日蓮聖人からの手紙F佐渡の信徒への手紙
 
                    立正大学教授 北 川(きたがわ)  前 肇(ぜんちよう)
 
ナレーター:  シリーズ「日蓮上人からの手紙」。日蓮上人が遺した手紙を毎月一回、十二回にわたって読んでいきます。第七回は、「佐渡の信徒への手紙」と題してお送り致します。お話は立正大学教授の北川前肇さんです。
 
北川:  日蓮上人のご生涯を辿ってみますと、三十二歳の建長(けんちよう)五年(1253年)四月二十八日、法華経こそが末法の世を救う最上の教えであることを宣言されて以来、法難に遭遇されています。例えば建長五年の立教開宗の宣言によって多くの人々から圧力が加わり、故郷の清澄寺(きよすみでら)を下山されることになります。その後聖人は鎌倉において法華経の弘通(ぐづう)に当たられるのでありますけれども、正嘉(しようか)元年(1257年)八月二十三日の大地震をきっかけと致しまして、翌年の八月一日の台風等によって関東地方は飢饉に見舞われ、疫病等の流行によって餓死者や病死者が続出することになります。聖人の目指された仏弟子としての姿は、仏教の教主であります釈尊の御心を知り、その御心に従って人々の安らぎと社会国家の安穏(あんのん)なることを祈り、かつ人々にそのことを伝えることにほかなりませんでした。けれども、自らが身を投じている日本国の現状は、天変地異(てんぺんちい)によって多くの人々が塗炭の苦しみに喘いでいるという有様でありました。そこでこれらの災難が興起する由来を御仏に尋ねることを目的として一切経蔵に入られて経巻を繙(ひもと)かれるのであります。その結果災難が興起する原因とその経典に見られる証拠を見出され、併せてその災難を除く方法等を覚悟されたのであります。そのことを聖人は、『立正安国論(りつしようあんこくろん)』一巻に纏められ、三十九歳の文応(ぶんおう)元年(1260年)七月十六日、先の執権でありました北条時頼(ほうじようときより)に奏申すべく宿屋入道最信(やどやにゆうどうさいしん)を仲介として手渡されたのであります。『立正安国論』の内容を知った権力者やその周辺の人々は、聖人を幕府の黙殺者人物であるという認識のもと、翌八月二十七日の夜、鎌倉の松葉ヶ谷(まつばがやつ)の聖人の草庵を襲い、殺害に及ぼうとするのであります。これを「松葉ヶ谷(まつばがやつ)法難(ほうなん)」と呼んでいます。しかし辛くも危険を脱した聖人は暫く下総(しもふさ)の信徒の元へ身を寄せられたと伝えられています。翌弘長(こうちよう)元年(1261年)五月十二日、幕府は聖人を伊豆国伊東郷(現在の静岡県伊東市)へと流罪に処し、伊東の郷の地頭であり、幕府の御家人であります伊東八郎左衛門の預かりとなるのであります。これを「伊豆法難(いずほうなん)」と呼ぶのです。弘長(こうちよう)三年二月二十二日赦免となり、鎌倉へ戻られた聖人は決して法華経信仰を捨てられることはなく、一層その弘経(ぐきよう)活動を励まれるのであります。翌文永(ぶんえい)元年(1264年)の秋、故郷の安房国(あわのくに)を訪問された聖人は、亡き父の墓参、病気の母の見舞い、仏門の師範である道善房(どうぜんぼう)(?-1273)への挨拶や信徒の教化等を目的とされるのでありますが、安房国の東条郷の地頭であります東条景信(とうじようかげのぶ)は北条政権を背景に荘園領主の領地を横領する野望を達成すべく清澄寺(きよすみでら)や二間寺(ふたまでら)を支配下に置こうとしたことを、聖人に阻止されたことや、彼の信仰が否定されたことなどの宿怨(しゆくえん)を晴らために東条郷の小松原の王子で聖人一行を襲撃するのであります。これを「小松原法難」または「東条法難」と呼んでいます。このように聖人の三十二歳の立教開宗以後の足跡を辿ってみますと、多くの法難の連続であったことが知られるのであります。聖人が四十八歳の文永(ぶんえい)六年(1269年)比叡山へ留学中の弟子の三位房(さんみぼう)に宛てられた手紙の一節には、
 
此の法門のゆへに、二十余所をわれ結句流罪に及び、身に多くのきずをかをほり、弟子をあまた殺させたり
 
と述べられていますから、聖人もこれらの法難を強く認識されていたことが知られるのであります。そして幕府はついに良観房忍性(りようかんぼうにんしよう)等の訴えを元として五十歳を迎えられた聖人を佐渡の国へと流罪に処すのであります。四十歳の伊豆流罪に続いて、五十歳の佐渡流罪という二度の流罪を聖人は体験されることになります。安房国―今日の千葉県に誕生された聖人は、諸国を歴訪して仏教研鑽に勤(いそ)しまれ、また伊豆への流罪等の厳しい環境をも克服されたのでありますが、文永八年(1271年)十月十日五十歳を迎えられた聖人は、幕府の警護のもと、今日の神奈川県厚木市を出発して冬の佐渡へと向かわれるのであります。佐渡の国の地理的自然的な環境は、聖人にとっては未経験のことであり、私たちの想像を遙かに超えたものであったと拝察されるのであります。その厳しい環境について聖人の佐渡流罪が赦免された後の文永十一年(1274年)五月に甲斐国(かいのくに)巨摩郡(こまごおり)(今日の山梨県身延町)へと移られた翌年、建治(けんじ)元年(1275年)四月、五十四歳の聖人が下総国、それに在住の曽谷法蓮(そやほうれん)に宛てられました手紙の一節に、その有様を的確に表現されています。現代語訳でご紹介致します。
 
このたび(文永八年九月)の鎌倉幕府からの懲罰に、(私は)死罪になるところでしたが、どのような配慮であったのか、佐渡の国へ流罪となりました。佐渡の国へ流される人は、多くは死に遭遇し、生きて還れる人は稀であります。ようやくのことで、佐渡に到着しても、人殺しや、幕府の転覆を犯した重罪人よりも、それ以上の罪人のような処遇でありました。鎌倉を出発してから、日に日に強敵(ごうてき)に襲われるようでありました。(中略)
佐渡は、北国の風土として、冬は特別に寒風が吹き荒れ、雪が深く積もり、その中にあって、私の着ている法衣は薄く、食物は乏しいのです。中国のことわざに、揚子江の南方に生育する橘(たちばな)の根を、江北に移しかえると、自然にからたちにかわるということを、私の身の上に実感させられたことであります。流人として起居する住家というのは、尾花(おばな)(ススキ)や刈萱(かるかや)(カヤ)がおい茂っている野中の御墓所に建てられている朽ち破れたくさぶきのお堂で、屋根は雨が漏り、壁は風も防げないほどです。その場所では、昼となく夜となく耳に聞こえてくるものは、枕を過ぎ去るさえわたった風の音。朝に夕に目に映るものは、あちらこちらの路を埋める雪ばかりです。まさに、この身のままに、餓鬼道に入り、また八寒地獄に堕ちたようなものです。
かの中国の歴史上の人物で、漢の武帝に仕えた蘇武(そぶ)(紀元前140頃ー前60)という武将は、十九年間匈奴(きようど)に囚われて雪を食し、また漢の武帝に仕えて、匈奴を討つために出征した李陵(りりよう)(?-前74)が岩窟に入って、六年間も簑を着て過ごしたということも、まさに、私が佐渡の流罪地で体験したことと重ねられるのであります。
 
この文面から伺いますように、聖人が流人として佐渡へ住まわれた住居というのは、死者を埋葬する墓所の中に、死者供養のために建てられた草堂であることが知られるのであります。しかしこのような厳しい境遇にありながらも、聖人の教えに耳を傾け、法華経に帰依した人物がありました。そのことは佐渡流罪赦免後、身延の日蓮聖人の許を訪問していることからもその事実が明らかとなるのであります。その帰依者、即ち信徒は二組の夫婦であります。その一組が国府入道(こうのにゆうどう)夫妻あり、別の一組が阿仏房(あぶつぼう)夫妻であります。そこで、まず日蓮聖人との交流の事実を、手紙から確認できる順序と致しまして、国府入道夫妻に宛てられた手紙をもとに、いかなる境遇であっても、自己の信念を貫いた夫妻の生き方を見ておきたいと思うのであります。なお、阿仏房と聖人との交流につきましては、次回にたずねてみたいと思います。ところで日蓮聖人と国府入道夫妻との交流を伺える手紙は、「昭和定本」に収録されています信憑性のある文献として三篇の手紙が確認できます。その収録に従って整理してみますと、一通目は、「卯月十二日」の日付のある手紙で、真蹟が愛知県の妙勝寺(みようしようじ)に所蔵され、三紙からなるもので、宛名は「こう入道殿御返事」とあります。二通目は、「六月十六日」の日付があり、宛名は佐渡国の「国府尼御前」とあるもので、真蹟は七紙が佐渡市妙宣寺(みようせんじ)に護持され、殊にこの手紙は重要文化財に指定されています。そして三通目は、「卯月十二日」の日付があり、宛名は「是日尼(ぜにちあま)」となっています。真蹟は二紙の断簡が京都市本満寺(ほんまんじ)に護持されています。なおこの手紙の宛名である「是日尼」と「国府尼」とを同一の人物と見なすことに異説はありますが、手紙の内容からここでは同一人物と見なして解説させて頂きます。以上のように国府入道夫妻との交流を伺える手紙は三通が存していますが、「昭和定本」に従いますと、[一]の手紙は、文永十二年(1275年)四月十二日とし、[二]の手紙は、文永十二年四月二十五日に文永から建治(けんじ)と改元されていますが、同じ建治元年六月十六日と見なし、[三]の手紙は弘安(こうあん)元年(1278年)四月十二日に位置づけています。しかしこの手紙の配列年次につきましては、当時佐渡の国から甲州の国身延までの日数等を勘案し、また弘安元年には阿仏房と国府入道とが佐渡から身延を訪問の折、途中まで同道しながら国府入道は農作業のために引き返しているという事実が知られますことから、国府入道の身延訪問を[一]を建治元年、[二]を建治二年、そして三番目は建治三年の三回にわたり、毎年訪問していると解釈しておきたいと思います。つまり聖人からの手紙は、三年連続のものと解釈し、「昭和定本」の収録年次を入れ替えまして、[一]を「国府尼御前御返事」、[二]を「国府入道殿御返事」、[三]を「是日尼御書」とみておきたいと思います。なおその詳細につきましては、複雑になりますので、ガイドブックをご参照頂ければ幸いと存じます。ところで聖人がこの夫妻のことを「国府尼、国府入道」と呼称されていることは、佐渡の国の国府「こう」となまっておりますけれども、省略されておりますが、その国府の地に居住した信徒であったからだと推察されます。国府の所在地は、現在の佐渡市真野町(まのちよう)であると見なされています。また法華経信仰にきた阿仏房(あぶつぼう)夫妻も聖人の手紙の宛名に「佐渡国府阿仏房尼御前」とありますから、同じ国府の在住であったことが知られるのであります。では三篇の手紙の内容を簡潔に辿っておきたいと思うのです。[一]の「国府尼御前御返事」と名付けられています手紙の日付と宛名は、「六月十六日」「佐渡国府尼御前」となっています。そしてこの手紙の冒頭には国府の入道の妻が、夫が身延の聖人のもとへ訪問した折、単衣(ひとえぎぬ)一領(いちりよう)を託して、聖人への供養物としたことへの謝礼が記されています。またこの手紙の端書きには、「阿仏御房の尼ごぜんよりぜに三百文。同心なれば此の文(ふみ)を二人して人によませてきこしめせ」とありますことから、阿仏房の妻であります是日尼が、国府入道に、三百文の銭を託したことの謝礼が記され、またこの手紙に記されている法華経の教えについては、国府尼と是日尼のお二人は、聖人の弟子に読ませて、一緒にお聞き下さいと述べられていることが知られるのであります。この手紙は三段に分けて解釈できます。第一段目は、末法という濁世の時代にあって御仏の仕えである法華経の行者に帰依し、供養を捧げる功徳が広大で勝れた信仰行為であることを称讃されていることからも、より具体的に法華経の教えを解釈する聖人の弟子の存在が伺えるのであります。第二段目は、聖人が法華経の行者として如何に多くの法難を受けてこられたかを述べられていることになります。それは建長五年四月の立教開宗以降の歩みであると同時に、聖人ご自身の日本仏教史上の位置づけも拝察できます。この部分を現代語訳で御紹介致しましょう。
 
そもそも、私(日蓮)は、日本の歴史の中で、もっとも他者から憎しみを受けている者です。その理由は、天神七代のことはさしおき、地神五代のことも量り知ることができませんので、除くとして、人の王の世となってより、初代の神武天皇から今上(きんじよう)天皇(亀山天皇)まで、九十代を迎えています。その間、欽明(きんめい)天皇の世に仏教が百済国から渡来して、七百余年を経ています。その七百余年の時代の中で、世の中(世法)のことにつけ、仏法のことに関しても、日蓮ほど多くの人々から敵視され迫害された者は、存在していません。
たとえば、物部守屋(もののべのもりや)(?-587)が仏教を排斥して寺塔を焼いたり、平清盛(たいらのきよもり)(1118-81)が奈良の東大寺や興福寺を炎上させたことを、仏教界の仲間たちは、あまり憎んでいないようです。また、平将門(たいらのまさかど)(?-940)や安倍貞任(あべのさだとう)(1019-62)が反乱を起こして、ときの朝廷にそむいたとしても、また、伝教大師(でんぎようだいし)(767−822)が東大寺の僧侶に憎まれたことはありましたが、それでも、これらの人たちは、日本全体の出家の僧・尼・在家の男・女といった人々に憎まれたわけではありません。それに対して、私日蓮は、父母・兄弟・師匠、さらに同じ仏道を歩む人々をはじめ、上は天皇から下は庶民に至るまで、一人も残らず、父母のかたきのように憎まれ、また国家や為政者の転覆をはかる者や強盗を犯した人に対するような、あだを受け憎まれています。あるときは、数百の人々から悪口雑言を受け、またあるときは、数千人に取り囲まれて、刀で切られ、杖で打たれるという大難に遭遇いたしました。さらに、法華経を広めている活動の場所からも追放され、国からも、放逐されてしまいました。結局のところ、国主である北条氏から二度にわたる制裁を受け、一度は伊豆の国へ、そして二度目は佐度国へと遠流(おんる)となったのです。そのようなことから、生命をつなぐ食糧もなく、身体をつつむ藤の蔓で編んだ粗末な衣服さえ持てない有り様でした。北海の孤島である佐度に流された所では、佐渡に住む出家や在家の人を問わず、相模国の男・女よりも日蓮に対しては、恨みがひとしおでした。流人として、死者を埋葬する野原の草堂に放置され、雪が身に降りかかり、身を包む衣服もなく、野草つんではそれを食物とし、生命をつないできたのです。
しかし、これらの私日蓮の処寓は、世間における罪過を犯したことによる流罪ではありません。み仏の教えによって、末法の一人一人を、さらにはこの日本国の人々を救いたいという思いの結果によるものです。
 
このように、聖人は、国府尼および手紙の内容を聞かれる千日尼に対して、聖人ご自身が法華経の弘通(ぐづう)(教えを広く伝えること)のゆえに、日本の歴史上、あるいは日本の仏教史以来、このような法難を受けた例のないことを記されているのであります。
ついで、第三段目へ移ることになりますが、この段において、国府入道夫妻の聖人に対する帰依の姿を描かれることによって、その志に感謝されているのであります。しかも、信仰上の約束が示されています。
 
そのように、世間の人々が私日蓮を敵視しているにもかかわらず、尼御前ならびに入道殿のお二人は、私が流人として佐渡にいた頃、他者の目を気遣って、こっそりと夜中に私のもとに食物を届けて下さり、またある時は、私を見張っている幕府の役人(守護代の下臣)から、流人を支援していることのとがめがあっても、それを恐れることはなく、堂々と役人に抵抗して、私の身代わりになろうとしてくださったお方たちです。たしかに、流人の私にとって、佐渡の国は苦痛に満ちたところではありましたが、あなた方の温かなご厚意に包まれて、いざ流罪が赦されて鎌倉に旅立つことになると、離れがたい心がわき起こり、出家の身として剃ったはずの後ろ髪を引かれ、踏み出した足をもとへかえしたいという思いでいっぱいでした。一体、このような離れがたい感情がわき起こるというのは、どういう前世からの深い理由があるのでしょう、と不思議に思っておりました。そういたしましたところ、また思いもかけず、佐渡からこのような甲州という遠国の山中まで、常日頃、頼りにされているご夫君を使者として遣わされました。夢でしょうか、まぼろしでしょうか。尼御前のお姿を拝見することはできませんが、そのお心は、私の目の前にいらっしゃるように感じられてなりません。佐渡と甲州とでは、遠く隔たってはいますが、もしも私を慕(した)わしくお思いになられるのでしたら、朝に昇る太陽や、夕方に出る月を仰ぎ見て、礼拝していただきたい。私は、いつも日天子(につてんじ)、月天子(がつてんじ)を拝み奉っていますので、この身がそこに浮かび、あなたとお会いすることになりましょう。また、限りある生命ですから、死後には、み仏のまします永遠の浄土である霊山浄土へ詣って、必ずお会いいたしましょう。
南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
六月十六日      日蓮  花押
佐渡の国の国府の尼御前
 
このように、この三段目の文(ふみ)を拝読いたしますと、いかに国府入道夫妻が、日蓮聖人に対して、献身的に帰依を捧げていたかが知られるのです。
 
それでは二通目の「こう入道殿御返事」を拝読ことにいたしましょう。この手紙は、四つの段落に分けることができます。まず、第一段の冒頭では、あまのり紙袋二つ、わかめ十帖、小藻(こも)(こあま)紙袋一つ、たこ一かしらのご供養に対するお礼が述べられています。次の二段目では、国府入道夫妻の法華経および日蓮聖人へのゆるぎない帰依の心を賞賛されています。
 
私たちの心というものは、定まりのないものですから、たえずこころは移り変わるものです。私日蓮が、流人として佐渡の国にあったとき、あなた方が信じて帰依を捧げられたことさえ不思議な因縁だと思っておりましたところ、この甲州身延山までご夫君の入道殿を遣わされたおこころざしを、尊いものと思っています。また、佐渡国と甲斐国とでは、国も隔たり、さらに文永十一年の赦免から、年月も経ましたので、あなた方のご信仰も弱くなられたのではないかと案じていましたところ、いよいよご信仰が堅固になり、功徳を積まれていることは、今世の一生のことや、二生にわたる浅いものではなく、遥か過去世からの深い因縁があるものと思われてなりません。
 
このように、国府入道夫妻への変わることのない信仰を確認され、み仏との深いいわれのあることを示されているのであります。次の第三段目では、この法華経は容易に信じることのできない教えであることから、釈尊は、子となり、父母となり、女人の姿に身を変えて導いて下さるというのであります。そして聖人は、国府入道夫妻が境遇に対してのお心遣い、ご夫妻には即ちお子がなく、またご両親だけですが、法華経の譬喩品(ひゆぼん)第三には「この世界の人々は、すべて私の子である」と説かれていますから、教主釈尊は入道ご夫妻の慈父です、と説かれています。さらに、法華経の教えをもととして、私日蓮は、 ご夫妻の子供であったのを、日本国の人々を救うために、佐渡に生まれずに、国の政治の中心地に生まれたのでしょうか。過去からの縁(えにし)が尊く思われます、と筆を進められます。 
そして最後にご夫妻には、お子がありませんので、老後には身延へまいられるようにと勧められています。それほどまでに聖人と国府入道夫妻とは親子のような深い情愛を交わされているのを知るのであります。そのことはさらに翌建治三年国府入道が身延の聖人のもとを訪問し、およそ一ヶ月にわたって奉仕することになることからも、その交わりの深さを知るのであります。第三通目の是日尼への手紙の現代語訳を拝読しておきたいと思います。
 
これまでに、しばしばさどの国からこの甲州身延山まで、夫の国府入道殿が訪問されたことは、とても思いがけない尊いことと思っていました。そして、法華経の提婆達多品(だいばだつたぼん)第十二において、釈尊が過去世に須頭檀王(すずだんのう)であったとき、法華経の教えを求めて阿私(あし)仙人に千年もの長きにわたり給仕されたように、入道も私のもとで一ヶ月ほどのご奉仕をされましたことは、なんと尊いことでしょう。感謝の気持ちを筆をもって尽くすことができません。また未来世には、必ず久遠のみ仏がまします霊山浄土でお会いいたしましょう。
 
とあります。そしてこのように感謝の心を述べられたのでありますが、弘安三年(1280年)七月二日付けの是日尼への手紙には、
 
こう入道殿の尼ごぜんの事、なげき入って候。またこいしこいしと申しつたへさせ給へ
 
とありますように、国府尼は、この年には霊山浄土へと旅立っていることが知られるのであります。
 
     これは、平成二十八年十月九日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである