日蓮聖人からの手紙I他者との葛藤に苦悩する男性信徒への手紙
 
                    立正大学教授 北 川(きたがわ)  前 肇(ぜんちよう)
 
ナレーター:  シリーズ「日蓮聖人からの手紙」。日蓮聖人が遺した手紙を毎月一回、十二回にわたって読んでいきます。第十回は、「他者との葛藤に苦悩する男性信徒の手紙」と題してお送りします。お話は立正大学教授の北川前肇さんです。
 
北川:  日蓮聖人が、法華経の教え、わけても「南無妙法蓮華経」のお題目を広められる当たって、数多くの法難を受けられたことにつきましては、これまでにしばしばお話してまいりました。このように聖人が鎌倉幕府や聖人と立場を異にする人々からの迫害を受けていながらも、一方では自らの社会的立場や、さらには自己の身命を顧みることなく、聖人の教えに帰依し、積極的に聖人を外護しようとする信徒が存したことも併せて確認することができました。ことに聖人の生涯の中で数え年の五十歳から五十三歳までの四ヵ年の佐渡流罪のご生活は容易に推し量ることの出来ない苦難に満ちたものであったことが知られるのであります。しかしそのような厳しい境遇の中にある聖人に対して、献身的に信仰を捧げた信徒の存在が確認できるのであります。前回は佐渡の聖人のもとに鎌倉から幼い女の子とともに険難な行程を顧みることなく訪問した女性信徒について触れました。そして聖人はその女性信徒の不惜身命の求道心を賞賛して「日妙(にちみよう)聖人」という法名を授けられたことが確認できたのであります。ところで今回は、文永八年(1271年)九月十二日、鎌倉幕府は五十歳を超えた聖人を、佐渡流罪に処すために鎌倉の松葉ヶ谷(まつばがやつ)の草庵の聖人を拘束することになりますが、その折、幕府の平左衛門尉(へいのさえもんのじよう)の輩下の者達が聖人に対して狼藉の限りを尽くしたこと、さらには外には佐渡流罪をつくろいながらも流人としての聖人を、佐渡の佐和田郡(さわたのごおり)の地頭であります相模国(さがみのくに)依智郷(いちのごう)在住の本間氏の館へと護送するおり、途中に龍の口(たつのくち)の刑場にて聖人の首を切ろうとしたこと、そして刑場に向かわれる途中、信徒の四条金吾(しじようきんご)(1229-1296)の住居の近くを通られましたことから、聖人は四条金吾の元へ使者を遣わし、その旨を伝えられたこと、そのことから信徒の四条金吾が殉死しようとしたことなどについて触れてみたいと思うのであります。四条金吾は、北条一門であります江馬(えま)氏に仕える鎌倉在住の男性信徒であります。ところで聖人は、文永八年九月十二日の午後、鎌倉幕府の北条得宗家(ほうじようとくそうけ)の有力被官であります平左衛門尉頼綱(よりつな)を筆頭とする一行によって逮捕されました。そのおり平左衛門尉の郎従の一人が、土足で草庵に踏み込、聖人が懐に収められている法華経の一巻を取り出して、聖人の顔面を三度までも打擲(ちようちやく)し、それらの経巻を破り散らすのであります。他の武士たちも、残りの九巻を足で踏み、実にまとわりつかせ狼藉の限りを尽くすことになります。さらに逮捕した聖人を鎌倉の若宮小路(わかみやのこうじ)を引き廻し、国家の転覆を企てた罪人のような処置をとることになります。この有り様を佐渡流罪後の文永十二年(1275年)二月、身延で表されました長文の『神国王御書(しんこくおうごしよ)』と名付けられている手紙に、次のように記されています。現代語訳でご紹介いたします。
 
二度(伊豆流罪・佐渡流罪)までも、私日蓮を流罪に処し、しかも白昼に、鎌倉の若宮小路を引き廻して、はずかしめを与えることは、あたかも国家に対する反逆者としての罪人のような扱いでした。さらに、釈尊のご立像を本尊として奉安し、一切経の中心である法華経を安置している私の庵室を打ち壊して、仏像や経巻を郎従等に踏みにじらせ、そのうえ泥の中へ投げこまみ、それのみならず、私日蓮の懐に収めております法華経を取り出して、頭をさんざんに打ちすえたのです。このようなはなはだしい迫害の原因というのは、日蓮に対して、以前からの深い怨みがあったからではなく、またこれと言う世間的な罪があったからでもありません。ただ、私が法華経を広めるだけで、こうした鎌倉幕府から大いなる迫害を受けたのであります。
 
これと同様の文が、同年の『撰時抄(せんじしよう)』には、
 
私がふところに収めている法華経の第五の巻を取り出して、さんざんに責め打擲し、ついには鎌倉の小路を引き廻したのです。
 
とあり、また『下山御消息(しもやまごしようそく)』には、
 
教主釈尊の使者であり、大切な法華経の行者に対して、法華経の第五の巻で私日蓮の頭を打擲し、法華経十巻のすべてを引きちぎって、さんざんに踏みにじった宗教的な罪は、現世でも未来世でもまぬがれることはできないでしょう。
 
とも述べられています。さて平左衛門尉によって逮捕されました日蓮上人は、すでに触れましたように、佐渡流罪として遠流の刑に処せられることになります。当時の佐渡国の守護職は、武蔵守(むさしのかみ)大仏宣時(おさらぎのぶとき)でありますが、その守護代であります佐和田郷の地頭である本間六郎左衛門重連(ほんまろくろうざえもんしげつら)が、聖人の身柄を預かることになります。重連(しげつら)の館は、今日の神奈川県厚木市依智であります。ですから鎌倉の若宮小路からこの本間氏の館までの行程は、由比ヶ浜、長谷、坂の下、稲村が崎、七里ヶ浜、そして腰越(こしごえ)を経由することになります。しかし幕府の聖人に対する処罰について『下山御消息』には、
 
(い)ぬる文永八年九月十二日に、都(すべ)て一分の科もなくして佐土国へ流罪せらる。外には遠流と聞こへしかども、内には頚(くび)を切ると定めぬ
 
とありますから、聖人は首を切られることを覚悟されていたことを知るのです。ところで腰越の龍の口の刑場までの途中に、北条一門の江馬氏に仕える信徒の四条金吾(しじようきんご)の邸宅がありました。即ち由比ヶ浜から長谷へ向かう途中、御霊(ごりよう)神社(通称、権五郎(ごんごろう)神社)があります。そこへ差し掛かれた聖人は、熊王(くまおう)と言う使者を四条金吾の元へ遣わして、この状況を伝えられました。館より走り出た金吾と兄弟たちは、馬の口を取り、腰越の龍の口へ聖人のお供をすることになります。このときの有り様を後に四条金吾に宛てられました聖人五十六歳の建治三年九月十一日付の手紙の一節には、次のように記されています。現代語訳でご紹介いたします。
 
かさねがさね、いまでも忘れることができないことは、私日蓮が頚を切られることで、龍の口へ向かったとき、貴殿は私の乗った馬の口をとりて、泣き悲しまれたことは、いつの世になっても、けっして忘れることはできないでしょう。もしも、貴殿が現世に犯した罪が深くて、それによって未来性に地獄に堕ちるようなことがおありになったとしても、また法華経仏の功徳によって私日蓮に対して、仏に成しましょうと、法華経の教主釈尊がお計らいくださったとしても、私はそれに従うわけには参りません。貴殿と、地獄へ参りましょう。私日蓮と貴殿とが、ともに地獄にいくことになれば、釈迦牟尼仏も法華経も、きっと一緒に地獄にこそいらっしゃるに相違ありません。もしも、そのようなことがあれば、暗い闇夜に皓々(こうこう)と照りかがやく満月が出るようで、また湯の中に水が出てくるようで、氷の中で火が燃えるようで、また太陽の光に対して、暗い闇を投げ入れるようなことと同様で、けっしてそのようなことはありえないのです。
 
このように龍の口の法難のおり、四条金吾は殉死をしようと覚悟を表明したことが知られるのです。その覚悟に対し、聖人もまたもしも貴殿が未来世に地獄にあるとすれば、ご自身もまた同じ地獄にありましょうと、一緒にあることを告白されているのです。ここに法華経信仰を一にする聖人と信徒との絶つことのできない絶対的な信頼関係が存していることを知るのです。さて聖人一行は龍の口の刑場へと向かうのですが、幕府は諸般の事情、あるいは不思議な現象等で刑を執行することはありませんでした。それは今日の時刻では真夜中の時刻を過ぎた時でありました。『報恩抄(ほうおんじよう)』の一節に、
 
去ぬる文永八年辛未(かのとひつじ)、九月十二日の夜は相模国たつの口にて、切らるべかりしが、いかにしてやありけん、其の夜はのびて依智というところへつきぬ
 
とありますから、法難を免れて本間氏の館のある依智へと向かわれたことが明らかです。このように聖人は、奇跡的にも龍の口において殺害されることはありませんでした。しかし聖人が佐渡において記された『開目抄(かいもくしよう)』の一節には、聖人ご自身の宗教的な受け止め方から、九月十二日の午前一時ごろ(今日の日付では九月十三日付となりますが)、この刑場で首を切られたということを記され、翌文永九年二月にこの書を有縁(うえん)の弟子へ送ることを述べられております。このように九月十二日の聖人の逮捕の後、龍の口での法難、そして流人としての依智まで護送されるという重大な場面に遭遇しました信徒四条金吾は、改めて不退転の覚悟、すなわち法華経信仰のために身命を捧げるという覚悟をこの折に示したことが知られます。そしてこのような聖人に対する宗教的弾圧は、聖人の弟子の逮捕、あるいは信徒に対する財貨や所領没収も同じように行われたのです。『開目抄』の一節には、次のように記されています。現代語訳で拝読いたします。
 
国主からの迫害は、すでに二度(伊豆流罪・佐渡流罪)におよぶことになります。しかも、このたびの難は、私の身命にまでおよぶほどのことでありました。また私だけではなく、弟子たちや信徒たち、さらには、私の教えを少しでも聴聞している信徒たちさえも、厳しい尋問があって、重い罪科が課せられました。あたかも、国家に反逆を企てる罪人のような処遇でした。
 
この文から伺いますことは、日蓮聖人への迫害は同時に門下に対する迫害でもありましたから、聖人の教えを聴聞する人々に大きな動揺を与えたのです。中でも身近な鎌倉在住の信徒たちは、「千が九百九十九人は堕ちて候」とありますから、その弾圧の厳しさの一端がうかがえるのであります。このような聖人に対する二度目の流罪は、聖人ご自身にとっては法華経の勧持品(かんじほん)第十三の偈文に、法華経を実践する者は、三種類の怨敵が興起し、さらに「数数見擯出(さくさくけんひんずい)(しばしば修行の場所から追放される)」 との経文が見られます。そして聖人の二度の流罪の体験は、この経文を実証したとの確信に至るのであります。けれども、周囲の人々の中には弾圧を恐れて聖人の下を去り、日蓮聖人の信仰のあり方や法華経信仰によって仏法を守護されると誓われている諸天善神からの守護が見られないということなどから、種々の疑問が興起することになります。つまり日蓮聖人は「法華経の行者ではない」という根本的な疑問に他なりません。このようなことから、流罪地の佐渡の塚原三昧堂(つかはらさんまいどう)にあります聖人にとって、文永八年十一月から翌文永九年二月までの間、まさに厳寒の中、長文の『開目抄』を執筆されることになるのです。本書は、佐渡にあって「死」を覚悟されている聖人が、門下に対する「形見(かたみ)」として執筆されている面も存するのですが、同時に聖人の法華経・釈迦牟尼仏に対する宗教的な信仰の世界がここに披瀝されているのであります。ところで、この『開目抄』は、鎌倉から佐渡へ四条金吾が遣わしました使者に託されることになります。以上文永八年九月十二日の鎌倉幕府による日蓮聖人の逮捕、あるいは龍の口の法難、さらには佐渡流罪、『開目抄』の執筆ということを、信徒である四条金吾との関わりの面から概観してまいりました。では改めて、四条金吾という人物に触れてみたいと思うんです。また世俗の生活において四条金吾が、仕えるところの主君江馬氏との主従関係に葛藤が生じたとき、どのように聖人は、四条金吾を教導され、生きる規範を示されているのかを尋ねてみたいと思うのです。そもそも四条金吾は、四条中務(なかつかさ)三郎左衛門尉頼基(よりもと)と称しました。父の中務頼員(よりかず)は、承久(じようきゆう)の乱の後、北条氏の一門であります江馬朝時(えまともとき)、光時(みつとき)の二代に仕え、金吾はその父の後を受けて仕えていたのであります。四条と言うのは、彼の姓でありますが、中務というのは父の官職で、その子の苗字にあてる当時の習慣であります。三郎は通称です。左衛門尉というのは、武門の官職であります。また金吾というのは、左衛門尉の唐の名であることが知られます。そして名を頼基と称したのです。のち弘安五年十月十三日、日蓮上人は、池上の地において入滅されますが、その葬送儀に当たりまして、四条金吾は池上衛門太夫宗仲(いけがみえもんのたゆうむねなか)と共に、幡(はた)を所持する役についていることがうかがえるのであります。なお四条金吾は、江馬氏に仕える武士であり、その一方で医術に長けた医師として、聖人の信徒であります富木尼(ときあま)や身延山における日蓮聖人の病気に対し投薬し治療に当たっていることが知られます。また主君の江馬氏が、病気の折にもその治療に当たっているのであります。これらのことから、四条金吾は江馬氏に仕える武士であり医師としての面も有していたことが理解できましたが、主君江馬氏と信仰や価値観の違いから摩擦が生じることになります。さらには江馬氏に仕える仲間たちが、四条金吾の行動に疑問を抱き、さらに嫉妬心や功名心のもとに主君に讒訴(ざんそ)し、幽閉蟄居(ちつきよ)の命令が下り、起請文(きしようもん)、すなわち主君への忠誠、誓い文を出すようにとの出来事が起こることになるのです。ここに人間関係に葛藤が見られるのであります。まさに四条金吾は、彼の人生において、信仰の面においても、また世俗における宮仕えの面においても重大な岐路に立たされることになるのであります。この緊急事態に対処すべき、彼は身延の日蓮聖人のもとにこの経緯を知らせました。その返書が『頼基陳状(よりもとちんじよう)』と伝えられています。その出来事の概要に触れてみますと、建治三年(1277年)六月二十三日付の下文(くだしぶみ)が四条金吾の元へ届けられました。「下文」というのは「下(くだす)」の書き出し文で、上位の者が下位の者に対して下したところの文書を指しています。この下文は主君の江馬光時からのものであります。その書面の取り次ぎ役は、島田左衛門入道(しまださえもんにゆうどう)と山城民部入道(やましろみんぶにゆうどう)の二人でありました。主君から出された四条金吾に対する詳しい詰問状、すなわち下文の内容は、今日明らかではありませんが、この弁明書となる『頼基陳状』では、四箇条の詰問に対し、それに答弁するという形式を取っていますから、その条目を先ず整理してみましょう。一には、四条氏が長谷の大仏に近い桑ヶ谷(くわがやつ)という地において、龍象房(りゆうぞうぼう)というお坊さんの説法の場で不穏な行動をとったことは、その場において見聞した人たちが異口同音(いくどうおん)に申し立てるところである。しかも四条氏と徒党の人たちは、武器を帯していたと言うので、その行動は不都合であるということ。二は、極楽寺の長老である良観房忍性上人(りようかんぼうにんしようしようにん)のことを、私(主君)が釈尊の再来であるとは仰いでいるのに、その上人を非難することは誤りであるということ。三には、龍象房と極楽寺の忍性上人とをあたかも釈迦牟尼仏と阿弥陀仏のように私が仰いでいるのに、貴殿が非難を加えるのは、主人の意向に背くものであるということ。四には、事の是非や善悪にかかわらず、主君や親に従うことが、忠臣や孝子の道であり、また神仏の御心にかなうものである。しかし貴殿が主君の意向に従わないのは、臣下としての道ではないということ。このように四箇条にわたって主君からの問難が下されていることが知られます。一、二、三は、仏教観や信仰上の問題とも関連いたします。四は、世俗的倫理観や道徳観の問題であると言えましょう。では、一から四の弁明の内容について要点のみを触れておきたいと思います。まず、一の詰問に対して、これは根拠のない嘘である、と断言するのです。誰かが私を中傷するために、作り話を申し入れたかと思いますので、そのことを訴えた人と私とが対面し、御前にて実否を糺されるのが妥当ではありませんかと示しています。次に二につきましては、私は良観房忍性上人を釈尊の生まれ変わりと敬うことは承服できない、と明言するのです。もし経文の通りであれば、私の仰ぐ日蓮聖人は、久遠の釈尊の使者であり、本化上行菩薩(ほんげじようぎようぼさつ)の応現であり、法華経本門の行者です。しかも末法における大導師に他なりません、と明言しています。次いで三につきましては、ご主君は、龍象房や忍性上人のご対面以来、尊敬されているとのことでございますが、龍象房は特に比叡山や洛中で悪事を働いたそのようなお方に他なりません。そして罪科に問われるというようなことがあって、行方をくらまして逃亡した方であります、というのです。最後の四につきましては、いかにご主君でありましても、道理に背いて盲従することは不忠義者である。ということは、『孝経』や仏教経典からも明らかです、と述べ、頼員、頼基の親子が二代にわたって主君に対し身命を捨てての忠義を尽くした事実を記すことになります。そして私の主君に対する最大の忠義は、ご主君の成仏に他ならないと断言しています。そしてこのようなことで、主君江馬氏を混乱させることは、むしろ主君に対する恨みを抱くもののはかりごと、一大事を起こそうとするはかりごとかもしれませんので、主君に訴え出た人を探し出し、召し合わせて糾明していただきたいと結んでいるのです。さて、建治三年六月二十三日の下文から二ヶ月余りの月日が経ちました。九月十一日付の「四条左衛門尉殿御返事」という宛名のある手紙が存しています。この手紙からうかがえますことは、主君の江馬光時が病気に冒されているということです。もちろん四条氏が身延の聖人のもとへ白小袖一枚と銭一貫文等を届け、手紙にこれらの状況を報告し、謹慎中であっても特別に自分の病気の治療に当たるというご命令が下されていますということを報告していたと思われます。そこで聖人は、江馬氏との関係性をはっきりと示し、主君が病気をされていることは、私日蓮にとっても心配です。貴殿が今奉公できるのは主君のお蔭であります。貴殿が、私日蓮に種々のご供養物を届けられるのも、そのおかげに他なりません。そのためにも主君の病気平癒を祈りたいと思います。そしてこのたび主君への讒訴というのは天魔の働きであることから、決して退転することなく、また身辺を十分に気をつけるようにと配慮が示されています。そして周囲の人たちから、主君の病気のことを聞かれても、謙虚に治療に当たっていることを告げ、決して傲慢になったり、あるいは自己の感情をあらわにしてはなりませんよ、と訓戒されています。さらに人として見事な立ち振る舞いによって品格のある生き方をするようにと諭されています。この手紙の一節には、次のように記されています。
 
人として、私たちがこの世に生命を享(う)けて生まれてくるのは、容易なことではありません。わずかに、爪の上の土のようです。また人の生命は、草の上にやどる露のようなもので、たもちがたいのです。ですから、仮に百二十歳まで生きたとしても、名をけがして死を迎えるよりも、生きて、一日であっても、品格を高める方が大切です。中務三郎左衛門尉は、主君のためにも、仏法のためにも、また世間の人々に対しても、心の等しい優しい人である、と鎌倉の人々から口々にほめられるようにいたしなさい。
 
と言うのです。この文章に続いて、次のように記されています。
 
(くら)の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし。
 
これを現代語訳いたしましょう。
 
蔵に積む財よりも、健康で、他者に奉仕できる身の財がすぐれています。けれども、身体の財よりも、心が浄く、信仰心をもって他者に奉仕できる心の財が第一なのです。この手紙をご覧になられたうえは、心の財を第一とする生き方を重ねてもらいたいものです。
 
日蓮上人にとって、末法に命を享け法華経の教えに生きるということは、特別な修行の場であるとか、静かな山林の中で実践するということではありませんでした。私たちが今ここに生きている場所こそ、仏道修行の場であり、戒律というような他律的なものによって拘束されるのではなく、御仏の魂であり、大慈悲心であるお題目を受持する姿が、法華経信仰の証であるというのであります。すなわち世間を離れる生き方とか、社会とのかかわりを断って生きることが、法華経信仰の姿ではないということを知るのであります。そして形としての蔵の財よりも、身の財がすぐれていることを述べられ、さらに身の財よりも、心の財が第一である、と断言されているのであります。この生き方こそが、日蓮聖人の生き方の核心であり、法華経への信仰心こそが、人生を生き抜く上での最上の財であったことを知るのであります。もちろんその後、四条金吾は主人の誤解も解け、幽閉蟄居から解放され、また所領の没収という厳しい処遇が回復したことは申すまでもありません。
 
     これは、平成二十九年一月八日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである。