日蓮聖人からの手紙H佐渡の聖人を訪問した女性信徒への手紙
 
                    立正大学教授 北 川(きたがわ)  前 肇(ぜんちよう)
 
ナレーター:  シリーズ「日蓮聖人からの手紙」。日蓮聖人が残した手紙を、毎月一回、十二回にわたって読んでいきます。第九回は、「佐渡の聖人を訪問した女性信徒への手紙」と題してお送りします。お話は立正大学教授の北川前肇さんです。
 
北川:  第七回および第八回は、ともに親鸞聖人が佐渡流罪中に出会われました国府入道(こうのにゆうどう)夫妻並びに阿仏房(あぶつぼう)夫妻が、聖人の流罪赦免後身延の聖人の下に国府入道ならびに阿仏房男性信徒が訪問したことで、留守宅にありました妻たちに対する手紙を中心に、その内容を尋ねてまいりました。ことに前回の阿仏房の妻女であります千日尼に対しましては、佐渡から高齢を押して夫が三度まで甲斐国身延山まで参詣したのでありますけれども、弘安二年(1279年)三月二十一日、九十一歳を一期(いちご)として死去したことに対し、翌弘安三年七月一日子息の藤九郎守綱(とうくろうもりつな)が父の墓参のために参詣した折に、故阿仏房の成仏の間違いないことを法華経の文を根拠として力説され、またその死別の悲しみを慰められている手紙をご紹介いたしました。このことを通しまして、改めて日蓮聖人の信徒に対する情愛の細かさ、また死者に対する思いの深さを学ぶことができたように思うのであります。ところで今回は、佐渡流罪に処せられた聖人のもとへ、鎌倉から幼い女の子と共に佐渡の佐和田郡(さわたのごおり)石田郷(いしだのごう)一谷(いちのさわ)に訪れました女性信徒への手紙を中心にお話申し上げたいと思うのであります。鎌倉在住の乙御前(おとごぜん)の母に与えられた手紙は、聖人の真筆が確認されるものといたしまして、二通が現存しております。まず一通目は、文永九年(1272年)五月二十五日の日付のあります手紙で、宛所は日妙聖人(にちみようしようにん)となっています。日妙聖人という法名は、佐渡を訪問したこの女性に対して、その法華経信仰の深さに感動された聖人が与えられましたお名前でありまして、その成仏の確かさを証明されていることを意味しております。この手紙の真筆は、全体は現存していませんが、第五紙、第八紙、第十三紙の手紙三紙と、その他の四紙断簡が『日蓮聖人真蹟集成』第四巻に収録されています。そこで現存の真筆の一紙に書かれています行数や文字数から推察いたしますと、この手紙は全体として二十紙に及ぶ長文のものであったと考えられるのであります。佐渡流罪という厳しい環境の中にありまして、両紙は大変貴重なものであったと思われるのでありますが、そのような中でこの長文の手紙は、宗教的にも大変貴重な内容を持っていることがうかがえるのであります。次に乙御前の母に与えられた二通目の手紙は、その奥付に「十一月三日 日蓮 花押 乙御前の母」とあるものです。そして文面から推察いたしますと、聖人は佐渡流罪の身でありますことから、第一通の文永九年の翌十年十一月三日とみなされています。真蹟三紙が兵庫県の長遠寺(ぢようおんじ)に護持されています。では、第一通目の手紙を中心に拝読してまいりたいと思うのであります。文永九年五月二十五日の日妙聖人の宛名のあります手紙は、昭和定本では、『日妙聖人御書』と名付けられています。この手紙はすでに述べましたように、聖人のもとへ乙御前と称する幼い子とその母とが鎌倉から佐渡の一谷(いちのさわ)へ訪問した折、与えられた手紙であります。乙御前の母がたどった鎌倉から佐渡の行程は、およそ八ヶ月前、日蓮上人が相模国愛京郡(あいこうごおり)依智郷(いちのごう)(今日の神奈川県厚木市)から佐渡へ罪人してたどられたものと同じであったと拝察できます。聖人が流人として佐渡の流罪の地まで必要とした日数を勘案してみますと、相模国を十月十日に出発され、越後国寺泊(てらどまり)(今日の新潟県長岡市)のその港に到着されたのは、十月二十一日のことでありますので、数えの十二日間を要したと考えられます。聖人の流罪は、冬の季節でもありましたことから、日本海を前にして順ふうを待って、十月二十八日佐渡国へ到着され、佐和田郡の地頭である本間六郎左衛門(ほんまろくろうさえもん)の館の後にあります死者を埋葬する中に建てられた草葺きのお堂に入られたのは、十一月一日のことであります。そういたしますと、聖人が依智郷を立って、この三昧堂に到着されるまでおよそ二十日余りを必要としたことがうかがえるのであります。このように考えますと、七百五十年前、女性の身として童ともに佐渡へ訪れるために、山々や大きな川や、日本海が横たわっている険難な行程を克服するとともに二十日余りの歩みを必要としていたことが知られるのであります。聖人のこの手紙の冒頭に、楽法梵志(ぎようぼうぼんじ)や釈迦菩薩の本生譚(ほんしようたん)などの七つの故事が列記されていることは、聖人にとって必然的な内容であり、乙御前の母が身命をかえりみることなく、佐渡の聖人の下に法華経信仰の証を求めたことに由来しているいることが明白であります。ところでこの手紙の内容についての解説がなされています『日蓮聖人御遺文講義』第十二巻によりますと、三段に分けられています。そして第一段目が七節、第二段目が三節.第三段目が三節からなって、全体は三段十三節が設けられています。このことからこの手紙がいかに長文であるかがうかがえるのであります。ことに最後の十三節目が乙御前の母が佐渡国まで訪問したことを聖人は称賛されていますので、まずその文を現代語訳でご紹介いたしましょう。
 
あなたが相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)から訪ねて来られた北国(ほつこく)佐渡の国までは、その距離は、一千余里に及んでいます。その間には、山や海が大きく立ちふさがり、山は険しくそびえ立ち、海は高波が逆巻いています。風や雨は、ときを定めずに襲ってきます。旅路では、山賊や海賊が路をふさぎます。駅路の宿舎を泊まり泊まりで重ねるのでありますが、そのところの人々の心は、虎のように、犬のように、人の財をねらって、恐ろしいものであります。この身そのまま、地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道の苦に出会ったように思われます。さて、今の日本国をみますと世情が乱れ、去年から特に北条幕府の転覆をはかる謀反の者が国に満ちあふれ、ついに今年(文永九年)二月十一日には、北条一門の合戦(二月騒動・北条時輔の乱)がありました。現在五月の末にいたっていますけれども、世間は不安な状態が続いています。しかしながら、このような時に、あなたは一人の幼な子を連れて、頼みとする父親はなく、離別してからすでに長い時を経、この佐渡まで訪ねてこられたことに思いをいたすと、お気の毒で筆を進めることができません。胸が詰まって、これ以上お書きできませんので、これでとどめおきます。
文永九年〈太歳壬申〉五月二十五日
                                日蓮 花押
日妙聖人
 
このように、『日妙聖人御書』の末尾の部分を拝見いたしますと、およそ女性信徒が佐渡の聖人の下を訪問したときには、地理的・社会的に困難な状況下であるのみならず、鎌倉にありましては、歴史的に大きな事件が渦巻いていたことを知るのであります。それ故にこの女性信徒の佐渡への訪問を、聖人が満身をもって称賛される意味が理解できるのであります。以上、日妙聖人と名付けられております末尾の部分を拝読いたしますと、このような状況下で筆がとられたことが分かるわけですが、それでは全体三段の概要をたどっておきましょう。第一段は、仏教の経典に優れた聖者、すなわち最上の悟りを求める菩薩たちが、種々の苦行を積まれることで、仏法の真理を求めてこられ、そういう説話を七つの例を持って示されています。七つの例は、それぞれの節に分けられていますから、この段は七節からなっています。第二段目は、日蓮聖人は「妙法蓮華経」の五字、七字の題目を身命をかけて弘められてきましたが、この題目の五字、七字に御仏たちの優れた仏道修行の功徳が具わっていることを説かれることによりまして、私たちの成仏の道が、題目の受持をもととすべきことであることが示されています。その第一節には、「妙」の一字に具わる釈尊の広大な功徳が説かれ、第二節は、末代の私たちがお題目に帰依することで、その功徳のすべてをいただくことができ、成仏を成就するというのです。第三節では、ではその功徳は難行苦行の修行を必要とするのかということでありますが、そうではなく、至心に妙法五字を信じ、口称することで成仏の道が達成されるというのであります。第三段目は、乙御前の母の求法を賞賛されることに主眼を置かれています。第一節では、仏教史上における玄奘三蔵(げんじようさんぞう)が万里を渡り、伝教大師最澄が波濤を越えて法を求められているのでありますが、これらは上代の聖人で、しかも男性であります。しかし女人の身で、あなたのように仏法を求めて険路を越えられた例はない、と示されています。第二節は、あなたが正直に法華経へ信を捧げられていることは尊いことであると述べられ、そこで聖人は、次のように明言されているのです。
 
日本第一の法華経の行者の女人なり、故に名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらへん・日妙聖人等云云。
 
すなわち、あなたは日本第一の法華経の行者である女性です。法華経の第二十章にあたる「常不軽菩薩品(じようふきようぼさつぼん)」では、常不軽菩薩がすべての人々に対して敬いの心を持ち、合掌礼拝して、「あなた方は菩薩道を修行されて、必ず仏になられるのです」と唱えて、その成仏を予言されたように、そのあり方になぞらえて、私・日蓮は、あなたに「日妙聖人」という法号をお授けします、と断言され、成仏を保証されているのです。そして第三節目は、すでに述べましたように、乙御前の母が困難な状況の中、鎌倉から佐渡へ渡って来られたことを讃えられて、筆が置かれているのです。では、第一段において、仏法の真理を求めるために、難行苦行を積んで菩薩の道を実践された聖者についてたどっておきたいと思うのです。日蓮聖人が示されました七人の聖者とは、次のとおりであります。一には、「楽法梵志(ぎようぼうぼんじ)」であります。釈尊の本生譚(ほんしようたん)で大智度論(だいちどろん)に示されています。「梵志(ぼんじ)」とは、修行者を意味しております。第二に、「釈迦菩薩(しやかぼさつ)」でありますが、釈尊の本生譚で大方便仏報恩経(だいほうべんぶつほうおんきよう)に説かれています。三には、「釈迦菩薩」で、同じく釈尊の本生譚で大般涅槃経(だいはつねはんぎよう)の第二十二巻に見られる説話であります。四に、「雪山童子(せつせんどうじ)」で、同じく釈尊の本生譚であります大般涅槃経の第十四巻に示されています。五に、「薬王菩薩(やくおうぼさつ)」で、薬王菩薩の本事譚で「妙法蓮華経薬王菩薩本事品」第二十三に説かれています。六に、「常不軽菩薩(じようふきようぼさつ)」のことでありまして、同じく釈尊の本生譚で「妙法蓮華経常不軽菩薩品」第二十の品を元としています。七に、「須頭檀王(すずだんのう)」で、同じく釈尊の本生譚で「妙法蓮華経提婆達多品(だいばだつたぼん)」第十二に基づいています。以上七人の聖者の名を申しあげましたが、五の薬王菩薩の本事譚以外は、すべて釈尊の過去世における求法のために苦行を積まれた本生譚であることが知られるのであります。そして聖人はこれらの説話を記されるにあたりまして、最も紙数を費やして詳述されておりますのが、四の「雪山童子」の求法で、最も短い記述は、五の「薬王菩薩」の説話で、菩薩が自己の臂を灯して、み仏に供養したことが記されているものであります。では、一から七まで聖者の苦行について、日蓮聖人の手紙に沿ってご紹介いたしましょう。一、「楽法梵志」でありますが、昔、楽法梵志という人がありました。十二年の間多くの国々を歴訪して、み仏の教えを求め続けられたのであります。しかしどんなに法を求め続けても、み仏はなく、仏法僧の三宝も存在しなかったのです。この修行者は、一心に法を求めました。ある時一人のバラモンの行者がありました。梵志に対して、進んで言いました。「私は、み仏の一偈を称えて、あなたに教えましょう」。梵志は、「是非お願い致します」と答えました。すると、バラモンは言いました。本当に志があるとすれば、あなた自身の皮をはいで紙とし、自分の骨を折って筆とし、髄をすりつぶして墨とし、血を出して水として書くのであれば、み仏の偈文を説きましょう」と。そこで梵志は大いに悦び、バラモンの言ったように、皮をはいで紙とすることから始め、その指示通りに実行したのであります。しかしその時バラモンは、忽然として姿を消してしまったのです。梵志は、天を仰ぎ地に伏して、嘆き悲しみました。しかし、み仏は梵志のひたむきな求法を受け止められて、大地の下から涌き出て一偈(いちげ)を説かれたのです。
 
如法応修行(によほうおうしゆぎよう)(如法はまさに修行すべし)
非法不応行(ひほうふおうぎよう)(非法は行ずべからず)
今世若後世(こんぜにやくごせ)(今世もしや後世)
行法者安穏(ぎようほうしやあんのん)(法を行ずる者は安穏なり)
 
すなわち正しい教えは必ず修行すべきで、誤った教えは決して修行してはなりません。今の世であっても、後の世であっても、仏法を修行する者は安らかであります。この文を聴聞した梵志は、直ちに仏となったというのです。二に、釈迦菩薩のことであります。その昔釈迦菩薩が、転輪聖王(てんりんじようおう)の身として修行された時のことであります。
 
夫生輙死(ぶしようちようし)(夫(そ)れ生まるれば(すなわ)死す)
此滅為楽(しめついらく)(此(こ)の滅を楽と為す)
 
という八文字を説かれたといいます。そしてその八文字を尊い教えであると思われましたので、自己の身命を捨てて、この身を千箇所も穴を開けて、その開いたところに灯油を注ぎ、灯心をひたして千灯に火をともして供養を捧げられ、また多くの人たちにこの八文字を伝えて求道の心を起こさせるために、石や壁や重要な道路にこの八文字を書き続けられたというのです。三に、「釈迦菩薩」です。過去の世に釈迦菩薩が仏法を求めて修行されていました。その時ハンセン病を患った人がありました。この人が「私は正しい教えを持(たも)っています。その教えは二十の文字です。もし私の病の部分をさすり、身体を抱き、膿(うみ)を舐(な)めたりして、この私にあなたの肉を与えてくださるならば、その教えを説きましょう」というのです。釈迦菩薩は、彼のいう通りにして、二十文字の教えを学んで仏となられたというのであります。四に、「雪山童子」です。昔インドに雪山童子という人がありました。雪山とはヒマラヤのことであります。童子は仏教以外の教えについて悟りの境地に到達していましたが、未だ仏法を聴聞することはありませんでした。その時大鬼神(だいきじん)が現れました。彼が説くのに、
 
諸行無常(しよぎようむじよう)(諸行は無常なり)
是生滅法(ぜしよめつぽう)(是れ生滅の法なり)
 
すなわち、この世に存在するものは無常です。しかしこれが生滅の真理です、というのです。しかしこの鬼神は、漢字八文字のみを説いて、後の半偈を説かないのです。雪山童子は前半の八文字を得て大いに悦び得たのでありますが、まだ十分な心持ちではありませんでした。そこで童子は、「あなたは何を食べものとしていらっしゃるのですか」と問うのです。鬼神は答えます。「私は人間の温かい血肉を食する。私は空を自由自在に飛ぶことができるけれども、温かな人間の血肉を得ることは難しい。人々を天の神たちが常に守ってくださっているのでだから、罪を犯した人間を殺害することは困難である」と。童子は申し出ます。「私の身体を布施として差し上げますので、どうか下の八文字を説いて、未来の人たちに伝えたいと思います」と。そこで鬼神は、「お前は智慧がとても深い。私を見くびっているのであろう」。しかし童子は答えます。「瓦礫(がれき)と食物とが交換できるときには、どうして換えない人があるでしょう。私がこの山の中で死んだとしても、とびやふくろうや、虎や狼に餌食となるだけで、わずかな果報さえ得ることは出来ません。もしこの身体を八文字の教えに交換できるとするならば、汚物の糞を大切なご飯に換えるようなものです」。鬼神は、「私はお前のいうことは信じられない」というのです。しかし童子は、「では証人を立てましょう。過去のみ仏たちが証人としてお立てになられました大梵天王(だいぼんてんおう)、帝釈天(たいしやくてん)等の神々たちが証人としてお立ちくださるはずです」と語るのです。ついにこの鬼神は後の半偈を説くのであります。
 
生滅滅已(しようめつめつい)(生滅を滅し已(おわ)りて)
寂滅為楽(じやくめついらく)(寂滅を楽と為す)
 
すなわち、生も滅もとらわれの心を離れて安らかな境地を楽と受け止める。この半偈を習い悟ることのできた雪山童子は、周囲の木や石などにその一偈を書きつけ、その後自分の身を大鬼神の口の中に投げ入れました。その時の雪山童子とは、今の釈尊であり、そして彼の大鬼神というのは、今の帝釈天にほかなりません。五の「薬王菩薩」は、過去世の日月浄明徳仏(にちがつじようみようとくぶつ)の時に法華経を聴聞して悟りを得られたことから、自分の臂に香油を注いで灯火として七万二千年もの間供養を捧げたというのであります。常不軽菩薩は、過去世の威音王仏(いおんおうぶつ)の時代に、この二十四文字の文を唱えて、「あなた方は必ず仏になります」と誦経されたことを指しています。七の「須頭檀王(すずだんのう)」は、釈尊は過去において須頭檀王という王様であった時、妙法蓮華経を求めて阿私仙人(あしせんにん)のもとで修行し、水を汲み、薪を取り、果(このみ)をつみ、食(じき)を設けて、そして千年もの間、給仕され、今の釈尊になられたというのであります。以上第一段に記されました一から七までの説話の内容を辿ってまいりました。すべてが仏法のために捧げられた苦行であったことが知られるのであります。このような求道者の生き方を記されることで、このたびの乙御前の母の求法の尊さを強調されるためであったことが理解できるのであります。このように過去世の聖者の求法が記されますと、第二段へと移り、聖人の筆は妙法蓮華経の教えがいかにみ仏たちの広大な功徳が具わっているかを説き明かされることになります。そして妙法五字による成仏が示されるのであります。その文を現代語訳でご紹介いたしましょう。
 
末法の世に生命を享(う)けている私たちが、 一つの尊い行い(仏になるべき修行)を修さなくても、み仏たちが仏となるべき修行を積まれるために修せられた菩薩行(六波羅蜜(ろくはらみつ)―布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)等のすべて功徳が、妙法蓮華経を受持することで与えられるのです。それは、釈尊が、この世界(三界=欲界・色界・無色界)のすべては、釈尊の統括する国であり、その中にある人々は、私の子(仏子)であると説かれているからです。それゆえに、煩悩に束縛されている凡夫であっても、仏の子である私たちは、教主釈尊の功徳を頂戴できるのです。
 
このように記された後、女性の成仏の保証がなされるのであります。その成仏の保証とは、さきほどご紹介いたしましたように、「日本第一の法華経の行者の女人なり、故に名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらへん・日妙聖人等云云」というのです。おそらくこの日妙聖人という法号を受けられた乙御前の母の悦びは、いかばかりであったかと拝察できるのであります。以上『日妙聖人御書』と名付けられました手紙の内容を辿ってまいりましたが、第二通目は、三紙の短い手紙であります。端書きには、日妙聖人は仏になられる女性であると聖人は断言され、鎌倉にある聖人の弟子たちを外護されていることへの感謝が述べられております。本文に入りますと、日妙聖人の身命をかえりみない求法のあり方を改めて賞賛され、追伸といたしましては、母上と共に佐渡へ訪れた乙御前の成長されたことを保証されるとともに、将来幸多きことを記されて筆が置かれています。以上のように、私たちは、佐渡へ流罪に処せられている聖人のもとへ訪れました一人の女性に与えられた手紙を中心にその内容を尋ねてまいりました。そして日妙聖人の法号を授けられた女性の信心の堅固なことと、自己の身命をかえりみない身命を捧げた法の求め方を、事実を改めて知るのであります。ともすれば、私たちは一つの価値観の下に、直ちに区別や差別観念にとらわれ、判断しがちでありますけれども、それは表面上のことであり、努力の有無や男性・女性という性差の面からにほかなりません。そういたしますと、私たちは自分を取り巻く目の前の価値観や認識のあり方というものがいかに危ういかということを改めて知るのであります。
 
     これは、平成二十八年十二月十一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである