています。まず冒頭には、南条氏から陸稲(おかぼ)(のごめ)が一駄(いちだ)、清酒(すみざけ)を二十さげ、かっこう(霍香)という薬草が一袋届られたことへのお礼が述べられています。そして聖人が、身延へ入山された文永(ぶんえい)十一年(1274)から弘安(こうあん)四年(1281)までのことを、次のように綴られています。現代語訳でご紹介いたします。
 
さて、私日蓮は去る文永十一年六月十七日にこの山に入りましてから、今年(弘安四年)十二月八日にいたる今日まで、一歩もこの山を出ることはありませんでした。とはいえ、この八年間、やせやまいにかかったことや、歳を重ねたことで、年々に身体が衰弱し、心もぼんやりとして散漫になってしまいました。ことに今年は、春からこの病気が起こって、秋が過ぎ、冬に至るまで治ることをなく、身体は日々に衰え、病は夜ごとに重くなって、この十日余りは、食事もほとんど喉を通らなくなりました。そのうえ、雪は降り積もり、寒さが襲いかかります。身体が冷えることは石のようです。胸の冷たいことは、氷のようです。ところが、このたびお届け頂いた清んだ酒を温かくわかしてかっこう(霍香)をパリッと食い切って、ひとたび飲み下しますと、火をたいたように胸が熱くなり、湯に入ったときのように身体が暖かくなります。流れる汗で垢を洗い流し、したたり落ちる汗で、足をすすぐのです。
 
と述べられています。聖人のご生涯を回顧いたしますと、四十歳の時に伊豆流罪、五十歳のときには佐渡流罪に遭われながらも、これらを乗り越えられるほどの頑健なお方でありました。しかし身延入山後五十六歳の建治三年(1277)十二月三十日に発病され、翌弘安元年(1278)六月ごろまで、激しい下痢が襲うのであります。弘安元年六月二十六日付けの手紙には、
 
私の下痢は、去年の十二月三十日に起こり、今に至っていますが、今年の六月三日、四日は特に重く、日々に度合いを増して、月々に悪化する始末です。
 
と述べられていますから、その発症の様子がうかがえます。この下痢の症状は、全快することはなかったようであります。同じ弘安元年の十一月二十九日、武蔵国(むさしのくに)池上郷(いけがみのごう)(現在の東京都大田区)に在住の池上兵衛志宗長(いけがみひようえしかんむねなが)(弟)に宛てられました手紙には、次のように記されています。
 
去年の十二月三十日から腹の具合が悪くなり、春夏になっても下痢が止まりませんでした。秋もすぎて十月の頃、一時はひどくなり、ようやく良くなってきたものの、とかく起こりがちです。
 
この記述からうかがえますように、聖人を病魔が襲い、下痢のために食事がとれず、体のやせ病が酷かったことが拝察されます。しかもこの年の弘安元年の冬は寒気が厳しく、大雪が降り、病身の聖人を襲うのであります。同じ手紙には、
 
この月十一月の十一日たつの時より十四日まで、大雪下(ふ)りて候ひしに、両三日へだててすこし雨ふりて、ゆきかたくなる事、金剛のごとし。いまにきゆる事なし。ひるもよるもつめたく候事、法にすぎて候。さけはこをりて石のごとし。あぶらは金ににたり。
 
このように記されているのです。このように池上氏に与えられました弘安元年のお手紙と、上野母尼に与えられました弘安四年のお手紙を拝見いたしますと、聖人が五十七歳の弘安元年の病気の発症と、その冬の厳しさがうかがえますし、また弘安四年は春ごろから下痢の症状が再び起こり、やせ病の症状の激しさと、さらなる冬の厳しい寒さが間断なく続いている様子を記されています。そしてついに翌弘安五年(1282)、六十一歳を迎えられた聖人は、門弟や檀越(だんおつ)の勧めもあって身延山を下りられる決心をされたのであります。日蓮聖人の伝記であります『日蓮聖人註画讃(にちれんしようにんちゆうがさん)』によれば、弘安五年(1282)の晩秋にあたります九月八日午前十二時ころ、身延山を発って、下山(しもやま)に宿泊され、それ以降、今日の富士山の山梨県側を通りながら、河口湖を経由し、駿東郡(すんとうぐん)小山町(おやままち)、神奈川県平塚市、横浜市瀬谷を経て、九月十八日に東京都大田区池上へと到着されているのです。ところで日蓮聖人ご自身の病と、死につきましては、後に改めてお話申し上げたいと存じますが、聖人が臨終の地とされましたこの池上氏と聖人の交流についてたどってみますと、そこに人生上の課題として浮かび上がってくるのが、親と子との生き方や価値観の相違による葛藤にほかなりません。池上氏は武蔵国(むさしのくに)荏原郡(えばらごおり)池上郷(いけがみのごう)の地頭で、領主でもあり、鎌倉幕府の御家人として仕えていた武士であると思われます。また日蓮聖人の直弟子として、早い時期に聖人の膝下にありました弁阿闍梨日昭上人や大国阿闍梨日朗上人と池上氏とは姻戚関係にありました。ところで池上氏における父と子の葛藤の要因は、父の信仰とその子に当たります兄弟夫婦の信仰上の違いによるものであります。父が地頭として、御家人として、鎌倉に出仕していることを考えますと、鎌倉幕府の要人たちに大きな影響を与えたのが良観房忍性(りようかんぼうにんしよう)(1217-1303)という方ですが、そのお方は社会活動に積極的な面、さらには戒律と念仏とを中心とする仏教観を主張されたのでございます。殊に忍性は執権職にありました北条重時(ほうじようしげとき)(1198-1261)とその一族の支援によりまして、鎌倉極楽寺を中心に戒律を復興した人物であります。日蓮聖人における忍性の受け止め方を見てみますと、聖人が鎌倉における宗教活動を展開される中で、この忍性が聖人の行動を幕府に訴えることによって五十歳の時、佐渡流罪になったことを記されています。勿論日蓮聖人は、法華経を中心とする経典主義を立場として、聖人は仏教観を立てられ、伝教大師最澄の著作と見なされている『末法燈明記』に基づきまして、末法の世を迎える時代と規定されているのに対し、忍性が戒律復興を主張し、当時の権力者に近づいて教えを拡大しようとする立場を、聖人が厳しく批判されていることも事実であります。ところで、池上氏の父親であります左衛門大夫康光が、良観房に帰依していたことは、聖人が子息の兵衛志宗長に与えられました手紙の一節に次のようにあります。
 
良観等の天魔の法師らが、親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら二人を失はんとせしに、殿の御心賢くして、日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに、二つのわ(輪)の車をたすけ、二つの足の人をになへるが如く、二つの羽のとぶが如く、日月の一切衆生を助くるが如く、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給ひぬる御計らひ、偏に貴辺の御身にあり。
 
現代語訳で申しますと、
 
彼の極楽寺良観等の天魔の法師たちが、父親の左衛門大夫康光を騙してあなた方兄弟二人を迫害し退転させようとしましたが、兵衛志殿の心が賢明で、日蓮が諫めたことを用いられたがゆえに、あたかも二つの輪が車をたすけ、二本の足が人を担うように、日月が輝いて一切衆生を助けるように、兄弟二人の力によって、父親を法華経の信心につかせることができたのです。この計らいは偏に兵衛志殿の信心によるものです
 
この一節を基として親と子の確執を時系列的に整理してみますと、まず聖人が身延に入山されました翌年の文永十二年(1275)の初めに、父親の信仰に対して、池上氏の兄大夫志宗仲が、聖人の法華経信仰の立場からいさめたことで、兄夫婦は父親から勘当を受けることになります。しかし日蓮聖人の教えを守り、決して父親に従うことをしなかった弟の宗長は、ついに父親を法華経信仰へと導くことになります。すなわち父に対して兄と弟が協力して、父親を法華経信仰へと導いたのであります。このことは父からの勘当がとかれることになります。そのことを聖人は、建治三年(1277)九月九日の手紙で、弟の兵衛志の尽力を称賛されているのであります。けれどもこの九月九日の手紙から二ヶ月余りを経ました建治三年十一月二十日の手紙には、
 
さえもん(左衛門)の大夫殿は今度(このたび)法華経のかたき(敵)になりさだ(定)まり給ふとみへて候
 
とありますから、父親の康光は、法華経信仰を捨てて、二ヶ月余りで再び忍性へ帰依を戻したことになるのであります。勿論その理由として、父の康光が、世俗的には幕府の人々との人間関係を重んじるという立場から、そのような元へ戻ったという結果をもたらしたものと推察されるのであります。父が元の信仰へ戻ったということは、兄の宗仲が再び勘当を受けたことを意味しています。この時聖人は、弟の兵衛志に与えられた十六紙からなる長文の手紙を拝読してみますと、宗教的倫理観念の立場から、父親に対しましてはっきりと断言するように指示されているのであります。その文章を現代語訳でご紹介いたします。
 
お父上の言いつけにはどのようにしても従うべきでありましょうが、法華経の御敵におなりになられたのですから、父へしたがい申しあげては、かえって成仏の道を閉ざすこととなり、不幸の身となるのであります。ですから私はお父上様を捨てて、兄上の歩まれる法華経信仰の側にしたがいます。万が一にも、私が兄上から捨てられることがあったとしましても、兄上とお父上とは同じく地獄に堕ちられることになるとお考え下さい。
 
このように聖人は、厳しく弟の宗長を諭されていますが、それは弟の宗長が、親や兄弟や、あるいは周囲の人たちに対して、とても優しい人物であることを十分に承知されていることがこの手紙からうかがえるのであります。以上のように、兄の宗仲は二度目の勘当を受けることになるんですが、翌弘安元年(1278)五月ごろの手紙と見なされている「兵衛志殿御返事」には、次のようにありますから、父からの二度目の勘当も解け、父と兄弟三人が成仏の道を歩むことになったことは知られるのであります。現代語訳でご紹介いたします。
 
わが国の朝廷おいては、後白河院と崇徳院とは、ご兄弟でありましたが、天皇の位を争ってついに敵となる。今は悪道に赴かれていることでありましょう。今の世も私たちの目の前に展開していることでありまして、世を治める天皇の地位が危ういということも、兄弟の争いから起こっています。鎌倉に幕府を開かれた大将頼朝殿という賢い人も、九郎判官義経という弟を亡(ほろ)ぼしてしまい、そのことからご自分の子供もみな家来にあたる人たちに亡(ほろ)ぼされてしまいました。これはまさに私たちの眼前の事実なのであります。
 
このように兄弟の争いによって、その地位が失われ、また一族が滅ぶという事実を、聖人は記されているのであります。そしてさらに池上兄弟のことに触れられています。
 
貴殿方お二人は兄弟として上下の区別こそありますが、もし弟の貴殿が欲深く、心が曲がって、道理をわきまえないようなお人であれば、兄の大夫殿は如何なることがあっても、親の勘当は許されることはなかったはずであります。兄の大夫志殿が、法華経を信じて仏となったとしても、親は法華経の行者である我が子を勘当して、その結果地獄に堕ちてしまうことでありましょう。貴殿は兄と親とを成仏の道を閉ざして、提婆達多(だいばだつた)(釈迦の従兄。釈迦の弟子となったが、のちに背き、阿闍世(あじやせ)王をそそのかして師を殺害しようとして失敗。天授)のようになるところでありましたけれども、末代の人でありながらも、賢い智慧を持たれている上に、欲のない人としてこの世に生まれてこられたことから、父と兄弟の三人が揃って成仏され、父方母方の人々をもお救いになる人となられました。
 
以上の文から、親と子という当時のタテ社会の倫理観・道徳観から推察いたしますと、そこには犯しがたい規範が存しているように見られるのであります。が、聖人は、人間存在の究極の目的を、地位や信仰に基づく成仏の道に生きることにあると見なされていますから、それらの世俗的倫理観念を超越した立場から、示唆がされていることを知るのであります。このようにして父と子の葛藤が解消され、池上氏は同じ法華経に生きることが定まったのであります。そして弘安二年(1279)二月二十八日付にて、弟の兵衛志に宛てられた『孝子御書』と呼ばれる手紙には、父の康光が死去したことが記されています。そのことから、この年に兄弟は父親を霊山浄土へと見送ったことが知られるのであります。ではこの『孝子御書』の全体を現代語訳で紹介したいと存じます。
 
お父上が逝去されたとのこと、伝え聞きましたが本当でありましょうか。貴殿と兄の大夫志殿とは、末法の世の、しかも辺土の日本に生まれて、法華経の優れた教えに信を捧げられたのでありますから、悪魔が必ず国主や父母の身に入って迫害をなすでしょう、とわたくし日蓮は思っておりました。案の定、父上からたびたび勘当を受けながらも、兄弟共に信仰を貫かれましたことは、法華経の「妙荘厳王本事品(みようしようごんおうほんじほん)」に説かれるように、父を法華経に導いた浄蔵・浄眼の二王子の生まれ変わりでありましょうか。それとも薬王菩薩・薬上菩薩の御計らいによるものでありましょうか。ついに父上からの勘当も解け、以前からの孝養心を貫徹されたことは、真の意味での孝子に違いありません。さぞかし仏法を守護される天の神々にも喜びを与えられ、法華経の御仏たちも、さらには御本尊もその志を納受されたことでありましょう。その上貴殿のことは、私日蓮の心のうちに感じることがあるのです。もし日蓮の広めている法門が、法華経に説かれているように、広宣流布するときには、貴殿と法悦を共にしたいものであります。決して貴殿たち兄弟の間に不和があってはなりません。このことは兄の大夫志殿への手紙に詳しく書きましたのでお聞きください。謹んで申し述べました。
弘安二年二月二十八日   日蓮 花押
 
このように、池上兄弟の信仰貫徹の生き方を、聖人は称賛されているのであります。しかも、そこには聖人と池上兄弟との深い信頼関係がうかがえるのであります。このように池上氏の親と子との葛藤と、その解消等をたどってみますと、今日私たちが自己の信念に生きようとしたり、理想のもとに行動を開始しようとした時、様々な障害が生じ、そのことによって中途で挫折したり、理想の旗を降ろしてしまうのが、凡人の習いであるように思われます。しかし日蓮聖人の場合、三十二歳の立教開宗から六十一歳で池上氏の館で入滅されるまで、法華経信仰を貫徹されています。そこで改めて日蓮聖人の生涯を貫く中心となる規範とは何か。あるいは池上兄弟を導かれる核心とは何であるのかを問うてみますと、『兄弟抄』に見られる一節であると思われます。今、その文を紹介させていただきます。
 
摩訶止観(まかしかん)の第五の巻の一念三千(いちねんさんぜん)は、今一重立ち入りたる法門ぞかし。此の法門を申すには必ず魔出来(しゆつらい)すべし。魔競(きそ)はずば正法と知るべからず。第五の巻に云はく、行解(ぎようげ)既に勤めぬれば三障(さんしよう)四魔(しま)紛然(ふんぜん)として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏るべからず。之に随へば将に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ等云云。
此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ。
 
現代語訳で一部を紹介させていただきます。
 
天台大師が講述されました『摩訶止観』の第五巻に明かされている一念三千の法門は、いっそう立ち入った深い教えです(天台大師にとって最重要な法門であり、釈尊の教えの肝心にあたります)。そこで、この法門を人々に伝えようと口に出せば、必ず悪魔の障りが出現するのです。悪魔が競い起こって、障害をなすことで、かえってその教えが正しいものであることが分かります。その第五の巻には、止観の修行と智慧の境地とが深まりを増せば、三障(煩悩によるさわり、悪業によるさわり、三悪道の報いによるさわり)および四魔(修行をさまたげる四種の悪魔にたとえたもの。煩悩魔、五陰魔、死魔、他外自在天子魔)が次々と競い起こり、さわりをなしてくるでしょう。しかし、断じてそれに従ってはなりません。もし従ったならば、悪道に堕ちることになり、それを畏れたならば、正法を修することを成就することができません。
この天台大師の解釈は、私日蓮が身をもって二度にわたる流罪を経てきたことからも明らかなように、この身をもって体験するところだけでなく、私の教えに従う同門の人たちにとっても、くもりのない文証ともなるのです。謹んで、この「三障四魔が競い起こる」という文を習い伝えて、未来において法華経信仰に生きる人たちの大切な「糧(かて)」としなさい。
 
以上であります。
 
     これは、平成二十八年九月十一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである