宗教改革の精神・平和を紡ぐ
 
                 立教大学名誉教授 鈴 木(すずき)  範 久(のりひさ)
1935年、愛知県生まれ。東京大学大学院宗教学専攻博士課程満期退学。1967年立教大学一般教育部助教授、教授、コミュニティ福祉学部教授、2002年定年退任、名誉教授。主として内村鑑三など、近代日本キリスト教を研究する。
                 き き て    浅 井  靖 子
 
ナレーター:  今日は、「宗教改革の精神・平和を紡ぐ」と題して、立教大学名誉教授の鈴木範久さんにお話を伺います。鈴木さんは、宗教学やキリスト教史、特に日本独自のキリスト教信仰のあり方を実践した内村鑑三(うちむらかんぞう)(思想家、キリスト教伝道者。東京外国語学校(のち東京英語学校、東京大学予備門)を経て札幌農学校に学ぶ。クラークの残した「イエスを信ずる者の契約」に署名、1878年にM.C.ハリスから洗礼を受けキリスト教に入信。1985年アマースト大学に入学、シーリー学長の感化により「回心」を経験。1988年帰国。その後貧困生活の中から「基督信徒の慰」「救安録」「余は如何にして基督信徒となりしか」など名著を著した。1900年、一生の仕事となる月刊誌「聖書之研究」を創刊。まもなく聖書研究会を開始。一方「無教会主義の提唱」、足尾鉱毒事件反対運動も展開する。生涯のモットーとした「2つのJ(JesusとJapan)」でもわかるように、日本の思想界に日本を超越する視点を、観念的でなく血肉化して与えた影響はキリスト教会のみにとどまらない:1861-1930)を始め、仏教界の人びとの歩みを探究してこられました。今年はマルチン・ルターが宗教改革を行って五百年に当たります。遠くヨーロッパで起こった宗教改革の精神が、時代も場所も離れた日本人にどのように影響を与えたのか、お話頂きます。聞き手は浅井靖子ディレクターです。
 

 
浅井:  今年は、ルターの宗教改革から五百年ということなんですけれども、宗教学の立場からすればですね、宗教改革というのは、キリスト教のみならず生きている宗教の一つの姿というふうにも言えるのでしょうか?
 
鈴木:  そうですね。私も長いこと宗教を対象として勉強してまいりまして、いちばん感じましたことは、宗教というのは人間と同じように生きてるものであるという、そういう考えですね。ですから、宗教が必ずと言っていいほど辿るコースというのは、人間と同じように成長して、そして放っておくとやがては衰えていくという、そういうコースをたどっていきます。宗教というものは、どんな宗教でも必ずどこかでそれを打破するために改革というものが伴いまして、日本では鎌倉時代の浄土真宗とか、浄土宗とか、日蓮宗とか、そういう宗教が興った、いわゆる鎌倉仏教の時代があります。それから西洋では言うまでもありませんが、宗教改革というルターによる大きな出来事がありました。最もそれまでのカトリックの中でも、修道会の中でアッシジのフランシス(フランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士。「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、悔悛と「神の国」を説いた。中世イタリアにおける最も著名な聖人のひとりであり、カトリック教会と聖公会で崇敬される:1182-1226)とか、そういう人たちによって改革というものがあるにはありました。そのルターにおける宗教改革の結果、カトリック側でもまた内部改革として自主的な対抗宗教改革というのが起こりまして、その一つがイエズス会であって、そのイエズス会によって日本にもキリスト教がザビエル(フランシスコ・デ・ザビエル:1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている:1506-1552)によって伝えられるというような、そういう出来事が起こりました。
 
浅井:  今日は、特にルターの宗教改革の影響について伺っていきたいと思うんですけれども、ルターの宗教改革の精神っていうのは、端的にどのようなものというふうに言えるのでしょうか?
 
鈴木:  ルターの宗教改革と言いますと、一般的には三つの大きな三大精神というのがありまして、一つは、「聖書のみ」という考え方。二つは、「信仰のみ」という考え方。三つは、「万人祭司」という考え方。万人、すべてがお坊さんであるという、そういう考え方ですね。それは例えば「聖書のみ」というのはどういう考え方かと言いますと、神の教えというものは、ローマカトリックでは、キリストおよびその弟子たちの継承者であるローマ教皇にのみ継承されてるという。そういう考え方に対して、いや、そういう人たちに伝えられているわけじゃなくて、聖書の中に伝えられているんだという、直接聖書に当たろうという、そういう考え方が一つですね。それから二番目の「信仰のみ」という考え方は、それまでのカトリックの考え方から言いますと、たとえば神の恵みというのは、いろいろな教会における儀式だとか、行いだとか、制度だとか、そういうものによって伝えられるという。ですから、人間の行為によって、善い行いによっても神の恵みというのはあると、そういう考え方に対しまして、いやそれはもうそういうものは一切無効である。そういうものによって伝えられるんではない。ただ信じるという心のあり方、それだけだと。そういう考え方が二番目の特徴です。
 
浅井:  「行為によって」というのは、例えば自分がこれは善いことだと思う善い行いと言うんでしょうか、それを積めば積むほど救いに近くなるということではなくて、むしろそのようなことも出来ない無力の自分である。こう自覚から信仰より頼む。そのようなものこそ本来の信仰ではないかということでしょうか?
 
鈴木:  私どもは、初めてルターの『善行論』―善い行いについてという本を、若い頃読んで、なるほどと思いましたのは、「百の善い行いも一つの信仰にはかなわない」という、あるいは「質的に違うんだ」という。「あらゆる行いは救済のためにはもう意味がない。むしろ信仰が大事である」という、そういう考え方だと思います。そのために広い意味では儀式だとか、制度だとか、組織だとか、そういうものもカトリックの中では非常に重要な位置を占めておりますけれども、むしろ心のあり方、それが恵みを受けるただひとつの道であると言うことが、「信仰のみ」というルターが強調した二番目の考え方だろうと思います。それから三番目は、ちょっと言葉で言いますと「万民祭司」―あらゆる人々が坊さんであるという、そういう考え方ですね。
 
浅井:  聖職者である?
 
鈴木:  聖職者というのは、ちょっと語弊があるかもしれませんが、ローマカトリックにおいては、神と人間との間に、ちょっと質的にと言っていいかもしれませんが、違う存在として聖職者たちというのが介在しておりまして、その介在を経て、一般の人たちが存在するわけですから、何かあった場合でも、神との取り次ぎあたりに聖職者という役割があったとみられておったわけですが、それを、いやもうそういう取り次ぎは必要ないんだと。直接一人一人が皆神の言葉を取り次ぎ得る存在である。万民がみなそういう面では、聖職者と同じであるという、そういう意味での「万民祭司」という、そういう考え方がありました。ですから、この三つ、繰り返しますと、一番目が、聖書だけ、聖書のみ。二番目が、信仰のみ。三番目が、みな聖職者であるという万民祭司という。この三つの考え方が、一般にはルターによって始められた宗教改革だというふうにされております。しかし、先ほど申しあげましたみたいに、ローマカトリックでもルターに刺激を受けて、イエズス会の内部からも、例えば清く、貧しい清貧だとか、禁欲だとか、そういうものを強調するような修道会も起こりましたし、これを先ほど申し上げましたみたいに、「対抗宗教改革」と言って自分達の中で自浄努力とでも言いますか、そういう形の運動が起こりました。じゃ日本では、そういうルターの宗教改革というのが、どういうふうに受け取られたかと言いますと、それを最も強く受けました日本のキリスト者の一人として、私は内村鑑三という人間をあげたいと思います。ちょうど今年が宗教改革の五百年という、今年日本でもいろいろと宗教改革に関する行事や講演会などが行われようとしておりますが、ちょうど百年前、一九一七年という年は、宗教改革四百年に当たる年でもあります。日本でも宗教改革四百年記念祭が行われました。記念祭を華々しく行ったのは、当然日本のプロテスタントの一種の連合体でありました日本キリスト教教会同盟という、そういう組織でありまして、ちょうどその日は大正天皇の誕生日にも当たる天長節(てんちようせつ)とも重なりましたもんですから、天長節祝賀も兼ねて両方の会合がキリスト教青年会館で開かれて、日本のプロテスタントの代表とも言われますような井深梶之助(いぶかかじのすけ)、小崎弘道(こざきひろみち)、植村正久(うえむらまさひさ)というような人々たちが演壇に登場して、まず天長節をお祝いする言葉を述べた後で、宗教改革の根本精神の徹底を図るにはどうしたらいいかというようなことが話され、また決議もされたわけです。ちょうと同じ日の同じ場所で、午後七時からですね、今度は内村鑑三が主催をした宗教改革四百年記念会というのが開かれました。それにはルター研究者とされました村田勤(むらたつとむ)とか佐藤繁彦(さとうしげひこ)(牧師、神学校教師。日本におけるマルティン・ルターの研究の開拓者である:1887-1935)とか、そういう人たちも参加しました。聴衆としては、参加者は昼の部の公式的なプロテスタント連合体が開いた方は八百人ぐらいだったのに対して、いわば私的な内村たちの開いた夜の講演会の方は、千数百人も一般の人たちが集まったようです。内村はどういう話をしたかと言いますと、このルターの宗教改革を「a Reformation」「the Reformation」と言って、いわば固有名詞扱い、つまりこれは単なる一つ一つの改革じゃなくて、「唯一の改革である」というような点を強調しました。内村からすればですね、先程を申しあげましたような三大精神―「信仰のみ」と「聖書のみ」と「万民祭司」という、その中でも内村は、「信仰のみ」という、そういう考え方を、中でも重要な思想だとしてその日も強調して話したようです。しかし内村は、そのルターにも、必ずしも全面的に共鳴したわけではありません。ルターの思想の中でも、例えばプロテスタントの中には、ローマカトリックが残した儀式の中でも、洗礼の儀式とか、聖餐の儀式(プロテスタントで、イエス・キリストの血と肉を象徴するパンとぶどう酒を、死期の迫った信徒に牧師が分け与え、聖書を朗読し、安らかに召天されるよう祈る儀式)の二つは、今日までまだ一つの儀式として伝えられておりますけど、内村はその二つも必ずしも必要ではないという。洗礼晩餐(せんれいばんさん)否定論という、まあそういうような主張もしております。しかし内村自身は、その二つを全面的に否定したわけではなて、したいものは受けてもよいという、いわば自由な立場として、その二つの儀式を考えました。その辺が内村の始めました無教会というキリスト教の人たちと、一般のプロテスタントの中でも一つの違いになっており、内村たちの立場のキリスト教が「無教会」というような名前で今日まで続けられてきております。内村は先ほど申しあげましたように、ルターの思想を記念して大きな宗教的な意味としての宗教改革史を位置付けた人ですが、その内村も実は宗教改革記念講演会をやりながら、同時にですね、ほぼ同じころルターを批判しております。それはどういう意味で批判したかと言いますと、二つございますけれども、一番大きなことは、ルターが当時のローマ教皇の圧迫から逃れるために、現勢的な領主、政治的な権力者、そういうものに頼ったという、そういうことを批判しております。その結果、ルターのキリスト教が行き渡った北ヨーロッパとか、そういう地方では国王というものの神聖化が起こりました。そして今度は政治権力が前面に出てきておるということが、内村からすれば批判の的に一つなりました。デンマークなどもそうですけど、デンマークではそういうプロテスタントが国境を管理します。そうすると、そのための弊害を批判した有名な人が、例のキルケゴール(デンマークの哲学者,神学者。現代実存哲学の創始者、プロテスタンティズムの革新的思想家として知られる:1813-1855)でありまして、その思想を日本にも一早く紹介した一人が実は内村鑑三でもあったわけですね。
 
浅井:  宗教の政治権力に対する依存というようなところを批判したということですね。
 
鈴木:  そうです。それがルターのもたらした宗教改革の悪弊と内村は呼んでおりました。また同時にもう一つは、それとも似てる結果になりますけれども、ルターがあまりにも聖書にこだわり過ぎた、聖書も人間の手で、神の言葉とは言え、人間の手によって書かれたために、聖書のみといっても聖書をほぼ神の言葉と同一視するのには問題があると、この頃の内村はそう見たわけですね。だから聖書の真髄を読み取ろうとする姿勢だ。聖書に頼っちゃうと、人の書いた文字だから意見の相違ができるし、解釈の相違も起こるという。これ本当に間違うと独善にもなるから、人間によって書かれ、また人間によって解釈がされることは、プロテスタントは自由にしましたために、今度はプロテスタントの内部でも、いろんな聖書の解釈をめぐって教派というものが起こり、そして今度はあちこちで教派の対立という、そういう一因にもなってきました。
 
浅井:  聖書の解釈を巡って様々な教派が、それぞれ対立しあうということですか?
 
鈴木:  そうですね。そういうふうに内村は見たわけですね。そしてその教派の対立だけにとどまらず、やがてはそれが国との争いにまでなって、
 
浅井:  国と国との争いですね、
 
鈴木:  そうですね。内村たちによる宗教改革の記念祭が行われておりました、まさにその時、第一次世界大戦がヨーロッパで起こっておる最中でして、宗教改革の行われた当事者同士で戦争が起こちゃったから、しかもルターを生んだドイツはその中心部でもあったわけですが、内村はその戦争が起こった時に、これはほんとに嘆かわしいキリスト教国間のもっとも悪い例である戦争が起こってしまったということも、きっと頭をよぎっていたことだろうと思いますね。
 
浅井:  そうすると、内村は、ルターの成した宗教改革の精神というのを評価しつつも、人間が何かを絶対視してしまったがゆえの対立であるとか、人間が自分たち自身が作り出したものを、自分たち自身の解釈みたいなものを絶対視することによって生まれた対立とかというものについては非常に厳しい批判の目を持っていたということでしょか?
 
鈴木:  そうですね。そしてそういうことの結果、実は内村亡き後もですね、内村自身の無教会派の中にも聖書を説く先生たちの名前を取って、「無協会派だれだれ集会」というものが方々で起こって今日までいたっております。ところがですね、最近なってちょっと変わった現象とでも言いますか、そういう人たちから一度それたような人たちの動向が、少しずつ明らかになってまいりました。例えば内村の集会は、当時田舎でありました、現在の新宿駅―角筈(つのはず)という地名ですが、そこでを行われておりましたけど、その時は内村の聖書の集会もごく僅かで、自分のうちの家庭集会をちょっと拡大した程度でしたから、二十数人の人たちが狭い内村の家に集まって、集が開かれておりました。当時の写真を見ますと、志賀直哉(しがなおや)とか、有島武郎(ありしまたけお)だとか、小山内薫(おさないかおる)とか、もう本当に日本で大活躍をするような人材が育っております。ただまぁそういう大活躍するような人材ばかりじゃなくて、消えた存在の中にも目を向けてみますと、一人の少年―当時は少年だった吉川一水(よしかわいつすい)(かずみ)という少年がおりますが、ほんとに最近になりまして、NHKのファミリーヒストリーでもちょっと紹介されるようになりましたが、大学で勉強した後、会社員、あるいは教員として一旦は就職します。しかし後に労働者たちへの伝道というものに転じまして、日本の太平洋戦争下には非常にわずかな人々たちを対象に小さな聖書集会を細々と続けて一生終わった人です。ですから、いわゆる著書というものは生前には一冊も遺しておりませんが、没後になりまして、友達の宮崎安右衛門(みやざきやすえもん)(16歳で上京し独学で英語を勉強。また東京神学社に学びキリスト教の伝道をする。そのかたわら詩作を発表し「永遠の幼児」「出家と聖貧」「貧者道」などがある:1888-1963)という人が、『日々の糧』という本を纏めまして、彼の日記だとかそういうものを収めております。例えば日中戦争が始まった時にどんなことを書き留めておるかといいますと、「統制、節約、あらゆることが戦争目的のために集中させられておる。そして人の視線を天からそらしているということに戦争の惨めな惨禍、被害がある」と、そういうことを言っておりますし、あるいはまた日本、ドイツ、イタリーとの間のいわゆる三国同盟が締結されるのが一九四○年ですが、それにも先立ちましてですね、ナチス、ドイツの脅威的な体質というものを指摘しておって、「そのナチスの脅威的な体質の中にもうナチス崩壊の兆しがある」と、そういうことも言っております。さらに内村鑑三の無教会集会で育てられた存在でありながらも、当時の吉川が生きていた頃の無教会派に対しましてですね、こういうことも言っております。「無教会主義のyou教―「you教」というのは、つまり「内村教」と見ていいですが―無教会主義の内村教は、最も高尚な意味における現世利益宗である」という、褒めたのか、貶したのかわからんような表現ですけど、結果的には批難しております。これはおそらく吉川が生きていた頃の内村没後の無教会派に対して向けられた批判だろうと思います。
 
浅井:  「you教」ということは、内村鑑三をおし頂いて、それを半ば絶対視するような、そのような風潮があったということでしょうか?
 
鈴木:  そうだと思いますね。あと似たようなケースを少し申しあげますと、当時ですねやはり中学生ぐらいで内村のわずかな二十数年の角筈(つのはず)の聖書集会に参加していた少年に末永敏事(すえながびんじ)という少年がいました。この少年は長崎の出身でしたから、やがて故郷の長崎に帰って、長崎医専―今の長崎大学医学部ですが―それを卒業して、そしてシカゴ大学に留学して医学を勉強します。帰国後、内村鑑三の同じ聖書研究会に所属していた女性と結婚して、そして日本では有能な結核医―結核というのは当時一番大きな国民病と言われたぐらいの克服が重要視されたそういう病気でありますが―その結核医師として期待されていたんです。その彼がですね一九三七年、つまり日中戦争が始まった、一早くですね、「この戦争は日本から仕掛けた侵略戦争である」と言ったようです。もう一早く「侵略戦争」と言い切った人も、当時としては非常に珍しいことですが、やがて戦争が盛んになってきますと、当局から医師として軍への協力を約束するように言われてきましたが、それを拒否したために逮捕されて禁固刑に処せられました。最後のことはまだよくわかっておりませんけど、去年ですね彼の出身地の長崎新聞の記者が、この末永敏事に関心を持ちまして、同紙に連載を始めました。連載は実に数十回にも及びまして、非常に注目を浴びた記事でもあり、存在でもあったわけですが、それにしても初期の集会から生まれております。まあ少し時間が下りますと、太平洋戦争中になりますが、イシガ・オサム(東大在学中の昭和6年満州事変が起こり、戦争に疑問を持ち、クエーカーや無教会主義の非制度的なキリスト教に共鳴。大学卒業後は療養生活。9年国際的な戦争反対者の組織・戦争抗止者インタナショナル(WRI)に参加。同年良心的兵役拒否を決意して簡閲点呼に参加せず、岡山憲兵分隊に留置4カ月、罰金50円で釈放。この間、エスペラント、スウェーデン語を学び、17年からS.O.L.ラーゲルレーブ「エルサレム」を翻訳。20年には国立療養所星塚敬愛園のハンセン病患者を看護。敗戦直前に応召されて衛生兵。戦後は筑陽学園高校教諭を務めた:1910-1994)という青年がおります。『神の平和(兵役を越えて)』という本を出しておりますから、比較的この方面では知られておりますが、西洋史学を勉強した後、内村鑑三や矢内原忠雄(やないはらただお)(経済学者・植民政策学者。東京大学総長:1893-1961)の影響受けて、内村の『余は如何にして基督信徒となりし乎』のエスペラント語訳を試みたほどの人ですが、病気になりまして、しかしその彼にも兵役がかかってきました。彼は兵役拒否を表明しておりまして、それを表明して当局に出頭したりしましたが、二度目にはさすがに彼も衛生兵として勤務したりして、最後まで兵役を拒否したとは言えませんけれども、兵役に対する批判というのは、著書の『神の平和』というので表れておりますし、戦後もイシガ・オサムのガリ版刷りで書いた小冊子に『平和』というのがありますが、そこではカトリックでもプロテスタントでもなくて、教派を越えて神の教えに従って生きることを強調しております。
 
浅井:  平和主義というのは、聖書の根底を流れる一つの大事な考え方、それを自ら困難な時勢にもかかわらず表明して、そこに従おうとした人々ということですね。
 
鈴木:  そうですね。さらにこの人のことも最近知られてきましたのは、渡部良三(わたなべりようぞう)(1922年山形県生まれ。中央大学在学中に学徒出陣で中国・河北省の駐屯部隊に配属され(陸軍二等兵)、中国人捕虜を銃剣で突くという刺突訓練の時にキリスト者として捕虜殺害を拒否した。それゆえ凄惨なリンチを受けたが、その一部始終も含めて、戦場の日常と軍隊の実像を約七百首の歌に詠み、復員時に持ち帰った。戦後は国家公務員として勤務。定年退職後に本格的に歌集を編み始めた)という青年がおりまして、これはあの内村の聖書研究会の会員だった鈴木弼美(すずきすけよし)(内村鑑三の弟子で、基督教独立学園高等学校の創設者、で初代校長:1899-1990)さんという、その人が山形県の小国(おぐに)という山奥に基督教独立学園という学校を設けることになりますけど、現地での協力者として創立に大きく寄与した人に渡部弥一郎(わたなべやいちろう)という人がおりますが、その渡部弥一郎の長男でもあったわけですね。その渡部良三(わたなべりようぞう)も大学在学中にやはり学徒動員に遭いました。でちょうどその出発を前にして、お父さんの弥一郎からですね、内村の『聖書之研究』にある言葉を伝えられました。それはどういう言葉かと言いますと、
 
何かこう判断にあったときには、自己判断をしなくて、祈りの中でその答えを求めなさい
 
という、そういうことを言われて中国戦線に出征して行きました。で最初出遇った一番の問題は、上官から命ぜられた捕虜の刺殺―刺し殺すという、そういう訓練とでも言いますか命令だったですけど、それを渡部良三(わたなべりようぞう)は、一貫して拒否し通しましたですね。そのことを、彼は、紙やなんかの断片に歌にして書きまとめました。そしてその書き留めたものを、自分の衣服の縫い目に縫い込んで、そして引き上げて来たと。縫い目に縫い込まれた詩編を集めて『小さな抵抗』という本に纏められて、最近ではこれを読まれた方も多いと思いますが、中から一つの歌を挙げますと、
 
縛らる捕虜も殺せぬ意気地なし
国賊なりとつばをあびさる
 
そのような歌が本当にたくさん集められております。で今申し上げましたような人のことが少しずつ最近になってわかってきましたが、内村鑑三の聖書集会から展開しました無教会派の集会の中には、必ずしもすべてが反戦の立場でおったわけじゃなくて、戦争に対して沈黙か、あるいは妥協に近いような形で政治を過ごした人たちも、あるにはありました。そういう中でですね、今、述べましたような、「誰々集会」というのには積極的に属してはいなくても、個人でそういう非戦思想・平和思想を持った人たちの存在が―ということは、内村鑑三がルターの宗教改革に対しても批判しましたように、時の権力を仰いだような宗教改革ではなくて、戦争に対する非戦とか、平和とか、そういう意味で生き方を一貫するという、そういうことが本当の宗教改革の精神ではないかという、内村の最初の頃言ったことを、個人的には維持してきたような人たちが、個として時局と立ち向かい、個として非戦・平和を貫いたそういう人々ですが、いわば内村が説いた一つの、そういう宗教改革の個人個人への内面化と呼んでいいような出来事を切り拓いていっただろうと思います。
 
浅井:  そういう意味で、単独者として信仰のみ生きるという意味では、内村を通して継承された宗教改革の精神は、一人一人の行動の中に現れていると考えてよろしいでしょうか?
 
鈴木:  そうですね。そういう人たちが生きてきたということは、宗教改革の今年五百年を迎えるにあたって、私たちはまた改めて記憶して良い出来事じゃないかというふうに思えております。しかしその内面化した個人個人もまた手を取り合って、日本人の間で、あるいは世界の中でも手を取り合っていくことが、これからの課題で大事なことだろうと思います。
 
     これは、平成二十九年三月十九日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである