私の好きなブッダの言葉
 
                  國學院大學教授 宮 元(みやもと)  啓 一(けいいち)
1948年、東京都生まれ。1970年東京大学文学部印度哲学科卒、1972年同大学院修士課程修了、1975年東方研究会研究員、春秋社編集部で仏教書籍などの担当編集者。1986年國學院大學講師、1988年助教授、1995年教授(文学部哲学科)。一般向けの仏教・インド哲学の著書が多数ある。仏教思想の解説書を多数執筆しているが、個人的信条としては仏教徒ではなく、「出世間への強いあこがれをもつアニミスト」としている。
                  き き て   金 光  寿 郎
 
ナレーター:   今日は「私の好きなブッダの言葉」というテーマで、国学院大学文学部教授の宮元啓一さんにお話しいただきます。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  宮元先生は、長い間釈尊―釈迦族の尊い方ということで、中村元(なかむらはじめ)先生は「釈尊」とおっしゃったようですけれども、そのお釈迦様の最も生の声に近い、いわゆる原始仏典と言われるものの中から、最もお釈迦様の生の声に近いところを中心に調べて研究なさっていらっしゃると伺っているんですが、今日は釈尊が何十年も遊行されていろんな人に話をされた言葉が遺っているわけですが、その中で宮元先生が現代の日本の人にとっては、こういう言葉が良いんじゃなかろうかとお感じになることを、一、二、ご紹介いただければと思うんでございますが、まずどの辺から話していただけますでしょうか。
 
宮元:  はい。お釈迦様―ゴータマ・ブッダ―「ブッダ」ということにしますけども、たくさんの教えがあって、どれもこれも大変素晴らしいものなんですけれども、やはり敢えてこれというふうなことになりましたら、『ブッダ最後の旅』という中村元先生の訳がありますパーリ語の『涅槃経(ねはんきよう)』と言われているものです。旅の途上でもう先が長くないということを悟ったお釈迦様に対して、ずっとつき従っていた従兄弟とされていますけども、阿難(あなん)―アーナンダが、「まだ私は教わっていないことがあるんじゃないか。不安でしょうがない」というのに対して、「いや、私は誰彼の隔てなく、教えるべきことはみんな教えた。誰に教えて彼に教えないということはなかったんだと。安心しなさい」という。で最後によく引用されますけども、
 
それ故にこの世で
自らを島とし、
自らを拠り処として、
他人を頼りとせず、
正しい教えを島とし、
正しい教えを拠り処として
他のものをよりどころにせずにあれ
 
とあります。この島というのは中洲(なかす)と解釈するのがいいかと思うんですが、と言いますのも、お釈迦様は、修行というものをイメージとしては、苦しみと迷いがあふれているこちら岸から大きな川を渡って、苦しみや迷いやそういったもののないあちら岸―彼岸ですね―彼岸に渡りきることだと。そういうイメージを持たれていますので、川の中にある頼りになるというと中洲ですね。中洲があると大変渡るのに助かるという。ということで、「自らを島とし」というよりか、「自らを中洲とし」ということですね。ここのところで重要なのは、「他人を頼りとせず」ということです。「自らと、それから正しい教え」これはお釈迦様がずーっと説かれてきたことですね。ですから自分の頭で考える。ただし勿論ブッダからいうと、私が教えたこと、これを一生懸命考える、それを実践すると。ただ自力で考えなさいということですね。非常に厳しい教えだとは思いますけれども、こういったことを言われれば非常に励みになるということも確かだろうと思います。私自身もこの文章をよく見まして、自らの励みにしているところがありますので。
 
金光:  この前も宮元先生にお伺いしたお話の中で印象に残っているのは、「自分」という言葉ですけれども、「自分を頼りにしなさい」という時の「自分」というのをどういうふうに考えるのか。その辺は現代の日本人にとってはなかなか難しいところではないかというと気もするんですが、この辺はいかがでございましょうか?
 
宮元:  はい。ちょっと哲学のような話になるので恐縮なんですけれども、例えばお釈迦様は「自分」というものを―いわゆる普通の自分ですね―というものを、「身体と心の作用で五つの集まり」という。自分という個体は五つの集まり―五つの蘊(うん)(五蘊)という(存在を構成する五つの要素。すなわち、物質的、身体的なものとしての色蘊(しきうん)、感覚作用としての受蘊(じゆうん)、表象作用としての想蘊(そううん)、意志・欲求などの心作用としての行蘊(ぎよううん)、対象を識別する作用としての識蘊(しきうん))。それを簡単にいうと、「身体と心」ということになるわけです。ところが「その五蘊をいずれも自己ではない」ということを強調されるわけです。その場合ですね、よく「自己」という言葉は、サンスクリット語では「アートマン:ãtman」、パーリ語では「アッタン:attan」というんですけども。で勿論仏教では、「アッタンは存在しないと。無我(むが)である」という説が説かれるようになるんですけれども、お釈迦様は「自己はない」ということは一言もおっしゃっていないわけです。「自己でないものを自己だと勘違いするな」と。「自己でないもの」というのは、つまり自分の身心ですね。「体と心」これを本当の自己ではない。ですから「我執」という言葉がありますけども、「我執」というのは、身心を己だと知って執着することを言います。ですから五つの塊ということで「五蘊(ごうん)」と言いますけれども、お釈迦様がよく使われるのは「五取蘊(ごしゆうん)」。「取る」というのは、これはどういう意味かというと、執着の行為を欲しいものを取りに行く、それから嫌な物を避けていくという、欲望に基づく執着行為ですね。ですから「五取蘊」というのは、執着の対象となっているのは身心であると。我執の対象というのは身心なんだということです。それから自己ということでいいますと、生命の起源ということが、今、かなり明らかになって来ているわけですけれども、ともかく生命―生き物が生き物であるというのはどういう条件で言えるかというと、二つなんですね。一つは、自分じゃないものを取り入れて、それをエネルギーに変換するということができるということと、それから自ら増殖することができるという。この二つがあれば、これが生命だということですね。だからウイルスは自力で増殖することができないものですから、一応今の生物学では、ウイルスは生命体ではない、と言われています。それはまだ議論があるんですけれども。したがってですね、生命と言われるものは、誕生した時から自他の区別あるわけです。それがなければ、たちまち他の餌食になったり、生きていけませんので。ということで、自我というのではなくて、そういった意味での生物が生きていくという時、その時におのずからというのがあるわけですね。執着する云々ではなくって、それがなければ生きていけないからです。だからその程度のことも自己ですね。ですから西洋哲学とか、それから心理学とか、それから精神医学の方で「自我、自我」と言われていますけれども、あれは「エゴ」でいいと思うんですけれども。あれは作られたり、感づかれたり、それから増大したり、崩壊したり、そうするものです。ところがさっきから言っていますがアートマン―自己(セルフ)ですね。これは生きている限りあるわけです。生ずることもなく滅するということもなく、増大することも、それから減ることも、崩壊したりは無いわけです。だから自己の確立というのは無いわけです。生命である限り確立するもなしに自己というのはあるわけだと、私は思うんですね。「自我」ということになると―意識ですね―ということになりますので、ただの生命体というよりも、かなり知的に発達した生物―人間はその一番最たるものということになるわけですけれども、そういったようなものが持ってしまう誤った自己認識ですね。その上に自我というのが成り立っているということだと思います。ですからお釈迦様は、そういう自我ですね、自我への執着ですかね、だから自我がいたずらに膨張してしまうことを警戒せよと。結局そういうような自我への執着というのが、これが自分ということをわからなくして、いつまでもいつまでも苦しみの世界にとどまるように仕向けてしまうわけです。ということなんですね。ですから「無我」といって、本当に自分がなければ、それは生きているとは言えないわけですね。どうでしょうか?
 
金光:  それでお釈迦様がよく「苦行を捨てた」という言葉がありますね。ただし苦行―全て苦しいと思うものを全て捨てたということになると、例えば食べるものが美味しいのを食べるのをやめるとか、いろんな自分が好き嫌いというのがありますね。それこそ自分の判断で自分に都合のいいことは良しとして、都合の悪いことはダメだと。そうすると、そういう自分に都合のいいことをホイホイとやっていると、それこそ迷いの中に入り込んでしまうんじゃないかという気がするんですが、その辺の自分の都合の良いことと、そうでないこと、苦行を捨てるということと、必ずしもそういう苦しみを全部捨てなさいと。苦しいことは全部やめなさいと言ったことではないということだと、その辺のところを説明していただけますでしょうか。
 
宮元:  お釈迦様は、釈迦族の国の王子様だったんですけれども、男の子が生まれたと。で間もなく妻子を捨て、親をして、国を捨て、二十九歳で出家となった。バラモンじゃない出家の場合「沙門(しやもん)」といいますけれども、沙門となられたと。それから先ずは無念無想の瞑想、これが最高の境地だという、そういうことを主張しているお師匠さん二人を渡り歩いて、その後苦行の道に入られたわけです。苦行というのはいろんなやり方があるわけですけれども、多岐に渡るんですが、一番熱心に取り組んだのは断食です。「苦行釈迦像」というそういう仏像がありまして、一番有名なのはガンダーラ仏でラホール博物館(パキスタン)にあります。日本にも何回か来たことがあるんですが、ともかく骨の上に薄い皮を張っただけという、そういったところまで癒せるという。
 
金光:  肋骨がよく見えるという坐像ですね。
 
宮元:  ええ。苦行釈迦像というのは、禅宗のお寺なんかにもよく描かれているように思います。時々見かけます。ただそれから後は息を止めるという「止息行(しそくぎよう)」というんです。これはお釈迦様が後に思い出して語られたところによると、息を止めると。そうすると耳から呼吸することになるんだそうです。耳鼻咽喉科というのがありますから、何か関係するのかも知れません。そこで耳も塞ぐと。そうすると頭の中で大きな鐘がガンガンとすぐそばで鳴るような大きな音がして、猛烈に頭が痛くなるということを繰り返したんだそうです。時々は失神しまして、一緒に助け合いながら修行していた仲間たちが、それを見てゴータマは死んでしまったと勘違いしたといったことが時々あったという。ただそういうものは、いたずらに身体をさいなむだけで、いくら苦行したからといっても、死んでしまったらおしまいなんでして、何しろ目的を達するまでは死んではいけないということですね。ということで、無闇に身体を痛め付ける苦行は止めたと。その後、これはゴータマ・ブッダ―お釈迦様の独創になるものだと、私は考えていますけれども、よく自分というものが生きてこうしてあるということに関する事柄、これを丁寧に丁寧に観察―仏教語では「かんざつ」といいますけれども―それをあるがままに見つめていく。そういう瞑想ですね。後に仏教の瞑想は頭の中を真っ白にする。これを「サマタ」といいますけども、「止める」と書いて「止(し)」といいます。それからよく物事を見て、それを基にして考察すると。あれとこれとがどういう関係にあるのかということを観察するそういう瞑想が「観(かん)」といいます。あわせて止と観で「止観(しかん)」という。天台宗では、禅のことを止観といいます。「観」という瞑想法を編み出したのは、お釈迦様だと私は確信しているわけです。ただそういう新しい瞑想法を開発して、それで解脱に成功して目覚めた人、ブッダとなられたわけですけれども、苦行を全て捨てたわけでじゃないわけです。で役に立つ苦行はこれは残したと。例えば食事は午前中に一回だけ。それ以後、できれば鉢一つを持って近隣の家から布施してもらったもの、それだけと。ということとか、それから一カ所に定住することなく、旅から旅の生活をすることとか、いろいろあるわけです。これは「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」という詩なんですけども、「七仏」というのは過去七仏。まぁ後の解釈なんですけども、「仏たち」でいいと思うんですけども、こういうのがあります。「悪いことはしなさんな。善いことをしなさい。そして自らの心を清らかにしなさい。これが仏たちの教えである」というのがあります。まぁ漢訳にしますと、
 
「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)
諸悪莫作(しよあくまくさ) (悪い事はしない)
衆善奉行(しゆぜんぶぎよう) (善い事をする)
自浄其意(じじようごい) (すると心は清らかになる)
是諸仏教(ぜしよぶつきよう) (これが仏様の教えです)
 
と言いますが、善いことをして悪いことをするなというわけです 。そうすると、ただの道徳経かというと、そういうわけじゃありませんでして、悪いことをすれば心が乱れると。欲望に従って欲望の赴くままにやっていけば、必ず善からぬこと、欲望が突っ走りますと、どっかで破綻して、それが苦しみとなる。それで心が乱れるということですね。ですから「悪いことをするな」というのは、「心を乱すな」ということです。善いことをすればこれは心が乱れない。それで自らの心を清らかにして、そこでちゃんとした瞑想が行われて、それによってあるがままに物事を知るという「如実知見(によじつちけん)」。「智慧」という言い方をするとちょっと難しいですけど、あるがままに物事―自分がこう生きてあるということは、どういうようなことで成り立っているのかということ。あるがままに知るということ。これは「如実知見(によじつちけん)」というわけです。「智慧」というと、何かどっか天から降ってきたみたいな話になりますけど、まぁそういうことですね。そのためには、欲望むき出しでは駄目ということです。静かに瞑想できるような心の有り様、自ら作りなさいという、というのが趣旨だと思います。ですから当然苦行ですよね。だから「少欲」という言い方があります。少ない欲という。あれは元の意味は、ほとんどないという。ですからちょうど英語でいうと、「少ない」というのを「few」といいますけど、「a few」だとちょっとなんですけど、「few」だとほとんどないという、あれみたいな。それは中国に入ってから、老子にある言葉で「足るを知る」という言葉がありまして、「知足(ちそく)」という。中国では、特に禅宗では「少欲知足」ということになるわけです。ですから自らの生活を物質的に豊かにしようとか、そういったことは考えないと。あるものだけで我慢するというようなことですね。ですから禅宗のお寺は非常に生活規律、お坊さんの規律は厳しいですけども、あれぐらいのことをしなければ、修行は必ず破綻するんだということだと思います。ですから「自力を捨てる」という考え方がありますけども、それはおきまして、ともかく自分で一生懸命でなんとかしろと。人を頼るなという。ただ正しい教えというのは残したつもりだから。これがまぁお釈迦様の言いたかったことだと思います。
 
金光:  そうしますと、「少欲」といっても、自分の心の少欲。欲をよく見なさいと。自分の心がどういうものに取り憑いているか、取り憑かれているか、その辺をよく見て、これは心を乱すというものは避けなさい。そういう方向に行くわけですね。
 
宮元:  そうですね。お釈迦様の残した瞑想法というのがありまして、大学の授業でも時々それを使うんですけども、『念処経(ねんじよきよう)』というパーリ仏典がありまして、ちゃんとした姿勢、安定した姿勢で坐ると。結跏趺坐(けつかふざ)というのが一番安定しているということですけども、それができなくとも半跏趺坐(はんかふざ)でも、胡座(あぐら)でもいいんですけども、安定していればいいんですが、順番に行きますと、自分にも呼吸ですね。吸った、吐いた。それも長く吸った、長く吐いた。短く吸ったら短めに、自分が呼吸していることだけ、それ以外のことを考えない。そこからまず始めなさいと。その次は自分の身体ですね。今坐っている。立っていれば今立っている。今歩いている。今走っている。これだけに意識を集中しなさいと。これ案外難しいんです。私は時々山登りしますから、山登りをすると、それができることがあります。道が悪いですから、余計なことを考えたら危険でして、次の一歩を、次の次の次のどれかという。それ以外考えたら遭難しますので。それが終わると、次は自分の心を観(み)なさいという。そんなに難しいことをおっしゃっているんではなくて、自分が今、喜んでいるのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、嬉しいのかという。要するに喜怒哀楽ですね。それぐらいわかると思うんですね。今、自分は何か怒っていると。それだけに意識を集中しなさい。ここで必要なのは、何で怒っているのかを考えないこと。怒っちゃいけないから、なんとかしようとも考えない。とにかく今自分が怒っているということだけですね。これに認識を集中すると。で私もこれはよく自分で実践しましたけど、怒っているときに、この瞑想法をしますと怒らなくなるんですね。「あ、自分は怒っている」だけでいいわけですね。それがいかんとは考えちゃいけない。というふうなことなんですね。だから要するに余計なことを考えると、瞑想はうまくいかないわけでして、そのためにはやはり自分を律するというところがなければ、ある程度は苦行といえば、苦行という要素がないと修行はうまくいかないんだろうと思います。
 
金光:  でもそういう方向で、そういう一種のトレーニングといいますか、訓練ができてくると、別にそれは苦しみではなくなる、ということですね。
 
宮元:  そうですね。お釈迦様の遺された言葉のお経ですけれども、これを読むたんびに思うことなんですけれども、お釈迦様は医者の王様―「医王」というふうにも言われていますけども、お医者様なんですね。ですから例えば今、心のあり方ということで、精神科の方でトラウマという心的外傷というふうに訳されますけど、思い出したくないわけですね。そこから逃げると。逃げると苦しいことが起きるというわけです。詳しいことは精神科の話でないんで省略しますけども、精神科の方では、そのものすごく嫌な思い出だから逃げて逃げて、それで苦しい症状を起こしている、そういう心の病にかかっている人に対して、精神療法というのを行います。基本的にはこれは自由連想で行います。ある程度辿っていって、精神科のお医者さんが、この患者さんはどこの記憶で滞っているかという。ですからちっちゃい時からの記憶をたどってくださいと、自由に。そうするとどこかでひょいと飛んだりするんですね、時間が。ああ、ここら辺だなと見当をつけて、そこら辺ですね。そのうちに本人が「そういいばこういったことがありました」という。ものすごく嫌な、あるいはものすごく恐怖を感じたそういう記憶が出てくる。忘れたいわけですね。それを精神科のお医者さんが、「よくその記憶を克明に思い出してください」とやるわけです。そうすると不思議なんですけども、そうやっているうちに嫌な思い出が―楽しい思い出に変わるわけじゃないんですけども―嫌な思い出が悪さしなくなるわけです。〈あ、嫌な思い出があった。実に不愉快だった〉それでおしまい。ということになると、不思議に身体症状がいろいろあったのが、スーッと治るという。ですから、さっき喜怒哀楽―自分は怒っているときには、〈あ、自分は怒っているんだ〉という。あんまりいい状態を見つめているわけじゃないんですけども、そうやっていれば、怒りというのが克服されるという。怒りを克服するためにやるつもりもないんですけど、結果的にそうなります。ですからそういう瞑想していれば、おのずから言われなくっても少欲知足。自分で何かすることができるようになるんじゃないかと思いますけども。
 
金光:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十八年十月二日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである