京都東山で心をみがく
 
                   京都大学こころの未来研究センター教授 鎌 田(かまた)  東 二(とうじ)
1951年、徳島県阿南市生まれ。1975年、國學院大學文学部哲学科卒業。1977年 國學院大學大学院文学研究科神道学専攻修士課程修了。1980年、國學院大學大学院文学研究科博士課程神道学専攻博士課程単位取得満期退学。国際日本文化研究センター共同研究員、武蔵丘短期大学健康生活科助教授、国際日本文化研究センター客員助教授、ダブリン大学(アイルランド)ケルティック・スタディーズ客員研究員、京都造形芸術大学芸術学部教授、京都大学こころの未来研究センター教授、上智大学グリーフケア研究所特任教授、京都大学名誉教授を歴任。このほか、早稲田大学や國學院大學、上智大学の非常勤講師、東京自由大学運営委員長、猿田彦大神フォーラム世話人代表、有限会社ムーンサルトプロジェクト取締役等も務める。
 
ナレーター:  今日は、「京都東山で心をみがく」というテーマで、京都大学こころの未来研究センター教授の鎌田東二さんのお話をお伝えします。鎌田さんは、宗教学者で、神官の資格も持っています。十七歳の時、聖地巡礼を本格的に始め、これまで四十年以上にわたって、日本はもとより世界各地の聖地を巡礼してきました。六年ほど前に、京都造形芸術大学の教授となり、京都の東山と呼ばれる山々に親しむようになりました。そして二年ほど前から東山一帯を聖地として独自の東山修験道を実践してきました。最少限のものしか持たない、いわば身一つの状態で東山三十六峰の迷路のような峰や谷を、時には月の光に導かれて巡ってきました。苦労の多かった京都東山での独自の巡礼で、野生の感覚が研ぎ澄まされ、成果の多いものになったといいます。「宗教の時間―京都東山で心をみがく」、お話は京都大学こころの未来研究センター教授の鎌田東二さんです。
 
鎌田:  私が、聖なる場所―「聖地」というものに心惹かれるようになったのは、高校二年から三年の春です。その頃徳島県に住んでおりました。徳島から出発して、四国を横断し、そして八幡浜(やわたはま)から別府に船便で渡りました。そしてその別府から、さらに北九州横断道路、阿蘇山の麓を抜けて熊本に行き、熊本からさらに南にずーっと下がって桜島―鹿児島県ですね―桜島の辺りをぐるっと回って、そして宮崎県に出てきました。日南海岸を走っていて、ふと目についた島が青島でした。海の中にぽっかりと浮かんでいる小さな緑の島。その中に海岸から渡って入って行きました。そうすると、南方的な植生の島の緑の森の中に、小さいというか社(やしろ)がありました。そしてその社を参拝し、その森を抜けて島をぐるりと一周して、また陸の方に戻り、そしてまた自転車で次なる場所へ向かいました。博多から―もうその頃には自転車をこぐのが億劫になっていたので、自転車を家に帰し、そして私は一人でヒッチハイクをしながら、下関、門司、広島、福山を抜けて、坂出、琴平、四国の徳島に戻るという一週間から十日ぐらいかかりましたかね。その旅をした時に、一番自分の心の中に残って、帰ってきた後、何か胸の中につかえているような火山岩が、お腹の中とか、胸の中とかにあって、口の中からバーンとその火山岩が噴火してくるように出てくるというような感じで―その叫んだわけではないんですが―言葉を手で書いた。それが詩のような文章で、それが私が体験した日南(にちなん)海岸の青島でのことが、どうしても忘れられなく、何かその時の感覚というのか、感情というものを、あるいはその情景というものを言葉にして、私が聖なる場所とか、聖地とか、またそういう神話的世界とかを研究し興味を持っていくきっかけの一つがその時でした。もっとも十歳の時に、『古事記』を読んでいて非常に感動しました。またギリシャ神話とかを十歳の小学生の時に読んでおりましたので、神話そのものが持つ面白さ、力というものを「聖」に感じておりました。そしてそれが青島に行った時に、ここは日向(ひゆうが)神話の土地だ。その神話の土地だというのと結び付き、また青島がその神話の中に出てくるトヨタマヒメ(豊玉琵売)とか、タマヨリヒメ(玉依姫)といった神話の登場人物と結びついていくということが、その十歳の時、十七歳の時とパァッとスパークするようにして結びついてきて、それが詩的な言葉になって自分の中から噴出したと。そういう体験が私にとって聖地を目覚めるきっかけでした。そして大学一年の時に恐山(おそれざん)(青森県)に行きました。この時にまた不思議な異様なる、何というのか、地獄の風景ですね。恐山は宇曽利湖(うそりこ)という湖をもつカルデラ湖。元火山。そこに円通寺(えんつうじ)というお寺があって、そしてその円通寺にはイタコと呼ばれるシャーマンが死者の魂を呼ぶ。そのようなイタコの祭りというのが、恐山大祭(おそれざんたいさい)というのが七月の二十日前後に毎年開かれます。そこでは地獄と極楽、死後の魂の世界、救済というものがドラマチックに、そのイタコの死者語りを通して表現されていく。地域の人々は、死んだ人の魂は、その恐山、「山こさ帰るんだ」という意識があります。そしてそこに行ってイタコという霊媒を通してその死者と交信するという習俗がズーッと残ってきたわけですね。そして今日までその恐山大祭というのは行われ続けております。この二つの聖なる場所、一つは、青島。暖かくて本当に美しくて、海、山、緑と青。そういう清々しい光景。そして生命力に満ち溢れている光景。それが一つの聖地で、そこには神社がありました。もう一つ、恐山というのは、お寺で、山の中の湖で、なんとも異様な緑や、また黄色の浜の砂とかですね、それから赤茶けたような奇岩、巨岩が周りに取り巻いている。なんとも言えない荒涼とした、風が吹いてたりすると、本当に風車がいっぱい回っていて、今でいうところの水子供養のような、死者供養というのは、ズーッと行われておりますので、なんとも不思議な、異様なこの世のものと思われない光景というのが、そこに現前しておりました。十代から二十代の初めにかけて、体験したこの二つの光景というのは、僕にとっては本当に忘れられない原風景的な聖地感覚であったと思います。それから日本各地、あるいは世界各地の聖地霊場というふうなところが持っている不思議な力というのか、不思議な歴史民俗的な現象世界というふうなものに魅せられて、四十年近くそういう場所を巡り続けてきました。その中でここ二年ほど私は京都の聖地霊場を巡るようになったわけです。私は、六年ほど前、京都造形芸術大学に転任してまいりまして、ところがある日、これは具体的には二○○六年十一月二十一日のことです。ちょっと時間があったので、私は京都造形芸術大学の近くの詩仙堂(しせんどう)(京都市左京区にある、江戸時代初期の文人石川丈山の山荘跡。国の史跡に指定されている。現在は曹洞宗の寺院でもあり丈山寺という)という石川丈山(いしかわじようざん)(安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、文人。江戸初期における漢詩の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していた:1583-1672)が造った庭園で有名な、また紅葉で有名なところに行き、その裏に宮本武蔵が決闘したというふうな一乗寺下り松というところがありますが、その決闘する前に修行した。また神に神前に祈ったそういう八大(はちだい)神社というのがあり、またその奥に狸谷山(たぬきだにさん)不動院、あるいは不動尊という滝のある霊場があります。そういうふうな詩仙堂の奥から山に入っていって、道に迷って、この東山の峰峰谷谷を経めぐって、そして一時間以上かかって大学に着く。もうそこから大学まで歩けば十分もかからない。おそらく五分かそこらで行き着ける距離を、山を歩いてですね、一時間半二時間半ぐらいかけてぐるぐるこうめぐりながら大学まで行った。そして大学の授業にやっと間に合った。そういう体験の中から、東山というのはまるでリアス式海岸のような深い襞のあるこの起伏に富んだこの地形というのは一体なんだろうか。今まで私は、いろんな山も体験していますが、こんな低い山で、これほど複雑な、なんともいえない微妙な目くるめくような地形というのは珍しいなと。本当に一瞬にして、その日のわずか一時間や二時間の体験の中でそういう感覚を持ちました。そしてここは確かに山なんだけれども、海のような、太平洋のような、この森は海だ。大海原(おおうなばら)だと。そんな感覚を持ちました。木がたくさん生えているのは、まるで深海のようで、ワカメやいろいろな海草があって、山の動物は海の魚とかクジラとか、そういうようなものに感じるような感覚ですね。そしてとてもなんとも言えない静けさ、深海の静けさは―勿論深海に潜ったことは無いので、体験したことはありませんが―深い静けさというものを感じました。そうしたシーンとした、あるいは凛とした気配というものを、その時に感じ取り、そして山の中に海を見、大海原、太平洋というものを感じ、何か黒潮がうねっているような、そんな感覚を感じて、私にとってはそれはコペルニクス的な展開。百八十度、自分の京都観というものが変わった体験でした。このようにして、私は東山というこの連山に魅了されてその辺りを山歩きするようになりました。そしてとりわけ足しげく通ったところの一つは、瓜生山(うりゆうやま)という山―三○一メートル、そしてその瓜生山の近くには、白幽子(はくゆうし)(江戸時代前期から中期にかけての隠士・書家。京都 北白川の山中の岩窟に住んだ。 禅僧白隠慧鶴に「内観の法」を伝えた人物として名が知られている)という仙人のような、石川丈山の弟子ともされる人が住んでいて、そこに庵を結んでいた。そのすぐ下には大山祇(おおやまづみ)神社というのがあって、その土地の主である「地龍さん」というのが、第一の主である龍が棲んでいた。そういう小さな神さびたお社がありました。そこを守っているおばあさんと出会って、おばあさんとお話をしたりして、そのおばあさんが持ってる不思議な霊的感覚というのか、なんとも奥ゆかしいそういう感覚なんかにも心打たれるものがありました。そしていわば奥の院というところの比叡山とかもよく歩いて登り下りするようになり、また比叡山を越えて坂本の日吉大社の方まで足を伸ばして、一峰越えて琵琶湖の方に出るというようなことや、また山を北の方に比良山の方に近づいて、山越えして大原の里に出るとかというようなことも繰り返し繰り返し山歩きして、そういう自分の山歩きを「東山修験道」と名付けるようになりました。そして私は自分自身で名づけた「東山修験道」というものの一つの姿は、「この身一つで何ができるのか」ということの探求でありました。私たちは様々な道具やいろいろな知識を身につけて生きています。そういう道具や知識というものを一回取りはずしたら、そこに何があるのか。そういう問いかけが私の中ではズーッとくすぶっていたわけですね。それを東山で自分なりに実践してみるということができるようになったわけです。それは「この身一つで」というのは、本当は真っ裸になって東山に入って行って歩けば、これは本当にこれは文字通り「身一つだ」と言えるんですけど、とてもそれはできません。まず足の裏が痛くて痛くてたまらない。まず山道を十メートルも歩けないでしょう。そういう自分の足の裏の感覚、つまり靴がなければ山に入っていけない。そして山には様々な木々とか草とかがありますから、例えば靴だけではなくて、靴下、ズボン、それから長袖のシャツとか、あるいは寒さ―八百数十メートルの比叡山がありますから、その寒さのためにも防寒用のジャンパーであるとか、そういうものを装着しなければ、とてもじゃないけど比叡山の上までは歩けません。「身一つ修験道」なんていうふうなことを主張しても、この身一つでは何一つできない。何か道具をつけなければその中に入っていけない。そういうことを身にしみて思い知らされます。しかし私にとって大事なことは、そのほんとに身一つで何も出来ないということを自覚するということが、自分自身の等身大の体と心を知るために大事なことでした。等身大の心と体、これは一体何か。それを徹底して見つめるという作業が、私にとっての東山修験道であります。それで私は「身の丈(たけ)修験道」とか、「身一つ修験道」とか、そう言って自分自身がその東山歩くことを、そのような言い方で説明することがありました。その中でも自分自身の感覚だけを頼りに歩いて行くので、地図は持たない。もちろんコンパスは持たない。懐中電灯は持たない。できるだけ手ぶらで歩く。できるだけ軽装で歩く。最少必要限の物しか身に付けない。懐中電灯を持たないで、夜歩くとどうなるか。夜の闇の中を何度も何度も歩くことになります。そうすると、ほんとに一歩足を踏み出すのもできないぐらいに、足元がおぼつかないわけですね。特に下りが大変です。登りはですね足先で探りながら行くと割と登りやすいんです。星明かり、星の光とか見たりもします。しかし下りというのは、ほんとにどこでどういうふうな段差があるか分からないし、どういう石があるかも知らない。ほんとに危険で、捻挫するとか、バランスを崩すとかしょっちゅう起こります。そういうことを通して、自分の体というものが、どういうそういうときに反応するのか、対応するのか。そしてそういうところを歩いているときの自分の心の状態は一体どういうものであるかということを、つぶさにこう自覚するというか、見つめさせられるわけですね。天台の修行で「天台摩訶止観(てんだいまかしかん)」というのがあります。「摩訶止観」の「摩訶」というのは「大いなる」。「止観」というのは、「あるイメージで集中して、念仏のように集中していく行為。それから心の中を内観する。観察する行為」これが止観という行だと思うんです。私は、天台の修行ではなくて、自分なりの止観というのを、心を見つめる。内観の行のようなことをしていたんだというふうに思い至りました。この闇の中で、どのように自分自身の心の中に不安感とか、恐怖感のような感覚が起こってくるか。例えば木々がざわざわと揺れると、猿がダァッと動いているように感じる。あるいは鹿がドーンと谷間を下りていく。またさまざまな動物、例えば「ブヒーッ!」と言って、猪がガーンとかけたりする。そういうふうな場面に、音だけで遭遇するわけですね。最初は飛び上がるぐらいに反応しました。グーッと飛び上がるような状態でした。しかしだんだんと一年も経ってくると、そういう物音の気配というのは、なんとも言えない友達がそこに生きている、存在しているのだ、というような隣人感覚というのか、ともにそこに住んでいる共住感覚というのか.そんなふうな仲間意識が―兄弟と言ったら言い過ぎですけど―そういうものに近い非常な親しみ、親和感を持つようになりました。ですからビックリすることはあっても、あぁ、そこに生きているなというふうなことをなんとなく親しみを持って感じて、すごい安心、深い安らぎを覚えるようになりました。満月の夜よりも、新月の夜の方が深い安心感、安らぎがあるんですね。満月だと見えます。様々なものがとても美しく見えます。道も大体満月の光の中で、下りは大変ですけど、登りなんかは綺麗に先が見えたりします。特に秋なんかは赤い葉が落ちていたりして、葉っぱが本当に美しく光っています。そういう中を歩いていると、山道ではないところが道に見えてきて、道に迷うんです。満月の日に道に迷って、新月の日に道に迷わないというようなことがよくありました。なぜならば、目で見えて、そこが光り輝いていて、その隙間のように見えていると、それが道だと思い込んでしまって、そこに行くと行き止まりになる。でも見た限りでは、本当の道よりも、その山のところが道にしか見えない。これは一つの錯覚なんですけれども、そういうようなことが実際に起こるんですね。ところが真っ暗闇だと、本当に手探り状態で歩いているので、そういうような迷い方はしない。ですから見えるということが、決してこう真実、常に真実にいきあたるわけではなくて、見えないことによって、もっと深いこう何か真相というものに触れるというようなことがあるのだということを感じたりもしました。つまり意識を自意識(表層意識)と無意識(深層意識)というふうに分けたりしますが、光の世界というのは、自意識や表層意識の世界だとしたら、無意識、深層意識の世界が、闇の世界。新月の夜歩くなんていうのは、まさに自分自身の心の無意識の世界にどんどん入り込んでいくような時間だったと思います。そういう時間の方が自分にとって本当に深い安らぎを感じることができます。例えば昔であったら提灯のようなもの、ロウソクのようなものを灯して、山道を歩く。これはあったでしょう。でも本当に危険な状態の何もかざさないで歩いた時にもつ不思議な感覚。これは生き物にとっての一番何か野生の感覚に近づいた状態だと思うんですが、そういうものが自分にとって一番安らぎと親しみを覚える感覚であったという発見は、僕にとってすごい自分にとっての大切な発見になりました。私はよく大峰山(おおみねさん)とか弥山(みせん)とかに登りますが、その時「六根清浄(ろつこんしようじよう) 懺悔懺悔(さんげさんげ)」といいます。その「六根清浄」というのは、五感を清めていく。六官を清めていくということです。「懺悔」というのは、自分の心の中にある様々な毒素というのか、汚れ、またさまざまな迷い、そういうふうなものを清浄なものにしていく。そういう山を歩きながら、暗闇の中で自分の六根というものが、どういうふうに移り変わっていくのか。それを見つめることになります。そしてそういう中で笛を吹いたり、法螺貝(ほらがい)を吹いたり、石笛(いわぶえ)を吹いたりすることがしばしばありました。横笛をちょっとここでも吹いてみることにしたいと思います。(横笛を吹く)
東山修験道というものを実践する中で、私が感じ取った京都の魅力というのか、京都の底力というものは、一つは、その生態系というのか、自然、地形でした。まず水が豊富である。森が豊富である。そういう自然が持っている物質的基盤というのが、実に多様で豊穣である。そしてそこには寺社(じしや)、つまり神社仏閣のような祈りの空間、祭りの空間というのが適度に配置されていて、人々の心の癒し、救い、そういうものをもたらす機能を持っている。そして同時にその様々な物質資源というものを有効に使って、そういう様々な技術というものを作り、伝承して磨いていった。そういう京都の文化が、ものづくり文化がある。そしてそこで特に東山連峰というのは、寺社の多いところで、神社仏閣の多いところで、朝日が差し上ってくる。また夕日が差し上ってくる東山の土地というのは、京都に住む人々にとって心の拠り所、癒しの地であったんだと思うようになりました。そういう東山の土地の力というものを、私は生態地、ひとつの生態系の持っている叡智(えいち)、その中で人々をいろいろと磨き悟らせ、そこから新しい意識の世界、新しいものづくりの世界というものを生み出していったんだというふうに思っています。
 
     これは、平成二十一年二月十五日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである