閉じた心 開かれた心
 
                   上智大学教授 大和田(おおわだ)  滝 恵(たきよし)
1951年、東京生まれ。1977年、上智大学文学部社会学科卒業、上智大学大学院国際関係論専攻入学。1982年、上智大学大学院国際関係論博士後期課程在学中に国際関係研究所助手就任。1983年から2年間、外務省ASEAN地域振興計画・委託調査研究員を務め、シンガポールを数回訪問し同国の社会経済発展に寄与した環境・医療福祉・技術吸収の社会制度・社会政策の調査研究に従事。1988年、文学博士(社会発展政策学)の学位取得。他に、通産省NEDO平成6年度グリーンヘルメット事業調査報告検討委員会座長、上海中日環境科学技術交流会議学術委員会委員など歴任。国内外の大学や人事院公務員研修所でも非常勤の講師・教官を務めた。現在、上智大学法学部地球環境法学科教授、地球環境・経済研究機構理事、中国江蘇省経済社会発展研究会高級顧問、産経新聞社フジサンケイビジネスアイ「論風」定期執筆者。
 
ナレーター:  今日は、上智大学教授大和田滝恵さんにお話をしていただきます。大和田さんは、環境社会学、環境思想がご専門で、人間が自然の環境の中で、いかに調和のとれた社会生活を営んでいくかということを研究テーマとしておられますが、一方で昨今の若者たちの自殺、いじめ、引きこもりなどの現象に心を痛めておられるお一人でもあります。今日は大和田さんに「閉じた心 開かれた心」と題してお話をしていただきます。
 
大和田:  最近若者が関係する事件が多発していることに心を痛めています。学校でいじめにあって、死を選んでしまう子供や、自分が死んでもいいと覚悟して無差別の殺傷事件を起こす青年。被害者の不幸はもちろんのこと、加害者の不幸も感じないわけにはいきません。また特にここ一、二ヶ月の間で硫化水素という簡易有毒ガスを用いた自殺者が、立て続けに百人以上も出たことにはショックを受けています。なぜショックかといえば、安易に死ねるなら死を選んでしまう人が、まだまだ社会にも多く潜在しているのではないかという気がするからです。そんなに荒(すさ)んだ社会なのかということも改めてショックを感じます。なんでこんな世の中なんでしょうか。強く残念に思います。今日はすさんだこんな世の中を、どうすれば改善の方向に向かわせることができるのか。そのために現状の閉じた心と、それを根本的に転換する開かれた心の里は何かということについて、視聴者のみなさんには、話の最後に気がついてほしいと考えています。現代社会は、現実にとらわれるあまり、それを超える大いなるものへの眼差しが薄れるとともに、価値観が多様化することで、何を拠り所にして生きていったらいいのか。自信を持って生きていく拠り所というものが、持ちにくい時代だと言われています。混沌とした闇の中にいるようで、どこに向かって進んでいけばいいのか。将来に不安を感じている人は少なくないかもしれません。有名なニーチェというドイツの哲学者は、「現代という時代は、生きる目標、目指すべき光が見当たらない。何かをやろうとしても、なぜこれをやるのかと、疑問が生まれてきて、そのなぜという疑問に対する答えが見つからない」と言っています。そんな私たちは、どうしようもない無力感に襲われ、社会全体に無気力で頽廃(たいはい)した空気が感じられると言っています。現代生きる多くの人々は、自分自身の存在が拠り所のないものと感じているということは、同時に自分の存在はこの世だけで終わりで、死後は何もない。死後自分は存在しなくなると受け止めていると思います。このような無神論的な死生観。死後に対する考え方が一般的な時代では、どうせ死後、全てが無になるのであれば、今生きているのがとても辛いと感じている人の中には、人生にはその辛さを乗り越えてまで、生き抜いて行く価値があるのかと思う人がいるわけです。つまり死ねば無になるのだから、辛い思いを我慢し続けることに意味はないし、耐えられないと感じる人がいるんです。そんな人にとって、この世はそんなに苦労してまで生きるのに値しないということになります。私たちの暮らしている社会は、辛いことや苦労を何とかして乗り越えてまで生き続けるほど、魅力的な社会ではないと、その人たちには写っているのです。それはそう感じるその人たちが責められることでしょうか。私たちは、私たちが作り上げている社会に、原因はないのでしょうか。言うまでもないことですが、当然私たち人間一人一人に原因があると思います。そしてもちろん原因がある私たち人間一人一人が作り上げている社会にも原因があります。まず人間一人一人の原因を考える時、私が思い出すのは、ロシアの文豪ドストエフスキーです。私は若いころ高校時代のことですが、ドストエフスキーの最後の大作『カラマーゾフの兄弟』の中に、アリョーシャという心の清らかな人間類型の登場人物か出てくることや、人間の罪深さが見事に表現されていることに、強く感銘を受け影響もされました。アリョーシャが魅せられ、心の清らかな人間類型に近い現実の人物を捜し求めるようになり、普段接する人に対して、その人が善良な人か、そうでないかということに、かなりこだわるようになりました。またドミートリイという主人公の一人が、「人間はみんな残酷で狂暴であり、繰り返し繰り返し身近な人や親族さえも泣かしている。そういう存在であると言います。自分もそういうひどい人間であることは認めると言って、そのために裁かれるのは受け入れるが、つまり心の罪人として裁かれるのは受け入れるが、今法廷が自分を裁こうとしている父親殺しの罪を受け入れるのではない」というセリフは強く印象に残りました。それ以来私は、人間はみんな何故ひどい人間なのか。少なくとも酷い一面を持つのはなぜか。その原因由来を考えるようになりました。だから上智大学に入学してからも、キリスト教が教える人間の罪深さということについて、深い関心を持って勉強しました。またいつしか多分環境問題を本格的に勉強し始めた大学院生の頃だったような気がしますが、私は文明と自然の関係について、来る日も来る日も考えるとはなしに考えるようになっていました。そしてある時、人間がなぜひどい人間なのか。人間が酷い人間であるという一面を持っているのは、その根源が自然界の成り立ちや自然の成り行きに原因があるようにして、思い煩うようになりました。普段私たちは、時間が過ぎていく中でいろんなことに直面しますので、自然の成り行きの方が直接的な形で、私たちの生き方に関係しているのではないかと思います。だから自然界の成り立ちと人間や社会との関係をお話する前に、自然の成り行きの方から先に話しましょう。自然の成り行きの中で、私たちは恐怖や欲望によって自分を守る自己保身に駆られるだけではなくて、ある時自然の成り行きの中に、自分の身ですらぞんざいにする苛立たしさのようなものが醸し出される何かがあるような気がしたんです。それは何だろうと、あれこれと考えました。そしてたぶん物事の自然の成り行きについていけない焦りのようなもの、居たたまれなさのようなものではないだろうかと思うようになりました。だからよく人間学は、恐怖や欲望といった自己中心性だとか、利己心に起因していると考えられがちですが、それだけではなくて、人間学の中でも質(たち)の悪い自分や他人に対して、すさんだ心に人間をさせてしまう悪さというのは、自然の成り行き、時の過ぎ去って行くことに対して、置いてけぼりになれないと、しがみつくような感情が大きく働いているんではないかというような気がしたんです。物事の自然の成り行きについていけない焦りのようなもの、いたたまれなさのようなものと言いましたが、人間の個人個人では、物理的限界、複雑怪奇で把握しきれない自然の成り行きが、時の過ぎ去っていくことがどんどん圧倒してくることに対して、能力的に追いつかないという現実があるから、人間は残酷で凶暴なひどい人間にしているのではないでしょうか。それが欲望や恐怖など、利己的な原因にも増して根源であるように、私には思えるんです。自然の成り行きに対するそんな能力的な限界は、必然的宿命的なものでもあります。能力的に追いつかないという現実があるから、人間を残酷で狂暴なひどい人間にしている。欲望や恐怖など利己的な原因にも増して根源的なものではないか、と言いましたが、能力的に追いつかないという現実は、ここでは人の体を例にして話をすれば、人体の小宇宙の中の不安定な物理学の慣性の法則のようなもので、利己的な原因といった問題を超えているんです。物理学の慣性の法則というのは、人間の生き方にも当然ながらにして当てはまると思うんです。生物には必ずしも利己的な原因によらなくても、既に生きているからには、その状態、バイオリズム、生体リズムを維持しようとする自然状態があります。これは必ずしも利己的に振る舞っているわけではありません。既に生きているのに、突然死ぬことはできないし、私たちが普段、一転して死を選ぶ選択肢は、通常自然な状態ではありえないからです。だから慣性バイオリズムのようなもののバランスが崩され、たち向かない状況にしょっちゅう物事の自然な成り行きによって、人間は直面させられるから、いたたまれなさが常時的にいつもながらに植え付けられ、他者も自分自身すらもかまえきれないという性質が作り出されているのだと思うんです。叛乱する少年たちも、例えば勉強やいろんな日常の競争や他人の幸福や自分の理想などに、能力がなくてついていけず、追いつかず、どうしようもないから叛乱するのです。少年たちに叛乱されるはめになっている大人たちも、それを止める枠組みを作れないので、イライラした状態がよく見られるでしょう。次に人間が酷い人間であるという一面を持っているのは、自然界の成り立ちにも由来しているということについて話してみたいと思います。自然の成り行き、時間の過ぎていくように、普段必ずしも私達が直接的な形で直面しているわけではないのが、自然界の成り立ちです。しかし間接的に私たちの生き方に深く関係しているように思います。自然界は、生物たちの共生で成り立っているということは有名です。そして自然界での共生の大半を占めているのが、生物同士が食う食われる関係の敵対的共生であるということもよく知られています。敵対的共生というのは、例えばサバンナの草食獣が肉食獣に捕食されるような例がわかりやすい例です。サバンナでは、体力や知能が劣った草食獣から先に肉肉食獣に捕まって食われていきますが、肉食獣も弱って餌が取れなくなると死んでいきます。つまり弱い者から間引かれて行くことで、強いものが生き残って遺伝子を伝えていくわけです。それで種族の全体としては、自然界に対抗できるような優れた遺伝子の子孫たちが生き残っていきます。また草食獣と肉食獣の両方にとってサバンナの餌がなくならないように、絶えず一部が間引かれて行くことは、種族の全体にとっては適正な規模に保たれて望ましいことなのです。このように自然界のあり方はそれぞれ個々の生物は一定期間だけ生きて死んでいくようになっていることからもわかるように、それぞれ個々の生物の存在は重要ではなく、種族の全体が繁栄していくことが重視されていると言えるような特徴を示しています。人間社会の傾向に例えてみると、個人より全体が重んじられる全体主義のような成り立ちを、自然界の成り立ちはしているわけです。そこでは、個々の生物個体はどれも弱者へ転落し、死と隣り合わせの危険にさらされていますので、個々の生物がそれぞれ危険に遭わないでおこうと、自分で自分を守ることに精一杯なのです。だから他のもののことはかまっていられません。捕らえられ、食われてしまう仲間や脱落していく仲間に対して、どうしてあげることもできない。見捨てるしかないというような力の無さみたいなものが、自然界には充満しています。そういう仕方のなさみたいなものが彼等同士互いにかえりみれない。そしてかえりみないようにさせられ、その時たまたま強いものが生き残ることによって、全体の種族の枠組みに貢献させられるといった役割を演じさせられているんです。こんな仕方の無さみたいな成り立ちになっている自然界で、他の生物たちと同じように育ってきた人類も、元来その感覚と行為において、究極的には人間個人を大切にしない。結局は、個の尊厳にこだわらないような傾向を育んできてしまっているはずです。またそんな人間たちによって作り上げられた社会というものも、個人より全体を優先しがちな色合いを帯びているように、私には見えます。仲間を慈しまないようにさせる自然界の成り立ちは、その浸透を受ける人間たちを媒介にして、社会の成り立ちに引き継がれているのではないか。個々の生物個体が粗末に扱われる全体主義的な自然界と、同じ根を持つ問題性をうちに含んで、社会は基本的な特徴が出来上がっているように、私には思います。例えば幹線道路沿いの住民が肺癌になって死のうが、道路は社会全体の物流で、公益性が高いとして顧みられませんでした。政府も裁判所も、人的被害が出ている場合でも、社会全体の利益を優先するというように、公共性の使い方を間違ってきたのです。また記憶に新しいアスベストの被害では、アスベストはとうの昔から発癌性が疑われている物質なのに、そして前世紀の八十年代に、被害者が現に出ていたにもかかわらず、管理して使えば大丈夫と言って、禁止にしたら経済的な損失が大きすぎると言って、政府は人命よりも企業や社会全体の利益を優先したのです。犠牲者が少ない場合は、社会全体の利益を優先してきたのが、私たちの社会の大方の傾向ではなかったでしょうか。そのほうが社会全体は安泰だからでしょう。これは全体の枠組みが維持されればいいという、全体主義に近いものの考え方です。また犠牲者が少なければいいと言っても、誰でもが犠牲者になる可能性があるということでは、みんなの問題なのです。その結果は、結局弱い者や運の悪いものが犠牲者になってしまうという、自然界と同じことを私たちの社会でも行っていることになるのです。よく自然と文明は違うと言われますね。自然と文明は違うんだという認識では、西洋文化も東洋文化も一致していると思います。西洋文化では、文明のために荒々しい自然に対抗しようとし、自然と文明を対立的に捉えますし、東洋文化では文明の行き過ぎを諫(いさ)め、自然はいいものだと考えます。いずれにしても、東西どちらの文化も自然と文明は違うものだと認識しているんです。しかし私から見ると、人間社会も自然界と同じことをやっているということでは、文明は自然を踏襲していて、受け継いでいて、自然と文明は連続した本質は同じ物ではないかと、私には思えるんです。つまり自然の延長線上に文明があるわけです。人間が酷い人間であるという一面を持っているのは、そしてそうした人間の傾向が影を落とす形で作られた社会も、自然界の成り立ちや自然の成り行きが源泉、源になっていますので、本質のところで自然と文明は同じ傾向なのに、自然と文明は違うんだと認識していたのでは、人間と人間社会の病気は治しようがありません。このままの考え方をほっておいたのでは、自然にはおのずとは病はなかなか治らないと思うのです。私たちはもっと自然ということの本質と戦うべきだと思うんです。自然ということの本質と戦う。このように言いますと、誤解する方がいるかもしれません。誤解する方が念頭に置いているのは、よく言われる「生態系や自然環境にフィットした生き方をしなくてはいけない」ということだと思います。「自然界の中の法則や摂理に従って、微生物の利用や自然エネルギーの利用を活発にしていくことが、生態系環境に優しいし、生態系の一員である私たち人間にも安全なのだから」というのがその理由でしょう。それはその通りです。人間も生物である以上、自然界に生かされている面があるわけですから、それを否定しているのではありません。しかしすべて自然界に従っては、生きていけないというのが、太古に生きた人類や、自然界で生きた心地がしていない動物たちを見れば明白でしょう。サバンナや冬の極地の動物たちの営みがシンボリックなわけですが、訳も分からずに生きていて、苦労させられる生物たちは、食われる方も食う方も気の毒だと、彼らのうごめきを見ていて感じるんです。恐怖や緊迫の果が死なのですから、実に過酷な本質があるもんだと思います。自然界は、生物たちにこのように過酷であったり、人間に対して尊厳無視となったり、全体主義的であって、決して自然界の法則や摂理に従うのが安全で、生態系や自然環境にフィットした生き方をしなければいけない、とだけは言えないのです。すべて自然界に従った生き方をするのが、人間にとって幸福なわけではありません。結局自然に生かされて自然と戦うということになりますが、それは一体どういうことなのでしょうか。これはよく考える必要がある大きな問題です。自然に生かされて自然と戦う。つまり生態系の一員として自然環境にフィットして生き、また同時に自然界の人間に対する尊厳無視、全体主義的な成り立ちと戦う。この両面が合わさって、トータルして自然界の法則や摂理から離れられない人間が、尊厳をもってよく生きていくことができるのです。ただ人間は自然に生かされているんだから、自然環境にフィットして生きなければいけないんだということは、よく言われるようになっていますので、それは百も承知ですが、ここではあまり言われていない、もう片方の尊厳無視と戦わなければならない方を強調したわけです。というのは、こちらの方が、生物として過酷な面にあわされる物理的な面にとどまらず、精神的な面でも人類は尊厳無視の自然界の成り立ちや成り行きの中で育まれてきたことで、人間が酷い人間であるということを免れていないからです。そしてその自然界が源泉、源となったひどさが、それが荒んだ社会にさせて、自殺者がこんなに相次いでいて、極めて深刻だからです。視聴者のみなさんにも覚えがないでしょうか。私たちは見ず知らずの他人に対して、身内や親しい友人のような個別な存在とは認識できずに、不特定多数として捉えてしまう、十把一絡(じつぱひとからげ)というような感覚になってはいないでしょうか。それが全体主義的な傾向と隣り合わせのような気はしないでしょうか。こんな私たちの感覚を仕方ないと言って済まされるでしょうか。一見関係ないようですが、殺人犯罪が絶えないことや、戦争で容易に殺戮が繰り返されるのも、究極的には、この辺に原因があると思うのです。人類史は、殺人や戦争まみれの暗い歴史がほとんどを占めていますが、しかし近代になって光明もさし始めました。私が思いますには、全体主義的な自然界の本質に反抗しているような、ほとんど唯一と言っていい人類の優れた発明もあるんです。例えば医療保険や年金、失業保険や生活保護、総社会保障、社会政策です。固有名詞の個々人に焦点を当てて、全体でなく団体でなく、具体的な個人を対象にして、個別に救済しようとしているんです。だから私は、環境問題についても、個人救済に目を向けるように、環境政策から環境社会政策へと転換すべきだと提案しています。とにかく人類社会全体が、固有名詞を持った個々人に焦点を当てる社会、具体的な個人を救済する社会政策の発想で充満するようにならなければ、自殺や殺人が横行する荒んだ社会は良くなりません。今の社会には、個々人に焦点を当てる社会政策の発想とは逆の自然界から受け継いだ過酷な尊厳無視の個人を大切にしない全体主義的な空気が漂っていて、そんな社会を生きている個々人に、言え知れぬ苦痛を与えているのです。特に自ら解き放てない未熟な若者の心に重くのしかかっているのです。それに耐えられない人が、自ら命を絶ったり、人を殺傷するなどの極端な行動をとって不幸に陥っているのです。個々人では無力に対処するのが、人類が社会を作った意味ではないでしょうか。個人ではどうしようもない困難を、社会全体で対処するのが社会政策で、社会政策は現代病気や生活など、身体的、物的な面で、個々人の無力に対処し、不幸を救済しようとネットを張っていますが、そうした社会政策の対象を精神的な面の無力、不幸にも拡大すべきではないかと、私は思っています。自然界の成り立ちや自然の成り行きに対して、人間は無力で、そのために心が荒んでしまうわけですから、自然界の成り立ちや自然の成り行きから受け継いだ荒んだ社会、それに冒頭に触れた自分自身の存在の拠り所のなさ。死後自分は存在しなくなる。自分の意識は永遠に消滅すると考える、現代の無神論的な死生観、死後に対する考え方が追い打ちをかけているのでしょう。無神論的な死生観は早合点であって、死後のことは何もわからないはずだと考える不可知論が受け入れられれば、大いなる者の眼差しが開かれるとともに、後は今日主にお話してきた自然界の成り立ちや自然の成り行きから、人間と社会が受け継いだものを排除すれば、私たちは、社会は相当改善され、違った姿になると、私は思います。私たちの相手は、自然界の成り立ちや自然の成り行きであって、そこに問題の根源があるのですから、人間同士社会的に連帯しかばい合うしかないと思います。
 
     これは、平成二十年五月二十五日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである