信心
 
                  光徳寺住職 藤 田(ふじた)  徹 文(てつぶん)
1941年、大阪市生まれ。龍谷大学大学院(真宗学専攻)修了。本願寺派基幹運動本部事務室部長、浄土真宗本願寺派伝道院部長・主任講師を経て、備後教区光徳寺住職、本願寺派布教使。
                  き き て 金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「信心」ということについて、広島県三原市(みはらし)の光徳寺(こうとくじ)住職藤田徹文さんにお話いただきます。聞き手は金光寿郎さんです。
 

 
金光:  今日は、「信心」ということについて、お伺いしたいんでございますが、普通信心していることの様子を拝見すると、自分がいて、自分が何かを信ずる。あの人を信ずるとか。ところが、仏教の場合ですと、なんか対象になるものを何か信ずるということは、ちょっとで違うところで「信ずる」という言葉を使われているようでございますが、藤田先生のこれまでの「信心」についてのお考えというと、どういうところでございましょうか?
 
藤田:  仏教というかね、お釈迦様は、結局人間が生きていく拠り所である「法」というか、生きる「法則」ですわね。いのちの根底にすべてのいのちが一つごとし繋がることによって、すべてのいのちを生かす「法則」がある。「法」がある。それを「おみのり」というているわけですがね。その「法」に遇うということが一番問題なんでね。本来なら僧のように何もかも投げ捨てて、求めなきゃいかんのでしょうけどね。そんな人できる人というのは、よほど条件に恵まれた人しかできません。そんな私たちに「法」のほうからの働きかけがあるんだと。親鸞聖人はそれを私たちのやる「行」に対して、「大行(だいぎよう)」とこう言われたわけですが、それに出遇うとかね、その働きかけを受け止めると。その働きかけは、常に名前となり、形となって私に働きかけてくださったんだと。その名前が「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」だとこう。「南無阿弥陀仏」は、祈りでもなければ、呪文でもない。何かお願いすることではなしに、「ここに私がおる」と名乗り出てくださった名乗りの言葉なんだ、と。その名乗りの言葉を聞いて確かな「法」に出遇うというか、「法」に疑いが取れたところを「信」と、こう親鸞聖人が教えてくださったわけで、私もそういうふうに味おうているわけですが。
 
金光:  「法」と言われましても、これは目に見えないし、掴めないし、それで普通は確かなもの、例えばどっかへ行くんであれば、飛行機なら、飛行機に乗る場合には、切符があれば乗せてもらえると思いますけれども、その「法」の場合には、掴まえ所がない。
 
藤田:  いつもいうんですが、聞きに来てくださる皆さんに、「みなさん、どうしてそこへ坐っておられるんですか?」と。それは「自分で坐っている」というけど、自分で坐っておるんじゃなしに、引力が働いておる、「法則」が働いているから坐っておれるんでね。「法則」の上で気付こうと気づくまいと、あなたを地球から離さんようにしっかりと引っつかまえておるものがあるわけですね。それが引力の「法則」。それと同じで全ての人が気付こうと気付くまいと、色もない形もないけどもね、すべてのいのちを支えておるいのちの世界があるんだと。それをいのちの「法則」という形でお釈迦様は見つけてくださった。それに名をつけるんなら、曇鸞(どんらん)大師(中国南北朝時代の僧である。中国浄土教の開祖)は、それを「他力(たりき)」と名付けたわけですね。「他力」という時に、縁起という立場に立って、「他」というたら、私を生かしてくださるものなんですね。今みたいに何かあったら自分の都合で「関係ない、関係ない」というからね。他と関係なしに自分の存在が成り立つように思うから、現在ですと、「他力」というと、他人の力とか、人を当てにしようと、それにしがみつくことが、信心みたいになってしまうわけですけどね。
 
金光:  人任せに捉えている場合が多いようですね。
 
藤田:  はい。「他力」というのは、縁起というものの見方に立って、他力というふうに説かれたんでね。「縁起」ということは、つながりのないものは何もないということですからね。だから私という存在も、他があって私ですからね。
 
金光:  他がなければ、私だということは出てこない。
 
藤田:  出てこない。他なしでも、自分だけで生きられる、とこう思い違いして、でとことん孤立してしまったら、「僕は一人や」ということになって、あんな恐ろしい事件を起こしたりするわけですね。だから僕はやっぱり縁起の「法則」を知らなかっても生きれるんです。「法」というのは―引力知らなくてもみんな生きておったわけです―「法」は知らなくても生きれるけども、知らなかったために、結局どっかで行き詰まってしまったり、やる気がなくなったりしてしまう。だからいつでも私を支えてくださるものがあって、私はどんな時でも一人じゃないんだと。たとい人間関係が孤独だって、私のいのちを支えてくださるものがあるというね。そういう私のいのちを支えてくださる色もない形もないものに出遇うというか、その喚(よ)びかけが聞こえたということを「信」というてるわけですね。だから「信心」の「信」は、人間の心じゃなしに、私のことを支えて下さっておる「仏さまの心」というてもいいし、そういう「大いなるいのちの心」とこういうてもいいんじゃないかなとこう思うんですね。
 
金光:  今のお話を伺ってますと、「自分は一人だ。俺は一人で生きているんだ」と思う人は、現実に自分がこう生きている事実は、「一人だけで生きている」という誤解の上に成り立っている。見えるところが非常に狭いところで〈こうだ〉という思い込みの上で生きているような気がしますね。
 
藤田:  はい。それは人間昔から、そういう自分というものにとらわれて―「我執(がしゆう)」と仏教でいいますが―「我(が)」に執(と)らわれて、自分の世界をこしらえて、広い世界に生まれても、結局自分の世界をこしらえて、戸締まりしてしもうて、そのまま生きてみな人を排斥し、時々隙間から覗いて、利用できるものがあったら利用して、引っ張り込んでやろうぐらいの、そんな生き方になっているんじゃないか。それは開けっぱなしにして生きるのは恐ろしいかも知れんけども、すべてつながり生かしてくださるものがある。その中にできるだけ開いて、できるだけ大きないのちの世界を生きよう。やれることをやって、生きさしてもらったらいいんですね。それが確かなものに出遇うという信心ものの見方だろうと思うんです。
 
金光:  人間が生きている以上は、どんな思うようにならない出来事―ああしたい、こうしたいと思うようにならない出来事は、広い世界に気がついている人にも、そうでない人にも訪れてくると思いますけれども、思うようにならない、困ったときに、広いいのちに目が開いていると、それはやっぱりそれに対する身の処し方が変わってきますでしょうね。
 
藤田:  そうですね。それはどれほど広い「法」の世界の中に生きていても、災難に遭う時はあります。死ぬときは死にますけどね。その一人でそれを乗り越えようと思ったら、乗り越えられなくなって行き詰まってしまったり、自棄(やけ)を起こしたり、自暴自棄になったりするわけでね。やっぱりいろんな場があるけど、いつも大きな中で支えられて生きておるんだから、辛いこともあり、苦しいこともあり、お釈迦様は、「人生は苦である」とこういう言い切られたわけですからね。この世は、娑婆で堪え忍んでいかんならん世界だけども、苦しい世界、堪え忍ばねばならんけども、確かなものに支えられて生きていく中で、やっぱりいろんなことに気づかせてもらったり、あるいはさしてもらったり、出会わせてもらって、やっぱり辛かったけども生きていてありがたいなという、その問題ですね。それを一人で生きていると、行き詰まったら、そこで最後になってしまってしまうわけですね。
 
金光:  だからやけくそになってみたり、自分を殺してみたり、他人を殺してみたり、傷つけたりというのが出てくるわけですね。
 
藤田:  そうですね。そこまでいかんにしても、なんとなく投げやりになってね、真面目にやるだけ損だとか、努力したって実らん人生なんて馬鹿馬鹿しいというて、半分投げて生きることになってしまうんですね。
 
金光:  そうしますと、その自分が生かされている世界、その大きないのちの働きと言いますか、それに気がつくと、自分自身のいのちにも、いわば弾力性ができてくるというか、
 
藤田:  そうですね。
 
金光:  すぐポキッと折れるんじゃなくて、竹じゃありませんけども、少々風が吹いてきても、逆風が来ても、何とか足場が広いと踏ん張りどころがありますでしょうね。
 
藤田:  人生の足下というか、足下がしゃんとしているから、人生の表面的な出来事、上の方が揺れても、すぐには倒れないのです。お釈迦様が言われたのは、私たちの生きているこの世は無常の世で、いつ何が起こるかわからない世の中であるということです。そして、「この身」も、いつ何が起こるかわからない「身」です。無常の「身」が、何かあるたびに、どうなるかわからない無常なる人やものにしがみついて、安心の日暮らしをしようと、私たちはしているんです。いつでも自分の期待に最後まで応えてくれるものはないのです。それで「身」の始末がつかなくなって、自棄を起こさなければならないことになるのです。だから自分の大切な「身」の「よりどころ」とするもの、しっかりとした「法」を日頃から聞き、確かな教えをいただいておくことが大切です。そしてそこに足腰をすえて生きないと、いつまでたっても、私たちは危なっかしい人生から、離れることはできないのです。この「身」は無常ですから、どうしても揺れます。この世も無常、たよりにしている人やものも、無常ですから揺れます。どの人の人生にも、山や谷はあるのです。誰にも中味は違っても、いろんなことが起こります。そういう人生を越えて行く支えが「あるか、ないか」が、この無常の「身」を生きる上で一番大切な問題なのです。
 
金光:  そういう話を伺うと、自分はまだしっかりした足場がないけれども、なんとか「法」の「いのち」に出会いたいという気持ちが起こってくると思うんですが、そこでなんとかなるもんでしょうか?
 
藤田:  だから私が、しがみついたって、しがみつく私が、力がなくなりますしね。だからしがみつく話が、宗教ではなしに、支えて下さっておるものに目覚めるという話なんですよね。だから子供は親にしがみついて育ててもらったんじゃないんですね。親が抱きかかえて育ったわけですね。そういう私を支えておるものの中で、危なっかしいものに、何かにしがみついて生きるんじゃなしに、危なっかしい中でいただいた両手両足を使って、自分なりに精一杯生きるという。何かにしがみつこうという考え方を、お釈迦様は、そのことを「他の人をよりどころとしてはいけない」、また「他のいかなるものをよりどころにし、あてにしてはいけない」と教えてくださいました。況んや、中味のよくわからないものに、自分の都合のいいお願いをして生きるような生き方はおかしいのです。そして、少し思うようになると、「ありがたい」とよろこび、安心を得ようと思っても、なかなか本当の安心は得ることはできません。その人の人生も、思うようになることは続かないのです。何か思うようにならないことがあると、「騙された」とか、「裏切られた」とか、「神も仏もあるものか」というような、悲しいことになってしまうんですね。
 
金光:  こちらがダメなら、こちらでということになるわけですね。
 
藤田:  そのことを浄土真宗で、信心を「一心(いつしん)」ひとつ心という。「一心」とは何かというたら、親鸞聖人は、「二心(にしん)でない」というわけですね。「二心(にしん)」とは、「ふたごころ」ということです。「信心」は「ふたごころ」ではない、と教えてくださったんです。「信心」は「一心」で、「二心(ふたごころ)」ではないと、親鸞聖人は念をおしてくださったんです。そんなことは言わなくても、「一心」は「二心」でないぐらいわかると。「二心」というのは、我が身というものを省みるんじゃなしに、どっちを拝んでおいた方が得か。どっちを信じていた方が楽かという。こっちの計算―損得勘定ですわ。ものを買いに行くのに、どの店に何を買いに行ったらいいかと。「一心」というのは、自分という人間というものに気づかせてもらったり、私が生きていく場はこんな危なっかしい私をしっかり支えてくださるお慈悲しかないんだとか、仏様しかないんだという、決まることですわね。それが信心の世界で。だからものを買うのに、どっちの店がいいかでいいけどね。自分の身というものを、本当に知らせてもらった時に、つかまえておるだけの力が最後まで残っておるかといったら、抜けていくわけですからね。そういう私であっても、最後まで生きれるというのは、つかまえて下さっておるものに気づくというか、支えておってもそういうものに気づくということが、それが「信」ですわね。ただ「信心」というのは、目覚めですわ、ある意味でね。私たちには何かをつかまえて、最後まで離さないだけの力があるかというと、そんな力はないのです。普段はそういう力があるように思っていますが、いざとなったら無力な私です。元気な時には力があると思うのです。最後まで「この身」を生きるだけの力はないのです。どんなことがあっても私を捨てることのない、確かなお方(阿弥陀如来)に、抱き締めてもらって生きるしかないのです。私を抱き締めてくださるもの、「法」「他力」に気が付くというか、目覚めることが「信心」です。私に真の「すくい」は「信心」によって実現するのです。最後の最後まで、私を身捨てることなく支えておってくださる阿弥陀如来のましますことに、目覚めることが「信心」です。
 
金光:  昔聞いた「八正道(はつしようどう)」というのがありますね。それがスリランカのお坊さんから聞いたんですけれども、「八正道」の中の「正念」―正しく念ずると書きますね。あれはですね、思うじゃなくて、気付きという意味なんですね、元の言葉では。「正念」というのは「正しい気付きである」と言われると、今の話とぴったり合うんじゃないかと。やっぱり信ずるという自分があるんじゃなくて、自分が空っぽになると、〈あぁ、そうだった〉という気付きが生まれてくるという。そこが大事なところになるわけでしょうね。
 
藤田:  だから、仏教は、「仏さま拝みなさい」とか、「仏像に祈りなさい」という教えではないのです。「気付きなさい」と言っているわけです。「目覚めなさい」と。「念仏は何か」というたら、「念仏を申すことによって、我がいのちを支えておる大きないのちの世界に気付きなさい」と言っているわけです。仏様に向かうことによって、私のことを支えておるいのちに気付きなさいという。「目覚めよ、目覚めよ」という教えです。それをいつの間にやら、自分の都合のいいことを祈る教えにしたり、自分の都合のいいご利益を頂くという教えにしてしまった。そういう教えなら、仏教も迷信と変わらないと思うんです。
 
金光:  そこまでいきますとね。
 
藤田:  だからいつもいうのは、せっかく浄土真宗のご縁を頂いておっても、よく話を聞かずに、ただ朝晩を仏壇に拝んでおると。「どういう気持ちで拝んでいる」と言ったら、「子供の時から拝んでおったから、一日朝お詣りせんと落ち着かないから気持ち悪い」というんです。中毒症状ね。またある人は、「朝家族が無事でありますように」と拝むわけですね。その日息子が事故でも起こすと、「うちの阿弥陀さんは頼み甲斐がない」と。全く話が違うておるんですね。宗教というものはそんなものではないと。何が起こるかわからん今日一日だけれども、私(法・阿弥陀如来)をしっかり支えておるから、今日も一日その「身」を大事に生きてくださいよ」と、私たちによびかけ、立ちつづけてくださっているのが、ご本尊です。私を拝んでおいたら、「あなたやあなたの家族を事故に遭わせるようなことはないよ」という話ではないんです。その辺から、仏教と多くの人たちの考え方がずれてしまっているんです。
 
金光:  それと同時にですね、自分の方は信じて、仏教なら仏教を信ずると立派な人間になれますと思っている人が多いですね。ところが、気づくという場合の自分というのは、どうも気づくという場合の自分というのは、どうもあまりろくでもない自分に気づくことが多いような気がするんですが、それでもよろしいんでしょうか?
 
藤田:  それが本当なんでね。気付いてだんだん立派になったら、自惚れてくるばかしで、また困った人間になります。少なくとも何に気付いたかというたら、自分というのは善いことをしてきたつもりでも、あまり善いことをしてきておらんなという本当の自分の相(すがた)です。親鸞聖人の「正信偈」にもあります。中国の道綽(どうしやく)禅師ですがね、もっというと『観無量寿経』ですがね、「一生造悪(いつしようぞうあく)」という言葉が出てくるんですね。一生涯悪ばかり造っている人という言葉です。私ら傾向ありますけどね。今になってみたら、自分一人で生きていると思っている人は、知らん間に悪を造りつづけているのです。悪というのは、周りの人を悲しめたり、苦しめたり、泣かしたりするのが悪なんです。自分ひとりで生きている人は、人生が順調に行ったり、うまくいったときは、知らん間に上に上がっています。上に上がっていることは、人を下に見て蔑視したり、踏んづけていますわ。周りの人を傷つけています。反対にうまくいかなくなると、その人に限って、人が悪い。あれが悪い、これが悪いと責任を他の人におしつけるのです。
 
金光:  あいつさえいなければとか。他の人がこう言ったとか、ありますね。
 
藤田:  そうなってくると、人生、良い時も悪い時も結局周りの人を困らすしかしないような生き方。そんな生き方をしておった私が。けども、そんな私をものすごく心配して支えてくださっておった―昔の方はそれを「親心(おやごころ)」と言って、親がおったとか、大きなお慈悲があった、という。こういうてる。だから気づくから偉くなるやなしに、気付くから、あぁ、そうやな。また人を困らせるようなことをしたな。人を悲しませることをしたなと気づくことがなかったら改めようがないわけです。多くの人は、気付いていないからね。当然だと思っているから、変わりようがないわけですね。
 
金光:  ただ、その場合もですね、自分の過去を反省した場合に、その自分という人間は、ああいうあの人に悪いことをしたというのを思うと、落ち込んでしまうんじゃないか。自分が〈悪かった、悪かった〉と思っていると、落ち込んで元気が出ないんじゃないかというようなことをいう人がいるんですが、それの受け止め方というのはどうなんでしょうか?
 
藤田:  善導大師のように、「この世の私の本当の相(すがた)が見えたら、私のこの世に生まれてくる前の相(すがた)まで、わかる」といわれたのです。だから「自身は現にこれ罪悪生死(ざいあくしようじ)の凡夫」である今の私の前生は、「昿劫(こうごう)よりこのかた常に没し常に流転して」いたといわれるのです。これを一口でいうと、今、ここにいる私は、本当にお粗末なもので、この「罪悪生死の凡夫」というお粗末なあり方は、今だけというか、昨日、今日からの問題ではない。非常に根の深いものだ、と言われるのです。
 
金光:  そこまでいくと、そういう自分は今生かされて、そういう状況にあるということが、ありがたいなという、そこへの一種の反発力というか、転換が起こってきますでしょうね。
 
藤田:  そうです。ただ反省したということとは、違うのです。知らされたということは、知らして下さる「法」に遇っているということなのです。それは、私の本当のすがたを教えられ、もうすでに「法」の中に生かされ、支えられているわけです。ですから別の面からいうと、どないもしょうがない。落ちるというか、ほっといたら自分の人生が苦悩の中に沈んでいくしかない。そんな私を支えてもらって生きておるのです。船の例えでいえば、沈むしかない巨岩のような存在です。水中では沈むしかないものでも、大船に乗せたら、大船に支えられて、水没することなく浮くのです。そのように沈むしかない私たちが、「法」に支えられて、生かされて生きているのです。この世に生かされているのですから、この身のありったけを精いっぱい動かして生きればいいのです。私でも、何か他の人のためになることができるのなら、それを精いっぱいこの身を活かして、生きればいいのです。小さなことであっても精いっぱいこの身を活かして、自分のやれることをやればいいのです。
 
金光:  そうしますと、よく「たすかる」とかですね、「おたすけ」に預かるとかという言葉も聞くわけですが、「たすかる」というのは、今例えば、お金に苦労していると、お金がどんどんもらえるという、そういう助かり方とちょっと違うわけですね。
 
藤田:  「たすかる」ということは、その本当の意味で私が私のいのちを生きれるようになるという。仏教の言葉でいうと、「生死出離(しようじしゆつり)」といいます。「生死」とは、「生死流転」とか「生死輪廻」といい、「迷い」の生活です。「流転」は流されて転ぶ。「輪廻」は、輪がコマのように同じところを廻っておる。だから私の人生はどうなっておるのかと言ったら、偉そうな事を言ったわりには世の中に流され、周りの人の言葉に流され、自分のモットーに執着して流され、または自分のわがままに流されて、転んでおると。それも転びながら前へ行けばいいけど、死ぬが死ぬまで同じようなところでぐるぐる回っておる。輪廻ですわ。そういうところを出て、一歩でも二歩でも前向いてこの人生を生きることができる。それが助かるということね。仏教でいう助かるは、そういう意味で、いきなり「生死出離(しようじしゆつり)」なんというと、難しいけども、そういう流されて転び、自分で気づかんけども、同じことばっかり繰り返す人生が、〈あぁ違うたな、違うたな〉と言いながら、阿弥陀如来に支えられて一歩一歩を前向いていく。前って、どこですか、というたら、仏教でいうたら「浄土」と。浄土って、どんな世界か、と言ったら、それぞれがそれぞれのいのちを輝かす世界。『阿弥陀経』でいうたら、「青い色は青い光、黄色い色は黄色い光、赤い色は赤い光、白い色は白い光」を輝かして生きる「いのちの」世界です。青い色が黄色と比べて、損や得やとか、あんたと比べて勝った負けたとか、親が白く産んでくれたらよかったのにという、そういう話じゃないんでね。それぞれが本当に自分のいのちを生きる人生を実現していく中に助かる。だから私らが困った状態から抜けだしたら助かるという。お金がのうて困っている人は、宝くじが当たって助かったというけどね。本当のいのちの困った状態は、流転輪廻しているのがいちばん困った状態なんで、そこを出ることが助かるという。仏教はそれを「助かる」と言っている。「救われる」とこういうてるわけですからね。
 
金光:  「助かる」と聞きますと、どっか一段高い安らかなところへ腰掛けて、じっとしていればいいということと違うわけですね。
 
藤田:  違う。
 
金光:  「諸行無常」というのがありますね。すべてのものは移り変わる。ですからその「助かる」というと、もう移り変わらぬ世界へ行けるのかと思うと、この身体を持っている以上は、どんどん移り変わりの中にいるままで、今の話に通じるわけですか?
 
藤田:  そうです。だから如来さまのお慈悲いただいたから、その人の人生が、他の人の人生と、表面的には変わるということではないのです。この世という無常の世界に生きている限り、地震に遭う時は、他の人と同じように遭います。事故に遭う時は、みんなと同じようにあいます。他の人と変わった訳じゃないんで、同じ場におると、地震や仏は同じようにありますし、事故も同じようにあります。けども、お釈迦様は、「法」に遇った人は、「第二の矢」を受けることがないと教えてくださいました。一番目の矢は同じように受ける。同じように災害や事故にあっても、それで精神的ショックを受けて、それでその後の人生が変わってしまうことを「第二の矢」というのです。そういう問題だと思うんですよ。初めの台風にも遭うし、事故にも遭うし、地震にも遭うし、けども、それで立ち直れなくなってしまう人と、ものすごくそれで精神的にショックを受けて、人生そのものが全然おかしくなってしまうというか、どないも自分でどうなっていいかわからなくなってしまうと。こういうこともあると、お釈迦様を教えて下さったと。でも私は何をしておっても支えてくださるものがあるんやから、そこでもういっぺん一からぼつぼつでもやってみようと。前のように戻るか戻らんかわからんけども、前の生活には戻れんかもしらんけども、いただいたいのちがあるだけ、やれることをやって、この人生歩ましてもらおうと。
 
金光:  これ表現変えると、同じ困るにしても、困った困っただけじゃなくて、もう一つ支えられたいのちの上で、困り方ができるという。平気で困るという言い方はおかしいかもしれませんけれども、まぁ土台はしっかりしたとこで困るという。そういう感じなのかもしれませんですね。
 
藤田:  良寛さんは、「災難に遭う時は遭うが宜しく候」とか、「死ぬ時は死ぬるが宜しく候」と。私はそこまで言い切れませんが、災難に遭いたくないけども、遭わんならん。死にたくないけども、死なんならん。その時にほんまに一人でことを処すだけのものを持っているかといったら、ないんですよね。またその場に至って、何かあてになるものないかって、なかなか普段からお話を聞かしてもうろうたり、み教えに届かないと、人生というのは、いざなったときには、それこそうろたえ回って、自分でも自分の人生の始末がつかなくなってしまうんじゃないかと。だから同じように、災難にも遭うし、いろんなことに出おうたら腹も立つし、いろいろあるけども、その後の問題ですわね。
 
金光:  最初の頃おっしゃった「おみのり」の「法」に遇うというと、姿・形は見えないけども、そういう働き、いのちの働きに生かされているという、そこの世界はそれは仏さまの世界といいますか、
 
藤田:  その世界を仏教では、「法」といったり、「浄土」というのです。そして、その働きを「他力」といったり、「本願力」といったり、親鸞聖人は「自然(じねん)」という言葉で教えてくださいました。また、それは、すべての「いのち」を「摂取して捨てることのない」働きです。その働きを「阿弥陀仏」と名付け「他力」というのです。みんな同じことなんですね。だから一つ事をいろんな言葉でいうもんだからね、ちょっと聞かれた人は混乱するだけだと思うんです。だから何度もこう繰り返し聞いてもらう中で、あんないろんな言葉で伝えてくださったのは、このことだったんだなと聞いていかなければいかんのでね。とことんなかなか一つの言葉だけで、言葉というのは、一面しか言い当てんから、なるべく多くの言葉を使って何とかそれを受け止めてほしいと思って努力しているわけですね。だから初めて聞くと、一つの事をなんであんないろんな言葉でいうて、一緒かいな、違うのかいな、と混乱するばっかりですわね。だからそういう意味では、何でもそうですがね、蓮如聖人が、「ひとつのことを初ごと、初ごとと聞け」といわれたように、「一つことを初ごと、初ごとと話す」ことが大切なのです。スポーツの選手でも「一つ事を初事(はつごと)初事」して練習するから上手くなるんで、その練習のたびに練習内容を変えたら練習にならないですね。人生も一緒だと思うんです、なんでもね。お釈迦様の仏教の言葉に「無上道(むじようどう)」という。人生も無上道ですわ。もう八十まで生きたから人生わかったということないでしょうからね。スポーツも無上道で、極めて引退する人はおらないで、体力が続かんから引退するだけであってね。芸事も本当に極めてということはないだろうと。人間国宝と言われる人でも、まだ修行という。
 
金光:  人間にとっては、定年は無いわけですね。
 
藤田:  停年はないんですね。
 
金光:  人生というか、人間のいのちというのは、
 
藤田:  完成は無い。
 
金光:  常に上がない。
 
藤田:  上がない。いつも途上で、寿命はつきて終わっていくなり、体力尽きて止めるなりね。人間国宝なら、それは人から見たら、あれはすることないやろうと思う。それもまだ修行の最中だという。一生修行の道を歩むしかない。それほんとやと思うんですね。
 
金光:  それだけの味わいが深いものがあると。目を開いていろんな人生を聞いたり見たりすると、人間のいのちの世界は本当に果てしがありませんよという、そういうことなんでしょうか。
 
藤田:  そうでしょうね。
 
金光:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十一年一月四日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである