極楽ゴッコ
 
              NPO法人「くだかけ会」代表 和 田(わだ)  重 良(しげよし)
昭和二十三年、神奈川県小田原市生まれ。東京教育大学農学部卒。大学在学中から父の主宰する丹沢山中の一心寮(現・くだかけ生活舎)で青少年活動に参加。五三年、大人も子どもも共に育つ同行教育≠フ実践の場としてくだかけ会≠フ活動を始める。五九年から家族と共に寮に生活の拠点を移し、以来青少年との共同生活の中で同行教育を実践・心の平和を育てる活動を続けている。著書に「悩める一四歳・そこからの出発」「心いっぱいに育て」「いきいき教育はあんしん生活から」「両手で生きる」ほか
              き き て         金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は「極楽ゴッコ」というテーマで、神奈川県南足柄市(みなみあしがらし)のNPO法人「くだかけ会」代表の和田重良さんにお話いただきます。和田さんは一九四八年(昭和二十三年)のお生まれ。日頃は神奈川県山北町(やまきたまち)の山の中にある「くだかけ生活舎」で子どもや大人の引き籠もり解決などの手伝いをしている方です。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 
金光:  久しぶりにここの山北町の皆瀬川(みなせがわ)の「くだかけ生活舎」のとこへお邪魔したんですが、和田さんはここへ、山に来られて何年ぐらいになりますか?
 
和田:  ちょうど僕は三十二、三年になるんですけれども、父がここを始めたんで、そこから勘定すると、もう五十年になります。最初の二十年間は通ってきていましたけども、住むようになってからは三十二、三年経ちます。
 
金光:  この頃はお書きになったものだとか、それからお話のテーマなんかを拝見していると、「こころ時間」という言葉を使っていらっしゃるようですが、あんまり普通の生活には「こころ時間」というのは目にしない言葉だと思うんですが、どういうことを考えて「こころ時間」という?
 
和田:  あとで知ったんですけど、自分持ちの時間というのは、ベルクソン時間(心の中の時間の濃密度を表すもの。大好きな人と一緒にいるときや、何かに熱中しているときは、時間がとても短く感じられるのに、勉強や仕事などいやいややっていると時間がたつのが信じられないほど遅い・・・。これがベルクソン時間)というんだそうですね。なんかそういう普通の地球が回っている時間をニュートン時間(時計の針が時を刻んで表す物理的な時間)というんだそうですけど。それが京都大学の物理学者が書いているのを見て、えっ!そういう言葉があったのかと思ったんですけど、僕はなんでそれを思ったかというと、そこに飼っている犬がですね―よく吠えてますけど、あれはあの一回餌をやるのを―僕は餌係なんですけど―餌をやるのを忘れて出かけてしまって、で、帰って来たら、こっち見てジーッと―もう夕方だったんですけど、朝いつもやってるんですけど、一日待っていたわけですよね。そして、あ、しまった、と思って見たら、やぁこいつがどういう気持ちで待ってたかなぁっていうのを思って、あぁそうだ。みんなやっぱりそれぞれの心の中に、時間というのがあって、それはもう長く感じたり、短く感じたりするんだと。同じカップラーメンの、お湯入れて―待ち時間ありますね、あれだって違うんですよ、人によって。あのできるのを待ちきれない子がいたりしますね、何度も蓋を開けちゃうことか。まぁ入れたのを忘れてズーッと遊んじゃっている人もいますから。ちょっとそんなのがヒントで、あぁ、みんな「こころ時間」というのがあるんだなぁっていうのを思ったんですね。
 
金光:  ここの山に、みなさん一緒に入って、年齢も違うでしょうし、いろんな年齢が違ったり、教育を受けた環境も違ったり、いろんな人が出入りなさっているようですけれども、そういう中で引きこもりの人なんかが来ると、まずどういうふうになさるんですか?
 
和田:  まず、どっかに引っ掛かっている囲いというか、とらわれというか、そういうのから解放していくということがあるので、基本的にあまりここはルールがなくてですね、こうしなければいけない、ああしなければいけないというのはないんですけれども、そういうところから、まず解放されるっていう、そういうことですよね。ただそれは何もしないでいれば、そうなるのかというと、そうじゃなくって、案外面白い仕組みだなと思うんですけど、人間の心の中の時間っていうのは、体を使って、手足を動かして行動していくということで、生生としていくんだというのがありますね。そうすると、意味は違うんですけど、もう時間が足りないぐらいよく動くという、そんなふうに仕組みがなってますよね。この頃面白いことをいうんですよ。引き籠もっていた人たちがここで元気出てくるとね。「引き籠もりパワーを見せてやる」とかいうんですね(笑い)。確かにね、引き籠もっている人ってパワー持っているんです。それはね僕ちょっとここ数年でもの凄い一大発見だと思っているんです。あの人たちね、パワーがないんじゃないんですよ。ものすごく持っているんですよ。それを引き出すっていうのが、だれも気が付かなかったんだけど、僕は最近ちょっと自慢げにあちこちでしゃべっちゃってるんですけど、これは絶対これだよというのがあって、それはね「道を求める」というスタートなんですよ。普通は世間では「生き方を教える」という。だから引き籠もりの人が来たら、一生懸命生き方を教えていますよね。
 
金光:  ああしろ、こうしろと。それではダメだぞとか。
 
和田:  そうですね。ここ一切ないんです。薪割りなんかしたって一銭も貰えませんから。ところが何でこんなの? 朝マイナス五度、六度、凄いときはもっと下がりますけど、窓開けっ放しで全真堂で坐っていますよね。何でこんなふうにやっているんだと。そうするとね、自分って何だろうって。この自分って何だろうという、この道を求める入り口は着くんですよ。僕、それが彼等が甦ってくるもとなんだと思うんですよ。まあいろんな不登校の子なんかもいっぱい来ますよね。そうすると、みんなで、じゃドッチボールやろうって、やりますよね。凄く面白いことに気が付いちゃったんですよ。あの引き籠もり系の、ちょっとまあ不登校の子達よりちょっと年齢の高い人たちはね、みんな上手なんです。
 
金光:  へえ〜。そうですか。
 
和田:  逃げるのが上手って言っているんじゃなくて、褒め上手なんですよ。だからそういうものを発揮する場がなかったんだ。どこにもなかったんだというと、ぐるっと回ってきて、あれっ!学校教育って何やってるんだと。そういう、どうしてもそこへ行きますよね。僕はそんなことをやってるとね、やっぱり彼等が甦ってくるもとというのは、ある意味心の中の時間、この時間の持ち方って、焦らされて、ガツガツして、どこかで挫折して、あぁ俺はダメなんだと言って、なんかもう誰とも戦わないという、そうやって。戦う必要ないんですけれども、時間が少しゆったりとれるよなぁていう、そんなところに戻ってくると、自分って何なんだって、みんな思うんですよね。それはやっぱりお釈迦さま以来、言っていた道を求めるということは、どうなんだという、最近ね絶対それだと思って。だからちょっとどうしても必要なのは、宗教性の教育ということが、何にもなくなってしまって、科学を信仰してますから、だからやっぱり信じるってそこにあるわけじゃないよなぁっていうのを、彼等が証明してるっていうふうに思ってます。で、ここに来て何をするのかって言ったらね、いや、僕がちょっと間違ってるかも知れないんですけど、行ずるってことがあるって思っているんです。三つ目に、行ずるという基本がある。何か結果を求めるじゃなくて、それを一生懸命やるという。そういうことがあると思うんですね。ご飯食べるんでも、よく父親に言われたんですよ、僕はノイローゼ酷かったもんですから、親子で同じになっちゃって、ほんとに悩んでたときに、ご飯を食べるのも一所懸命食べなさい。歩くのも一所懸命歩きなさいって。ああ、そんなもんかなぁと思って。あれを行ずるという、そういうことを言っていたじゃないかなと思うんですね。自分は何なんだろう。どう生きるというところに行く前に、自分はいったい何なんだろうっていう。そこに行き着くんだと思うんですね。とにかく自分ということについですね、先ずね、来てすぐ帰る人たちがなんていうかというと、「ここは自分に合わない」というんですね。「合うとこなんかないんじゃないの」というんですよ。そういうところから、繰り返しそんなことやりますよ。自分っていったいそこで思っている自分って何なのかな。昨日も来ましたよ、凄く面白い人が。「自分のことは信じられるんですが」って言ったんです。えっ!凄い人だね。こっち驚いたんですね。「自分の何を信じているんですか?」って、思わず逆に質問しちゃったんですけど。いやぁ、そこら辺のところで、やっぱり自分って言っている意味がおそらく今の教育の中では、凄く狭いことを、自分って言っているんだろうな、と思うんですね。ですから、その辺からいうと、僕らはちょっと凄く恵まれているかなと思うのは、やはり父の存在で、そういうのが同じようにノイローゼしていて、で、こんな山を見つけて、こんなところに来て、僕らは決して中味とか継げるもんじゃないと。「看板は継ぐな」と言われて、それで勝手に「くだらけ」なんて名前付けた。そうしたら、今度息子がここで農業みたいなことやってますよね。あれがまた面白いなと思うんです。だから決してこう継いでいるわけじゃないんだけど、こういう場をいつの間にか提供されていて、それは何なのかな。看板継いでいるわけじゃないんですよ。何かテーマを与えられているような気がして。それはこんな厳しい山の中の暮らしだったんです。まあ冷静に考えてみたら、頭陀行(ずだぎよう)かなとか、なんか変な行(ぎよう)をさせられているのかなと思うわけですよね。でもね、これを与えられているというのは、おそらく何かの意味があったんだなと思うんですね。それは結局自分ということを、どうとらえていくかというテーマを与えられたんだろうと思うんです。本当に厳しいです、ここの生活は。うかうかしていると動物に全部畑やられちゃうし、もう雪が降れば何日も出れないし、雨が降れば道が崩れるし、こんな厳しいとこに何で暮らしてなければならないかと言ったら、あのおじいさまが悪かったんだな(笑い)。こんなところに来たなと言って、思うんですけど。でも若者が来ると、やっぱりみんな同じように、その厳しさを自分の体に取り入れていくんですよ。それで朝から晩まで動いています、あの子たちは。今居る子というのは、今居るのは、二十歳とか、十七、十九ですけど。もうちょっと年齢の高い人たちも来たりしますね。この頃は若い人たちがいるんだから、自分たちもいいだろうというんで、お母さんたちも一緒に泊まりに来たりとかね。それでやっぱりこの厳しさというのはすごい心地良いみたいですね。僕はもうまいっていますけど(笑い)。みんな朝から晩まで本当に生き生きとやっていく。もう何十年もやっていると、いろんな子がいますけど、学歴とかないんですけどね、やっぱり社会的に活躍していく子たちが何人もいまして、彼らはみんなそれを受け取って、社会的な社長とかやっている人もいるしね、すごいんです。いろいろいろんな仕事していますね、みんな。
 
金光:  じゃここで、そういう自分という存在が、ここではこれだけ働くことができると同じように、他の社会ならそこへ出たところで自分に合ったものを見つけてやることができるようになるということですか?
 
和田:  そうだと思います。どんな社会へ行っても、基本は同じですよね。自分を生きるとか、自分を生かすとかという、そういう視点はあるんだと思いますね。人がどうかというよりも、自分が一生懸命生きていくという、そういうのをどっか抽象的なんだけども、体に入っていってるんじゃないかと思いますけど。
 
金光:  よく前の、いわば大先生といますか、和田さんのお父さんの和田重正(わだしげまさ)先生がおっしゃったのは、「思いを切る」というか、「思い切る」ということをよくおっしゃっていたんですけれども、なかなか一つ心配事とかなんかに会うと、その思いを離れることができにくいですよね。「離れ方を教えてください」と言ったら、「とにかくやめるんだ」という、いわばそんな「やってごらんなさい」みたいなことしか返ってこなかった記憶があるんですが。
 
和田:  「朝起きられません」というと、「起きればいい」という(笑い)。
 
金光:  そうなんですよ。
 
和田:  本当にね。でも、そこが一番のポイントですよね、自分というテーマは。やっぱりそこを理屈言っているうちは、一つも実行できない。「ただやればいい」と言われると、「ただやる」ということをやるという。僕も煙草で散々言われたんですよ。「止めたらわかるんだがなあ」と言われたんですよ。本当に止めたらわかるって、やめるのが大変なんでね(笑い)。でもその仕組みは、なるほどって。理屈抜きに思いを切るという。そこにコツと言ったら変ですけど、ポイントがあるんだということが受け取れたら、ものすごく人生は楽になるなと思いますね。楽じゃないんですけど、あまり(笑い)。
 
金光:  でも、そこのところとが共通した地盤ではないかと思うんですが。その悩みというのは、底へ下りていくといいますか、追いかけても追いかけても、底がないというとこ確かにありますね。「心の時間」について書いていらっしゃる中に、「底がないということに気がつくと、そこから離れられる」というようなことを書いていらっしゃるのを見て、あ、なるほど、これは相当悩んだ人だなと思って拝見したんですが。
 
和田:  はい。やっぱり病気とか貧乏という、これは社会的にいうと、人が離れていく条件ですので、その貧乏も並大抵の貧乏じゃない。昨日も家内と言っていたんで、思い出しちゃって。みんなと一緒に、「今日は何か楽しいもの、おいしいものを作って食べよう」と言った時に、急に思い出したんですが、お金がない時ね、人参だけあってね。人参をフライにして、そうだったよな。悪かったよな。あの頃本当に収入がなくて、そこら辺とハコベ採って来て食べたりね、子どもたちと。ただハコベって美味しいのと美味しくないのがあるんです。ウシハコベって不味いんですよ。でもボリュームがあるからウシハコベでもいいかなと思ったりするんですけども。ちょっとそういうのとかね。それからタンポポの根っ子をね、あれ美味しいんですよ、天ぷらにすると。そういうのを急に思い出して、「あぁそんなことあったね」なんて言ったんですけど。貧乏するとわかるんですけど、家内も病気したりして死にかかって、パァッと人いなくなるんです。あっという間にいなくなるんです。ものすごい孤独になりますね。だから貧乏とかね、病気で、特に病気は助かりたいですから、「助けて、助けて」と言いたいわけですよね。いくら唱えてもダメですよねって。父はよくその時に「助けてって、心底助けてって言えばいいんだ」という。それでそういう、そうなのかと思ったんですけど。その時に、苦しみっていうのは底なしなんだという。それでみなさん悩み持って来ますよね。だいたいここまで来る間になくなっちゃう。悩み解消していくんですけど。でもそれで本当に悩んで苦しんで来ますよね。「本当は悩みや苦しみ、底がないんだよ」というと、「えっ!じゃまだ深いところがあるんですか?」と。「そうなんだよ。まだまだね。これからもっともっと苦しむんだよ」っていうと、「耐えられません」という。で、「まぁ何でもいいから教えてください」って。「一生懸命やりますからね。先生、知ってるんでしょう。そういう方法があるって、知ってるんでしょう」と。「いや、ないんだよ。そんなことはないんだよ」と、いくら言っても、「でも先生、みんな来て何とかなっているじゃないですか。なんかあるんでしょう」という。「ないんだよ」。底がないということがわかるというのは、やっぱり僕らにしてみたら、底がないと思ったとたんに、すごく楽になったという経験があるんです。底があると思ってると、いつか上に上がってくると思っていますから。底がないということがわかるということは、どっかで突き詰めていかなければならないというテーマじゃないのかなとは思うんです。ほんとそれこそ答えも何もないんです。何もないんですけど、そんなところを苦しい時は、地獄ですよね。でも起こってくることは、本当に地獄のようなという。地獄ってこんなところなのかなと思うけど、本当は地獄ってもっと大変ですよね。そんな生やさしくないんだけど。でも、皆さんそこで地獄だと思いますよね。どっかでそれを解消したいって思うんですけれども、これが不思議とまぁ地獄と極楽の入り口がね、全く見た目は同じだという。
 
金光:  そうなんですってね。あれは面白いなぁと思って。
 
和田:  本当に面白いですよ。これは僕が言ったんじゃなしに、父が言ったんです(笑い)。
 
金光:  あれ見てね、「あれ、地獄と極楽は、入り口が同じだ」と言われて、あぁそうかと思いましたけどね。
 
和田:  どこが違うかって、父に聞いたら面白いことをいうんですよ。覗いたらね、底から地獄の風が吹いてきて、それに当たったら地獄なんだという。
 
金光:  なるほど。
 
和田:  そうしたらば、そういう話をすると、皆さん、質問して、「じゃ地獄風って何ですか?」って。「どこで地獄風は吹くんですか?」って。あれはケチな根性だと。あれはわかりやすくて良いですね。けちな根性で、出して自分さえよければいいっていう、そういう気持ちでいると、なんか入り口そっくりなんです。それはそうだなと思います。どっちも魅力的ですから。同じようなんだなという。で覗いてみたら、そのケチな根性の方で覗くと、地獄風が吹いてくる。それにあたってしまうと、地獄なんだという。これは大面白いなと思って。それでじゃ極楽というのはどうなんだというと、まああっちこっちでいう、そういう説法はいっぱいありますけれど、ほんとなんか極楽というのはいいとこなんだろうなと思うですけど、じゃあ日常の生活の中で、極楽ってどんなことがあるのかなというんで、それで僕らはちょっと子供向きに「極楽ゴッコ」というのを提唱してやってみようかなと言っているんですけどね。
 
金光:  これはやっぱり自分さえ良ければというか、要するに自分がしっかりして、自分のことは自分が守るんだと。多少人様の迷惑になろうと、自分が得をすれば生きていくのはそういう方向でないとダメだみたいな、それこそ自我を確立する方向ばっかりを追いかけていると、どっちかというと地獄の風がそっちの方から吹いてきそうな気がしますが。
 
和田:  そうですね。今のこの社会の行き詰まりみたいな、なんだか自分さえよければいいという。なんというんでしたっけ、「なんとかファースト」と言う言葉がね。あれは本当に人類が行き詰まってしまうようなという、そういうことだと思うんですね。ところが今の教育のあり方を見ると、どうしたって、そういうことを教えているように思うんですね。成績が悪いより良い方が絶対得だと。人を蹴落としてでも、自分は良い思いをするんだという、そんなことを繰り返しやっていますよね。
 
金光:  そういう人が多いようですね。
 
和田:  そうですね。ですから、逆に面白いことに、学力って凄く低下しているそうですね。
 
金光:  そうなんですか?
 
和田:  ええ。それにもっと面白いのは、この間ニュース見たんですけど、国民一人一人の生産性というのは、すごく低いんだそうですね、日本は。全体としてはそうじゃないんだけど、一人一人の生産性って、すごく先進国の中で低いんだそうですね。なんだろう。こんなにガツガツしているのに、どうしてそうなっちゃったんだろうって思うと、やっぱり教育というのは、どっかにそういう根本的なところがあって、それではいちばん根本は何を信頼しているのか。何を信じて生きているのかという、そこなんだろうなと思うんですけど。なんかその信じているというところが、どうしてもお金を信じているみたいに思いちゃうんですけどね。
 
金光:  未だに忘れないのは、最初に下の小田原の街に「はじめ塾」があったときに、二階に上がってですね、鴨居のところに「三つの鍵」というのがありましてね、
 
ケチな根性はいけない
イヤなことは避けないで
ヨイことはする
 
それが三つの鍵だということになって、「ヨイことはする」というのが、また考えると、善いことと悪いことっていうのはどうなのかというと、これはまたいろいろとこんがらがってきたりするんですけども、そんなむずかしいことじゃあないんだということをおっしゃるんですが。
 
和田:  その善いことというのを、善いこと、悪いことっていう。なかなか世間の基準に合わせて善いことというのは、自分の他にあると。悪いことが他にあるって、そう思っていると、どうにもわからなくなってしまうんですけど、善いことというのは目の前にあること。それを一生懸命やることなんだという。そこに戻ってくると、あ、そうか。善いことっていうのは、どっか外にあるんじゃなくって、自分のこの目の前にあることなんだという。それをやっぱりアレを押していくと、やっぱり自己発見とかね、自己創造とかっていうところに行けるんだという。あの仕組みは、よく「三つの鍵」なんて思いついたなと思うんですけれど。やっぱり入り口の最初の「ケチな根性はいけない」という、あそこが出発点ですね。それでどうしても嫌なことって出てきますから、嫌なことと、それから損得というのがまた面白い仕組みなんですね。本当の損得というのは、なかなか受け取れないようにできていますね。だからああいうことを考えて味わっていくために、あの三つの鍵を作ったんだろうと思うんですけれども。それで自分にとって善いことというのは、目先の損得とか、ご利益とか、そういうものではないんだということですね。だから受験をしてみて、不合格だったなんていうのも、その人にとっては一番いい道が与えられているという、そういうふうに受け取れるんだと思いますね。
 
金光:  このことに気がつくことができると、日々の生きる姿勢が変わってきますし、だからここで「極楽ゴッコ」という言葉―これは表にあまりお出しにならない、しょっちゅう言われることじゃないと思いますけれども、でも極楽の方向へ、地獄の風が来ない方向へ行くということは、これはやっぱり「極楽ゴッコ」の実践で、それをやっていると、本当に地獄の風が吹く方からは、違う方向へ行けますよね。
 
和田:  そうだと思います。これも父が「ママゴトなんだ」という話をしていたもんですから、あ、そうか。このこういう厳しい生活も「ママゴト」なんかと思ったりしていて、それで「ママゴト」にしては、ちょっと厳しいなと思うんですけれど、でもそのつもりでいると、「極楽」って「ゴッコ」でできるという。それも思いつきなんですけれども、まあとにかく隣の人に「おひとつどうぞ」と言える。そうすると、こっちの人も「おひとつどうぞ」と。そうすると、もう本当にお互いの壁が取れて、極楽になれるのかなという。そんな本当に「ゴッコ」なんですけれども、その「ゴッコ」がいいのかなというふうに思っていますね。
 
金光:  本当にこれが実践できたら、良いことの風が吹くんじゃないかと思いますが、今日はどうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十九年四月二十三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである