止観瞑想を現代に活かす
 
                  鴨川市釈迦寺住職 影 山(かげやま)  教 俊(きようしゆん)
1951年東京生まれ。1976年立正大学仏教学部仏教学科卒業。1979年立正大学大学院文学部修士課程仏教学専攻科修了。1994年南カリフォルニア大学大学院日本校博士課程人間行動学科修了。博士論文「『天台小止観』の心理学的、生理学的研究」にて米国カリフォルニア州公認カリフォルニア大学学位「人間行動科学博士(Ph.D.)」授与。1997年日蓮門下祈祷根本道場遠壽院大荒行堂第五行成満。現在、日蓮門下祈祷根本道場遠壽院大荒行堂副伝師
                  き き て    平 位  敦
 
ナレーター:  今日は、「止観(しかん)瞑想を現代に活かす」と題して、千葉県鴨川市(かもがわし)の釈迦寺(しやかじ)住職影山教俊さんにお話を伺います。影山さんは、日蓮宗の伝統行堂遠壽院(おんじゆいん)で五回の荒行を終え、満行 。一方では、インドに渡りヨーガの修行を積むなど、様々な瞑想法の研究を続けてきました。現在は日蓮宗の瞑想の基礎となっている止観瞑想を応用した心理療法に力を注いでいます。影山さんにその取り組みについてお聞きします。聞き手は平位敦ディレクターです。
 

 
平位:  影山さん、僧侶として非常に幅広い活動をされているということなんですが、今一番力を入れておられるのはどういったことになるんでしょうか?
 
影山:  そうですね。日蓮宗の伝統的な修行に関しても少し関わっているんですけど、今法務省の関係でございます刑務所の教誨師と、あとはお寺に開設した社会福祉法人の相談室ですね。そこで仏教の瞑想技術といいますかね、瞑想法を指導することで、例えば受刑者なり、相談者なりの不安だとか、怒りというか、あらゆる悪感情をコントロールできるように、瞑想法を指導することで改善するような方向性をつけているんですけどね。
 
平位:  刑務所におられる方の心のケアをされるというような、
 
影山:  そうですね。心のケアというか、ご本人が持っている悩みなり不安になりとか、結構そんなに犯罪に係る方の爆発的な怒りみたいなものがあると。それを普通に言葉で「やったこと、悪いことだよね」というと、それは知識的には知っていることなんで、それをどうやってうまくコントロールできるか。それを技術として瞑想を指導する形になりますね。特に仏教は「抜苦与楽(ばつくよやく)」苦しみを除いて楽を与えるという、仏教を端的に表現した言葉を持っているわけですよね。ということは、苦しい状態から楽になっていくにはどうしたらいいか、というのが、仏教の根本的な目的になってくるわけですね。その苦しみを楽に変えて行く技術として修行、また今の言葉で換えて言えば、瞑想の技術というようなものが、仏教にはどの宗派でも同じように伝承していると、私は思っているんですね。その瞑想の技術が、漢字で言えば「止観(しかん)」というですけどね。東南アジアの仏教がかなり日本に入ってきていますけども、テーラワーダ仏教では、それの同じ「止観」のことを「サマタ・ヴィバサナー」というような言い方で、同じような瞑想技術を持っているわけですね。「止観」のことを簡単に説明すれば、自分の心をまず呼吸に集中して、そして呼吸の変化を眺めるというんですね。自分の内観作業ですね。そういう技術が実は「止観」であるし、仏教の瞑想技術の根本にあるんですね。
 
平位:  「止観」という言葉は、知っている人は知っていると思うんですけど、日本で一般的には「坐禅」とか「瞑想」という、いろんな言葉があるんですけど、「止観」というと、どのように位置づけられるものでなんでしょうか?
 
影山:  そうですね。例えば日本の宗派で曹洞宗(そうとうしゆう)という道元(どうげん)禅師の宗派がありますけども、その道元禅師ですら止観をベースにして瞑想を指導するわけですね。つまり「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」という坐禅の技法がありますけども、その坐禅の技法は、実は『天台小止観(てんだいしようしかん)』―中国で七世紀天台大師という方が撰述した瞑想のための文献ですけども、それをちゃんと引用して禅を説明しているわけですね。ですから日本の仏教も大体この天台の止観をベースにして瞑想技術が出来上がっているんですね。特にこの天台大師の撰述された止観の瞑想の技術を詳細に書いている『天台小止観』という文献と、もう一つは瞑想から起きてくる心理現象ですね、心の奥について詳しく書いてあるのが『摩訶止観(まかしかん)』という、二つあるんですね。その中の第七章あたりですね、「病患境」という病気に関する一項目があるんですね。それを読んでみますと、インドの医学の治療法と中国の漢方の治療法が折衷されているんですね。インド医学のアーユルヴェーダに漢方医学も実は心の乱れ、例えば欲望によって生活なり、また自分の心が乱れると病気になると。だから逆に病気を治すには、欲望をうまくコントロールしなければいけない。その欲望をコントロールするためには、この止観の瞑想をしなさいというふうに『摩訶止観』『小止観』には具体的に書いてあるんですね。
 
平位:  影山さん自身のことについてお聞きしたいですけども、今現在そういう活動をされているということは、やはりそこに至るまでの道のりがあったと思うんですね。そもそも仏の道というんでしょうか、入られたというのはどういったことがいきさつなんでしょうか?
 
影山:  そうですね。私は兄弟がいない一人っ子で、ごく普通のサラリーマン家庭に育ったんですね。父は鉄道員でしたけども、両親ともあまり体が丈夫でなく非常に蒲柳(ほりゆう)だったということが背景にあると思うんですね。ちょうど中学の頃に東京から千葉市内の方に、父が仕事の関係で転勤・転居することになった頃から、ちょうど母がちょっと腎臓病を患って、長期間入退院して、まぁ五十六歳で他界したんですね。そういう家庭で育った中でやっぱり時代的なこともあるんでしょうけども、家庭の中で一人が重篤(じゆうとく)な病気になると、やっぱり経済的なことだとか、病気で苦しんでいる姿を見ると、非常に何とも言えない不条理な現実というんですかね、病苦、経済苦ですよね。それを見て育ったんですが、その時たまたま高校の図書館で仏教書を見たんですね。ちょうど講座で大乗仏典だったと思うんですけど、なにを読んだか記憶ははっきりしていないんですが、ただ「すべてものは実体がないんだ」と。「空」という言葉が出てきましたんでね。それが思えたときに何か自分自身の中で、その言葉がこういう苦しみ本当はないんだというように感じたんですね。それがきっかけで仏教系の大学に入って、「空の研究」と言いますかね、学問的な勉強を始めたんですね。それで初期大乗仏教の研究、特に『般若経』の研究をやって、ようやく漢字とサンスクリットとチベットの訳など対象して、資料を作って自分なりに考えたんですけどね。ところが大学院に入って二十四、五の頃にですね、勉強やっていたんですが、神経症みたいな形で、夜寝られないとか、食欲がないとかですね、そういう状態に陥りましてですね、近所の病院に受診したんですね。そこの先生が、「あなたは仏教の勉強やっているのに情けない」みたいなことを言われちゃったんですね。その時に学問としての仏教と体験としての仏教というんですかね、知識的に分かって理解しても、自分自身がコントロールできないのでは意味がないというところに気づいたんですね。じゃ仏教とは何かというところで、少し悩んだんですが、大学の先生に聞いてみたんですね。「こんな状況なので、一回修行してみたい」と言って話をしましたら、預けられたお寺がちょうど杉並の妙法寺(みようほうじ)という修行寺院だったんですがね。そこへ入って三ヶ月ぐらいしたら、それこそ朝早くから起こされて、修行と言ったら毎朝二時間の朝のお勤めをやって、で掃除に追われて、先輩にしごかれて、食事は非常に粗食で麦飯みたいなものを食べていたんですけども。それだけで非常に元気になってきたんですね。ですから僧院生活自体が、「行学二道」というんですかね、知識だけではなく、必ずそこに行いがくっついていて、仏教全体―仏教ということなんで、今までのように学問で理解することではなく、学問的にわかったことが、自分の体で具体的にコントロールできるという体験の世界だと思うんですね。特に日蓮宗は、もともとは「経宗(きようしゆう)」と言われるぐらいお経をよくやるわけですね。その時にまずお経の基本で「一一文文(いちいちもんもん)」(お経の読み方の練習として昔から行われているやり方に、師匠が木鉦でリズムを刻みながら、お経のワンフレーズを独唱し、それを今度は弟子が同じように師匠が刻む木鉦のリズムに合わせて、師匠が独唱したお経のワンフレーズを真似して唱えていく)というのがあるんですね。それは師匠が、例えばお経を「にょ(如)〜ぜ(是)〜が(我)〜もん(聞)〜」とこう一息で言ったら、それを同じ耳で聞いて、お経本を見てですね、耳で聴いて同じように、「にょ(如)〜ぜ(是)〜が(我)〜もん(聞)〜」と繰り返すわけですね。それをずーっとゆっくりとお経の一章からやっていくわけですね。そうすると、すごく時間がかかりますけど、ゆったりとお経を読んで聴いて繰り返すと。そこで一つの精神的な安定とか、瞑想が誘導されてるわけですね。それでそれ以降は、とにかく一回学問を捨てて、とにかく行をやろうということで、日蓮門下の専門道場遠壽院荒行部というところに、同じ妙法寺で四年間髄身、小僧生活終わった後、修行に三十の声聞いて入るんですね。そこで水かぶりながらですけど、まぁ寒中一百日、一日七回水をかぶって、日に二回ほどお粥すすって、後は読経三昧ですね。お経をとにかく読んでいると。お経読んで読経三昧になるというのが目的なんですね。ですから一日七回の水行で、三時間毎の間真剣に読経することで、この三昧を体験することですね。十一時に最後水被って、朝三時から一番ですので、その十一時の水をかぶって、寝て、朝三時間ですから二時半ぐらいに起きて、三時の水をかぶると。そしてまたお経を読み始めるという形になるわけです。
 
平位:  睡眠時間は短いですね。
 
影山:  そうですね。 実質寝れるのは三時間ぐらいですね。ですから、そうやって辛い行をしますけども、やっぱり坐ることの足の痛みだとか、寒い。坐ることも長いこともありますし、あと空腹感ですよね。そこでそういう悪感情が自分の中でいろいろ湧いてくるわけですから、そのままそういう悪感情を抱えたまま修行できませんので、逆にその悪感情を読経三昧で一切忘れていく。そうすると、そこで不思議にいろんな技術、自分の体験が出てくるんですね。そういう境地になると、あ、寒いとか、熱いとか、痛いとかということはあまり意識しなくなる。時間を考えたら、二十四時間長いですけど、時間を考えない時間帯を持っているわけですから、気付けば、あ、もう睡眠の時間と。もうこの時間だと。時間早いですね。ですから読経三昧になって無心な状態、考えない状態。煩悩が動かないというか、あっても働かない状態と言いますか、そういう状況ができてくるんですね。そういうことが基本的なことになっているんですね。ですから、仏教は基本的には「思想だ」と思っている方も多いですけど、「仏教は思想ではなく、瞑想の体験が文章化されたものが仏教文化」と言われているものであって、体験が前提なんですね。ですから、よく一般的に仏教は無常感を伝える宗教だとかと言いますけども、無常感も思想で考えているわけではないのでね。止観の瞑想の基本は、まず呼吸を感じることですね。自分の吸っている呼吸、吐いている呼吸、そうするとそれをずーっと意識して、集中して息吐けば集中が始まってきますね。で息を吸い始めると自動的に呼吸が入って来ますから、今度は入ってくることが観察されるんですね。吐くときは意思で吐こうと。今度は自動的に呼吸が入ってくる。集中と観察が行われる。止観ですから。そうすると、そうやっていけば、呼吸は「呼吸が始まったぞ」という始まりがあったら、あるところで終わっちゃうんですね。終わったらまた始まる。そうすると、この終わりと始まりが連綿として続くところで、始まったものは終わるんだという無常感を言語ではなく、自分のこの身体的なレベルで認知していく。これが無常感ですね。そうすると、私なんかはまだまだそんな境地になりませんけども、昔はバタバタが、無常感をちゃんと達観したということ。そういう状態を長く続けることで、死ぬことも生きているのも同じなんだというようなことで、どっかで悟りがふっと出てくると思うんですね。ですから、こういう技術をちゃんとマスターすることが、仏教なのであって、やはりお釈迦様の体験を追体験するための技術が、実は瞑想であると。仏教的な言葉を使えば「禅」だとか「ジャーナ」と言うんですね。
 
平位:  そういった修行、あるいは瞑想、それが病を治す道でもあり、悟りへ到る道でもあり、別の事ではないという。
 
影山:  そうですね。特に、天台止観の修行論をちゃんと見ると、身体の感覚ですが、朝起きた時に自分の体が、昨日の自分と今日の自分とどう違うか。ちゃんと内観すると出てくるんですよ。どうしてというか、感情状態に気づけないようでは、精神性に気付けないわけですね。ということは、まさに自分が健康か不健康か感じられない限り、悟りなんか出てくるわけないよ、とおっしゃっているんです。ですからまず観念論でなく、体験的に自分が健康なのかどうか。自分は体が健康であれば、当然そこに健康的な心に宿ってくる、というふうに心身相関を千三百年か千四百年前に、そういうことを言っているわけですよね。千葉刑務所は、ほとんど無期刑がいるということは、初犯で無期刑があるということは、殺人乃至殺人未遂の方々が置かれているわけですね。そうすると、教誨師として、「みなさん、ちゃんと悔い改めて社会復帰しましょう」という話は出来ないんですね。三十年ぐらいちゃんとお勤めすれば出られますけどね。人生の大半、いちばん大事なとこ過ごすわけですから、そうするとどうその方々に教誨、要するに考えというか、ということは人生全般を見なければいけないわけですから、当然死とも向かい合うことも話ししなければいけないわけですね。私は千葉刑務所では、死というものを前提にしながら、幸せな死ってなんだろうということを内観してもらう。そうすると観念的に良いとか悪いとかでなく、そういう人生を大きな死という切り口で、どう死んでいくのが幸せなのか、と彼らは内観し始めんですね。それ自体が実は瞑想ですよね。
 
平位:  自分自身の犯した罪であるとか、今の刑務所にいることとか、そのことをありのままに改めてもう一回やろうとする。
 
影山:  そうですね。結局世俗の規範と宗教的な規範があるんですね。そうすると、一応世俗的な規範というのを、仏教から見れば、悪いことやったんだからお前たちはこれ仕方ないよ。そういう論理ですからそれはそれで。しかしそれだけでは人間の心の成長とか、心のコントロールきかないわけですよ。それだけのものと思いますね。やっぱり自分で犯罪を犯した方々の心理が、「あ、私は本当に悪かったんだ」という自覚の事実として瞑想が有効なんですね。
 
平位:  それまでの自分を縛っていた思考から離れて、なんか素直に迎えられるような、
 
影山:  自分の中にある、ですから仏教だと「仏性」とかと言いますよね。仏様の性質が仏界だとか、菩薩界だとか、それに気づくことですね。僕は日蓮宗の坊主ですんで、日蓮聖人の言葉を口にすることがありますけど、日蓮聖人は非常に面白いことをおっしゃるんですね。「どんな悪いことをする人間でも、自分の奥さんや子供を大事にするだろうと。これはその悪人の中に菩薩の心が動いている」そういうふうにいうわけですよね。
 
平位:  瞑想することによって、そういった言葉となって自然に出ているくることがあるでしょうか?
 
影山:  そうですね。ちょうど少年法で裁かれるか、成人法で裁かれるか、と、ちょうど法律改正が行われた後ですけども、千葉刑務所の教誨師が、千葉少年鑑別所の教誨を引き受ける時期がありましたね。その第一号の時ですけど、私、呼ばれまして行きましたら、高校三年生の時にお父様を撲殺しちゃった方の話ですね。私も初めてだったので、二時間ぐらいですかね、彼の開口一番に言った言葉が、「私は父を殺したので地獄に行くんでしょうか?」と言ったんですね。それに対して、私は言葉でどうこうということでなく、「そうだね」ということで、「亡くなったお父さんをあなたがどう思っているか。自分の心を眺めてみましょう」と。「じゃ、三分ぐらい考えてみようか」ということで、お話しましてね。私も一緒に考えたから、私は自分の父親のことを「父親を騙(だま)して、ちょうど予備校に行ってる時に、予備校に行っている顔をして遊んでいたのを悔いている」という話をして、「君、どうだ」と話を向けましたら、その時「私にね、父が許してくれているような気がする」というんですよ。
 
平位:  三分ほど瞑想して。
 
影山:  「なんか赦してくれているような気がする」と。でまぁその話をずーっと聴きながら時間が来て去ったわけですけどね。
 
平位:  「許してくれるような気がする」というのは、どういうことなんでしょうか?
 
影山:  彼が普段表を考えることしか考えていませんから、つまり自分の父親を殺す。確かに子供さんの生い立ち見ると大変なんですよ。兄弟があって、お父さんとお母さんが離婚したので、弟はお母さん、お兄さんと自分はお父さんに引き取られていって、お父さんがまた再婚して、それでまたもめて離婚をして、その後なんですね。やっぱりそういう諸々のものがあって、やっぱりそういう境遇に置かれると、先ほどの私自身が両親の病苦、経済苦というところで、そういう問題が表に常に目が向くんですね。ああいうふうに悪かったからこうだとかって、表のほうに気持ちが向いているので、自分の問題の責任を表に見ているわけですね。自分のこと本当に考えていないわけですよ。だからお父さんを殺してしまったことについても、具体的に考えていないわけですから、 一回、目がその現実をどう考えるかというふうに瞑想される。「お父さんがどう思っているか考えてみよう」というふうに向けて内観されるわけですよ。そこでどういう答えが出るかこっちは期待しません。どういう答えが出ても、彼がそういうふうに中を眺めることで、今までと違ったものの感じ方・考え方ができるようになってくるんですね。
 
平位:  本当はどうだったかということですか?
 
影山:  本人が自分の中で癒されていること、癒されること、そういうことが起きてくるんですね。こういう事は恐らく心理現象をやっている方々がわかると思うんですね。ですから、そういった意味では仏教の理解、私が申し上げているように、体験としての仏教。もうちょっと言葉を換えれば、心理療法的な意味合いを含めた仏教というんですかね。まさに一番初めに申し上げたように、瞑想の技術、「抜苦与楽」ということを考えれば、仏教は苦しみを除いて楽にしてくれる、具体的なことですから、まさに心理現象を見せるんですね。ですからそうやって仏教を見ていく。特にまぁ高ストレスな社会で、多くの方々が苦しんでいるわけですね。どんどん家庭にも仏壇がなくなって、先祖との繋がりが分からなくて、自分自身が一体何者かということも見えてこない。そうすると、自分を発見するにしても、瞑想―内観ということが必要な時代になってきている。それをやっぱり指導できるように、坊さんが技術を伝承していく作業が大事だと思うんですね。ですから私はその自分自身の今後の課題としては、今、私がこういうふうにやっている人が技術を、これから精々あと自分が頑張っていけば二十年ぐらいだと思いますのでね。その二十年ぐらい、とにかく若い人たちにできたらそういう具体的に技術を―瞑想の仕方、お経の読み方―技術というものを伝承伝えていきたいなというのが今自分で思っているとこですね。
 
平位:  今日はありがとうございました。
 
     これは、平成二十八年十月二十三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである