法華経の行
 
                 村松海長寺貫首 菅 野(かんの)  日 彰(につしよう)
昭和12年(1937)、北海道礼文島生まれ。12歳で小樽市の日蓮宗妙龍寺にて出家得度。立正大学卒業。日蓮宗専任布教師として日本各地への伝道に従事した後、昭和42年(1967)大荒行成満。昭和44年(1969)、大本山池上本門寺布教部奉職。 昭和48年(1973)、日蓮宗宗立谷中学寮寮監に就任、同時に設立寺院である浄延院の院代を経て住職に就任。以後、約30年にわたって若き日蓮宗僧侶の育成の任に当たる。 平成14年(2002)より総本山身延山久遠寺布教部長を務めた後、平成17年(2005)、静岡市・日蓮宗本山村松海長寺の貫首に就任。恩師・湯川日淳上人より授かった「唱題行」の教えの普及を、生涯のテーマとしている。 平成22年(2010)4月から唱題行の全国組織「求道同願会」の会長に就任した。
                 き き て    金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、静岡市の村松海長寺(むらまつかいちようじ)貫主の菅野日彰さんに、「法華経の行」というテーマでお話いただきます。聞き手は金光寿郎さんです。
 

 
金光:  今日は、「法華経の行」というテーマでお話をお伺いしたいと思うんでございますが、あれだけの長い長部の経典で非常に深遠なことが書いてあるということでございますが、菅野さんが『法華経』を拝読されて、その中の行ということだと、まずどういう点からお挙げになりますか?
 
菅野:  「身口意(しんくい)」と言いますから、「身(からだ)」と「口(くち)」と「意(こころ)」と、それで実行できるものということになると思うんですけれども、それをじゃ自分は体でどう実践するのか。口で実践するのか。意(こころ)でどう思うものか、ということが、いつもこれでいいのかという。また失敗しちゃったなという、その繰り返しがなんか小僧から入ってから今日までの自らに問いということになれば、やっぱりそうなると思います。
 
金光:  その「身(からだ)の行」というと、『法華経』に、例えばどんなことが書いてあるんですか?
 
菅野:  二十八章ありますけれども、ちょうど真ん中の十四章目に「安楽行品(あんらくぎようほん)」というのがございます。これは十三章目の「勧持品(かんじほん)」というのが「不惜身命(ふしやくしんみよう)」と言って、命を惜しまないで求道(ぐどう)していくという。
 
金光:  有名な言葉ですね。
 
菅野:  そうです。そういう非常に厳しいそのことが十三章で説かれますが、そういうことに対して、後で文殊師利(もんじゆしり)菩薩が、お釈迦様に「そこはいい」と。「初心者が実行していくのはどういうふうにしたらいいのか」ということを質問された時に、「四安楽行(しあんらくぎよう)」というので、「身安楽行(しんあんらくぎよう)」「口安楽行(くあんらくぎよう)」「意安楽行(いあんらくぎよう)」「誓願安楽行(せいがんあんらくぎよう)」の四つのことが説かれるわけです。心安らかに実践できる行と。実際行うとなると心安らかじゃありませんけれども、でもそれを四つに分けられたというのは、非常に易しいと言いますか、受け止めやすいということだと思うんですね。それの一番最初に出てくるのが、「身安楽行」です。身体ですね。身の行は二つあり、一つは「行処(ぎようしよ)」といって、諸法実相の悟りのままの生活、あるいは悟りに至るべく生活を行うこと、忍耐強く柔和で粗暴にわたらないという内面的な規定がある。まず「諸法実相(しよほうじつそう)をちゃんと実践していくということが基本にあるんだよ」ということを一つを抑えて、二つ目は「親近処(しんごんじよ)」といって、修行の妨げになるものに接近しないこと、権力者、悪思想家、無慈悲な人、小乗にかたよっている人、悪意の異性に近づいて修行を曲げてはならない。つまり親近、対人関係の(とくに世間の人びととつきあううえに必要な)基本的な心得について説かれているんですね。いくつも説かれますが、それを私は大体四つか五つに分けているんですけれども、今の言葉でいますと、
一番目が、「権力者に近づくときには気を付けろ」ということです。
お経文では、国王とか大人とかお金持ちとなっていますが、それを今流にいうと力を持っている人に会うときには、その自分をいいほうに推薦してくれとか、どうとかというそういう邪心を持ってはならないということが説かれてきます。
二番目が、「思想の異なる人に近づくときには気を付けろ」ということです。
これは今はイスラムから何からいろいろありますから、そういう方々とのお付き合いの中で、自分の人生に合わせて、何が一番のブッダが自分を教えてくれるのかという。お経文では「?望(けもう)」という言葉を使っていますけども。自分の都合のいいように望むと。その望みをかけてそういう人に会うという。そうすると、自分の本来の、本当の意味で自分を救ってくれる、そのことがなくなってしまう。だから気をつけなさいと。
三番目が、これが一番多いですが、増上慢(ぞうじようまん)の人と会う時も気をつけなさい。
 
金光:  鼻高々みたいな人ですね。
 
菅野:  そうです。自信満々の人に会う時には、ちょっとその方が本当にわかっているかどうかということになりますよね。
四番目が、「無慈悲の人には気をつけなさい」と。自分だけの都合だけを考えている人に会うときには、これは気をつけなさいという。まぁ自己主張だけと申しましょうか、それだけ言っている人には気をつけなさいと。宮沢賢治が「世界全体が」と言いましたが、やっぱり『法華経』はそういう教えですから、また人の幸せを祈れるような人でないといけないと。そういう人との接し方をまた説いているんです。
五番目が、「異性との付き合い」。これが非常に難しい。この頃は不倫ということがあったり、何か軽く考えられていますけども、やはりそこは違うんじゃないか。
そしてこの五つを思うときには、身口意の身のときには、自分の行いの時に、常に仏を念ずる。どこへ行こうと思ったってときには、南無というその手を合わせる。それがないと我々はいってしまいますよ、ということが。
 
金光:  「仏様の手のひら」というと、言葉は悪いかもしれませんけれども、手の中で生かされている。
 
菅野:  そうです。
 
金光:  忘れないようにという。
 
菅野:  そうなんですね。どんなに自分でいても、所詮仏の手の内だ。それを忘れるとこぼれちゃうよと。
 
金光:  「これくらいならいいよ」なんていうと、おかしなことになるわけで。
 
菅野:  もうまた忘れたということがですね。
 
金光:  でもそういう話をうかがいますと、日常生活と直結していると。
 
菅野:  直結以外の、電車に乗って席を譲るか、エスカレータでどうするかという。左側によるとか何かという、そういう一つ一つの心がけがまさに身の安楽ということなんですね。
 
金光:  「身口意」のうちの「身安楽行」を伺ったんです、身口意の「口安楽行」というのは?
 
菅野:  この口の安楽がまた大変でして、私は、二十八年間立正大学の学寮の寮監を務めましたが、学生たちが私につけてくれた名前が、私の名前が「菅野」というものですから、「なんのかんのとうるさい」と。実に良い言葉を言ってくれる。もう口のことについては、人様のことを言えないんですけれども、でもその口安楽と。口安楽行と言いますが、口の行いに注意しろという注意事項では、まず一番最初に出てくるのが、他人の過ちを深追いしてはならない。これはもう私たちは自分の過ちは気がつきませんけれども、他人のことはもう最大漏らさずありますので、それが一つ。それから少なくとも、幼くとも修行者―道を求めている人に対しては、それを自分も共に歩んでいるものだという態度を忘れてはならないということが二番目ですね。 三番目が、面と向かっても、あるいは特に影に回って名指しで人の悪口を言ってはならない。これは影に回って言っていても、菅野の悪口をいうと、ぐるぐると回って、ちゃんと耳に入るものですし、影にそういう言葉をいうということは、聞いている方は、この人はもう私以外のとこになったら、私の悪口を言っているんではないか。ですから人の信用を失うことにもなるので、名指しの悪口ということを非常に抑えておられます。それから四番目が、人を毛嫌いしてはならない。「怨嫌(おんけん)」といいますけども、虫が好かないとか、気が合わないとかということよくありますけれども、毛嫌いするということは、これは自分の感情でございますから、自分の感情で人を見てはならない。但行礼拝(たんぎようらいはい)が二十章「常不軽菩薩品(じようふきようぼだつぼん)」で説かれますけれども。
 
金光:  ただ礼拝するようですね。
 
菅野:  そうです。相手の仏性を拝めと。それを根底に置くと、毛嫌いをするということにはならない。みな仏性持っているという、そこを心掛けなければならない。五番目がどんな場合でも、大乗仏教の心で、大乗の心で言葉を言わなければならない。人と接しなさい。この場合でも、自分の言葉が何か出ようかなと思ったそういうときには、常に仏を念ずる。仏の手の内で自分は話をさせていただいている。私の今話をしていることは、仏さまがちゃんと聞いてくださっているという、そのことを忘れてはならない。私はあの松原泰道(まつばらたいどう)(臨済宗の僧侶。東京都港区の龍源寺の住職を務める:1907-2009)先生が、『発句経(ほつくきよう)』を解説された時に、
 
人の過ちを見るなかれ
他のなさざるを責むるなかれ
おのが何をいかになせしかを
自らに問うべし
 
これが私は、言葉をいう時に、やっぱり「おのがいかに何をしたかを、自らに問うことによって、一番最初に言った「人の過ちを責めるなかれ」というそのことと、人の過ちを我々は見たいわけですから、それの口の安楽の第一番目にあることじゃないかなというふうに私は受け止めています。
 
金光:  そうですね。もう一つ、身口意の三番目としては、「意安楽行」というのがありますね。これは?
 
菅野:  これが実は心ですから、思うことですので、人に出ませんので、
 
金光:  いっぱい頭の中はいろんなものが入っていますからね。
 
菅野:  これがお経文はですね、実によく説いてまして、これは「嫉(ねた)む」と。自分の心の中に嫉みを持ってはならない。その次が「怒る心」自分の思い通りにならないからと怒る。「驕る」驕り高ぶる。それから次は「諂(へつら)う」。「欺(あざむ)く」。「邪(よこしま)」。それから「嘘偽(うそいつわ)り」ですね。それから「相手を軽んじる」。「罵(ののし)る」ということと、最後に結んであるのが、「戯論(けろん)」仮説であります。心の中で、我々は、自分でこうすると、あの人はこうじゃないかなああじゃないかなという勝手に自分で想像して心の中に抱くと、今度はその人に会った時に、それが前提になってしまいます。そこを戒めておられて。確かに心は、他人には見えないけれども、しかし行動や言語にいつか必ずそういうものが現れるものである。最後のその「仮説」ということが、「戯論」が、どうも我々の悟りを邪魔をしている一番のもとになるんではないか。そういう言葉が心の中に出てきたときには、やはりこれも常に仏を念じて、自分はこれでいいのかということの反省をしなさい、ということが、この「意安楽」の―人には見えませんので、自分自身で「嫉みがないか、怒りがないか、欺(あざむ)くということがないか。そういうことはどうなのか」ということを、常にやはり自らに問いかけるということが大切であると。これが身口意の三つ目の「意(こころ)の安楽」の反省といいますか、実行といいますか、そういうことにこのお経品ではあげているのであります。
 
金光:  身口意の後に、「誓願(せいがん)安楽行」とありますね。
 
菅野:  その誓願があるのが、これが『法華経』の『法華経』たるところでございまして、三つの身口意であっても、自分の心の中に、私はこういうふうに仏道を求めていきたい。こういうふうに日常生活で生かしていきたいという誓いがなければ、人というのはなかなか実行しにくい。四番目に挙げておられるのが「誓願安楽行」という、その誓い願うと。じゃ何を誓うのかというところで、出てくるのが、一番最初が、「大慈(だいじ)」大きな慈悲です。続いて「大悲(だいひ)」なんであります。大きな悲しみなんです。「慈悲(じひ)」を二つに分けたんですね。その「悲」は慈(いつく)しむということ。悲しむというのは、相手の目線のところ、相手の痛み―同苦(どうく)ということですから、自分の痛みはわかりますけれども、相手の痛みはわかりません。それを相手の痛みがわかって、もうこれは子供が「お腹痛い」というと、あるいは「熱が出た」というと、お母さんは外から見ないで、最後は自分の肌をつけて、熱があるかなという、自分で手を当ててみて自分で診る。これがやはり「大悲」ございますね。今、私どものところでみんなこれが一番忘れられているんじゃないかと思うんですが、「慈しむ」ということは、それぞれ実行されていますけれども、「悲しみ」という言葉を使っていますが、「同苦」という相手の痛みのところに落ちていくという、その仕方がなかなかできない。ところが我々の周りには、「不聞(ふもん)」教えを聞かない、耳を傾けない。「不知(ふち)」教えを知ろうとしない。「不覚(ふかく)」自らを悟ろうともしない。「不聞(ふもん)」と言って、そういうことを聞こうともしない。「不信(ふしん)」信じようともしない。「不解(ふげ)」理解しようとしない。そういう周りの中で「慈しみ」と、労る「同苦」という言葉を説いていくというのは、これは大変なことだ。その中で自分が実行していくということは、これは大変なことだ。しかしながら、『法華経』では「誓願」ということを立てて、そして「仏の手の世を念じなさい」というと同時に、誓願のところでもう一つおっしゃられているのが、「仏は常に我々をそれを見守ってくださる」。「菅野、お前は、大悲はまだないけども、もうちょっと頑張れ」という、その見守りをいつもしてくださっている。だから誰が何も言わなくても、私は仏様の手の中にいる。そして仏様はいつも危なくなれば、それはもうやっちゃいかんという、そういうことをして頂けるという。その手の中にあるというのは、いつも守ってくださっている。見守られている。赤ん坊がよちよち歩きでもっていて、我々から見ると確かに危なっかしいけれども、本人はそれなりにちゃんと二本の足で歩きはじめたんだ。でも今度親の方は、「机があるぞ。テーブルがあるぞ」という。その手のところは、いつも仏様はそうやって、「お前、危ないよ」という。それは声をかけてくださいということが、私はこの「誓願安楽行」のところで結びとして常に守っておられるという言葉があるんであります。
 
金光:  三番目の「意安楽行」のところで、自分で戯論といいますか、自分勝手に仮説を立てて、ということは、仮説を立てるということは、その枠を超えた世界は切り捨てることにもなりますね。
 
菅野:  おっしゃる通りです。
 
金光:  それを外したところに、また仏さまの世界があると。
 
菅野:  我々は貧瞋癡(とんじんち)で、貪りと怒りと愚かが、それでもっていて戯論を作ってしまって、自分の都合の良いこと、自分の枠の中で相手を見、社会を見、それから見ようとしますから、それをやはり取らないと、本当の意味の仏を念ずるということと、お守りいただいているということにはならないということです。
 
金光:  その場合も、だから聞くということとか、知るということとか、そういう自分の枠を外さないと、解けない知ることができない。で何だかの時に、枠が取れた世界に気がつくと、仏様を信ずる世界ということですね。
 
菅野:  今、こういう時にいいのかどうかわかりませんが、この頃振込み詐欺があって、銀行員が、「これ、あなた、危ないですよ」と。これ実際にあった話らしいですが、散々二時間も粘ったけれども、「私は大丈夫だ」って振り込んだ。で振り込んだ後で分かったという。どうもそういう人の忠告とか、いろんなそれを聞く柔らかな耳―「柔軟(にゆうなん)」といいますけども、『法華経』では。そういう柔らかい耳を、どうも年寄りが狙われるということは、年をとると、そういう柔らかい耳が少し固くなっちゃっているんじゃないのかなという。
 
金光:  逆の面でいうと、息子なり、身内を信じているわけで、自分の信じているのには、間違いがないと信じていると。そこがつまずきのもとで。
 
菅野:  大事なことなんですけどね。
 
金光:  そこのところやっぱり『法華経』なら『法華経』の教えを聞く時も、勝手におかしいとか、考えたらおかしくなるんですね。
 
菅野:  戯論は、ですからそんなこと言ったってとか、自分のことの前提が先に立って、『法華経』を読むと、それは自分の糧になりません。説かれている通りに、それを素直に受け止めるという、そこのところが大切ですね。それで誓願のところ、この『法華経』の第十四章のところですね、「髻中(けいちゆう)の明珠(みようじゆ)の譬え」という、あれは転輪聖王の珠というのは、もう大変な三千大千世界の珠で、どんな功績のあった人にもやらないと。しかしながら、本当に国を救うことをやった者にだけ与える。で『法華経』という教えも、今まではズーッと本当のことは説かれてこなかったけれども、この安楽行を実際に本当に実行していったならば、お釈迦様が二千五百年前に悟られたその境地そのままそっくりが我々に与えられるんだ。これは悉有(しつう)仏性で、仏性を全部持っているということにつながっていくことなんですけれども、それを『法華経』の七つの譬えの中の一つとして、ここで説かれる。これは、一番最初の諸法実相という姿ということと、結論のこのところがつながっているということになろうかと思いますですね。
 
金光:  で今まで四つの安楽行の話を伺ったわけですけれども、菅野さんは、青年時代から行が―ちょっと上の文字が違うんですが―「唱題行(しようだいぎよう)」というお題目を唱える行を実行なさっていらっしゃるということですが、これはどういう行なんでございますか?
 
菅野:  「南無妙法蓮華経(なむみようほうれんげきよう)」というお題目を唱えるというのは、お経の時に唱えるということもありますけれど、自分を見つめて、自分を鍛えて、そして自分の仏性を高めていくという、その行という、行法(ぎようぼう)としてのお題目の称え方、これが「唱題行」ということで、もう九十三歳で亡くなられましたけれど、湯川日淳(ゆかわにちじゆん)という人が、これを初めてなされて、私がお目にかかったときには八十を超えておられましたが、ちょうど寒い冬にストーブに当たるように、直接何にも、「菅野さん、こうしなさい、ああしなさい」ということはないんです。ただお目にかかって話を聞いているだけで、「よし、明日からまたやっていこう」という。私は当時これまで小さな道場をしておりまして、家内と子どもとしておりましたから、僧侶としての将来も何も見えておりませんでしたので、そういう中で自分はこれで大丈夫なのかなという迷いがいつもありましたが、そういう時に湯川猊下に会うと、「一緒にお題目をお唱えしよう」。唱えていると心がおさまってきて、ついに〈よし〉という、この実は〈よし、やろう〉という、この道を行くという確信といいますか、危なくなったなと思うと、一ヶ月一回行って、お題目を唱えて、また自分の家に帰ってお唱えしていると、そういう誓いが出てくる。これが「唱題行の力」と申しましょうか、何か自分の心の中にあるものが、仏性が現れてくる。そういう行法なんですね。
 
金光:  お書きになったものを拝見しますと、「唱題行」の中に、まず「礼拝行(らいはいぎよう)」があって、心を清める「浄心行(じようしんぎよう)」があって、それから正しく唱える「正唱行(しようしようぎよう)」、それから深く信ずる「深信行(じんしんぎよう)」、それから「祈願回向行(きがんえこうぎよう)」というふうに、七つに分けて書いていらっしゃいますが、その中のメーンの正しく唱える「正唱行(しようしようぎよう)」という。これは時間はいろいろあるでしょうけれども、例えば具体的にどういう称え方をするのか、ちょっとやってみていただけますか。
 
菅野:  よろしいですか。一番最初はゆっくりお唱えするんですね。これは一呼吸でというくらいですから、「南無妙法蓮華経(な〜む〜みよう〜ほう〜れん〜げ〜きよう)、南無妙法蓮華経(な〜む〜みよう〜ほう〜れん〜げ〜きよう)」というふうに。ここでは一呼吸ですので、それが次第に今度は呼吸が合わさってきて、最初のゆっくりというのは、仏様と自分とがちょうど向かい合っているという、そういう気持ちを実現していく。それが実現したところで、湯川上人は、「ゆるゆる」と言っておりますが、唱え方は、「南無妙法蓮華経(なむみようほうれんげきよう)、南無妙法蓮華経(なむみようほうれんげきよう)」というテンポが非常によく、それの自分のテンポで唱えていって、最後に少し早めになって気持ちが一生懸命になってくると、「南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経」というふうに、これがあんまり力の入ったり、合掌に力が入ったりすると、手が振れたりなんかしますで、それは正しい唱え方じゃないのですけれども、それをゆっくり少し早めに言って、またもう一度最初のゆっくりのところに戻してくると。それが「正唱行(しようしようぎよう)」という形、これは非常に工夫の上に工夫を重ねた唱え方なんですね。
 
金光:  頭の中はもうお題目だけですか?
 
菅野:  もう何もありません。下手すると、時間が、ちょっと自分で導師をして、皆さんと一緒にお唱えしていても、いつの間にやら失敗したという、それを忘れることがしばしばあります。
 
金光:  大体一時間ぐらいですか?
 
菅野:  そうですね。全部入れて一時間で、お題目を唱える時間は三十分ぐらい。最初の「浄心行(じようしんぎよう)」というのは、だいたい十分ぐらいですね。それは私も永平寺でちょっと座禅の真似事をさしてもらいましたが、座禅とはまた違って、ただ呼吸で、天台大師が『摩訶止観(まかしかん)』の中で呼吸を、「娑婆の汚れた空気を出すんだと。想念(そうねん)して息を出す。それを繰り返していく。そうすると、気持ちが落ち着いてきて、で仏様と向かい合っているという気持ちになられる。そのなったところで最初のお題目を唱えていって、で速くなって、またゆっくりお唱えして、終わったところで、今度は最初とはまた違った意味で、お題目によって浄められた自分が仏様ともう一回想で向かい合っているという気持ちになられるのが、最初が「浄心行」「正唱行」、それから「深信行」と、深い法悦の境地と。それが十分ぐらいにあって、「ありがとうございました」という回向をすると。それで大体一時間の行。
 
金光:  それで私も座禅の真似事なんかしますと、坐っていると頭の中に日頃考えないようなことがどんどん出てくるわけですが、「唱題行」のときにはそういうのは?
 
菅野:  ありますけれど、これは黙って呼吸だけでしているときには、どうしても妄念と葛藤になりますが、声を出すということは、自分の声と聞こえてきますので、仏様の声と一つとなるといいますか、そういう動の中の静と言っていいと思うんですが、そういう境地が私はやはりお題目を唱える行が私には合っていると思いますのは、そこですね。雑念が起こりにくい。その中に入っていけるということがあると思いますですね。
 
金光:  そういう話を伺うと、これを頭で考えるよりも、実際自分で実践していくということでないと、その味わいは分からないということでなかろうかと思いますが。
 
菅野:  一時間でなくとも、最初の「浄心行」とか、そういうのは一分でも気持ちが落ち着いて、後はお題目を十分でも唱えていくと、それはストレスとかしているときには、非常に気持ちが落ち着いてくると思いますし、〈よし、今日は一日やるぞ〉というか、〈今日はありがとうございました〉というか、そういう気持ちが湧いてくると思うんですね。
 
金光:  やっぱりそこの世界が諸法実相の世界であると。
 
菅野:  そうです。特別に悟りの境地があるということでありませんから、我々の目の前にあることを、他人様は行を全部否定するわけにいきませんから、それをそのようにありのままに認めて、そしてその中で自分の仏の気持ちを示していくというのは、それが諸法実相の今の時代に生きる『法華経』を実践するものの大切なことだと思いますですね。
 
金光:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十一年一月二十五日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである