いのちに抱かれて―坐禅の世界を語る
 
                  禅 僧 櫛 谷(くしや)  宗 則(しゆうそく)
昭和25年、新潟県五泉市の生まれ。19歳のとき、内山興正老師について出家得度。以来、安泰寺道場に10年間安居。老師の隠居地(宇治市)に近い宇治田原町の空家に入り、耕雲庵と称して縁ある人と共に坐っている。
                  ききて 金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「命に抱(いだ)かれて」というテーマで、新潟県五泉市(ごせんし)の禅僧櫛谷宗則さんにお話いただきます。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  櫛谷さんは、確かお生まれは昭和二十五年で、十九歳の時に、その当時京都にありました安泰寺(あんたいじ)の内山興正(うちやまこうしよう)(曹洞宗の僧侶で、折り紙作家。詩人。澤木興道に長年師事し、その死後に安泰寺の住職となる:1912-1998)老師のところで出家得度されて、その安泰寺で十年ほど安居(あんご)なさっていらっしゃったということで、最近はその時以来のご縁のあった方々に仏法の話をなさっていらっしゃる。仏法の言いましても、特にその仏法の中心にあります禅―坐禅の実践の中で感じていらっしゃることを、人間の生き方、人生について感じていらっしゃることをお話しなさっていらっしゃるというふうに伺っているんですが、最近感じていらっしゃる人間の生るということ、坐禅というもののその意義、そんなところを含めてお話しいただきたいと思います。
 
櫛谷:  生きるということを問題にして、私、ズーッとやってきているわけですけども、そのもともとの始まりというのが、三歳くらいですかね、私、家の前の川で溺れまして、で父親に救われたんですけども、その時もう既に心肺停止で、強心剤を打っても蘇(よみがえ)らない。で、「もう一本じゃ」と言うんで、二本目の強心剤を打ったらやっと「わぁ〜ん」と言って泣き始めて、まぁ蘇ったというようなことがあるんです。それともう一つ、原因がわからない病気になって物がちょっと食べられなくなりまして―やっぱり同じ頃なんですけども―そんなんで死ぬということが、その頃そんな理由も何もわからないまま、なんか心の奥にそれが忍び込んだと言いますかね。そういう私だから、死に損なったというようなことはすっかり忘れて、その後生きているわけですけども。それがなんといいますかね、小学校入ってからだんだん死ぬということが気になり始めまして―気になったというより〈死んじゃたまらない〉と思ったわけですね。〈死ぬのが怖い〉という。それがだんだん高じちゃって、もう高校生の頃には、今にも自分は死ぬんじゃないかという不安神経症ですよね、考えると。そんなので、これをちょっと解決しないことには生きていけないというようなのになって、それが因になって、安泰寺へ向かわせてもらって、本当の坐禅に出会ったし、内山興正老師にもそれで出会うことができましたし、そういう同じ道を行く人たちにも出会って、今もこうして歩み続けさせてもらっているというようなわけなんです。だからまあ生きるということを問題にしてきたと言っても、その初めはだから死ぬのが怖いという。だから今思うと、死ぬのが怖いというのが、自分の宝物みたいな気持ちですよね。それに導かれて、早々死ぬのが怖いから死にそうな危険なこととか、悪いことというのは、ちょっとやりたくても手が出せなかったり、そんなんでまぁ死ぬのが怖いという気持ちに守られて、坊さんになって、で、ズーッとやってきているような感じがするんです。で、道元禅師の『正法眼蔵(しようぼうげんぞう)』の「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)」の巻に、
 
みづからを知らんことを求むるは、生けるものの定まれる心なり
 
という言葉があるんですけども。だから「みづからを知らんことを求める」というのは、その生きとし生けるものの定まれる心、定まってある心なんだって、道元禅師もおっしゃってはいるんですよ。これだから本当に誰でもそうだと思うんです。ところが自分が生きているという、「自ら」という、それでみんな本当の自分でないものを「自分、自分」と思って、みんなやっているわけですね。道元禅師は、だから「唯仏与仏」の、今言ったら言葉の続きで、そういうふうに書いておられるんです。みんな私が生きているなんて当たり前で、ことさら考えないですよね。私は生きているというのは、こんな頭を持った、こんな性格で、こんな才能を持った、この体が生きている。そんなくらいにまぁ思っているじゃないですか。でもそれが本当に私なのかって。そこでちょっと踏みとどまって考えてみますと、私が今生きている、じゃ根元はなんだろうと考えてみると、刻々 心臓が動いて、刻々呼吸していることじゃないですか。刻々息していればこそ、私が今生きている。これは何か。何が呼吸しているのか。ちょっと振り返ってみると、私の思いの力じゃないですよね。だって寝ている時だって刻々呼吸しているわけですから。何が呼吸しているのかと言ったら、答えられないですよ。つかめない力ですよね。思い以上の力なんです。だから今生きている私の根元は何かといったら、普通思っている「私、私」と言っている、その力じゃないですよね。さらにこの私が、じゃあ初めてこの世に生まれてきたその根元は何かと考えてみますと、一個の受精卵じゃないですか。それはどこからきたのかと言ったら、お父さんとお母さんが生きていたからですよね。そのお父さんとお母さんというのも、やっぱりお父さんとお母さんがあって、生きていたからなんで、そうやってさかのぼっていくと、それこそ四十億年前に初めて地球上に生命が誕生したというところまで行き着くじゃないですか。これはとても私じゃないですよね。私に超えた力じゃないですか。それでその仕組みはまだ今の科学では解明されていませんけども、仮にこれから科学が進歩して、その仕組みが何から何までわかったとしても、なぜそんな仕組みがあるのかというのは、これ誰も答えられないですよね。それでそれが今こんな私として、こんな時代に、日本という国で、こんな両親を元に、なぜ生まれなければならなかったのか、って振り返ったとき、これが本当に謎というしかないじゃないですか。誰も答えられないですよね。だから私の初めの私が今生きていることも、その私の根元はもう私じゃない。圧倒的な不思議と言いますかね、まばゆいほどの不思議っていうしかないと思うんですよ。そんな私なんだけども、だからといって不思議、不思議で何もわからないのではない。ごちゃまぜの混沌じゃない。事実が今ここに生き生きとハッキリ生きて、こんなこと今しゃべっているじゃないですか。これをだから「自己」というわけですよ。仏教のいう「自己」というのは、普通「俺(おれ)、俺(おれ)」と思っている「俺」とか、「私」じゃなくて、刻々呼吸し、心臓が脈打っている。それは私の力じゃないけども、その同じ力が、雨を降らし、日を照らし、花を咲かせ、風を吹かせている。そういうあらゆるものを生み出し、流れてやまない力ですよね。そういうあらゆるものを生かし、ぶっ続いている命の力を「法」―「ダルマ」ですね―法というふうにいうわけです。この自己と法が一つのものであるという。だから先程言いました道元禅師の「唯仏与仏」の巻ではさっきの文の後に
 
仏の云ふみづからは、すなわち尽大地(じんだいち)にてあるなり
 
というふうに出てきています。「尽(じん)」というのは、「尽くす」という「尽」ですね。だから全てを含み尽くしている。自己というのは、あらゆるものとぶっ続きのいのちなんだっていうふうに。それが本当の自己なんだというふうに、道元禅師はおっしゃっているわけです。同じことをお釈迦様は、こうおっしゃっていますよね。『阿含経(あごんきよう)』の言葉ですけども、
 
自己を洲(す)とし
自己を依所(よりどころ)として
他を依所とせず
法を洲とし
法を依所として
他を依所とせずに住(じゆう)せよ
 
この「洲(す)」というのは、大きな川の中に浮かぶ島のことですよ。だからおぼれちゃってもここにたどりつけば大丈夫という。それが州です。今の『阿含経』の言葉は、お釈迦様の根本だと思うんです。だから法に裏打ちされた自己。尽大地のいのちを拠り所にし、、尽大地のいのちを大切にして生きるということですよね。その点で仏教というのは、どこか遠いところに何か偉い神様のようなものを置かないで、この私が今事実それを生きているという。そういう自己から始めているわけですよ。すごく現実的な態度というか。これは今の人にも入っていきやすいじゃないかなというふうに、私は思うんです。その私の根元は何か、何故かと言ったら、先ほど言ったように、圧倒的な不思議っていうほかないわけです。答えられないわけです。でも、どんな人になっているのか。その自己と法がどのようになっているのか。その構造がどんなあり方をしているのかは、いろいろにいうことができると思うんです。それをちょっとまたお話してみたいと思うんですけども。「自己」というのは「一」ですよね。でも「一」というと、すぐ我々は「二でない、三でない、一なんだな」って。他の数字と並べたてて考えるわけですけども、そういう意味の「一」じゃないんです。「これしかない」という唯一の「一」ですね。「自己」というのは、そういう「一」なんです。だから一人自ら生きるものですよね。この辺がみな錯覚していると思うんですよ。「私が生きる」っていうと、加藤さんなら加藤さんというこういう頭を持った、体が私で、あっちにはまた山田さんと居て、そっちには鈴木さんと居てという、そういう他の人が生きているのと同じ意味で、私も生きているというふうに思っているじゃないですか。こちらには私、向こうに世界。その私はだから―今、世界人口何億か分かりませんけど、どうせ将来すぐ百億ぐらいになるでしょうから、その私は、「百億分の一の私だ」というふうに思っていますよね。で、加藤さんも「百億分の一の人間だ」し、山田さんも「百億分の一の人間だ」というふうに、みんな思っていますね。で、私が生きているのと、他の99億9,999万9,999人が生きているのと同じ意味だというふうに思っているじゃないですか。それが傍観者の話ですよ。もし私が百億分の一の人間だったら、そんなのは確率的に無視していい確率でしかないんですよ、何をしようと。でも、その私というのに着目してみると、山田さんが怪我をしたって、私はちっとも痛くないですよね。友人の鈴木さんがたとえ死んだとしても、悲しい思いはするけど、私の日常というのは同じようにまた巡って進行して行くじゃないですか。私が生きているのは、百億分の一なんだというのは、本当に外から見た傍観者の言い分なんですよ。ところが当の本人の私にとっては、全てが私の生命体験としてあるわけですよ。全てが私のいのちの世界なんです。そうしたら「私=(イコール)一」というのは、「百億分の百億」という、そういう「一」なんですよ。で、人というのは、誰でも自己の当の本人としてだけ生きているんです。それがちょっと見失われていると思うんです。当の本人として、私の生命体験を生きているというのは、どういうことかと言ったら、「みんな私の命なんだ」ということなんですよ。百億分の百億なんだから。みんな私の命として出会っていることなんですよ。自己の生きる中身・内容として、それこそ山川草木やら、喜びやら、悲しみやら、全てが展開している。それは全部私の生きる中身・内容としてあるわけですよ。それをその中身・内容を「法」というふうにいうわけですね。ところが普通はみんな並べたてて考えているわけですよ。私が居て、向こう側にあなたが居て、世界があって、社会が広がっているというふうに思っているわけです。でもそれというのは、分別や思いで分けた後の話なんです。分別や思いで分ける前のそれこそ私が今生身の私が今生々しく生きている命の現場では、自己は出会うものを生かす中に生かされているんですよ。あらゆるものに生かされている中に生きているわけですよ、初めて。それを禅宗でやるのが坐禅ですね。すでにぶっ続きの命に生かされているわけですよ。でもぶっ続きの命に抱(いだ)かれているから今坐ることができるわけですよ。言葉を換えていえば、私が生きている人生というのは、初めっから一?(いつちゆう)(現在では線香一本の燃えつきる時間、約四十分間を一?という)の坐禅としてさずかっているということですよ。だから今、坐ることができるというわけですね。今、事実坐る中に抱かれている事実がそこに深まっていくということがあるわけです。やっぱり道元禅師の『正法眼蔵』の「坐禅儀(ざぜんぎ)」の中に、坐禅をそこで説いておられるわけですけども、じゃ坐禅は何かといったら、端的に、
 
諸縁(しよえん)を放捨(ほうしや)し万事(ばんじ)を休息(きゆうそく)すべし
 
とおっしゃっています。「諸縁」というのは、諸々の縁ですよね。諸々の、だから引っかかりを放捨し、だから放ち捨てて、万事というあらゆる心の営みのすべてを息(やす)む。やめなさいとおっしゃっているわけです。まぁこれを私の師匠(内山興正)は一言で、「頭手放(あたまてばな)し」というふうにおっしゃっているわけです。「頭手放し」ということなんですけども、それは俺の力で、俺が頑張ってやることじゃないわけですよ。だって私が生きている法―法についていろいろ話してきましたけども―「法」というのは、だからあらゆるものなんだけども、それは本来放捨された諸縁、休息としてある万事なんです。人間が思いで、「あれでもない、こうでもない」って、分別する以前に、もう本来放捨された諸縁。もう思いの息(やす)み切ったものとしてあり、万事としてあるわけですよ。だからそういう本来である「諸縁放捨、万事休息」というのが、かえりて私を所縁放捨、万事休息せしむ、ということですね。だから〈俺の力で、俺がなんとか頑張って、諸縁を放捨し、万事を休息しましょう〉というんじゃないんです。諸縁放捨、万事休息としてあるんですよ。そちらの力の方が、私に働いて、諸縁放捨、万事休息せしむと。ただその力にゆだねているということですね。だから自らやる諸縁放捨、万事休息をもって、おのずからなる諸縁放捨万事休息に立ち戻るということです。おのずからなる―はじめから諸縁放捨、万事休息なんですが、それをだから純化していく、純粋化していくということですね。みんな「俺の力で生きている」と思って、日頃勝った負けた、得だ損だ、偉い偉くないという、そういう次元ばかりで追ったり逃げたりしているじゃないですか。「この世の中は生存競争なんで、なんとか生き残らなきゃダメだ」と言って、やって、それに負けちゃうと、負け組だって落ち込むわけですよ。でも大切なのは、それをモチベーションにして、それを生きがいにして今の人は生きているし、だからそういうふうに「みんなと競いあってやるのは大切じゃないですか?」っていう人もいらっしゃるわけですよ。「それがなかったら何を力にして生きていくんだ」という方もいらっしゃるわけですよ。でも大切なのは、あらゆるものが自分の命としてあるわけですよ。その命というのは、生きる力ですよね。生命力を持っているんですよ。だから花でも伸びて、それぞれスミレはスミレの花が咲くし、バラはバラの花が咲し、これ人に勝とうと思って一生懸命咲いているわけじゃないですよね。自らに初めっから備わっている生命力によって生き生きのび、たとい踏みつけられても、またそこから出直して伸びて、花を咲かせ実を実らせるという。これ生命力ですよね。われわれもそういう生命力をさずかっているわけですよ。だから人と競争して初めて目が覚めて、やる気でやれ、というんじゃなくて、「自分の命に目覚める」ということですよ。人と比較して生きるんじゃなくって、だって自分が生きるんだから。そこに良さなんかは要らないんですよ。自分が生きるんだから、生きる気で生きるという。だからその時、たとい負けても命なんですよ。負けても抱かれている。勝っても抱かれているし、負けても抱かれている。大切なのは、そういう人生を競争の場とか、表面的な出来事の場として生きるのでなく、今言った命の深さとして生きるということだと思うんです。「命の深さとして生きる」というのは、「与えられた人生を頂いていく」という姿勢ですよね。さっきお話したように、「生きている」というのは、もう圧倒的な不思議なんです。だから「生きている」というのは、「深い授かり」なんです。そうしたら「その与えられた人生を頂いていくという姿勢が大切ではないか」と思うんです。今、その命の深さ、勝っても負けても抱かれているというのは、それは何のことかと言ったら、今こうして刻々心臓が動き、刻々呼吸がなされているじゃないですか。今も日が照り、風が吹き、花が咲いているじゃないですか。そのことなんですよ。それが全く私の力でない。なぜそうなのか、なぜ私はこんな私なのか。なぜ世界はこんな世界なのかと言っても、誰も答えられない。圧倒的な不思議という他ない。この不思議を味わっていくといいますかね、いろいろあるまま、いろいろわれわれの人生いろんなことがありますけども、この不思議を見失わなかったら、その人なりの人生をあんまり誤らないでまっとうできるんじゃないかというふうに私は思っています。こんな詩ができました。「命の風」という詩なんですけども、
 
「命の風」
うまくいかなかったことや
苦しいことが
かけがえのない光のように感じられて
ただ照らされている
苦しみの方から
抱きしめられている
煩悩まるけの凡夫であること
それがそのことによって
自ら知られないまま
奪われている不思議
はじめから救いそのもののように
この私の人生は授かっていたのかもしれない
何があろうと
その光に向かって歩むように
いただかれていたのかもしれない
どこもかしこも
緑の風の今日
新たに生き直していこう
風そのものであるかのように
 
金光:  ありがとうございました。もう一つですね、「祈り」というのがありますね。
 
櫛谷:  「祈り」
生まれたとも言えない
この深い授かりを頂いて生まれ
死ぬとも言えない
この深い恵を頂いて死ぬ
淡い夕空に消えていく
一筋の光のように
行きつけいないまま
天地いっぱいに
呼ばれるように消えていく
南無尽十方不可思議無碍光如来
 
金光:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十八年九月十八日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである