法然上人と聖女テレーズ
 
               東京経済大学名誉教授 石 丸(いしまる)  晶 子(あきこ)
 
ナレーター:  今日は、「法然上人と聖女テレーズ」と題して、東京経済大学名誉教授の石丸晶子さんにお話をして頂きます。石丸さんは、国文学がご専門ですが、今回は時代も宗教も違う二人の宗教者に共通する信仰の形についてお話をして頂きます。
 
石丸:  これからお話しいたします法然上人は、長承(ちようしよう)二年(1133年)美作国(みまさかのくに)の豪族漆間時国(うるまときくに)の独り子として生まれました。亡くなりましたのは、建暦(けんりやく)二年(1212年)八十歳のご生涯でした。保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱に始まる源平(げんぺい)盛衰(じようすい)の大擾乱(だいじようらん)は、すべてこの八十年のご生涯の中にすっぽりと入っています。法然上人は、以後歴史上の人物として「法然」と呼ばせていただきますが、この内乱の世を生きて一切衆生救済の道として浄土宗を開かれました。ところで、今日はもう一人リジューの聖女テレーズと呼ばれる方についてもお話したいと思います。テレーズは、一八七三年フランスの小都市アランソンに生まれ、ノルマンディー地方のリジューで、二十四歳の生涯を閉じました。十二世紀に日本で生まれ、仏教の一宗派を開いた法然と、十九世紀にフランスで生まれたカトリック教会の聖女と、この二人は時代も場所も宗派も大きく隔たっています。しかし、私は今日、時と所を隔てたこの二人が、宗教的真理において同じ道に到達し、互いに呼応しあっていることをお話したいと思います。法然が比叡山に登り、仏道に帰依することになったのは九歳の時、父漆間時国(うるまときくに)が近隣の豪族明石定明(あかしさだあきら)の夜襲に遭って殺害されたことによります。時国は、「決して復讐しようと思わず、一刻も早く出家して父の菩提を弔い、みずからの解脱を求めよ」と言って息を引き取りました。父のこの遺言を受けた法然は、十三歳の時、天台僧となるために比叡山に登ります。以後源光(げんこう)、皇円(こうえん)というような、天台の高僧について求道と学問修行に没頭することになりますが、彼はさらに一切の名利から離れて道を求めるべく、西塔(さいとう)、黒谷(くろだに)の叡空(えいくう)の室に入りました。ここで付言いたしますと、当時比叡山は、東塔、西塔、横川(よかわ)という三つのエリアに大きく分かれていまして、初め東塔に上った法然は、この時西塔の叡空の下で修行することになったのです。十八歳の秋でした。以後、彼は四十三歳で悟りを開いて、専修(せんじゆ)念仏に帰入するまで、まる二十五年間真理を求め、道を求める修行求道の歳月を送ります。ここで当時の仏教について申し上げますと、一言で言えば「貴族仏教」と言われるものでありました。極楽に往生するには、造寺造仏に励み、学問を積んで仏典を学び、戒律を守って修行しなければならない。法然は、仏教のこの基本路線につまずいたのです。かかることが往生への必要条件であるならば、世の中に数多くいる造寺造仏をしたくてもできない貧しい者、学問を積みたくても積むことができない愚鈍な者、戒律を守ろうにも守れない意志薄弱な者は、往生できないのだろうか。ごく少数のものしか往生はできないのか。往生は富貴で、学問ができて、意志堅固なものにだけ開かれた道なのか。もしそうだとすると、仏の慈悲とは何なのであろう。法然はこの問題に直面したのです。解決を求め、二十五年に渡って煩悶苦悩しました。道を求め、真理を求めて、一切経をひもとくこと五度、しかし救いはどこからも来ませんでした。嵯峨野(さがの)清凉寺(せいりようじ)釈迦堂に七日間参籠(さんろう)した時のことです。釈迦堂には、社会から見捨てられた数多くの老若男女が群集まり、手を合わせては、こもごも願い事を祈り、人の世に生きる嘆きを仏に訴えていました。この老若男女が救いに与(あず)かるということはないのであろうか。人生とは、人の世とは、そして仏の教えとは一体何なのか。当時を振り返り、法然は寝食もままならない長い歳月を送った、と後に回想しています。この法然に夜明け、黎明(れいめい)が訪れたのは、承安(しようあん)五年春、十八歳で叡空の室に入ってから満二十五年が経っていました。法然四十三歳の春です。中国の名僧善導(ぜんどう)には『観無量寿経(かんむりようじゆきよう)』を注釈した『観経疏(かんきようしよう)』という著書がありますが、その日法然は、この『観経疏(かんきようしよう)』をひもといていて、今まで何度そこを読んでいても気づかなかった一行の注釈文に気づいたのでした。それは阿弥陀仏四十八願中の第十八願とその注釈です。真心から唱える念仏を阿弥陀如来は決して見捨てず、この念仏によって一切衆生を浄土に往生させるという阿弥陀の誓いでした。そしてこの阿弥陀の誓いは既に成就しており、一切衆生が念仏によって浄土に往生する道は、すでに開かれていたのです。法然はこの日、電光石火全く忽然として、弥陀のこの誓いの真実を悟ったのでした。造寺造仏、戒律厳守、そして学問修行ができるという、ごく少数の者に対してだけではなく、あらゆる衆生に対して、救いの道はすでに開かれていたのです。ここで法然の回心した念仏による浄土往生について一言したいと思います。念仏は日本仏教史の流れの中で、法然が初めて唱えたものではありません。源氏物語の中にも、登場人物たちが念仏している場面がありますように、天台宗や真言宗など、平安仏教では、往生における念仏往生が重視されていました。しかし法然以前の念仏は「観想(かんそう)念仏」、つまり阿弥陀如来がいます浄土の荘厳の様を連想して阿弥陀仏を念じるものでした。しかし法然の念仏は、この「観想念仏」に対して「口称(くしよう)念仏」と言われるもので、ただひたすら一身に阿弥陀仏の名号(みようごう)、すなわち「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を口で称え、阿弥陀仏を呼び求めるというものです。これについて法然はこう言っています。観想念仏は、極楽浄土の様を瞑想して思い浮かべるといっても、極楽浄土に花が咲き乱れ、鳥が鳴き、おいしい果物が実っている、という以上のことを思い浮かべることは、人間の身として不可能である。しかし、浄土はそのような人間的思考や想像を遥かに超越したものなのだ。さすれば、人間の想像力に頼るのではなく、我らはただひたすら真心から「南無阿弥陀仏」阿弥陀仏よ、お助けください、と祈ることが大切であると。観想念仏からこの口称念仏へ、法然によるこの転換は、仏教が上流階級の占有物であったことから、広く衆生一般のものへと拡大したことを意味しています。極楽浄土の様を観想するには、浄土荘厳の様を経典が、どのように説いているか。これに関する知識が必要です。また瞑想する力と想像力を持つことも必要になります。しかし、口称念仏には、こうしたことは全て必要ありません。身分の上下、学問知識や能力の有無、こうしたものには関係なく、ここでこの口称念仏で必要なものは、ただ一つ、それは阿弥陀の誓いを信じ、信頼し、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、どうか阿弥陀仏よ、お助けください」という人としての叫びだけなのです。またそれは浄土を人間の想像力の及ぶ花咲き、鳥歌う美しい世界とする信仰を否定して、浄土を人間の想像力を超えた彼岸としたことでした。いくら想像力を駆使して、あれこれ想像してみても、人間は浄土の本当の有様を思い描くことはできない。これが法然の信仰でした。法然が切り開いたこの教えは、仏教信仰史上実に大きな転換であったと思います。口称念仏による一切衆生の救済という信仰に回心した四十三歳の法然は、比叡山を下り、ほどなく現在知恩院(ちおんいん)があるあたりに庵を構えて、人々に阿弥陀の教えを説いていきました。そして、この法然が日ごとに深く悟っていったことは、たとい身分・地位高く、学問を積み、意志堅固で戒律厳守のみであると言っても、人は皆凡夫であるということであったと思います。比叡山にいる時から、例えば亀井勝一郎(かめいかついちろう)なども言っておりますように、法然は、高徳の聖と呼ばれた僧侶が、ある日突然女に狂って、堕地獄の世界に堕ちていく、そんな人間の現実を見てきたに違いありません。これに加えて時は源平盛衰の乱世でした。歴史は、この時代が強盗、殺人、裏切りが横行する暗黒の夜であったことを伝えています。人間は皆心の奥の奥には浅ましさを持つ凡夫です。生涯にわたって純粋無垢の聖人君主であり得るなど、この世に存在していようはずはなく、私たち人間が、自力で極楽浄土に往生など到底できるものではありません。人間は皆凡夫なればこそ、一切衆生を等しく救済しようという阿弥陀如来の誓いがあるのです。求道二十五年、四十三歳で忽然と夜明けを迎えた法然が、日ごとに深く悟っていった真理は、この事であったと思います。その法然の庵に公家、僧侶、庶民、多くの人々が道を求め救いを求めて、やがて押し掛けるようになりました。貴族たちだけではなく、あらゆる人間が等しく念仏によって救われるという凡夫往生のその教えは、燎原(りようげん)の火のように広がっていったと、公家の日記が伝えています。暗黒の乱世にあって、人々は救いを求めていたのです。法然は、死の三日前、その教えの中核を短い文章に認めました。『一枚起請文(いちまいきしようもん)』です。その中で法然はこう記しています。
 
念仏を信じる人は、たとえ釈尊の教えをよくよく学んでも、一文字も知らない愚鈍の身に自分を置いて、長くなるまや道を求める求道者達と同じ心になって、智者の振る舞いをせず、ただ一向に念仏しなさい。私が知っている真理はこれに尽きます。
 
と。ここで私は、法然の七百年後に生を受けたリジューの聖女テレーズのことをお話したいと思います。初めに「テレーズ」という呼び名についてお話しておかなければなりません。「テレーズ」というのは、フランスにおける呼び方でありまして、「テレーズ」は、フランス人ですから、「テレーズ」とお呼びするのは当然と言えば当然なのですが、カトリック教会では、この後触れます第二バチカン公会議が終わる一九六○年代まで長いキリスト教の歴史の中で、人物の名前は全てラテン語読みで読んできました。したがって、「テレーズ」も、今から四、五十年前まで「テレジア」とフランス語で呼ばれてきたのです。すると、カトリック教会には、「テレジア」と呼ばれるもう一人の聖女がいます。十六世紀にスペイン・アビラで生まれ、女子カルメル会という修道院の大改革を成し遂げた方です。そこで教会では、十六世紀のスペインの聖女を「大テレジア」、十九世紀のフランスの聖女を「小テレジア」、あるいは「小さき花のテレジア」などとお呼びして区別してまいりましたが、第二バチカン公会議後は、聖人方も生まれた国や地域の呼び名で呼ばれるようになりまして、「大テレジア」はスペインの呼び名で「テレサ」、「小テレジア」は、フランスの呼び名で「テレーズ」とお呼びするようになりました。ちなみにマザーテレサはスペインの大テレジアのお名前をいただいておられます。今からお話いたしますのは、フランス生まれの聖女テレジア、つまりテレーズのことなのですが、テレーズは、初めに申し上げましたように、十九世紀後半アランソンで生まれました。大変信仰篤い家庭でした。母親が死去したのは、テレーズ四歳の時で、一家はアランソンからノルマンディーの小都市リジューに移ります。当時特にフランスのカトリック信仰世界の中で支配的であったのは、ジャンセニスム(Jansénisme:17世紀以降流行し、カトリック教会によって異端的とされたキリスト教思想)と呼ばれるもので神の正義による怒りと罰を強調するものでした。人間は神のこの怒りと罰の前に震えおののいて、生涯をすごさなければならなかったのです。ムチ打ち、断食、沈黙、そして世間と交わることを断って、修道院という囲いの中で厳しい苦行の生活をする。結婚生活は、独身生活ができない意志薄弱な人間の生活として低く見られ、修道院に入って生涯苦行と祈りの生活を送ることが、天国への道として求められました。そして修道院の中でも、教育や社会福祉に携わる活動修道会と言われる修道会は、低く見られ、世間と断絶して祈りと苦行に身を捧げる観想修道会と呼ばれる生活が、より高級な人間の生活と考えられていました。ジャンセニスムが支配的な、そのようなカトリック信仰世界にテレーズは生まれ、十五歳でリジューのカルメル会修道院に入ります。このカルメル会修道院というのは、厳格な戒律と苦行と神への祈りに生涯を捧げる観想修道会で生涯修道院の囲いの外に出ることができません。テレーズはこのカルメル会に入会し、二十四歳で肺結核のために死去した修道女ですが、死後世界中にテレーズ旋風とも言うべきものを巻き起こしました。そして一九二五年、死後二十七年という異例の早さで聖人の位にあげられます。そして現在テレーズは、カトリック教会史上女性では数人しかいない教会博士に列せられ、世界の人々の熱い敬慕を集めています。十五歳で修道院に入った彼女は、中学卒業程度の教育しか受けておりませんでした。そして二十四歳で死去しましたから、十年に満たない修道生活です。そのような彼女がなぜ世界中の人々の敬愛を集め、聖女に列せられ、教会博士にまでなっているのか。一言で言えば、カトリック教会が当時教えていた神への道を、テレーズは百八十度変えてしまったのです。神へ至る道、天国へ至る道は、厳しい苦行、断食、瞑想等々、ジャンセニスムが教えている道だけではなく、愛そのものである神に幼子の信頼を持ってすべてを委ね、祈りつつ、働きつつ、他者と交わりつつ生きる道こそが、神へ、天国へ至るもっとも確実で最短の道であることを、神の霊に照らされて、テレーズは発見したのでした。昔の人は高いところに行こうとすると、階段を一段一段自分の足で登らなければならなかった。しかし、今はエレベーターというものがあって、自分の足で階段を登らなくても、エレベーターが高い所まで連れていってくれる。自力で階段を登るには、私はあまりに小さくて弱い。神様ご自身で私を連れて行ってくださらなければ、私が自力で神のところへたどり着くことなど到底できない。神ご自身の御腕、それが私を神のところへ連れて行ってくれるエレベーターなのだ。そして神は人間を怒り、罰する恐ろしい方ではなく、まず何よりもあらゆる愛の源そのもののお優しい方なのだ。狭い囲いの中で、祈りと厳しい戒律の生活を送っていたテレーズは、次第にこのことに気づいていくのです。テレーズの言葉は、仲間の修道女たちによって数多く伝えられていますが、その言葉の一つ一つに、私は神の霊の息吹を感ぜずにいられません。ある日彼女の指導下にあった修道女志願者に、テレーズはこう言いました。
 
この志願者は、自分の弱さを嘆き、強い人間になりたい、と望んでいたのです。一歩ごとにつまずき、ころび、自分の十字架を弱々しく担うことを受け入れ、自分の無力を愛しなさい。自己満足を満喫させるような、栄誉的行為を果たすよりも、その方がずっといいのです。イエス様が求めているのは、立派な行いではなく、ただ委託と愛と感謝だけなのです。人生の道は、自分が父なる神に愛されているということ、そしてこの父は危険に際して、決して自分を放っておかないと知っている。幼子の愛と信頼を持って進むことなのです。
 
テレーズは、こうその修道女に言いました。テレーズは、自分が発見したこの道を「小さい道」「幼子の道」と呼びますが、これを仏教の言葉で言えば「凡夫往生の道」に他なりません。そしてテレーズが委託した神の御腕なるエレベーターとは、仏教の言葉で言えば「阿弥陀如来の本願他力の力」に他なりません。テレーズは、死去する前、修道院長の命令で『自叙伝』を書き遺しました。『自叙伝』には、「主が小さい花にしてくださった恵みの思い出」という題が付けられています。この『自叙伝』は、テレーズの死後出版され、世界中に感動と追慕の嵐を巻き起こしたのです。事実、この『自叙伝』には、先にも申しましたが、愛そのものである神の霊の息吹が立ち込めているとしか言いようがありません。日本でも早く明治時代、フランス人宣教師によって翻訳されています。宮沢賢治も、テレーズのこの『自叙伝』の愛読者でありました。カトリック教会は、今から四十数年前に始まった第二バチカン公会議と言われる会議によって、ジャンセニスムの枠が切り落とされ、カトリック教会としての信仰の道が世界に向かって、あらためて公表されました。この公会議を導く信仰上の支柱となったものの一つが、今申し上げたテレーズの道、凡夫往生の道です。修道院の囲いの中で二十四年の短い生涯を終えた一人の女性が、二千年の歴史を持つキリスト教の信仰を、改めて明らかにし照らしだしたのでした。ここで法然上人に戻りますと、法然さまは、苦行重視の自力仏教を阿弥陀物の誓願による他力仏教へと百八十度変換されました。一方、カトリック信仰世界で、テレーズが果たした役割は、苦行重視のジャンセニスムを、神の愛に信頼し、これに一切を委ねて生きる道へと、生きる道を百八十度変換しました。法然様と聖女テレーズ、この二人が発見し成し遂げられた人生の道は、仏教とキリスト教というような宗教の違いを超えて、互いに呼応しあっています。弥陀の誓願に信頼し、本願他力の翼に乗って浄土往生を遂げる。神の愛に信頼し、その大腕に抱かれて天国の道を生きる。言葉を異なっても、そこに底流しているものは、人間に対する超越者の愛に信頼し、これに一切委ねて生きるという信仰です。私は、そこに宗教の別を超えた真理を見出さずにおれません。法然上人が、『一枚起請文』で教えられておられますように、智者の振る舞いをせず、互いに大切にし合い、共生き、共生の生を生きるということこそ、宗教の別、人種や文化の別を超えた普遍的真理であるように思います。そして今まで七十四年の人生を生きてきて、私に教えてくれるのも、この真理です。いかに卓越した人物といえども、人間という有限のみです。であれば、神といい、仏という超越者の愛と慈しみに信頼してぬかずかずにはおれません。
 
     これは、平成二十年二月に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである