日蓮聖人からの手紙J日蓮聖人の仏教教義を聴聞する信徒への手紙
 
                    立正大学教授 北 川(きたがわ)  前 肇(ぜんちよう)
 
ナレーター:   シリーズ「親鸞聖人からの手紙」。日蓮聖人が遺した手紙を毎月一回、十二回にわたって読んでいきます。第十一回は、「日蓮聖人の仏教教義を聴聞する信徒への手紙」と題してお送りします。お話は、立正大学教授の北川前肇さんです。
 
北川:  私は、昨年四月から「日蓮聖人からの手紙」というテーマのもとに、日蓮聖人が与えられた信徒への手紙を通して、聖人と門下との交流の軌跡をたどってまいりました。そして、それらの交流を通して、門下たちの直面する現実の課題に対して、聖人がどのように教導され、信徒たちがいかにそれらの課題を克服すべきかという、その教えについて学んでまいりました。これらの問題は、鎌倉時代の聖人と門下に限定されるものではなく、今の私たち現代社会に生きる者にとって直面する大切な課題であると受け取れるのであります。またこの世に命を受けた私たち一人一人が、必ず克服しなければならない課題が、そこに横たわっているという認識のもとに、聖人の手紙の内容をひも解いてきた次第であります。ところで、日蓮聖人は、三十二歳の宗教活動の開始から六十一歳の今日の東京池上の地で入滅されるまで、波乱に満ちたものでありましたが、その宗教活動の初期のころから、最晩年に至るまで、信仰的に深い関わりを持った一人の信徒がありました。今日の千葉県市川市中山法華寺の礎を築いた人物で、聖人より七歳年長の富木五郎常忍(ときごろうつねのぶ)―入道(にゆうどう)していましたので、「富木常忍(とのきじようにん)」と音読いたしますが、その富木常忍(とのきじようにん)と呼ばれる男性信徒であります。富木常忍は、日蓮聖人が弘安五年(1282年)十月十三日のご入滅後に、聖人の送葬儀には、お香を所持する役目を負って列席していることが知られます。彼は日蓮聖人滅後、数えの八年後、永仁七年(1299年)三月二十日、八十四歳をもって遷化(せんげ)するのでありますが、後継者である師公日高(そつこうにちこう)上人に対し、将来にわたって守るべき「置文(おきぶみ)」、即ち今日的な表現をいたしますと、四箇条からなる遺書を三月四日付で認めていることが知られるのです。そして、その第一条に注目してみますと、日蓮聖人が、富木(とき)氏ならびに有縁の人々に与えられた著作や手紙、さらには天台教学の基本文献である『法華玄義(ほつけげんぎ)』『法華文句(ほつけもんぐ)』『摩訶止観(まかしかん)』およびその注釈書の合計天台六大部の六十巻に対する取り扱いについてであります。そこには次のように記されています。
「定め置き条条の事」
一、聖人の御書並びに六十巻以下の聖教(しようぎよう)等寺中を出(いだ)す可(べ)からざる事
 
即ちこの一条は、日蓮聖人の記された著書や手紙を「御書」と称していますが、その聖人の著作類並びに天台大師、妙楽(みようらく)大師の法華三大部の六十巻、さらに仏教関係の書籍を、常忍が住している法華寺から持ち出してはならない、というものであります。つまり日蓮聖人の御遺文、あるいは天台教学の大切な典籍、さらには仏教の典籍等を寺から持ち出して、他のところで研鑽を積んだり、また他者へそれらの書籍を貸し与えてはならないという厳しい定めであることが知られます。このような厳しい掟が定められたことにより、日蓮聖人の御遺文が護持され、およそ七百五十年後の歳月を経て、今日私どもが聖人の真筆を拝見できることの幸せを強く感じるのであります。ところで、「置文」の第一条に大切な仏教典籍を寺から持ち出してはならないという戒めは、あまりにも偏った考え方ではないかと思われる方々もあろうかと思われます。なぜなら、仏教を研鑽し、その真意を究め、また日蓮聖人の教えに直参するためには、仏教典籍や聖人の御遺文が不可欠ではないかという考え方が、今日認識されるからであります。しかし、これらの考え方を富木氏はすでに予想されていたものと思われます。即ちこの条目には、次のような文が添えられています。現代語訳でご紹介いたしましょう。
 
このように仏教典籍である聖教を大切にして、他処へ持ち出さないようにすることは、仏法を他者へ伝えることを惜しんで、教えることを躊躇する罪、即ち法慳(ほうけん)という宗教的な罪業のように受け止められるのではないか。それよりももっと恐ろしいことは、もしもこれらの尊い聖教を貸し出したことで紛失したならば、仏法の教えが未来に伝わらなくなるのですから、法慳(ほうけん)よりも罪が重いと考えます。そこで如何なる大事があったとしても、法華寺内より外に持ち出すことは固くこれを禁止します
 
というのです。このように仏教典籍に対する取り扱いを厳しく制限していることは、富木氏自身が仏教典籍を拝見して、仏教研鑽を積んだ人物であるという面と、もしも文書や典籍が貸し出された場合、すなわち他者のもとへ移ったとき、それらが元の持ち主へ戻されることが、いかに困難なことであるかという事情を十分に熟知していた人物であったという面がうかがえるのであります。しかし、この厳しい条目にも、次のような但し書きが見られるのです。「すなわち、このうえなく仏教研鑽上大切な時においては、この修行道場、すなわち法華寺において開き見る事は制限の外にある」ということであります。そしてこれらの聖教の目録が、別紙に認められています。今日、富木氏法号であります「常修院日常(じようしゆういんにちじよう)」の名に基づいた『常修院本尊聖教事(じようしゆういんほんぞんしようぎようじ)』という目録が伝えられています。以上のように、日蓮聖人と信徒の富木常忍との交流を、まず常忍の「置文」に注目いたしますと、富木常忍は、聖人在世中、いかに聖人の著作や手紙の重要性を認識し、それゆえに「置文」の第一条に、寺中より持ち出すことを禁止したものと推察できます。そしてこのような「置文」に記されている聖教護持の定めによって聖人滅後から今日まで聖人の多くの御書や大切な寺宝が、自然災害などがある中においても、七百五十年という長い歴史的時間を経て今日まで伝承されてきたことを強く感ずるのであります。では改めて日蓮聖人の信徒である富木常忍との交流の一端をたどってみたいと思うのです。そもそも富木五郎常忍(ときごろうつねのぶ)は、下総国八幡庄(しもうさのくにやはたのしよう)(今日の千葉県市川市)に在住していた信徒であります。彼は下総国の守護職で鎌倉幕府の有力な御家人であります千葉氏に仕えていました。聖人が活躍された時代の千葉氏は、千葉頼胤(ちばよりたね)の時代でありますから、富木氏もまたこの守護職の千葉頼胤(ちばよりたね)、次いでその子息に仕えていたことが伺えます。ところで富木氏は、因幡国富城庄(いなばのくにときのしよう)(今日の鳥取県鳥取市)の出身で、父の富城中太入道蓮忍(ときちゆうたにゆうどうれんにん)の頃、下総国へ移ったと伝えられています。鳥取市の常忍寺(じようにんじ)は富木氏ゆかりの寺であります。常忍は、聖人が建長五年、宗教活動の当初の頃より信徒となり、聖人在世中はもちろんのこと、聖人が臨終を迎えられた時、その送葬儀に連なり、また彼は、自らの死に臨んで聖教護持の「置文」を残しているのであります。そして聖人入滅後、彼は自宅を法華寺と称して仏道修行の道場とし、自ら出家して、「常修院日常(じようしゆういんにちじよう)」と称しました。その後、聖人の信徒で富木氏と地縁の人であります大田乘明(おおたじようみよう)の子息、 即ち帥公日高(そつこうにちこう)上人にその後を委ねることになります。日高は父の館等を本妙寺(ほんみようじ)とし、法華寺と本妙寺の両寺を兼務しています。今日の中山法華経寺(なかやまほけきようじ)として一寺となりますのは、、室町時代の戦国期のことであります。ところで、昭和定本『日蓮聖人遺文』の第一巻、第二巻には、遺文番号が一番から四三四番までの四三四篇が収録されています。それらの中で、富木氏へ与えられている真通の現存、かつて存したもの、お手紙や著作を合わせますと、肉倉本勇氏の研究によれば、三十八篇という数が確認されています。では富木氏宛の最初の手紙である建長五年(1253年)十二月九日付の富木殿宛の手紙を拝見してみたいと思います。なおこの手紙は建長六年とみなす説や、聖人の代筆とみられる立場もありますけれども、ここでは昭和定本の説をもととして解説させていただきます。現代語訳でご紹介いたします。
 
貴殿から、お迎えの人を遣わしていただき嬉しく存じます。昼間は他者の目がわずらわしいので、夜分にお伺いしたいと存じます。夕方の、とりの刻(午後六時ごろ)にお迎えの人をよこしてくだされば幸いと存じます。また、当方へもお出かけください。法門についての談義をいたしましょう。
十二月九日                日蓮
とき殿
 
この文から伺えます事は、聖人は、立教開宗後、故郷の清澄寺を下山して鎌倉へと向かわれたと思われます。おそらく、その鎌倉において、富木常忍と出会い、さらに、富木氏の本宅があります下総の地での交流がなされたのではないか、ということであります。この頃、富木氏はすでに入道して、富木五郎常忍(つねのぶ)から「常忍(じようにん)」と名乗っていたようです。その信仰は、父の蓮忍(れんにん)と同様に、念仏信仰であったとの指摘がなされています。すでに、第二回、「病気に苦しむ男性信徒への手紙」において、大田乘明(おおたじようみよう)、曽谷教信(そやきようしん)の二人の信徒をご紹介いたしました時に、指摘いたしましたように、富木氏、大田氏、曽谷氏とは地縁的なつながりと同時に、仏教教義に対する深い理解力のある人物であったということであります。そのことを物語っていますのは、日蓮聖人が佐渡流罪最中の五十二歳、 四月二十五日、最も大切な書物である『如来滅後五五百歳始観心本尊抄(によらいめつごごごひやくさいしかんじんほんぞんしよう)』―略称して『観心本尊抄』と称します。この『観心本尊抄』を執筆されていますが、この書物を届けられたのは、富木常忍の下であります。そして本書に添えられました真筆二紙からなる手紙を『観心本尊抄副状(かんじんほんぞんしようそえじよう)』と称していますけれども、その手紙には大田殿と曽谷教信殿との二人の名が記され、これらの人々に奉呈いたしますと、聖人は明記されているのであります。このように漢文体の十七紙(表裏両面記載三十四丁)からなる『観心本尊抄』が富木氏に宛てられていることから推察いたしましても、いかに仏教の理解が深いものであったかが知られるのであります。つまりこのことからも、聖人三十二歳の時より、『観心本尊抄』の執筆までの二十年余富木氏に対する変わることのない教導がなされていたことを知るのであります。ともかく、聖人が立教開宗後、早い時期に交流が始まり、しかも「法門の談義をいたしましょう」との記載がありますことは、聖人ご自身の体得された仏教教理を十二分に披瀝できる人物であったことが知られるのであります。ところで、聖人が弟子や信徒たちとともに行う宗教的な集まりとしては、法華経の講義解釈がなされ、その形式からいえば、「法華八講(ほつけはつこう)」等が想起されましょう。またこれらの形式にとらわれない法門上の談義が行われたことも確かなことと思われます。そこでこのような講会(こうえ)に注目してみますと、おそらく聖人が、文永二、三年の頃に始められた「天台大師講」に注目しなければならないと思われます。この講会は、聖人が佐渡流罪中でありましても、鎌倉にあって、出家の弟子や信徒たちの教導に当たっている弟子の弁阿闍梨日照(べんあじやりにつしよう)上人に対して、「弁殿に申す。大師講ををこなうべし。大師(取)てまいらせ候」とありますように、聖人が弟子日照に対して、天台大師の講会を実施しなさい。天台大師の御影(みえい)が四条金吾のもとにありますから取り寄せなさい」と指示されていることから、佐渡流罪以前から連綿として「天台大師講」が開催されていたことが知られるのであります。そこで改めて大師講に注目してみますと、佐渡流罪以前の文永六年(1269年)年六月七日付けの『富木殿御消息』によれば、次のように記されています。現代語訳でご紹介いたしましょう。
 
天台大師の講会を開催する件。今月は、明性房(みようしようぼう)が当番なのですが、あいにく今月はさわりがあるとのことです。どなたか代わりに担当してくださる方があれば、申し出ていただきたいと言ってきました。あなたはいかがでしょうか。ご都合をお知らせください。もしも、差し支えあれば、他の人の処へ、依頼したいと存じます。恐々謹言。
六月七日   日蓮 花押
土木殿
 
このような富木氏に対する手紙の内容から、おそらく天台大師の祥月命日(しようつきめいにち)が十一月二十四日でありますから、月命日の二十四日頃に毎月開催されたと思われます。その講会は当然のことではありますが、天台大師智(ちぎ)への報恩を兼ねて、その教えを理解することを目的としたものと拝察されます。比叡山におきましては既に開祖伝教大師が「霜月会(しもつきえ)」(11月24日の天台大師智の忌日によせて、延暦寺で11月14日から10日間行われる法華十講)として勤修(ごんしゆ)されたものであります。ところでこの富木氏へあてられた手紙から理解できますことは、出家の弟子や信徒たちが、それぞれ輪番によって「天台大師講会」の会処(えしよ)を引き受けていたことであります。文永六年六月は、明性房の当番でしたけれども、都合が悪くなったためにどなたか引き受けてもらいたい。富木殿いかがでしょうか、と問われているのは、あのような事情を物語っています。在家出家を問わず、この講会の当番になってますから、聖人の教えを聴聞する人たちは、必ず一つの会処に集まる機会があったことが知られるのであります。そのことからも、聖人と弟子や信徒とのつながりは、聖人と弟子、聖人と信徒という一本のラインだけではなく、聖人の門下たちが相互的に連関性をもっていたと考えることが妥当でありましょう。つまりそこには日蓮聖人という宗教的指導者の下に、仏教教団が形成されていたということであります。そのことからも、聖人の伊豆流罪や佐渡流罪というのは、聖人個人の弾圧にとどまるのではなく、聖人の門下に対する弾圧でもあったと言えるのです。さて文永六年六月七日付の手紙に続いて、「天台大師講」に触れられている手紙は、昭和定本では、年号はございませんけれども、十一月二十八日とある手紙であります。昭和定本では、文永七年(1270年)十一月二十八日とみなしています。おそらく四日前の十一月二十四日に、大師講が開催されたことの報告の手紙であると推察されます。十一月二十八日の日付、「宛名」の箇所は、「御返事」とのみありまして、具体的な宛名は記載がないことから、昭和定本では『金吾殿御返事』と名づけ、大田金吾にあてられた書状とみなしています。しかし肉倉本勇氏の指摘では、先行研究を確認しつつ、二つの点を主張されています。まず、その書面が記載された年時は「十一月二十八日」とのみあって、年号の記載はありませんけれども、文面に「去年(こぞ)、方々に申して候ひしかども」とある記載を、「去年(こぞ)」を「文永五年」の出来事とみなすことができることから、この手紙は文永六年十一月二十八日のものであろうということであります。第二点目は、「宛所」についてであります。この手紙を書写されています寂仙房日澄(じやくせんぼうにつちよう)上人の古写本には、「富木日常賜所(ときにちじようたもうところ)」とありますことから、本書は、大田金吾ではなく、富木常忍宛とみなすことが妥当であろうという指摘であります。今これらの指摘によって考えてみますと、手紙の冒頭には次のように記されています。同じく現代語訳でご紹介いたしましょう。
 
天台大師の講会のためのご供養として、銭五連(五千文)をお送りくださり、ありがたく拝受いたしました。この天台大師講をはじめてから、三、四年になりますが、今年がもっとも盛会に開催することができました
 
この文から、天台大師への報恩の講会が、祥月命日の十一月二十四日に開催されることにあたり、富木氏からご供養として五貫文が聖人のもとに届けられていることが知られるのであります。しかも聖人が大師講を開催されるようになって、三、四年であると記されていますから、聖人が伊豆流罪の赦免後の文永二年、あるいは三年頃に始められたものと思われます。そしてこの年が最も多くの人々が集まっているというのであります。その後文永八年聖人佐渡へと遠流になりますが、その期間弟子の日照上人に「天台大師講」の開催をうながされていますから、鎌倉においてその講会が営まれたと推察されます。さらに聖人が、佐渡流罪の赦免後、身延へ入山されてからも、この地において開催されたものと思われます。そして聖人の存命中の大師の祥月命日は弘安四年(1281年)十一月二十四日に当ります。聖人六十歳のときであります。そこで聖人にとっての最後の「霜月会(しもつきえ)」即ち十一月二十四日に注目してみますと、それは十間四面の法華堂建立の落慶法要と重なっていることが知られるのであります。日蓮聖人が、佐渡流罪赦免後、鎌倉へと戻られ、さらに鎌倉幕府の御家人で甲斐国(かいのくに)巨摩郡(こまごおり)南部の領主であります南部六郎実長(なんぶろくろうさねなが)の招きで、身延へと向かわれたのは、文永十一年(1274年)五月十二日のことであります。そして五月十七日にこの地に到着されています。この年から数えて九箇年間、身延山において弟子の教育や信徒の教導にあたられています。はるばると身延の日蓮聖人の下へ訪れる信徒があったことは、すでに触れたところであります。身延到着から一ヶ月後の六月十七日、庵室が完成し、ここを修行の場とされたのであります。翌七月には、駿河の国富士郡の上野郷から、南条時光(なんじようときみつ)兄弟が聖人のもとへ訪問することになります。この時の真筆二紙が認められ、未亡人の上野母尼へ届けられています。その中で夫の兵衛七郎を亡くされたこと、その折墓参されたことが記されていますが、その一節に「妙荘厳王(みようしようごんのう)は二子(にし)にみちびかる」とありますから、男の子二人が聖人のもとへ、「鵞目(がもく)十連、あわのり二帖、しやうかう二十束」を届けたものと思われます。そして身延山の様子を、「今年は特に飢饉がひどい状況なので、私日蓮が初めて経験する、山中の大木の根もとに木の葉を敷いたような栖(すみか)(庵室)の様子をご想像ください」とありますから、この庵室は決して堅牢な建物ではなかったと言いましょう。この庵室は、柱十二本を用いた三間四面の建物でありました。しかし数えの四箇年を経ますと、この庵室も老朽化が進みました。その修復の様子が『庵室(あじち)修復書』即ち建治三年の手紙に記されています。そして聖人が六十歳を迎えられた年の富木常忍の手紙には、弘安四年十月二十二日のものでありますが、聖人の署名と花押があり、「進上富木入道殿御返事」と記されています。この手紙は現在、六紙が中山法華経寺に所蔵されていますけれども、聖人は病気のために、門下が筆をとり、日付と署名、花押、そして宛名が聖人の直筆であると注記されています。この手紙の末尾に注目いたしますと、次のように記されています。現代語訳でご紹介いたします。
 
私日蓮は、すでに六十歳に達しましたので、多くのご恩をいただいている、天台大師の恩に報いたいと思っておりましたので、見苦しくなりました庵室を立て直し、かねてご供養の銭四貫文を、その建立費とさせていただきたく存知ます。貴殿がみ仏世界、すなわち霊山浄土へ参られましたならば、銭四貫文をもって、この閻浮提(えんぶだい)第一の法華堂を建立いたしましたと、教主釈尊に言上なさいませ
 
というものであります。このように、「天台大師講会」に注目いたします時に、日蓮聖人は、最晩年に閻浮提第一の法華堂を建立し、またそのために門下たちが多くの支援をなしたことが知られるのであります。確かに日蓮聖人の御生涯は、波乱に満ちたものでありましたけれども、そこには聖人の教えに絶対随順する出家の弟子たち、そして在家の信徒たちの存在があったことを見逃せないのであります。
 
     これは、平成二十九年二月十二日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである