ブッダの禅定
 
              花岳寺住職・駒沢大学名誉教授 片 山(かたやま)  一 良(いちろう)
1942年、兵庫県赤穂市に生まれる。1965年、駒沢大学仏教学部仏教学科卒業。1967年、駒沢大学大学院修士課程修了。大谷大学大学院博士後期課程単位取得退学。1975年より駒澤大学助教授、1985年より同大教授。パーリ学仏教文化学会理事長。兵庫県赤穂市曹洞宗花岳寺の住職。駒沢大学名誉教授。
              き き て         金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「ブッダの禅定」というテーマで、兵庫県赤穂市の花岳寺(かがくじ)住職で駒沢大学名誉教授の片山一良さんにお話頂きます。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  片山先生が、大学をお辞めになる時の最終講義を拝見したんですけれども、その中で仏教の有名な言葉であります
 
諸行無常(しよぎようむじよう)(すべての存在は移り変わる)
是生滅法(ぜしようめつぽう) (是がこの生滅する世界の法である)
生滅滅已(しようめつめつい)(生滅へのとらわれを滅し尽くして)
寂滅為楽(じやくめついらく)(寂滅をもって楽と為す)
 
そのすべての物事は無常であります。それでこれは生滅の法則であります。生滅が滅してしまえば、寂静の世界があって、そこは楽しみの世界でありますよと。まあ大まかにいうと、そういうことになると思うんですが、先生がこの言葉を引用されて説明されたのは、どういうことをおっしゃろうとお考えで説明されたんでございましょうか?
 
片山:  諸行は実に無常なり。「諸行無常」という言葉が最初に出てまいりますけども、「諸行」というのは、私たちがつくり出すもの。私たちの意志であったり、作り出すもの、作られたものもすべてでございますが、要するに潜在的なエネルギーといいましょうか、作りだす力、これは全て作られたものもそうですけども、移り変わるものであると。「常(じよう)」という永遠不変なものはないという見方でございます。この「無常偈(むじようげ)」は、よく亡くなった時に唱えられる偈でもありますけども、それはそういう意味が解れば悲しみが少し消えるであろうと言う意味もあるわけでございます。私たちが作りだすもの、それはどんな場合でも無常である、変化していく。だからその移り変わることを「生じ滅する」という言い方をしますけども、それをよく知るということが大事だという教えでございます。もし私たちが、移り変わることが解れば、ものに執着するということはない。毎年いいことはあるわけでございますけども、ただ良い年ばかりで終わることはない。無常というすべてが移り変わるものであるという理解によって心が安らぐということでございます。ですから、もしも私たちの作りだすものの中に、そういうことがあれば、「愛(あい)・見(けん)・慢(まん)」と言いましょうか、欲望となる渇愛(かつあい)(喉が渇いて水を求めるような貪り)、邪見(じやけん)となる見、慢心(まんしん)となる慢、こういったものが消えていきますから、作りようがないということでございます。ですから諸行はもうない。それが寂滅(じやくめつ)というようにして、安楽であるといわれてるわけでございます。私たちが作るものがない。つまり「慢・見」とか、あるいは普通にいえば、「貪瞋癡(とんじんち)」によって、つくり出すということがなければ、迷うことがない。いつも静まっている。心穏やかである。こういうことが言われてることだろうと理解されます。
 
金光:  ただ現実にはですね、中国の言葉に「恒産(こうさん)なければ恒心(こうしん)なし」と言いますが、ある程度の財産がないと心も落ち着かないよと言うような意味かと思いますけれども、やっぱり財産がないとということをお考えの方も非常に多いんですが、そういう見方、これがまあ正しい見方ではないというふうに、今のご説明だと、正しくないんだろうと思うんですけれども、それをなおしていく方法というのは、お釈迦様は説いていらっしゃるんでございましょうか?
 
片山:  それは「正しく見る」ということによって解決されるということでございます。私たちは、欲はだれでもありますから。ただ一定の生活するための欲と言いましょうか、エネルギもなければならない。ただ私たちはそこから渇愛も解決できますし、慢心も解決できるというということでございます。
 
金光:  ただまあ現実にはですね、自分の考えは正しいと思って暮らす人が多いわけで、その辺のところはどういう方法をご紹介頂けますでしょうか?
 
片山:  それはやはり「無常を知る」ということに尽きるわけでございます。どんなものも移り変わる。たくさんのものを得ても、やがては少なくなっていって消えるであろう。しかしまた少ないものであっても、徐々に増えていって、たくさん得るであろう。それは道理でありますから、やはりその変化するというんでしょうか、それをよく見ると言うことが大事ということで、それをブッダは―お釈迦様は「正しい見方」というふうにしておられるわけです。それは一体どういう意味かというと、それは自分をよく見る。自分はいったい何故迷ってるのか。何故苦しむのか。何故悩むのか。そのもとになるものを見ればいいということですから、結局は自分の体と心をよく見るというより他はない。ブッダの、お釈迦様の見方になると思われますけれども。
 
金光:  今も健康体操とか、健康ブームのようなところがあるわけですけれども、自分の体なら体についても、今おっしゃったような正しく見るということと、それからその正しく見るということに気がついていない方もいらっしゃるわけでしょうが、その辺の違いはどういうところから出てくるんでしょうか? 正しく見る見方というのは、どういうふうに説いていらっしゃるんでしょうか?
 
片山:  私たちは、体の場合は、健康ばかりを見ていこうとしますが、心の部分を忘れてしまう。実際それだけで果たしてできるだろうか。体は健康に保つことができるだろうか、ということでございますが、必ず心というものがあって、同時に働いているということで、むしろ心こそが体を使うものであるというふうに見ていくということが大事だと思うんです。そうしますと、心のありようと言いましょうか、自分の心は一体何なのか、ということ。心は、考えるとか、思うということが基本の言葉でございますけども、それが正しく考えることができるか、正しく思うことができるか、というところに来てしまうということだろうと思いますけれども。
 
金光:  そこのところが、しかし自分が間違ったことを考えていないと思うのが普通で、自分の考えが間違っているのかなとは、なかなか思いにくいところもあるんですが、その辺のその自分の考えを正しく見るという見方というのも、これはこういうふうに見ればいいということも説いていらっしゃるわけでしょうか?
 
片山:  そうでございますね。私たちは、自分は正しいという見方、例えば「ありのままに」という言葉がよく使われるんですけれども、それは表向きはいい言葉ですけれども、でも「自分の思うままに」ということでは、それはそんなにしても罪悪と言いましょうか、自分なりの色眼鏡でもって物を見ていくということにならざるを得なくなってしまいますから、必ず問題が起こるということでございますが、そこで仏は、正しく見るとはいったい何なのか。色眼鏡をかけない見方とはいったい何なのか。それは無常の見方でしかないということで、無常を見るとか、ちょっと難しい言葉でございますけども、「すべてのものが移ろいゆき、空虚である」と見ていく。そして「無我である。どんなものも固定的になるようなものはあり得ないのだというような、執着されるものはどこにもない」という見方があるということを教えられたわけでございます。
 
金光:  それで、でも順風満帆と言いますか、自分が思ってる通りに順調に進めば、あんまりそういうことを考える必要は無いと思うんですけれども、ただその現実には思うようにならない現実の方が多いわけでございますが、それが苦しみとなって現れるわけでしょうけれども、その苦しみに出会った時の対処の仕方、これはどういうふうに説いていらっしゃるんでしょうか?
 
片山:  それはまず目的は一体何なのか、ということから始まると思うんです。人生の目的というと少し大袈裟になるかも知れませんけれども、私たちはそれぞれの目的を持ってやってきますが、その目的がうまくいかない、挫折してしまう。例えば健康でありたいと思うのに、病気になってしまったとか、年老いてしまったとかということになる。それはいったい何なのかという、やっぱり目的に帰することになってしまいますが、その目的は何なのかというとことを、やっぱりそういう時に知るということが大事だろうというふうに思いますけれども。
 
金光:  その目的というのは―「正しい目的」というのは、どういう方向にあるんでございましょうか?
 
片山:  それは一つひとつの経験というんでしょうか、そういう問題があったときに明らかになっていくだろうと思うんですけれども。
 
金光:  その問題が何故起こったかというところをまず見るということ。
 
片山:  そうでございますね。ですから経験がなければ、それは私たちはどんなにしても理解しようがないわけでございます。
 
金光:  じゃ、そういう自分の思うようにならない事態が目の前に起こった場合には、まず何でそういうことになったのかという事実を見るというのが第一歩ということになるわけで、
 
片山:  そう通りでございますね。そう思います。
 
金光:  それで、それを見ていると、その後はどうなるんですか?
 
片山:  結局は、「見る」ということは、自分が一体何なのか。何故迷ったのか。苦しんでるのか、ということを見ることになりますけども、それは自分ということがわからないということです。そして自分とは何かと見ると、どんなにしても体と心を見ていかなければならないということになると思うんです。体とは一体何かがわからない。解るといっても形あるものばかりと思ってしまいますけども、それはちょうど食べ物と一緒で、口から取り入れるもの―「食べ物」と呼びますけども、どこで食べてるのかっていうと、口かっていうと、そう言えるか。舌ではないか。歯ではないか。喉ではないか。胃腸ではないか。だから、そのように健康というものにしても、食べ物にしても、言葉によって、最初のうちは、その通りの常識的な理解だけで終わってしまっているということでございますけども。
 
金光:  上座部と言いますか、テーラワーダの南方の仏教のお坊さんからお話を伺ったんですが、最初にそういう「事実を見る」という訓練がこれ大事なんだそうで、今おっしゃったように、食べるなら食べるにしても、自分が今お箸を持っていると。口に運んだと。で噛んだと。今噛んでいる。飲み込んだ、というか、そういう自分が行(おこな)ってる事実をまず克明に言葉で掴まえないで、今どういうことをしているかというのを、言葉でいちいちラベルを貼るということをおっしゃいましたけれども、それを続けているうちに、事実がどういうふうに流れていくか、展開していくかということに気がついてくる。そうすると、その次におのずからそれに対する対処の仕方も見えてくるというような方向での話でございましたが、今先生のおっしゃったことも、そういう自分の体が、食べ物なら食べ物に対して、どういうふうに行っているかというのをまず見る。そして知ると。それがスタートだということになるわけですね。
 
片山:  そうでございますね。つまり少し難しい言葉になるかもしれませんが、「無数の因によって、条件によってすべてがあるんだ」と。体も無数の肉体とか、血とか、骨とかと言ったものだけじゃなくて、それこそ無数の因となるものがあって、条件になるものがあって、体があるという、そういう見方でございます。心も全く一つのように思いますけども、心も無数の条件によって、心としてあるんだということを見ていけば、無常の意味がよくわかりますし、縁起の意味もよくわかると思うんですが、私たちはどうしても固定的に形を捉えて、音を聞いて、その音だけを捉えて、これが音だとか、声だとかというふうに判断してしまう。そういうところに問題がいつもあるということだろうと思いますが。
 
金光:  今、体のことでお尋ねしましたけれども、私自身の心のことを考えてみますとですね、その心で何か悩むときは、一つの事柄を捉まえてですね、その事柄を、これじゃまずい、こうすればいいのか、ああすればいいんだろうかとか、いわば無常という見方でなくて、そこに苦しみのもとがあるというか、そういう心が一箇所にストップしてる時に、どうも苦しんでることが多いような気がするんですが、やっぱり心を見る場合にも、そういう苦しみのもとがどこにあるかというところから見るわけでございましょうか?
 
片山:  そうでございます。心がいったい何かということですね。心はどこまでも動いてしまうもの、一瞬として留まることがない。例えば音を聞けば、耳の心が動きます。耳識(にしき)というものが動きますし、物を見れば、眼識(げんしき)という眼の心が動きますし、皮膚が何か風が当たってくれば、ああいいなという時には、皮膚の心―身識(しんしき)と言いますけれども、そういうような心はあらゆるとこで働いていっている。とりとめもなく働く、そういうものだということをよく知らなければならないんですね。
 
金光:  それでそういうふうに動いているものだということがわかると、引っかかる、それ以外にないというふうに思う必要がないわけですね。
 
片山:  なくなりますね。そのような見方をしていきますと、それ以外のことを考えないですから、そのことだけを考えてきますから、心が乱れるということがなくなるということでございますね。
 
金光:  それと同じように、体と、それから感覚と心と、その次に仏法の「法」というのがありますね。「法」というのは、これはどういうふうに見ればよろしいんでしょか?
 
片山:  たくさんの最も難しい理解になる言葉だと思います、仏教におきましては。ただ大きくは二つ、一つは、「物」ということでございますね。物質というか、物というんですか、存在するもの。「その存在するもの」これが法と言われます。これが仏教の仏法になるものだと思います。もう一つは、端的に「教え」でございますね。その物というものと、存在するものというものと、それから教えという法を大体頂いておけばよろしいんじゃないかと思いますけども、私たちが法の実践をするという時も、その両者を見ていくとなります。いずれにしてもそれは支えるもの、支えられるものになる。すべて私たちを支えてるものが、これがものでありますし、精神的には教えとなるものでもありますし、ダンマ―ダルマ(「たもつ」「支持する」などの意味をもつ動詞からつくられた名詞)というもとに戻ってみても、支えるものでございますから、その理解で、まず二つ理解していかれればいいと思うんです。
 
金光:  今のお話を伺いますと、例えば私たちでなく、私でいいんですが、私を支えるものということになりますとですね、自分という肉体があると普通考えますけれども、
 
片山:  それも法です。
 
金光:  肉体を構成しているものも、
 
片山:  それも法です、
 
金光:  それから食べなきゃ生きていけませんので、食べるものも法ですし、あらゆるものが、
 
片山:  ものです。
 
金光:  それによって、自分というものを、
 
片山:  保たれている。
 
金光:  保たれている。
 
片山:  そうでございますね。
 
金光:  だから、ということはですね、その肉体にしたって、私なんかも刻々と歳とって変化してわけですし、それから外のものだって随分変化してゆくわけですけれども、自分を支えてくれているそういうものとしての法も、刻々と変化してると。
 
片山:  そう。
 
金光:  自分という、だから固定した塊というのは、
 
片山:  ない。全くない。
 
金光:  ないけれども、つい自分は、自分はというか、ずっとあるように思えがちですけれども、それは間違った考えのうちに入るんでしょうか?
 
片山:  それは欲の考えだと。つまり人の考えで、仏の考えではない。無欲の考えではないということでございますね。無常によらない、常の、永遠という永遠を目指す方の私たちの欲のある世界のものだということでございますね。
 
金光:  物としての法というのは、そうしますと、自分と外との区別がないところで支えられていることになるということになってくると、世の中随分広くなりますね。
 
片山:  そうでございますね。特に実践として法を見ていくという場合の法は何かというと、その場合は私たちを迷わすもの、惑わすものがある。よく「苦」と言いますけれども、私の体・心がそのまんま惑わすものだと見ていくわけですね。
 
金光:  惑わすものであると、
 
片山:  そうです。苦という場合は、私たちが「貪欲」であるとちょっと難しい言葉になりますけれども、私たち、体と心、心を四つにすれば、体とあわせて五つになる。それを「五蘊(ごうん)」(蘊とは、「集まり」の意味で、五蘊とは人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したものである。色(しき)・受(じゆ)・想(そう)・行(ぎよう)・識(しき)の五つを通して、ものごとの認識が起こるとされる。 「色」は物質的存在を示し、「受」「想」「行」「識」は精神作用を示す)と呼んでいますけれども、
 
金光:  「色(しき)受(じゆ)想(そう)行(ぎよう)識(しき)」というあの仏教の言葉でいうと、
 
片山:  そうでございますね。それが丸ごと苦の存在だというんですね。この場合、苦というのは「苦しい」というだけではないんですね。もう一方の意味として、苦という「ドゥッカ」という原語(「苦」「嫌悪」(du)の意味と「空虚」「不安定」(-kha)の意味がある)がありますけども、それはそれは「不安定なもの、空虚なもの」という意味でございますが、「虚しいもの、空虚なもの」という意味でございますが、そういう意味で、私たちの体・心を見ておかなければならないということですね。そうようなことで、体をそのように見ていく見方、それが法を見るという見方としてあるということでございますね。
 
金光:  そういうふうに、苦のもとであるとみると、執着しない方向へいかざるを得ませんね。
 
片山:  その通りでございます。
 
金光:  苦を作ってるもとに一所懸命にしがみついてたら、苦がますます大きくなるというか、
 
片山:  そうでございます。
 
金光:  しっかりくるという。
 
片山:  ええ。私たちが目指すものは、どんなにしてもやっぱり「愛・慢・見」と言いましょうか、いつもあるようにとか、長く続きますようにとか、大きくなりますようにとか、というふうに目に見えたり、感覚的なものでございますけども、それをしている限りはエンドレスになってしまう。
 
金光:  そういう見方が、そうすると、渇愛であり、それから慢心で卑下慢であり、高慢であったり、あるいは間違った邪見であったり、ということなんですよと。そうでなくて、そういう考えを止めるところに、その正しい見方というものが見えてくると。
 
片山:  そうでございます。つまり見通すということですね。私たちの体は何か、心は何か。それを見通すということによって、あらゆるものからできてる。無数の縁からできてる。原因によって成り立ってる。それは無常でしかないんだということ。もう少し言えば、「無我」というんでしょうか、我執というように、なんかつかんでしまうというなものは、何もないんだということ。後には「空」という言葉で示されてきますけども、そういうことを実践の中でも教えてるわけでございますね。
 
金光:  色―物という方の法は、今のご説明で大体方向として検討がつくと思うんですけれども、もう一つの教えとしての法というのは?
 
片山:  教えは「知る」ということでございますね。
 
金光:  「知る」ですか?
 
片山:  はい。教えは知られるべきものということになります。これは「八正道(はつしようどう)」(釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の八種の徳)とか、正しい見方、正しい実践と言われるものです。これに尽きるということでございますが、仏教の根幹になるものだと思います。要するに正しく知るということから始まって、その正しく知るためにどうすればいいかという実践に、
 
金光:  八つの正しい道がある、
 
片山:  そうでございますね。一言で言えば、「中道(ちゆうどう)」と言われることになりますけども。
 
金光:  それとそれから四つの「四聖諦(ししようたい)」(釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた四つの真理である苦・集・滅・道のこと。此縁性を実践的観点から言い換えたもの)というか、四つの教え―聖なる教えという、
 
片山:  非常によくできた教えでございますね。
 
金光:  「四聖諦」というのは?
 
片山:  苦という私たちの現実は苦であるという。そのように見ることが一つの真理でございますね。それからその苦には必ず原因がある。それは何かというと、むさぼり―渇愛と呼ばれるよな欲ですね。それが苦しみの原因であるということ。それをなくするというんでしょうか、私たちはそれを解消するためにどうすればいいか。そのために「八正道」という八つの正しい道があるということを教えられて、それにそれによって必ず苦しみがない、静まりが得られる、みられるということを、これも真理だということで、順序は苦集滅道(くじゆうめつどう)(苦(迷い・人)は、集(渇愛・欲)を因とし縁として起こる。その滅は(涅槃・仏)は、道(中道・無欲)を因とし縁として起こる)という形で、苦諦(一切は苦であるという真理)、集諦(苦には原因があるという真理)、滅諦(苦は滅するという真理)、道諦(苦を滅する道があるという真理)がある。
 
金光:  そうすると、これは頭でそういう教えがあるということを知るということではなくて、実践によって、その苦なら苦を、我が身が本当に今生きてるのは苦であるなぁと。おいしい物をいただいていいなあと。幸せだなあと。のほほんとしてるのは、それは確かにそういう面もあるでしょうけれども、長い目でよくよく見ると、それも苦のもとでありますよという方向で、もう一つその変化の実状を見るという方向へ行かざるを得ないわけですね。
 
片山:  そうでございますね。楽しみという「苦楽」ということで、楽しみということをよく言います。私たちはそれを求めてると思うんですけども、でも一般の楽しみというのは、必ず不安というものが背景にあって、あれは消えてしまうだろうという思いが背景にあって成り立っているものでございます。だからあっという間に楽しいものは消えていく。ですから仏教ではこれを苦の中に含めるということでございますね。
 
金光:  なるほど。
 
片山:  壊れる苦―「壊苦(えく)」というんですが。ですからそのように私たちの楽しみはそれでしかないということであって、それは苦の中に入るものと見るわけでございますね。そのようなものを含む実体があるということで、苦というものを、最初に教えるわけです。それは自分で知らなければなりませんし、自分で知れば、すぐに分かることでございますから、これをどうすれば解決できるだろうかと思う方向に進むわけでございますが、そのために正しく知るということで、実践としては八正道がなされていくということになるわけでございますね。
 
金光:  それから実生活では、例えばウイルスが人間の体に悪い影響を与えると。ということで、ウイルスをなんとか除去―除かなければいけないというような考え方が、これは一般だと思うんですけれども、現実にそういうこともしなければいけないと思いますけれども、でもその自分自身の体というものはですね、清らかなものだというふうに、清潔にしてですね、暮らしていけば、清らかなままでいけるというふうに思いがちですけれども、どうも仏法の場合は、そういう見方だと、どこまでもいけるかというと、どうもそうでないところを見なさいとおっしゃっているようですね。
 
片山:  そうでございますね。非常にそれは徹底した見方になっていると思うんです。無常といえば、全てが無常と見ていかなければならない。今のお話の通り、体というものも、私たちはやっぱり美しいものを求めて行きますけれども、そんなことはありえない。病気になれば、どんなにしたってやっぱり弱ってきますし、体自体が弱りますし、年をとれば老いていきますし、体も変化していきますし、綺麗で済ますことはありえないわけでございすが、その事実からして、常に体も変化しているんだということを見るよりほかはないという見方でございますね。
 
金光:  そうすると、欲の立場から見ると、なんとなく頼りないようなとこに、どこを捉まえていいのかわからないような気がするんですけども、実際そういうしょっちゅう変わっている不浄の身であるし、それからその苦しみが現実だということに気がついてくるに従って、固定したものはなくて、その無常の中で生かされている自分だということに気が付くと、それは苦しみとは離れた世界が、
 
片山:  明るい世界になる。心が晴れた世界になると思うんですね。私たちは、正しく知ることができたら、こんなに明るいことはないと思うんですね。不浄というのは、最初はなんとなく、なんというんでしょうか憂鬱というんでしょうか、暗いイメージの言葉として捉えられがちですけど、そうではなくて、本当に移り変わるという、まさに真実、事実として受け止めることができるならば、こんなに私たちは明るい心は軽い見方っていうんでしょうか、生活ができることはないと思うんですけども。
 
金光:  そういうふうに伺っておりますと、現代の日本では、いろんな格差社会だとか。あるいは引きこもりだとか、現実に適応できない、あるいはその現実の中で本当に困って、自分自身生きていてもしようがないというふうにお考えになることも結構いらっしゃるようですけれども、それは今までのお話を伺っていますと、世俗を生きている人間は、そういうふうに思いがちであるけれども、仏様が説かれた教えというのは、そうでない世界があるんですよと。こういう方向でもう一度自分なら自分を見直して、その現実を正しく見ると、違う世界に気がつくことができるんですよ、ということを説いていらっしゃるというふうに考えてよろしいんでしょうか?
 
片山:  おっしゃる通りだと思います。
 
金光:  やっぱりそれはむしろ困ったときには、もう一度自分自身を見直すチャンスでありますと、そういう受け取り方もできるわけですね。
 
片山:  もっともいいチャンスだと思うんです。今までの自分が一体何だったのかということで。そうしたら、何もそんなに今思っておるほどの苦しいものではなくて、当たり前が、そういう結果を生んだんだということがよくわかってくるわけですし、これからどうすればいいかということも、人として、人間として生きる生き方というものが明らかなってくると思うんです。どんな場合でも、移り変わるものだということでございますね。
 
金光:  お釈迦様の坐禅とか、禅定とか、ブッダの禅定なんていうと、非常に難しいような気がしないでもないんですけれども、今日のこれまでのお話を伺っていますと、我が身をとにかく正しくまず見ると。そこがスタートで、そこには今まで気がつかなかった新しい世界も見えてくる世界、道がちゃんとあるんですよ、というふうに受け取ってよろしいわけでございますね。
 
片山:  おっしゃる通りでございますね。それが「智慧だ」ということだという。「般若(はんにや)」と言いましょうか、私たちは、自分が生きる、どう生きるかということを見る、その智慧が必要でございますから、光でございますから、明かりでございますから、正しい考え方さえできれば、迷うことはないし、いつも明るい生き方ができるということでございます。
 
金光:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年十月十九日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである