日蓮聖人からの手紙K日蓮聖人の病気と死の覚悟についての手紙
 
                    立正大学教授 北 川(きたがわ)  前 肇(ぜんちよう)
 
ナレーター:  シリーズ「日蓮聖人からの手紙」。日蓮聖人が遺した手紙を、毎月一回、十二回にわたって読んでいきます。最終回となる第十二回は、「親鸞聖人の病気と死の覚悟についての手紙」と題してお送りします。お話は、立正大学教授北川前肇さんです。
 
北川:  私たちは、鎌倉時代という十三世紀に、「法華経の行者日蓮」と自称されている聖人が、自己の教えに耳を傾け、法華経の教えに生きようとする信徒たちが直面している人生の課題、あるいは人生の苦悩に対して、どのように受け止め、そしてそれらの課題を、どのように克服すべきか。その方法をいかに示されてきたのであろうか、という問の下に、聖人の与えられた手紙を通して、すでに十一回にわたって学んでまいりました。そこには、人としてこの世に命を受けているものが、必ず直面しなければならない老いや病、そして死という大きな課題があり、さらには親と子との生き方の問題、主人と家臣との葛藤、他者との関係性における課題など、今日のわたくしどもが直面している課題と少しも変わることのない事柄が、浮き彫りにされてきたのであります。そして聖人は、それらの様々な問題に対して、ブッダ釈尊の教え、さらに先師先哲の示された仏教教理のもとに、信徒たちに対して、ある時は限りなく優しく、ある時はいかなる困難があろうとも、それらの課題から逃避することなく、自己の問題として生き抜くように厳しく諭されていることを知ったのであります。つまり聖人は、関わりを持った信徒達の一人一人の課題を、法華経の明鏡に映し出し、そこから導き出される御仏の叡智をもとに導き諭されているのであります。その態度は、決して曖昧模糊としたものではなく、明快な教えとして、説き示されていることを知るのであります。つまり今から、およそ七百五十年前の歴史的時間を経過しながらも、聖人は信徒の直面している課題に真摯に取り組まれ、それに対する教導がいかに明快であるかが伺えのであります。おそらくこれらの様々な課題を担われる聖人は、自己の人生における生き方として、自分自身が直面する一つ一つの課題を克服すべく、主体的に取り組まれたことに対する結果として、信徒たちの課題を解決されたものと拝察できるのであります。言い換えますと、聖人が建長五年(1253年)、三十二歳の立教開宗以後、六十一歳までのおよそ三十年にわたる法華経弘通(ぐずう)の活動というのは、聖人の三十二歳までの求道期において、様々な課題として主体的に受け止め、あるいは宗教的課題として取り組まれてきた重要な課題でもあったと推察できるのであります。そこで聖人の生涯を貫く法華経の行者としての生き方は、日蓮聖人の求道期にすでにその兆しが見られ、合わせて理想とする仏教者像が形成されていたのではないかという仮説のもと、若き日の聖人が目指された仏弟子としての姿を、ここでたずねておきたいと思うのであります。日蓮聖人は、承久(じようきゆう)四年(1222年)二月、安房国(あわのくに)長狭郡(ながさのごおり)東条郷(とうじようのごう)(現在の千葉県鴨川市)に海人、すなわち海の仕事を生業する家の子として誕生されました。そして十二歳の時、同じ東条郷の天台宗の流れをくむ清澄寺(きよすみでら)の道善房(どうぜんぼう)を師匠として、仏道に勤(いそ)しまれることになります。後に聖人五十五歳の建治(けんじ)二年(12760年)七月二十一日、道善房の死去を聞かれた聖人は、『報恩抄』という長文の追悼の文章を認められています。その一節には、師範の道善房について、地頭の東条景信(とうじようかげのぶ)が弟子の日蓮聖人のことで、道善房に圧力を加え、また清澄寺の円智房(えんちぼう)や実城房(じつじようぼう)という人物が、同様に師匠の道善房に対して脅迫するようなことがあっても、そのご性格が優しすぎたためでありましょうか、積極的に日蓮聖人を護るための盾となられることはなかったようであります。しかし、兄弟子の浄顕房(じようけんぼう)と義城房(ぎじようぼう)のお二人は、『報恩抄』によれば、「各各・二人は日蓮が幼少の師匠にて・おはします」とありますことから、浄顕房(じようけんぼう)と義城房(ぎじようぼう)が、聖人の幼少の頃の学問の師匠として教導されていたことが知られます。そして聖人が清澄寺において立教開宗後、地頭の東条景信の圧迫で清澄寺を下りられることになりますが、その折お二人が聖人の後を追って下山したことが伺えます。『報恩抄』に、「日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず」と記されていますので、その経緯が知られるのであります。確かに聖人は多くの法難を被られましたけれども、その折々に身命懸けて聖人を外護する人が存在したことを見逃せないのであります。ところで十二歳で出家された聖人は、十六歳の折に得度して、仏弟子としての生涯を貫く生き方を選ばれることになります。そして聖人のこの求道の過程において、「日本第一の智者となし給へ」と清澄寺に安置されている虚空蔵(こくうぞう)菩薩に祈りを捧げられていることが知られます。いうまでもなく、この虚空蔵菩薩は、虚空のごとく計り知れない智慧や功徳を内に収め、蓄えられている菩薩であります。この菩薩に対し、智者となるための智慧を授けてもらいたいと願を立てられている若き聖人は、この世に命を受けたものとしての生きる道、即ち自己が他者から受けている恩、あるいは恵みに対して、必ず報いたいという生き方を根底に置かれてることによって発せられたものであります。言い換えますと、私たちがこの世に誕生し、人として成長し、社会活動を営むことができるようになるには、歴史的時間の流れでいけば、多くの先人たちの恵みがあり、また今受けている命からすれば、身近には父母や師範や社会の人々との関係性によって支えられているという事実を見逃せないのであります。殊に大乗経典であります「大乗本生心地観経報恩品(だいじようほんじようしんじかんぎようほうおんぼん)」には、一、父母の恩。二、衆生の恩。三、国王の恩。四、三宝の恩の四恩を説いているのでありますが、一、の父母の恩は、慈父、悲母の恩であり、二、の衆生の恩とは、三世にわたる命の流れの中で、一切の人々は父母となることから、全ての男性は慈父であり、一切の女性は悲母であるという受け止め方。三、の国王の恩とは、正しい仏法を保つ国主によって、山河大地までも、国主に所属するという転輪聖王(てんりんじようおう)の考え方。四、の三宝の恩とは、仏法僧の三宝が、人々を苦悩から解放し、安らかなる宗教世界へと導かれるという捉え方であります。これらの四恩に報いるという考え方は、日蓮聖人の出家者としての倫理となるものでありますが、それらの四恩に報いるための絶対条件が、『報恩抄』の冒頭に記されています。それは、「此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか」とあります。つまり聖人が目指された仏弟子というのは、仏教研鑽の結果として、仏教の教主釈尊の御心、即ち御仏の本意を知り、その仏陀の本意のもとに生きることが、聖人の根本的立場であったことが知られるのであります。もちろん今日的規範からすれば、この四恩の概念に合致しない側面が見られるかもしれませんけれども、日蓮聖人にとって、父母・師匠への最大の報恩は、これらの人々も成仏であり、安穏なる宗教世界への教導に他なりません。それは自己を取り巻く一切の人々も同様に、苦悩する現実世界にあって、安らかなる宗教世界への導きこそ、その報恩の根幹であるというのであります。また国土の主として、統治の最高の責任者である国主、即ち聖人当時の為政者は、北条幕府でありますから、国土の万民が安らかに過ごすことのできる絶対条件は、国土の安穏に他なりません。いかに一人一人が、個の幸せを願っても、国土や社会の安寧がなければ、それらは達成されないことになります。そして聖人の三宝への恩は、自ら御仏の仏法に絶対随順する者として奉仕され、いかなる世俗的権威であったとしても、最上の価値を持つブッダ釈尊、そして法華経の前には、決してそれらを容認されることはありませんでした。そういたしますと、聖人が仏弟子として四恩に報いるという仏教的倫理観が、真の智者となった自己が、法華経の説き示す父母や一切の一人が、釈尊の子であるとの覚醒を促し、成仏の道へ導くことであり、国主の場合、十善の君として、国土の安穏の下に万民の安穏なる生活が保障されることを目的とする人物でなければならないとの認識があったと言えましょう。聖人が文応元年(1260年)七月に『立正安国論(りつしようあんこくろん)』一巻を先の執権北条時頼に奏申されましたことは、正しい教えによって国土の安穏を目指すようにとの仏弟子としての諫言でありますし、またそれによって、いかに法難がもたらされたといたしましても忍受されましたことは、聖人の智者としての生き方に他ならなかったと言いましょう。以上、聖人が、清澄寺で出家得度し、仏弟子としての生き方、あるいはどの様な理念のもとに生きようとされたのか、ということをたずねてまいりましたけれども、そこには「智者」の二字が明らかとなるのであります。そして智者というのは、聖人が尊敬されています中国の六世紀に活躍された天台大師智(ちぎ)の大師号でもありますし、また智者というのは、賢者であり、悟りに至る道を進む人の意味でもあり、また聖人にとって、智者とは、釈尊の御心を知る人のことであると確認できるのであります。ですからこの智者の文字に注目致しますと、聖人の立教開宗後の法華経弘通の活動のすべては、釈尊の御心を伝える行為であり、またいかなる法難の場にあっても、聖人は釈尊と共にあったことが知られるのであります。その意味において、聖人の生涯で最も大切な書であります『観心本尊抄(かんじんほんぞんしよう)』の立場から解釈いたしますと、聖人は常に久遠の御仏、即ち大恩教主釈尊の仕えとして行動がなされていたことが明らかとなるのであります。以上のことを前提として、聖人の信徒たちが直面している病気と臨終の課題について考えてみますと、それは聖人の求道期に於けるご自身の大切な課題であったことが知られのであります。そこで改めて日蓮聖人における病気と臨終、即ち死についての考え方を整理しておきたいと思うのです。まず第一の病気に対する考え方について触れてみたいと思います。日蓮聖人は、病気に対して、いったいどのような認識を持たれ、どのように克服すべきであるか。どのように考えられていたのでありましょうか。すでに述べましたよに、聖人の病気に対する考え方の基本として、病には軽い病と重い病とがあって、仮に重病であっても、善き医者から、その治療を施すことを受けることによって命を保つことができるという考え方であります。もちろん人間としての存在のあり方は、様々な過去世からも業因のもとに、ここに命の灯がともっているということで、これを「業(ごう)」というのでありますけれども、この「業」というものにも宿命的に定まった「定業(じようごう)」と変更が可能な「不定業(ふじようごう)」との二つがあるというのであります。そして仮に「定業(じようごう)」であったとしても、宗教的な面から悔い改めることによって、「定業(じようごう)」も消滅が可能であると認識されているのであります。つまり自己の生存のあり方を見つめ直す智慧、そして宗教的な懺悔(さんげ)による滅罪が可能であると説かれているのであります。そして信徒の富木尼(ときあま)や大田乗明(おおたじようみよう)の病気に対して、訓諭される法華経の文というのは、薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)(以下、薬王品と略称)に説かれている漢字二十八文字があることに気づくのであります。その文とは、
 
此の経は則ち為(こ)れ、閻浮提(えんぶだい)の人の病の良薬なり。若(も)し人、病(やまい)(あ)らんに、是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して、不老不死ならん
 
という文であります。則ち薬王品には、この法華経という経典は、「この世に生きているすべての人々の病に対する良薬である。もし人が病気で苦悩していたとしても、この経を聞くことができたならば、その病気はたちまちに消えて、不老不死となるでしょう」と説かれているのであります。そこで聖人の遺文の中に、この漢文字二十八字、あるいは略しまして、「病即消滅 不老不死」等の文が引用されてる箇所を抽出してみますと、そこにはご真筆が現存いたします遺文として、『立正安国論』を初めと致しまして、七遺文が確認できるのであります。また日蓮聖人が、文字で表現されている大曼荼羅御本尊が、門下へ授与され、今日百二十三幅が現存しています。この大曼荼羅に書き入れられました経文、即ち讃文(さんもん)が記されている大曼荼羅は、百二十三幅のうち、六幅が確認できるのであります。ところで、この薬王品の二十八文字に注目いたしますと、病気平癒の祈願として確認できますことは、富木尼へ与えられた文永十二年(1275年)二月七日付の『可延定業御書(かえんじようごうごしよ)』と呼ばれる書簡の一節があります。即ち、
 
されば日蓮悲母(はは)をいのりて候ひしかば、現身(げんしん)に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり
 
と述べられています。このことは、聖人が四十三歳の文永元年(1264年)秋、父の墓参のために故郷を訪ねられた際、母の病気を見舞われたときのことを指しています。聖人が見舞われた折、母は臨終の相がうかがえたようでありますけれども、聖人の祈りによって蘇生され、さらに四箇年の寿命を得られ、文永四年(1267年)八月十五日に死去されたと伝えられています。この時聖人は、薬王品の二十八文字の経文を書き、祈願されたのち、この経文を焼いて灰とし、護符(ごふ)として服用せしめられたと思われるのであります。それは聖人晩年の弘安五年(1282年)二月二十五日の書状に、信徒の南条七郎次郎時光が病気のために苦悩していることから、南条家の人々の教導に当たっている日興上人に、病気がちの聖人に代わって、弟子の日朗上人が筆をとって、病気平癒の方法を指示した手紙が現存しています。この手紙から理解できますことは、故南条兵衛七郎の二男で、南条家の中心人物でもあり、また熱原(あつわら)法難等を乗り越えた駿河地方の信徒を統括する南条時光の病気平癒の祈願が行われ、経文の二十八文字を護符として服用することを勧められていることであります。このように聖人が病気に対する治療の基本を、法華経の薬王品の二十八文字に求められていることは、法華経の「如来寿量品」の後半部分に当たります「譬説段(ひせつだん)」に「良医治子(ろういじし)の喩え」が説かれていることからも、久遠の御仏の功徳が法華経、わけても題目の五字に具足しているという聖人教学における救済論と有機的に関連していることを知るのであります。ところで第二に、聖人の臨終、即ち死に対する考え方を見ておきたいと思うのです。いうまでもなく、末法の世に命を受けられた聖人の大切な課題の一つして、いかに安らかに臨終を迎えるか、という「臨終正念(りんじゆうしようねん)」にあったことを知るのであります。聖人は、幼少年のころ、周囲の人々が念仏信仰によって臨終正念を祈っていたことから、聖人も出家以前は、これらの人々にならって念仏を唱えたというのであります。もちろん、ある時期から決して弥陀念仏を唱えることはしないということを決断されたのも事実であります。ところで聖人は出家されて浄土教の教えを学習されていたことと思われます。しかし聖人は、ついに浄土教の教えによる臨終正念を目指されることはなく、むしろその教えを放棄されています。ではなぜ放棄されたのであろうかという関心のもとに、この臨終の問題を照射してみたいと思うのです。そこでこのことを知るために、「妙法尼御前申させ給へ」と宛所のある手紙に注目してみたいと思うのです。この手紙は『妙法尼御前御返事』と題され、昭和定本では、弘安元年(1278年)七月十四日の手紙とみなしています。聖人五十七歳です。聖人の真蹟は、六紙が池上本門寺に所蔵され、第二紙の一行十二文字が、千葉市福正寺に所蔵されています。本門寺所蔵の六紙は、今日(こんにち)重要文化財に指定されています。この手紙の全体は、四段に分けて解釈がなされていますけれども、ここでは前半の二段に注目してみましょう。まず第一段目は、臨終の様相をもととして後生の善悪について説示がなされています。その冒頭は、妙法尼からあてられた手紙の一節が引用され、夫の臨終のありさまが記されています。現代語訳でご紹介いたしましょう。
 
あなたからのお手紙に、夫は妙法蓮華経のお題目を、夜も昼も唱え続け、いよいよ臨終が近づいたとき、二度高声に唱えて死を迎えました。そして、その功徳によるものでしょうか。その死に顔は生前よりも顔色は白く、容貌も少しも変わらなかった、と記されていました
 
このように、妙法尼は、聖人に対し、夫の日常の生活において、題目を唱えるという信行と、ことに臨終にあたって高声に題目を唱えると同時に、その死相も安らかであったことを報告しているのであります。そして、聖人が返書の冒頭にこの一節を引用されているのは、聖人ご自身にとっても、また妙法尼にとっても、臨終の相がいかに大切な問題であったかが、うかがえるのであります。この手紙に対する聖人の回答は、経典やその注釈等の文によって実証されています。現代語訳でご紹介致します。
 
法華経の方便品には、如是相(によぜそう)から本末究竟等(ほんまつくきようとう)までの十如是(じゆうによぜ)が示されています。龍樹(りゆうじゆ)菩薩の大智度論(だいちどろん)には、臨終のときに、色が黒いのは地獄に堕ちる相だと説かれています。また、守護国界主陀羅尼経(しゆごこつかいしゆだらにきよう)には、地獄に堕ちる人の悪相に十五種類、餓鬼道に堕ちる人の悪相八種類、畜生道に堕ちる人の悪相五種類が説かれています。さらに天台大師の摩訶止観には、身体の黒色は、地獄の相をたとえたものである、と記されています
 
つまりこれらの文は、死後の相である姿が、形の色というものは、その姿の実体を表明したものであるという認識のもとに引用されているのであります。そして、それらの関心は、聖人の幼少年期に端を発していると記されているであります。その文を原文で拝読いたします。
 
(そ)れ以(おもん)みれば日蓮幼少の時より仏法を学(がく)し候ひしが念願すらく、人の寿命は無常なり。出(い)づる気(いき)は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬へにあらず。賢(かしこ)きも、はかなきも、老ひたるも、若きも定め無き習ひなり。されば先(まづ)臨終の事を習ふて後に他事(たじ)を習ふべしと思ひて、一代(いちだい)聖教(しようぎよう)の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめ(勘集)て、此れを明鏡として、一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向へてみ候へば、すこしもくもりなし
 
このように聖人は経典や論疏(ろんしよ)の文証を根拠として現実の臨終の相を照射するときに、一分のかげりもなく合致する、という判断を持たれていることを知るのです。しかし、現実には、私たちは真実を直視することはなく、誤った解釈をもっていることを指摘されています。
 
此の人は地獄に堕(お)ちぬ、乃至(ないし)人天とはみへて候ふを、世間の人々或いは師匠・父母等の臨終の相をかくして、西方浄土往生(さいほうじようどおうじよう)とのみ申し候。悲しい哉(かな)、師匠は悪道に堕ちて多くの苦、しのびがたければ、弟子はとどまりゐて師の臨終をさんだんし、地獄の苦を増長せしむる。譬(たと)へばつみ(罪)ふかき者を口をふさいできうもん(糾問)し、はれ物(も)のの口をあけずしてやま(病)するがごとし
 
このように、経論を明鏡とするとき、その相に全てが映し出されている、というのが聖人の認識であります。そして、第二段においては、妙法尼が夫の死後、顔色も容貌もすぐれていたという消息の文をもととして、これらの文証と現実の証拠とをもって考えてみると、あなたの夫は、天上界へをお生まれになられたことでしょうと、明示されているのであります。以下、第三段では、臨終による唱題は、即身成仏の証であることを説かれ、第四段では、その妻であるあなたは、女人成仏は疑いないと保証されて筆を置かれているのであります。以上、妙法尼に与えられた手紙の一節を拝見することで、聖人の臨終に対する関心の深さと、また多くの死を直視されてきた聖人の厳しい目を感じるのであります。つまり聖人の幼少年期からの臨終正念、および死後の姿に対する関心は、生涯変わることはなかったことを拝察できるのであります。そして、それは自らの臨終と深く関わっているのであります。尚日蓮聖人は、弘安五年(1282年)九月八日、身延山を発って、池上へ到着され、十月十三日遷化され、門下によって送葬儀が営まれ、墓は遺言通り身延の沢に建立され、埋葬されたのであります。この詳細につきましては、ガイドブックをご参照頂ければ幸でございます。以上、私は、全十二回にわたって、「日蓮聖人からの手紙」というテーマのもと、お話をさせて頂きました。ここに大過なく終了できましたことを、皆様方に深く感謝いたします。ありがとうございました。
 
     これは、平成二十九年三月十二日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである