イスラームという生き方A語りかける聖典
 
                京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授・
                同付属ハダーリー・イスラーム弁明研究聖典長 小 杉(こすぎ)  泰(やすし)
            立命館大学授業担当講師       小 杉(こすぎ)  麻李亜(まりあ)
 
ナレーター:  イスラームの聖典、クルアーンの一節を紹介しながら、イスラーム教徒ムスリムたちの生き方を十二回にわたって読み解いていきます。第二回は、「語りかける聖典」と題してお送りします。お話は京都大学大学院教授小杉泰さん、そして立命館大学授業担当講師小杉麻李亜さんです。
 

 
小杉:  今日は、第二回目、タイトルは「語りかける聖典」です。イスラームで聖典といえば「クルアーン」。日本語では長いこと「コーラン」と言われてきましたけれども、アラビア語の原音に近いのは「クルアーン」。この番組ではそういうふうに呼びたいと思います。その聖典が語りかけるとはどういうことなのか、お話をしていきたいと思います。私は留学生したエジプト・カイロの旧市街ですね、イスラム的な建築がたくさんあるあたりには、クルアーンだけを売る本屋さんがあります。その本屋さんに行きますと、非常に大きい綺麗なものから、手のひらに載るような小さな携帯用なものまでたくさんの様々なクルアーンが売っています。ちょっと不思議な本屋さんですね。クルアーンしか売っていないんですから。この書物の形をしてるクルアーンは、実はアラビア語じゃ「ムスハフ」、紙に書かれたものと呼ばれるんですね。その売り場を見ていると確かにクルアーンは本だと、書物だなぁというふうに思ってしまいます。ところが、実はクルアーンは書物ではないんです。クルアーンというのは、クルアーンという意味そのものが「読まれるもの」という意味ですから、声に出して読む。つまり書物、紙に書かれたものは、クルアーンの本体じゃなくて、朗誦する。覚えて声に出して唱える。それを耳で聞く。この朗誦する聖典が、今日のキーターム(〈和〉key+term:問題解決を図るうえで、最も重要となってくる条件、事柄)―鍵となる言葉です。さあこの朗誦するという。声に出して唱えるというのがクルアーンという聖典の本体であるということは、イスラム教徒―ムスリムが毎日行っている礼拝の様子を見てもすぐわかります。礼拝の最初は直立で、真っ直ぐに、マッカの方角を向かって立つんですが、その時にまずクルアーンの章句を読みます。でも礼拝の最中は、礼拝に集中しないといけませんから、何かを手に持っているとか、礼拝以外の動作をしていけないので、覚えている章句を何も見ないで読むという。暗唱するということをするわけです。しかもクルアーンはアラビア語で読まれなければいけないことになっています。イスラームでは、クルアーンはアラビア語ですから、アラビア語以外にもし翻訳したら、それはクルアーンそのものじゃなくて、他の言葉での解釈なんだと。解釈はいくらしてもいいですけれども、それ自体誦むことはできないことになります。そうすると、アラブ人じゃなくても、まあアフリカの方でも東南アジアの方でもお祈りするときはアラビア語のクルアーンを誦むということになるわけです。アラビア語で暗記して、声に出して唱える。それがクルアーンという、こういうものだというんですね。日本でも「門前の小僧習わぬ経を読む」という言葉がありますけども、クルアーンも実は子供の時に、意味が解らないぐらいの時に耳で覚えてしまうのがいいと。大人になってから覚えると、忘れないようにするのにすごく苦労するというふうに言われています。ここで他の宗教の聖典とちょっと比べるということしてみたいと思います。他の宗教といっても、まあ前回このシリーズの第一回で申し上げたようにユダヤ教、キリスト教、イスラムは姉妹宗教だということですので、その同じ一神教の中でちょっと聖典の形というのを考えてみたいと思います。まずユダヤ教の聖典ですけれども、これ斉唱ですけれども、キリスト教でいう旧約聖書ですね、旧約とか新約という言い方が、キリスト教の言い方なので、ユダヤ教ではそういうふうに言わないんですけども、これは巻物です。しかもその集合体を聖書というふうにしています。で今でもきちんとした儀式をする時には、ユダヤ教徒はこの巻物の形をした聖書を用いている。でその次にキリスト教の聖典は、聖書ということになるわけですけど、これは実は巻物から今度本が発明された時代の移行を示しているんですね。英語で「バイブル」というふうに言いますけど、これは英語でいう「ブック」本の語源にあたるわけです。キリスト教の聖書というのは、このまさに本が発明された時に広がったということなんですね。今、本とか書物と言ってますけれども、書物というのは書かれたものというふうに漢字でも書きますから、書かれたものということで言えば、巻物が本じゃないわけじゃないんですね。これを巻子本(かんすぼん)といいます。巻物の形をした本ということですね。でこれに対して私たちが知っている本というのはこういう、この番組のガイドブックのような四角に切った紙を重ねて、片方の辺だけとめてあるという、これを冊子本(さつしぼん)といいますけど、冊子というのが我々の本の概念にすごく影響しているわけですね。これができたのは、私は、人類のですね偉大な発明、いろいろあると思うんですが、その中の一つだと思うんです。このページという概念ができて、我々よく本で、例えば十五ページ開いてくださいということいいますけれども、こういうことができるのは、この冊子体ができて初めてなんですね。これが成立した時代に、キリスト教の聖書というのは、「ザ・ブック(バイブル)」という形になる。「バイブル」というのは、the book、まさに本そのものということなんですね。そういうふうにして普及した。でユダヤ教の部分では巻物。キリスト教は冊子の形の我々が知っている本。ここに続いてイスラームが出てくるんですが、今度イスラームはそのどちらとも違う聖典を生み出したんですね。それが朗誦する聖典。で聖書やお経など書かれたものを朗誦するというのは、それはどこの宗教にも見られることなんですけれども、イスラームの場合は、最初から耳で聴いたものを暗記し、それを声に出して誦む。それがアラビア語でなくてはいけないと、こういうふうな形をしています。それではどうしてこの耳で聞いて覚えて口に出すということにこだわるのでしょうか。そのことを考えてみるために、先ずクルアーンがどのような形でこの世に現れたのかということを考えてみたいと思います。クルアーンは、七世紀のアラビア半島で、当時生きていたアラブ人の一人であるムハンマドという、その人間が天使を介して受け取った。神の言葉が天使を通じて人間に届けられたんだと、こういうふうに考えています。このことからムハンマドは、「預言者」と呼ばれるわけです。「預言者」というのは、預かる言葉の人ということで、神の言葉を預かる人と。日本語で「予言者」というと、予知とか予告というほうの、予めのこの予をつけた予言者。これは未来のことをいう人ですね。これに対して、この「預金口座」のこの「預」をつけた方、預かるという字の方は、神の言葉を預かるという考え方なので、ムハンマドは必ずしも未来のことを言ったわけじゃないんですね。そのことは、多少は言ってますけど、重要なことではないんです。このムハンマドに最初に神の言葉を届けられたのは、彼が四十歳の時でした。マッカの近くにある山の洞窟の中で、その時できた出来事を、後年ムハンマドが妻に語り残している。それを読むとですね、天使ジブリール―西洋風に言えばガブリエルですけれども―が現れて、それでムハンマドに「読め!」と命じたんですね。ところがムハンマドは読み書きできませんでしたので、「私は読む者ではありません」読み書きができないんですって答える。そうすると、天使がムハンマドをギュッとこう耐えられないほど締め付けてから、また「読め!」って命じるわけです。これが三度繰り返されて、天使が次のように朗誦した。これは、今はクルアーンの「凝血章(ぎようけつしよう)」という中に入っていますけれども、「凝血」というのは、これは人間が母親の胎内の中で段階を追って大きくなってきます。その一段階を指すことで、この人を創ったということに言及する部分です。そこにその時に、天使が彼に伝えたという言葉が記されています。アラビア語では
 
イクラッ ビスミラッビカッラズィー ハラク 
ハラカル インサーナ ミン アラク 
イクラッ ワ ラッブカル アクラム 
 
日本語に訳しますと、
 
読め! 創造なされた汝の主の御名によって
かれは、凝血から人間を創られた
読め! 汝の主はもっとも尊貴なお方
 
と、こういう句だったんですね。それでそれをムハンマドは「読め」と言われたので 三度締め付けられた後に、この言葉を復唱したら、それで天使が納得したと、そういうふうに伝えられています。これが一番最初に届けられた神の言葉。ただムハンマドはそのとき最初に天使は来たとわかったわけでありませんので、何が起こったのか分からず、大変畏れおののいたというふうに伝えられています。でその後やがて預言者という自覚を持つようになって、それから約二十三年にわたって、神の言葉が天使の声として伝えられているのを暗記して、朗誦して周囲に伝えたということなんです。今、「神」という言葉を使っていますけれども、日本語の神というのとイスラームの神はずいぶん違うので、ちょっとをなかなかイメージは分かりにくいかもしれませんでも、日本だと「万(やよろず)の神」とかって言いますけど、人間に似た姿の神がたくさんいて、時にはその姿を顕して人間と話をするということありますけれども、イスラームの神は唯一絶対ですから、姿も見えないし、宇宙や人間を創り、あるいは天、空、海、大地、すべての生き物、形あるすべてのもの創っているわけです。神自体が超越してるという、こういう絶対的な存在なわけですね。そういう絶対的な存在がどうして人間に語りかけるのかと。普通なら口をきくということはあり得ないわけですけれども、そこのところを解決というんでしょうか、説明する仕組みが、人間が言葉を預かって人に届けるんだ。これが預言者という考え方です。これはイスラームだけじゃなくて、ユダヤ教、キリスト教にも共通する概念ということが言えると思います。今、申し上げたことをまとめていうと、イスラム教徒ムスリムという人達は、クルアーンを聞く、あるいは自分で読めば、預言者ムハンマドに届いた本来だったら自分では直接聞くことのできない神の言葉を、そのままの形に聞くことができるんだというふうに確信して、その信念に従い、聖典を守って生きようとしている人々だ、というふうにいうことができると思います。そうして、その人たちムスリムは、ムハンマドがしたように、神の言葉―クルアーンを覚え、朗誦を通じて広め、伝承し、今の時代に至っているということなのです。クルアーンは、ムハンマドが亡くなって二十年ぐらいしてから本の形。それが今の時代だと印刷物になって、最初のカイロの本屋さんの話をしましたけれども、「ムスハフ」という名前で売られている。それでいちばん最初のムスハフは、当時は紙が今のように軽くないですから、両手で持ち抱えるほど大きいものだったというふうに伝えられています。ムスハフというのは、クルアーンを忘れたり、間違って覚えたりしないための補助的なもので、まず大事なのは発せられた言葉、ということなんですね。それではなぜイスラームでは発せられた言葉をそんなに重視するのかということなんですけれども、そのためにはちょっと当時のアラビア本島を考えてみなければいけません。ムハンマドの時代には、アラビア半島ではほとんどの人が読み書きをしなかったんですね。彼自身もしなかったですし、天使が来た時に、「私、読む者でありません」ということを言ったというのを、先ほど申し上げましたけれども、そうしますとこういう時代には何かを言って、言葉を伝えるいるというのは、実際にこの話をして聞くということだけですね。今の時代だったら紙に書いて伝えるのはありますけど、そういうことが日常ではありえないところですから、そうすると、神の言葉があるとすれば、それは誰もが聞ける言葉として届けられる必要があった。さらに大事な背景として、アラビア語が音を大切にする言語だということがあります。それを理解するためにちょっと日本語と比較してみたいと思います。日本語には、同音異義語―音が同じで意味の違う単語というのは沢山ございますね。例えば、平仮名で「はし」と書きますけれども、それは漢字にすれば、川を渡る橋とか、机の端っこの「端」、食事をする時持つ「箸」。まぁイントネーションの違いはあっても音で聞けばすべて「はし」であるというような、こういうことになっています。私たちが実際に耳で聞いている時も、漢字があるということをそれを思って知ってから、パッと文脈で判断できるわけですね。漢字というのは本当にすごくて、私たち漢字だと読まなくて見た瞬間に意味がわかるという。こういうこの形を重視する、文字を重視する言語をロゴセントリック(文字を重視する)を中心とするというんですね。絵とか記号ということですね。漢字も仮名もロゴですし、そういう文化では視覚的なイメージが非常に大きな役割を果たします。その文化の中では、例えば宗教芸術でも、仏像などの視覚的表現が非常に発達するんですね。ところが、アラビア語の場合は、音を重視する言葉なんです。こういうのをフォノセントリック(音を重視する)、こういう言い方をしますけども、アラビア語は、表音文字で声で発する言葉と文字で書いたことは全く同じです。そういうふうにいうと、英語のアルファベットも、表音文字じゃないかなぁと思いますけれども、英語の場合実際にはスペルが分からないと字が書けないことがよくあるんですね。例えば「ナイト」というのは、「夜(night)」という意味もありますけど、王様に仕える「騎士(knight)」の意味もあります。これはスペルが違うんですね。でも耳で聞くと同じようになります。アラビア語はこういうことはありませんので、純粋な表音文字ですから、アルファベットで書いてるものと、声で出しているものはまったく同じです。古典ではアラビア語を「アラブ人の舌」というんです。まさにその音ということなんですね。それで、こういうフォノセントリックな言語の文化では、視覚的なイメージはあまり発達しません。眼で見てといより、音で聞くと分かるということなんですね。よくイスラームでは、「偶像崇拝を禁止したから、彫刻や絵画が発達しなかった」というふうに言われるんですけど、むしろイスラーム以前からアラビア語圏では、視覚的なイメージよりも、音を重視する文化がありました。でその背景をさらに考えると、遊牧文化というものがあると思うんです。遊牧民は移動を常としていますから、財産も持ち運ぶるものですね。家だって折りたためるテントの部分と、それから床にあたる絨毯ですから、これも移動する時には巻いて運んでいくということです。それから身に付ける黄金の腕輪や指輪、こういうのを女性は好むんですけど、これも財産として持ち運べるという。そういう中で最も重要な、しかも携帯が簡単な財産というのが言葉なんですね。でイスラーム以前のアラビア半島では、この美しい言葉を使うということが非常に尊ばれました。美しい言葉、有名な言葉、それを自分の舌と共に持ち運ぶ。そういう貴重な財産であるという。そういう文化の背景がある中に、この朗誦する聖典であるクルアーンが生まれたのです。クルアーンを声に出して唱え伝えてきたムスリム達。そんなムスリム達による朗誦の様子について、娘・麻李亜に話してもらいましょう。
 

 
麻李亜:  小杉麻李亜です。私は文化人類学を専門としており、東南アジアのイスラームの国々を中心に、フィールドワークを行ってきました。その一つ、インドネシア・ジャワ島の農村で行われた朗誦の会の様子を紹介したいと思います。インドネシアなど、東南アジアのイスラームの国々では、誰かが病にかかったり、その人が亡くなったりすると、みんなで集まってクルアーンのヤースィーン章と呼ばれる章を読む習慣があります。ちょうどその集会が、私が滞在していたジャワの村で行われました。立ち会う機会がありましたので、その時の様子を聞いていただきたいと思います。場所は村の小さなモスクです。集まったのは三十人ほどの村人たちです。亡くなった人を悼むために、みんなでクルアーンを唱えます。村の宗教リーダーの男性のリードで、みんなが一斉に声を出します。どうぞお聞きください。
 
ビスミッラーヒル ラハマーニル ラヒーム 
アルハムドゥ リッラーヒ ラッビル アーラミーン 
アッラハマーニル ラヒーム 
マーリキ ヤウミッディーン 
イイヤーカ ナアブドゥ ワ イイヤーカ ナスタイーン 
イヒディナッスィラータル ムスタキーム 
スィラータッラズィーナ アンアムタ アライヒム ガイリル マグドゥービ
アライヒム ワラッダーッリーン 
 
今、お聞き頂いたのは、クルアーンの第一章、アル・ファーティハ章です。
 
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。
万有の主、アッラーにこそ凡ての称讃あれ、
慈悲あまねく慈愛深き御方、
最後の審きの日の主宰者に。
わたしたちはあなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ御助けを請い願う。
わたしたちを正しい道に導きたまえ、
あなたが御恵みを下された人々の道に、あなたの怒りを受けし者、また踏み迷える人々の道ではなく。
こういった集会の冒頭では、必ず唱えられるクルアーンの一番大切な章です。第一章の後にヤースィーン章が読まれます。ヤースィーン章は、死者や遺族の魂を慰めるとされています。預言者ムハンマドも癒しのための章だと言っています。ヤースィーン章でどんなことが語られているかというと、太陽や月などの大きな宇宙の巡りを語ったりすることで、聞くものが神の大きな力を感じ、そのことによって運命を受け入れる力を震え起こせるようにしてくれます。ヤースィーン章の最後は、次の言葉で締めくくられています。
 
神に讃えあれ。
すべてのものの体験は神に属する。
そして汝らは神へと帰りゆく。
 
村人たちはインドネシア人ですが、朗誦はもちろんアラビア語です。村人たちはアラビア語がわかるわけではありませんが、自分達の読む章句の意味はみなよく知っています。大事なのは、原音のままに声を出して唱えることです。それが大切な信仰行為としての朗誦であり、亡くなった人たちのためのよき行いとなるのです。ヤースィーン章は、病院にお見舞いに行った時や、亡くなった人を埋葬している最中にも唱えられます。つまり人が辛い思いをしている時に唱える章句です。人が亡くなったりして辛い思いしている遺族に、なんと言葉をかけたらいいんだろうというのは難しいことですよね。ムスリムの人たちは、クルアーンの言葉をかけることによって、遺族の辛い気持ちに寄り添っているんだという自分の思いを伝えようとします。そのために日頃集まって練習もしますし、毎日のように自分でも唱えます。クルアーンは、昔作られた古色蒼然とした古びた聖典ではなく、今も日々生活の中で使える力強い言葉として根付いているのです。
 

 
小杉:  「イスラームという生き方」その第二回は、「語りかける聖典」と題してお伝えしています。ムハンマドが天使を介して神の言葉を受け取った。そのことを当時のマッカの人々に伝えたわけですけれども、人々は信じませんでした。少しの人を除いては、多くの人はそんなことがあるかというふうに思ったんですね。でクルアーンによれば、その時ムハンマドが伝える言葉を、人々は夢の寄せ集めだとか、でっち上げだとか、否定しました。さらに彼のことを詩人。声も作る人ですね。しかも「ジン憑き」の詩人というふうに呼んだんです。この「詩人」というふうに、私たち聞くと、文学者のように思いますけど、当時のアラビア半島では、文学者というよりですね、大変な言葉を操る人たちというイメージで、「ジン」というのは、眼に見えない精霊のような存在なんですが、アラビアンナイトの「アラジンと魔法のランプ」に、ランプの精が「ジン」と出てきますので、ちょっとわかろうかと思いますけども、その「ジン」が取り憑いているという。でアラビア語で実はこの「ジンに取り憑かれた」というのと、「狂った」というのは同じ言葉なんですけれども、マジュヌーンと言いますね、この「ジンが取り憑く」と、当然正気を失うということですけれども、超常的な能力を発揮することもあるという意味も込められています。つまり「ジン憑き」のジンが取り憑いている詩人というのは、その力によって凄まじい力をもつ詩を口からパッと出していく。言ってみれば、魔術的な言葉を操る人というそういう感じがありまして、これはムハンマドは神の言葉を預かったと言っているんで、彼に対してはすごい否定の言葉なんですけど、もしその人が本当に詩人だったら、これは場合によっては称讃とも取れるような言葉なんですね。こういうアラビア語の世界というものをちょっと考える時に、先ほど音を重視するというお話をしましたけれども、美しい言葉、雄弁な言葉を使えるということは非常に尊ばれる。でその言葉を使う代表が詩人だったわけですから、イスラームが生まれた時代というのは、優れた詩人が活躍する「詩人の時代」と呼ばれています。それは言葉の力を信じる時代ということなんです。ムハンマドを「ジンに取り憑かれた詩人だ」という人たちは、彼が伝えるクルアーンに超常的な言葉の力があるということを感じたんですね。感じたけれども、神だというふうに認めてしまうと、イスラームは神の前での人間の平等を説き、部族主義だとか、お金があればいいんだということを否定しているわけですから、それを認めるのは、当時のマッカを支配してきた人たちにとっては甚だ具合の悪いことでした。だからその代わりに、「ジンが取り憑いた詩人じゃないの」とかですね、あるいは「カーヒン(巫者)」と言われますけど、これ日本でいうと巫女(みこ)のような存在なんですが、当時のカーヒンは男性が多いので、アラビア半島はそういうところでしたけれども、それから「魔術師」とかですね、そういうことを言ってですね、何とか否定しようとした。ムハンマドが伝える言葉に、神の啓示以外の理由付けを見つけようとしたわけです。それに対してクルアーンの中に反論の言葉というのが出てきます。
 
まことにこれ[クルアーンの章句]は、高貴な使徒の言葉である。
それは決して詩人の言葉ではない。[それなのに]汝らはごくわずかしか信じない。
それはカーヒンの言葉でもない。[それなのに]汝らはごくわずかしか考えようとしない。[これは]諸世界の養育主からの啓示である。(真実の日章40-43節)
 
例えば「ムハンマドの言葉は、詩人の言葉でも、カーヒンの言葉でもないというところが出てきますけど、では何なのかというと、クルアーンは、諸世界の養育主―世界を養育する主ですから、神ということですけど―神からの啓示であると。こういうふうに言っています。またそれだけじゃなくて、クルアーンの言葉が、詩人の言葉だというようなことであれば、人が作れるという議論をしていることになりますから、それに対して、
 
もし、わがしもべ[ムハンマド]に下したものを疑うのならば、汝らもそれ[クルアーンの章句]と同じような一章を、作ってみなさい(雌牛章23節)
 
もし我がしもべ―ムハンマドすね―ムハンマドに下したものを疑うのならば、汝らもそれ―つまりクルアーンの章句ですね、それと同じような一章を作ってみなさいという、こういう挑発をしています。これは言わば、イスラームが仕掛けた言葉の超常性、すごい言葉というものをめぐる戦いなわけですね。でその挑戦に対して、ムハンマドを非難する人たちが、クルアーン以上の超常的な力を持つ詩みたいなものを作ろうとしたという。それでその戦いに応じたという記録は資料の中にはありません。こういうクルアーンに対して、イスラームでは、クルアーンは奇跡であるというふうに言います。奇跡というと、我々なんかとんでもない超自然的な現象を起こすとか、そういうふうに思うわけですけど、アラビア語では、これを「ムウジザ(奇跡)」と言います。「ムウジザ」というのはちょっと独特の考えで、超常現象は超常現象なんですけれども、それを真似をするように挑発されてもできないものというんですね。そもそも真似できないもんなら別に論じる必要はないんだって考え方があって、他の人が真似できるはずなのに、できないようなことっていうことなんですね。だからクルアーンは、この挑戦をするということなんですね。挑戦をしてできないと奇跡でしょうという議論をする。そのことを知り合いのエジプト人の語学者の言葉では、「ムウジザ(奇跡)は、その時代の特徴を映し出すのだ」と、こういうことを言っています。クルアーンが登場したのは、先ほど説明したように詩人の時代のアラビア半島で、詩人が言葉の魔力はある、魔力というといけないのかもしれないんですけれども、魔力の力を発揮してですね、部族の戦いがあります。その時に当然武器をもっての戦いもあるんですけど、その後に詩人が詩を戦わせると。例えば部族が戦争で負けたのに、相手の卑怯さをこうあげつらってですね、自分たちは勇敢だったという素晴らしい詩を詩人が詠むと、その戦いで勝っちゃうという。こういうことも起こる社会だったんです。それほどまでにアラブ人たちは言葉の力を信じていた。だからムハンマドは、彼らに挑戦し、神の言葉の優位性を示す必要があったという。こういうふうに時代を反映するんだと言うんですね。このエジプト人の言語学者は、「その挑戦は、今でも有効でしょう」ということを言います。というのは、クルアーンというのは、そこにあるわけですね。耳で聞くこともできますけれども、今ですと、印刷した本の形をしていますから、どんなものかみなわかる。それと同じようなものを、人間が作れるっていうなら作ればいいんだという。別にあの時代だけじゃなくて、これをムハンマドの創作だと思う人だったら、自分ですごいアラビア語のパワーを示してみたらどうですかっていう、そういうふうになっているんですと言います。こういう真似ができると思うならしてみなさい、と挑戦するのが、奇跡という考え方は、聖典クルアーンは、言葉の力を示す奇跡という概念と合わせて、イスラーム独自の発想をよく表していると思います。音を重視するアラビア語の独特の世界、それがイスラームの背景にあるということなのです。
 
     これは、平成二十九年五月十四日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである