日蓮聖人からの手紙G夫を亡くした妻への手紙
 
                    立正大学教授 北 川(きたがわ)  前 肇(ぜんちよう)
 
ナレーター:  シリーズ「日蓮聖人からの手紙」。日蓮聖人が遺した手紙を毎月一回、十二回にわたって読んでいきます。第八回は、「夫を亡くした妻への手紙」と題してお送りします。お話は立正大学教授の北川前肇さんです。
 
北川:  日蓮聖人が佐渡における厳しい流人としての生活を送られる中にありまして、聖人の教えに帰依を捧げ、陰に陽に聖人の外護(げご)に努めた信徒として国府入道(こうのにゆうどう)夫妻と阿仏房(あぶつぼう)夫妻とがありました。国府入道夫妻との交流につきましては、前回少しくご紹介申し上げましたが、その交流の足跡を辿ってみますと、聖人が身延に入山されました翌年の建治(けんじ)元年(1275年)六月、翌建治二年四月、そしてさらに建治三年四月の三度にわたって、佐渡の国から甲斐国身延山を訪れていることが確認できたのであります。そして三度目の身延山参詣の折には、夫の国府入道は、およそ一カ月もの間聖人のもとに滞在して、聖人にお仕えしていたことが知られるのであります。聖人はこのご夫妻にお子がないことを承知されていましたので、ご夫妻が老いを迎えたならば、この身延山へお越しになる心づもりでいてくださいと手紙に認められているのであります。しかし聖人が五十九歳を迎えられた弘安(こうあん)三年(1280年)七月二日付の同じ法華経信仰に生きる阿仏房の妻であります千日尼(せんにちあま)に宛てられました手紙には、その端書きに「こう入道殿の尼ごぜんの事、なげき入って候。又こいしこいしと申しつたへさえ給へ」とありますから、国府入道殿の妻女は、死を迎えて法華経の久遠の浄土へと旅立っていることが知られるのであります。もちろん聖人は国府入道の夫妻に対して、未来世において霊山(りようぜん)浄土での再会の宗教的約束を記されていますから、それは間違いなく達成されたと思われるのでありますけれども、今生(こんじよう)において身延山でのご夫妻とも宗教的生活はついに果たされることはなかったのであります。このように佐渡在住の国府入道夫妻と聖人との深いかかわりを知るのでありますが、今回は聖人の佐渡流罪中、聖人に帰依したもう一組の夫妻、すなわち阿仏房夫妻について尋ねてみたいと思うのであります。阿仏房夫妻が聖人に帰依した信徒であることは間違いないのでありますけれども、その両者の人物像の詳細につきましては、伝承の域を出ないのであります。日蓮聖人伝の研究者であります鈴木一成(すずきいちじよう)氏は、次のように紹介されています。
 
阿仏房は順徳(じゆんとく)上皇(1197-1242)が、「承久(じようきゆう)の乱」によって承久三年(1221年)七月に佐渡の国流罪となり、その流罪の時に加わった北面の武士で源左衛門(みなもとのさえもん)大夫(たゆう)康光(やすみつ)の配下で、遠藤盛遠(えんどうもりとう)と称した武士であるというんであります。上皇が在島二十二年の仁治(にんじ)三年(1242年)九月二十二日、四十六歳をもって崩御されています。その後遠藤盛遠は順徳上皇の菩提を弔うために念仏信仰のもとに入道し、阿仏房と称したというのであります。おそらく「阿仏房」の呼称は、阿弥陀仏房、あるいは南無阿弥陀仏房であったとも推察されます。そこでこの伝承に基づきますと、阿仏房が京都から佐渡へ渡ったのは数えの三十三歳でありますし、日蓮聖人が佐渡へ渡られた文永(ぶんえい)八年(1271年)十月のときには、八十三歳の高齢であったことが知られます。次に妻女の千日尼(せんにちあま)についてでありますが、同じく鈴木一成氏は次のように記されています。「千日尼は阿仏房日得の夫の妻で、もともと順徳天皇に奉仕した女房の侍女であった」というのです。そして「千日尼」の呼称の由来につきましては、「千日の間、佐渡において海水を浴び、朝日を拝して順徳上皇が京都へ御帰洛されるように祈ったことから千日女(せんにちによ)と呼ばれたといい、また親鸞聖人が流罪中の塚原三昧堂に居住された三ヶ月の間、供養ささげた功徳が千日の供養に勝るというので千日尼と呼ばれた」とも紹介されています。以上が阿仏房夫妻に関する伝承でありますが、この夫妻には藤九郎守綱(とうくろうもりつな)という一子があり、父の阿仏房が弘安(こうあん)二年(1279年)三月二十一日に九十一歳という高齢を思って死去いたしましたおり、その年の七月二日に佐渡の国から父の遺骨を首にかけて、はるばると身延山の聖人のもとへ訪れて供養の回向を受け、この聖地に埋骨しているのであります。そしてさらに翌弘安三年七月一日再び身延山を訪れて、千日尼から言付かりました供養の品々を聖人のもとに届け、あわせて父・阿仏房の墓前に詣でていることが知られるのであります。以上阿仏房夫妻並びにその子藤九郎守綱について触れましたが、次に聖人が与えられました手紙についてご紹介することにいたしましょう。今日私たちが、聖人と阿仏房夫妻との交流を知る上で、その基本となる手紙は親鸞聖人の真筆として長文の手紙が二篇現存しています。まず第一の手紙は、七月二十八日の日付があり、宛名は「佐渡国府阿仏房尼御前」とありますから、佐渡の国府、すなわち今日の佐渡市真野町(まのまち)に在住した阿仏房の妻女へ宛てられた手紙であることが知られます。そしてこの手紙の冒頭には、
 
弘安元(1278)年〈太歳戊寅(たいさいつちのえとら)〉七月六日、佐渡の国より千日尼と申す人、同じく日本国甲州波木井郷(はきいのごう)(山梨県南巨摩郡身延町)身延山と申す深山(みやま)へ、同じき夫の阿仏房を使(つかい)として送り給う御文に云く、
 
と記されていますから、この第一の手紙は、佐渡において弘安元年七月六日に記された千日尼の手紙が、夫の阿仏房によって身延の聖人のもとへ届けられ、それに対する返書であったことが拝察できます。しかもこの手紙の中に聖人は、文永十一年(1274年)から弘安元年(1278年)の数えの五カ年にわたって、この身延山に在住されているのでありますけれども、「この間佐渡の国より三度まで夫をつかはす、いくらほどの御心ざしぞ」と、妻の千日尼の信仰の深さを称賛されているのであります。すなわち九十歳に近い夫の阿仏房は、遠国佐渡より三度にわたって聖人のもとを訪れていることが知られるのであります。この事実を知る時、今日のわたしたちは、改めてその信仰の深さと強靭な精神と肉体とに驚嘆を禁じ得ないのであります。以上のことを確認いたしますと、第一の手紙は、弘安元年七月二十八日付のもので、夫阿仏房が聖人のもとを訪問したおり、すなわち三度目でございますが、千日尼からの手紙の返書であることが領解できるのであります。今日聖人の真筆二十四紙が、佐渡市妙宣寺(みようせんじ)に護持され、重要文化財に指定されているのであります。二篇目の手紙は、七月二日の付けで、宛名は「故阿仏房御前御返事」とあります。すなわち文中に、「去年(こぞ)三月二十一日に、夫の阿仏房が死去し、今年もすでに七月を迎えている」ことなどが記されていますから、この手紙は夫阿仏房が死去いたしました翌弘安三年七月一日、子息の藤九郎守綱が身延山へ墓参のおり、母千日尼が聖人のもとへ託した鵞目(がもく)一貫五百文、海苔わかめ等の海産物供養の品々に対する返書であることが知られるのです。今日聖人の真筆二十三紙が、同じく佐渡市で妙宣寺に所蔵され、重要文化財に指定されているのであります。この両書は、第一篇が弘安元年七月、第二篇が弘安三年七月とわずかに一年の空白しか存しないのでありますが、千日尼にとりましては、第一遍が夫の阿仏房に託した手紙に対する身延の聖人からの返書であるのに対し、第二篇の手紙は、今は亡き夫の阿仏房が埋葬されている身延山へ墓参のために聖人の元へ子息に託した供養の品々に対する返書でありますから、両書の内容に違いが存することが明らかであります。しかし当然のことではありますが、聖人の千日尼に対する深い思いやりの手紙であることは申すまでもありません。では両書を順次簡潔にたどってみたいと思います。まず第一の手紙は、弘安元年(1278年)七月二十八日、聖人五十七歳の時の執筆であります。この手紙は、鈴木一成(すずきいちじよう)氏が解説されています『日蓮聖人御遺文講義』第十二巻では、四段に分けて解説がなされています。第一段目は、千日尼が差し出した手紙の一節に、
 
女人としての宗教的な罪業がどれほど深いものであるかと存じておりましたが、日蓮聖人のお示しくださいました教えによれば、法華経という経典は、女性の成仏が真っ先に説かれている教えです、という、このようなご教示でございますので、私千日尼は、万事はこの教えを頼みといたしております
 
と記されていることに対する聖人の称賛であり、千日尼の信仰の確かさを証明されることになります。そして改めて聖人は詳細に、法華経というお経が、釈尊によって説かれる由来、さらにインド、中国、日本の三国仏教史の中での法華経流伝の歴史、さらに法華経という教えが、一切経の中で最上の教えであるということが示され、ことに女人成仏につきましては、法華経第五巻の「提婆達多品(だいばだつたほん)」第十二に即心成仏の教えが説かれることによって、すべての女性の成仏が保証されていることを力説されているのであります。この説示の内容を拝見いたしますと、聖人の仏教観の根幹に関わる教義の説示がなされていることを知るのです。おそらく千日尼の近くに聖人の教えを解釈する出家の弟子が存することによりまして、大切な法門が伝えられたものと考えられるのです。次いで聖人の法華経の成仏へと筆が進められることになります。つまりこの女人成仏の教えを人々に伝えることは、聖人がこの世に命を享け、会いがたい仏法に出会ったことによって、三宝の恩、父母の恩、国主の恩、一切衆生の恩に報いる生き方が大乗の菩薩としての生き方であることを覚悟されているのであります。そして、
 
ただ法華経計(はか)りこそ女人成仏、悲母の恩を報ずる実(まこと)の報恩経にては候へと見候ひしかば、悲母の恩を報ぜんがために、此の経の題目を一切の女人に唱へさせんと願す
 
と記され、「南無妙法蓮華経」のお題目を伝えようとされるのでありますが、かえって私日蓮に迫害を加え、権力者の婦人たちが北条政権に訴えて、伊豆の国、そしてまたこのたびは佐渡の国へ流すことになったことへと筆が進められることになるのです。そして聖人の受けられた佐渡流罪の状況が細く記されることによって阿仏房夫妻が自らの身を省みることなく、支援の在り様を描かれることになります。この部分を現代語訳でご紹介いたしましょう。
 
私日蓮が、佐渡の国へ流されましたので、佐渡の守護職にある人たちは、鎌倉の執権である国主の処遇に従って、日蓮に迫害をおよぼすのです。佐渡の庶民たちもまた、その命令に従っています。仏法に帰依している鎌倉の念仏者・禅・律・真言師等は、どのようなことがあっても、二度と鎌倉へ私が帰れないよう、その対策を立てるようにと言ってよこしています。また、極楽寺の良観房(りようかんぼう)忍性(にんしよう)上人(1217-1303)等は、武蔵国の前任者である大仏宣時(おさらいのぶとき)に私的な御教書(みぎようしよ)(命令書)を依頼して、その御教書を弟子に持たせて、佐渡へと渡り、私日蓮を迫害しようとしたのですから、生命が助かることがあろうかとも思えませんでした。諸天善神の守護については、ここではおくことにいたしましょう。
佐渡における地頭たち、念仏信仰をもった念仏者たちは、私日蓮が流人として居住している庵室に昼夜にわたって立ちはだかり、私を訪ねて来る人々をさまたげ、私に会うことを妨害したのです。そのような中で、あなたが夫の阿仏房に食物等を入れる櫃(ひつ)を背負わせ、夜中にたびたびご訪問くださったことは、いつの世までも忘れることができないのです。ただ、私の悲母が佐渡の国へ生まれ代わって、私を助けてくださっているのかと思われてなりません。(中略)
いまの千日尼が、今世の安らぎはもちろんのこと、未来世のことを思われなければ、どうしてこれほどまでに尽くされることがありましょう。けれども、流人である私にご奉仕されることによって、居住の場所を追い出され、あるいは罰金が課せられ、さらに、居住までも取り上げられるという罪科に遭遇されたのでありますが、ついに信仰を貫き通されて、退転されることはありませんでした。法華経の法師品(ほつしほん)には、過去世において十万億もの仏に供養を捧げた人こそ、今世においていかなる困難に出会っても、けっして退転することなく、成仏の道を成就すると説かれています。そうであれば、あなたはまさに、過去世に十万億のみ仏たちに供養を差し上げられた女人にほかなりません。
 
このように、日蓮聖人が流人として塚原の三昧堂(さんまいどう)にあったとき、聖人を亡きものにするために、種々の策謀をめぐらして、迫害を加えようとした人たちの存在を活写されています。けれども、阿仏房夫妻は、様々な障害物を乗り越えて聖人に帰依を捧げ、供養を捧げることで、物心両面から奉仕していることが知られるのであります。その結果、阿仏房夫妻は、所を追われ、過料を課せられ、住居までも取り上げられるという境遇に身を置くことになるのです。しかし、決してそれらの迫害を怖れることなく、信念を貫徹していることが知られるのであります。
以上の文から、聖人が流人として佐渡にあった時の阿仏房夫妻の帰依の姿の一端を知ることができます。そしてそれは単に聖人が佐渡流罪に遭った時のその期間だけではなく、聖人が流罪放免後、身延山へ隠棲されました後にも、佐渡からの訪問によって堅固な信仰の世界をうかがうことができます。すでに甲府入道の身延山参詣を@建治元年A建治二年B建治三年にわたり、毎年訪問したことを指摘いたしましたが、阿仏房の訪問につきましては、明確な年次はわかりません。鈴木一成氏の『日蓮聖人正伝』では、@建治元年六月、阿仏房八十七歳。A建治二年六月、阿仏房八十八歳。そして第三回目を、この手紙が与えられています弘安元年七月、すなわち阿仏房九十歳とみなされています。今はこの説によっておきたいと思うのです。以上第一篇の手紙の内容を辿ってまいりましたが、その中心となるのは、千日尼の法華経の確認ともなるべき女人成仏の法門について力説されていることではあります。でも第二篇の手紙へと移ることにいたしましょう。第一遍の手紙からおよそ二ヵ年後に認められた手紙が、第二篇の七月二日、「故阿仏房尼御前御返事」という奥付けのある手紙であります。この手紙の内容につきましては、同じ『日蓮聖人御遺文講義』第十二巻によりますと、五段に分けられて解説がなされています。第一段は、この手紙の端書きの部分で、甲府尼の死去のことを追慕されている文を差します。第二段は、千日尼から届けられたご供養の品々を法華経のご法前に報告したことを記されて、感謝の意を表されている文にあたります。第三段は、法華経の「方便品」第二の「若有聞法者(にやくうもんぽうしや) 無一不成仏(むいちふじようぶつ)」と十文字を引用されながら、この文は、「もしも、この法華経の教えを聞く人があれば、一人として成仏しないものはない」という釈尊の教えですから、九十一歳を一期として死去した阿仏房の成仏の確かさを説かれています。そして聖人が最も理想とされる久遠の浄土へ阿仏房は旅立っていかれたことを述べられ、その宗教的場面を具体的に描かれることになります。原文では、
 
されば、故阿部房の聖霊は、今いづくにかをはすらんと人は疑うとも法華経の明鏡をもつて、其の影をうかべて候へば、霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に東むきにをはすと、日蓮は見まいらせて候
 
とあります。
 
即ち、故阿仏房の聖霊(しようりよう)は今どこにおいでになるか、ということでありますが、そのようなことで人は疑うことがあるかもしれませんが、法華経という最上の鏡をもってその姿を映してみますと、法華経が常に説きつづけられているインドのマガダ国の霊鷲山(りようじゆせん)という山の上にそびえている多宝仏の宝塔の内に入られて、東向きに坐って、釈迦・多宝の二仏に対面されていると、私日蓮は拝見できるのです。
 
このように法華経の「見宝塔品(けんほうとうほん)」第十一以降に示されます釈尊の虚空会(こくうえ)の説法の場面を、より視覚的に描かれて、阿仏房はその多宝塔の内にあるというのであります。これこそが聖人の描かれる霊山浄土の宗教的久遠の世界であり、その浄土へ阿仏房は詣でていると断言されることによりまして、その成仏の確かなことを保証されています。続いて第四段では、夫を亡くした千日尼に対する聖人の細やかな言葉が記されることになります。すなわちそこには夫と妻との理想的な姿が描かれ、また女人の尊さが述べられることになります。そして大切な夫を亡くした千日尼の悲しみの世界に共鳴共感されることによって、千日尼を慰められていることを知るのです。さて家の造りで言えば、男性は柱のようなものであり、女性は桁(けた)のようなものであります。身体で言えば、男性は足のようなもので、女性は胴体のようなものであります。鳥で言えば、男性は羽のようなもので、女性は体のようなものです。羽と体とが別々になってしまったならば、どうして空を飛ぶことができましょうか。柱が倒れたならば、桁は地に落ちて、家は壊れてしまうでしょう。家庭に男性の主人がいないと、人の魂が抜けたようなもので、頼りにならないでしょう。税を納めることなどについて、一体誰に相談したらよいのでしょうか。美味しいものを、誰に食べさせたらいいのでしょうか。男性の主人と、一日や二日でも会わないと不安がつのると思われるのに、妻であるあなたは、去年(弘安二年)三月二十一日に、夫阿仏房に先立たれ、特に昨年は一年間も待ち暮らされ、また今年既に七月を迎えています。たとえ、阿仏房殿があなたご自身のもとへ来られないといたしましても、どうして頼りだけでもなさらないのでしょう。去年散った桜の花が今年もまた咲きました。去年落ちた木の実が今年もまた実を結びました。さわやかな春の風は、去年と変わらずに吹き、秋の景色も去年と同じように心にしみます。自然はそのように巡ってくるのに、どうして阿仏房殿は、生命が消えて再び戻ってこられないのでありましょうか。月は山の端に入っても、また出ますし、雲は消えてもまたやってきます。そうであるのに、人は死んだならば、再び帰って来ないということが、天も恨めしく、地も嘆かわしいことです、と夫阿仏房殿との死別を体験されたあなたは、そのような思いになられていることでありましょう。ただちに支度を整え、法華経を旅の食糧に頼りとされて、久遠の御仏のまします霊山浄土へ参詣されて、阿仏房殿にお会いになるようになさいませ。
 
このように聖人は、夫阿仏房を亡くした千日尼の心中に分け入り、その嘆きを自己の嘆きとして綴られることによって、死別の悲しみを共感されているのを知るのです。そして最後には、藤九郎守綱が立派なお子として身延に参詣したこと、ご夫妻が大切な宝を持ったことを記されて、このお手紙は結ばれているのであります。このように日蓮聖人の二十三紙にわたる長文の手紙を、子息の守綱から受け取った母の千日尼は、悲しみの中にありながらも、どんなに悦びにあふれたものであったかが推察されます。私たちはこの世に誕生したもののさだめとして、必ず死を迎えなければなりません。それは人として絶対的な孤独を意味しています。しかしながら、その悲しみや寂しさや孤独の境地を見通され、体感された人の限りない慈愛の目を感じる時、まさに至福の人生として転換できると思われてなりません。日蓮聖人の、千日尼に与えられた手紙は、そのことを雄弁に語っているように受け止めることができるのであります。
 
     これは、平成二十八年十一月十三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである