イスラームという生き方Bムハンマドという人生モデル
 
                京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授・
                同付属ハダーリー・イスラーム弁明研究聖典長 小 杉(こすぎ)  泰(やすし)
            立命館大学授業担当講師       小 杉(こすぎ)  麻李亜(まりあ)
 
ナレーター:  シリーズ「イスラームという生き方」。イスラームの聖典「クルアーン」の一節を紹介しながら、イスラーム教徒ムスリムたちの生き方を十二回にわたって読み解いていきます。第三回は「ムハンマドという人生モデル」と題してお送りします。お話は京都大学大学院教授小杉泰さん、そして立命館大学授業担当講師小杉麻李亜さんです。
 
小杉:  今日は、イスラームの預言者ムハンマドの人生についてお話したいと思います。昔エジプトのカイロに住んでいた頃、このエピソードがありました。街中で私は知り合いを見かけたので呼び掛けたんです。「ムハンマドさん!」。すると、彼を含めて周りにいた男性四人がパッと振り向きました。みな名前がムハンマドさんだったんですね。そうやって見ていると、エジプトにはムハンマドさんは実にたくさんいる。これ日本で考えると、子供の名前って、違う名前を付けようとするんじゃないかなと思うんで、不思議に思って、その後どのぐらいのムハンマドさんがいるのかと調べました。カイロの首都圏の電話帳を全部調べたところ、男性のおよそ六人に一人がムハンマドでした。その結果を聞いたカイロ大の先生が、「う〜ん、カイロは都会で名前が多様なほうだね。地方なら男性の半分はムハンマドだと思うよ」とおっしゃるんですね。最近聞いたニュースでも、イギリスで新たに生まれた男の子の名前で一番多いのが、ムハンマドだというニュースがありました。イギリスはヨーロッパですから、ムスリム人口は多くありません。南アジアの移民の方を中心にして、精々五パーセントぐらいなんですけれども、その人たちがこぞって男の子にムハンマドと名付けるので、元々のイギリス人の名前を押さえて一位になってしまった、こういう話なんです。で、私自身も知り合いの中にたくさんムハンマドをいて、そうすると、親戚とか友達に同じムハンマドという人が何人もいると、区別が大変です。どうするのかな、と思うと、クンヤというのがあるんですけど、アラビア語で「アブー・〜(〜の父)」という、こういうまあ―実際に子どもがいなくてもいいんですけども、ムハンマドの代わりに、「アブー・ファーリス」とかって呼ぶという。そこまで区別するのに苦労してでも、ムハンマドと名付けたのはムスリムということなんですね。つまりムスリムというのは、「ムハンマド大好き人間」と言っていいと思います。ムハンマド―日本では昔は「マホメット」とか、「モハメッド」とか、いろんな呼び方をしていましたけれども、最近は標準アラビア語の発音に近い「ムハンマド」にそろえられるようになってきました。ムハンマドは預言者。「預言者」の「預」は預かるという文字ですから、神の言葉を預かったもの。こういう役割をしました。日本語でいう未来を予知する「予言者」とは違うわけですね。日本語では、どちらも「よげんしゃ」という漢字は違っても、同じに聞こえますけど、アラビア語では神の言葉を預かる預言者は「ナビー」、未来を予知する予言者は「ムタナッビー」と言いますから、発音も意味も異なります。歴史的には、予言者というのは、古代からたくさんある。イスラムの教えでは人類の祖であったアーダムも預言者だったとされてますけれども、そういう預言者の中に、ムハンマドのように神の言葉を伝える上に、それで新しい法を確立して世の中に広げるという役割の一つもあり、新しい宗教作るという人たちがいます。これは数が少ないです。そうした預言者を特別に、神の使徒と呼ぶわけですね。神に遣わされた人。アラビア語で「ラスール」と言いますけれども、それはそういう特別な使命―預かるだけでなくて、弘める使命が大きくあるということです。ムハンマドは預言者であり、ラスール―神の使徒ということになります。ムハンマドが預言者を名乗ったのは、四十歳の時でした。当時の寿命がどのくらいかわかりませんけれども、けっこう歴史的に調べるのは難しいんですが、まぁでも普通に考えて人生五十年というような感じだろうと思うんです。そうだとすれば、四十歳は晩年に近いわけですね。そして彼が預言者と名乗る以前についての記録の資料は実は多くありません。それはムハンマドが言ってみれば、それまでずっと普通の人生を送っていたからなのです。そんなムハンマドが預言者、あるいは神の使徒という大きな役割を担い、現在に至るまで世界中のムスリムに愛されるようになった。こういうことになったのは何故なのか。まずは預言者になる前の半生から辿ってみたいと思います。ムハンマドが生まれたのは、西暦でいうと、五百七十年頃です。場所はアラビア半島の商業都市マッカ。日本ではメッカとも言いますね。マッカでした。生家はマッカで隊商貿易―キャラバン貿易を主としてやっていた名門部族クライシュ族のなかの小さな一族でした。クライシュ族は血筋の良さという点では折り紙付きです。ただ彼自身の一族はクライシュ族の中で取り立てて有力というわけではありませんでした。さらにムハンマドが生まれる前に、父が亡くなり、母もムハンマドが六歳の時に亡くなりました。親を亡くした子供は孤児ですね、アラビア語で「ヤティーム」と言います。ヤティーム(孤児)は、父がないヤティーム、母がないヤティーム、両親がないヤティームと言いますけれども、ヤティームのムハンマドは一族の長だった祖父―おじいさん、そして彼が亡くなった後は伯父さんに育てられました。伯父さんも商人でしたけれども、裕福ではなく、生活は非常に大変だったようです。その彼の貧しい暮らし向きが良くなったのは、 二十五歳の時、裕福な未亡人ハディージャと結婚してからでした。ハディージャは、ムハンマドよりも十五歳年上で、二度の結婚歴があり、子供もいました。容色優れて商人として成功した女性でした。当時は男尊女卑の時代でしたから、生まれたばかりの女の子を生き埋めにして捨てるような悪習もありましたけれども、一方でこのハディージャのように社会的に活躍する女性もいました。才色兼備のハディージャは青年ムハンマドを自分の方から見初めて求婚したと言われます。結婚後、ムハンマドは妻の仕事を助け、経済的にも不自由しなくなり、四人の娘にも恵まれました。妻と娘たちと平穏に暮らしていたムハンマドは、四十歳の時、山の洞窟で天使の訪問を受けました。天使にギュッとしめつけられ、神の言葉をとなえたという出来事については、前回お話しいたしました。この事件の後、ムハンマドは、最初何が起きたか分からず、恐れおののいて家に帰り、妻のハディージャに「衣を私にかけてくれ!」と叫び、衣にくるまって震えていたと言います。その時の様子は、クルアーンにも書かれています。「衣にくるまる者章」というのがあり、そこには、「衣にくるまる者よ、立ち上がり警告しなさい、汝の主の偉大さを称えなさい」と書いてあります。最初ムハンマドは、彼を自分の頭がおかしくなったのではないかと心配したようですけれども、妻ハディージャは、彼を一貫して信頼していました。そして自分の従兄弟にキリスト教徒がいたので、彼に相談すると、「ムハンマドを訪れたのは天使に違いない」と言われます。そして、その助言を信じて夫を励ましました。ハディージャはそうして最初のムスリム―イスラーム教徒になったのです。このようにして、預言者、そして神の使徒としてのムハンマドの後半世が始まりました。預言者としてのムハンマドの活躍は、歴史で最も影響のある人物の一人に数えられることが多くあります。しかし、四十歳以前の彼は、有力者でもなく、目立った功績があった人でもありません。なぜムハンマドだったのでしょうか? これは直接こうだと答えるのは難しいんですけれども、ムハンマドがどんな人物だったか纏めてみると、浮かび上がってくることがあります。まずムハンマドは孤児として生まれ、貧しく、親戚に世話になって育ちました。そのことはクルアーンにも述べられており、イスラームの重要な教えになっています。クルアーンの「朝章」の章句にこう書かれています。
 
われ(神のことアッラー)は親のいない子供であった汝の見出し、保護したのではなかったか。汝が迷っているのを見出し、導いたのではなかったか。また汝が貧しかったのを見出し、豊かにしたのではなかったか。それゆえ、孤児はこれを虐(しいた)げてはならない。乞う者はこれを拒んではならない。そして、汝の主の恵みはこれを語れ。
 
とこうなっています。ムハンマドのような孤児を保護することは、イスラームの教えの中心にある弱者救済―弱い者を助けるという教えの基本にあります。イスラームは神の前での人間の平等を説き、当時の社会を改革する教えとして登場しました。既存の体制の批判もしています。その預言者が、体制側あるいは支配者の側にいる人ではありえないですね。弱者の気持ちをわかるムハンマドだから、そのような預言者とたり得たと言えるのではないでしょうか。それと同時に、ムハンマドは、血筋が良いということをお話しました。当時は自分たちの系譜を誇る部族社会です。ムハンマドの生まれたクライシュ族は生粋のアラブ族で周辺の部族からも一目置かれる名門でした。このような系譜を重視する社会で受け入れられるには、尊敬されるような出自が必要です。さらにムハンマドは、若い頃から、アラビア語で「アミーン」―誠実な人とか正直者という意味ですが、そう呼ばれていました。彼の誠実さを伝えるエピソードがあります。マッカのカアバ聖殿が洪水で壊れ、再建することになった時のことです。カアバ聖殿は、今ではムスリムが一生に一度は巡礼したいと願うイスラームの聖地です。マッカにあります。「カアバ」というのは、アラビア語では立方体を指します。その名の通り、黒い布で覆われた立方体の建造物の周りを、ムスリムが取り囲んでいる写真を、この番組のガイドブックにも掲載してあります。カアバ聖殿は、伝承によると、古代から聖地として人々の信仰を集めてきました。そのカアバ聖殿が壊れたのでマッカの人々が建て直し、仕上げに「天からの石」と尊ばれていた黒い石を元の場所に嵌めることになりました。この石はもともと隕石だと言われています。しかし誰がそれを置くという名誉を得るべきなのかということで言い争いになりました。そこで「次にここにやってきた人に助言をしてもらおうと。その人のいうことを聞こうじゃないか」と言っていたら、ムハンマドが来たのです。それでみんな「あ、ムハンマドだったら公平だろうと言って、その話を打ち明けたところ、彼は、「布の上に黒い色を載せて、みんなで持ち上げればいい」という名案を出して、争いを収めたと言います。そのように誰もが認める誠実な人だったからこそ、ムハンマドが「神の啓示を受けた」と主張した時も、人々は、例えば「ジン(幽精(ゆうせい))に取り憑かれた詩人だ」と。つまり「霊が取り付いて不思議な言葉を吐く人なんだ」というような批判はしましたけれども、「嘘つき」とは言いませんでした。もう一つ、ムハンマドは常に現実社会と関わり続けていたという点があります。妻ハディージャの家業である商売をして、預言者になった後も、布教活動でなかなか専念できなかったとは言え、仕事を続けていました。生業を営み、社会との関わりを持ちながら、宗教活動をするという、こういう、いわば「二足のわらじ」は、イスラームではよく見られる姿です。宗教と現実社会が一続きというのは、イスラームの特徴です。そしてムハンマドは良き夫であり、良き父、そして孫ができてからは、良きおじいさんでした。それは預言者になる前も、なった後も変わりません。イスラームでは、場合によって、四人まで妻を持つことが認められていますが、最初の妻ハディージャが亡くなった後、ムハンマドには最大十人ほど妻がいました。これは一般の四人とは違う彼だけの特別規定で、夫を亡くした女性の面倒を見たり、弟子との結びつきに強めたりするための政略結婚というような意味合いが強かったと思います。ムハンマドは、イスラームの一夫多妻の決まり、つまり全員を平等に扱われなければいけないという規則に従って、妻一人一人に部屋を設けて、そして自分はそこを回って暮らすというふうに、すべての妻を平等を扱っていたと言います。こうしたムハンマドの結婚は、近代以前のヨーロッパでは「好色」と受け取られました。イエス・キリストの独身生活を尊び、禁欲を美徳としていたから、その目で見たんですね。しかし、ムスリムは結婚生活を続ける預言者という姿から、結婚や家庭生活は宗教的な教えの不可欠な一部だと捉えています。さてムハンマドは、決して甘くは無い現実社会を、人に助けられたり、助けたりしながら懸命に生きる誠実な人間だったと言います。そしてそんなムハンマドに、神の啓示がもたらされた。だからムハンマドの人生は、ムスリム―イスラーム教徒にとって、人生の模範、人生モデルとなっているのです。そして預言者になった後のムハンマドは、神の教えを伝えることに全力で取り組み、やがてイスラーム共同体の指導者、統治者としての役割を担うことになりました。その辺は番組の後半でご紹介したいと思います。ここで現代の若い人たちが、ムハンマドをどう受け入れているのか。娘のマリアに話してもらいたいと思います。
 
麻李亜:  小杉麻李亜です。今日はムスリムに大人気のポップ・ミュージシャン―Sami Yusufをご紹介を致します。イスラームの信仰を、新しいポップ・ミュージック(Pop music:1950年代から1960年代にかけて西洋でロックンロールから派生して現代的形態で始まったポピュラー音楽のジャンルの一つ)の形で歌ったSamiの曲は、世界中のムスリムの間で大ヒットしました。Sami Yusufは、アゼルバイジャン系の両親のもとに生まれたイギリス育ちの男性のシンガーソングライター(singer-songwriter:一般に大衆音楽において、自作自演を行う者を指す)です。一九八○年生まれで、今年三十七歳になりますので、私と同世代です。Samiは、イギリスで西洋音楽の教育を受けて育ちましたが、同時に自分のもう一つのルーツである西アジアの伝統やイスラームの信仰を忘れませんでした。彼は、二つの文化を融合し現代の若者にとって聞きやすい西洋風のポップ・ミュージックの形でイスラームへの強い信仰を歌い上げました。今日ご紹介するのは、デビューアルバムからの一曲「The Cave Of Hira」ヒラーの洞窟というタイトルの曲です。「ヒラーの洞窟」とは、ムハンマドが神の啓示を初めて受けた洞窟のことです。どうぞお聴きください。
(音楽が流れる)
「The Cave Of Hira」は、Samiの曲の中でも少し面白く、神への愛や献身といった抽象的なことではなく、実際の場面、ムハンマドが大天使ジブリール(ガブリエル)の訪問を受けたときの情景を歌にしています。冒頭では、イスラーム神秘主義の音楽の伝統に則って、ドラムの音と同時に、預言者ムハンマドを称えるアラビア語のコーラスが迫りくる力強い男性たちの声で歌われます。その後でSamiが、静かで透き通った声で英語の歌詞を歌います。
 
澄んだ月明かりの夜(On a clear and moonlit night)
ヒラーの暗い洞窟の中で(In the dark cave of Hira)
一人男が鳴き始めた(A man began to cry)
 
この男こそがムハンマドです。Samiは続けて歌います。
 
おぉ、アッラーよ、どうか私に光を見せてください(Oh Allah show me the light)
なぜ私は創造されたのか教えてください(Tell me why I was created)
死んだら何処へ行くのですか(Where will I go after I die?)
この人生の目的はなんですか?(What's the purpose of this life)
なぜ人々は殺し、嘘をつくのですか?(Where people murder and lie?)
どうしたら彼らの腐敗を止められるのですか?(How can I stop their corruption?)
 
ムハンマドは、このように洞窟にこもって世の不正義を憂いて瞑想にふけっていたと伝えられています。ムハンマド自身は、年上の美しい大商人であったハディージャと結婚することで、生活が安定し、家庭生活を営むかたわら、瞑想するゆとりがありました。彼はハディージャとの結婚によって、富裕層の一員となったわけですが、他の富裕層とともに、面白おかしく暮らすことはよしとせず、しょっちゅう人里から離れ、独りで山にこもっていたようです。その彼の憂いに答え、大天使ジブリールが洞窟を訪れ、それがイスラーム誕生の瞬間となります。Samiの「The Cave Of Hira」では、力強いコーラスでアラビア語でムハンマドの様々な尊称を呼び称え、彼がどんなに神に愛され、特別な選ばれた存在であったか。そしてムスリムにとって、どんなに彼が愛すべき人で、愛おしく光に充ち満ちた存在であるかが、熱っぽく歌われます。この歌からは、二つのことが伝わってきます。一つは、ムスリムがどれほどムハンマドを愛おしく思っているかのその熱い気持ちです。ムスリムにとってのムハンマドは、この歌のように、今まさに自分たちの目の前にいて、自分たちのために心を痛め、そして道標となるべく困難な使命を受け入れてくれた恩人であり、その苦労や憂いを目にするたびに、自分たちの心が震え立つような身近でリアルな存在です。またもう一つこの歌がおもしろいのは、ムハンマドの啓示という神からの人類への恩寵が、実際に起こった特別な場所としてヒラーの洞窟がムスリムの心に刻まれていることをよく表しているからです。この洞窟での出来事がなければ、人類はイスラームという闇を照らす光を手に入れることができなかったとムスリムたちはよく知っています。ですから、ヒラーの洞窟という場所で恩寵を授けて下さった神への感謝とともに、困難を引き受け、使命を受け入れ、預言者として立ち上がってくれたムハンマドの感謝と愛情の念を象徴する場所として、彼らの心に刻まれた大切な場所なのです。Samiは、ムスリムが誰しも持っている感情、神への途方もない感謝だったり、預言者ムハンマドへのほとばしる愛と親密さ、また心に抱く特別な場所だったりを英語のポップミュージックという新しい言語と音楽によって、今までにないくらい雄弁に豊かに表現することに成功しました。伝統音楽の中では、そういった言わずもがなの感情や情景は、そこまではっきりとは口には出されません。共通の信仰心やある場所を大切に思う気持ちは、口に出されずともそこにあり、その上でみな決まったリズムとメロディーで、決まった言葉を使って神への信仰心や預言者への愛を表現し感じてきました。しかし、アメリカやヨーロッパで育ったムスリムの若者世代にとっては、そういった伝統音楽は、心には響きません。言わずもがなである土台となる気持ちや情景を自分たちは知らなくて、引き継いでいないからです。自分たちが育った社会は、マドンナの歌やコカコーラ、マクドナルドに満ちた現代の西洋的な社会です。そんな中で生き、自分たちのアイデンティティの拠り所がなかったムスリムにとって、欧米のホップミュージックに引けを取らない音楽性を持ちながらも、それを使ってイスラームの心、イスラームの国々は、伝統的に受け継いできた篤い信仰心を英語という分かりやすい言葉を使って、余すところなく表現していったがゆえに、Samiは新しい世代のムスリム達のヒーローとなりました。(音楽が流れる)
 
小杉:  「イスラームという生き方」その第三回は、「ムハンマドという人生モデル」と題してお伝えしています。ここからはムハンマドの後半世をたどってみたいと思います。四十歳で預言者となり、神の啓示を受けてからのおよそ十三年間、ムハンマドは故郷マッカで布教に努めました。しかしイスラームに加わったのは、せいぜい三百人程度とされています。当時のマッカは一万人ぐらいいたと言われますから、人口の三パーセント。決して多いとは言えません。さらに孤児の頃からずっと守ってくれた族長の伯父と最初にムスリムとなった妻が相次いで亡くなります。ムハンマドはイスラームの最大の保護者、支援者を失ってしまったわけです。危機に直面したムハンマドは、マッカの北三百キロほどのところにある町に、信徒と共に移住することを決意しました。これをアラビア語で「ヒジュラ」。直訳すると「移住」ということなんですが、日本語では「聖遷(せいせん)」と訳されています。「聖遷」の「遷」は、「遷都」都を移すの遷都の遷ですね。それから聖なる、つまり聖なる移住というふうに訳していますけれども、これによってイスラームが大きく発展する契機になったからです。移り住んだ先の町は、現在マディーナ、日本語では「メディナ」と言われることもあります。この町では、実は二つの部族が長年激しい抗争を続けていました。で対立が続いてとうとう疲弊してしまった住民たちは、このイスラームを知ったのをきっかけに、ムハンマドを調停者、あるいは指導者として迎えて町を平和に取り戻そうとしたのです。ムハンマドは、故郷マッカを支配する自分の部族から暗殺されそうになりながらも、ヒジュラを成し遂げ、マディーナの住民とマッカから一緒に移住した弟子達からなるイスラーム共同体を樹立しました。共同体の人々の間を仲裁したり、困窮する人を助けるために義兄弟の契りを結ばせたり、さらにムハンマドは統治の仕事をし、統治者・政治指導者ともなりました。やがて立法・司法、さらに外交も担うことになりました。またイスラームを滅ぼそうとする部族と戦争しなければならなかったため司令官として戦略を立て、戦場では自らも剣をとって戦いました。多くの役割をその身に担い、イスラームを広めるという一大事業に取り組むムハンマドだったわけです。四十歳からのその活躍を見ると、まさに「遅咲きの天才」といえるのではないでしょうか。そしてマディーナ時代ムハンマドの仕事が広がるに伴い、クルアーンの章句は、イスラーム国家に関わる法規定をたくさん含むようになっていきます。クルアーンの教えは、ムハンマドの人生と重なっているのです。しかし、だからこそ、イスラームではムハンマド自身も弟子たちも、その言葉が誰の言葉かを厳密に区別します。クルアーンは神の言葉。ムハンマドの指示はあくまでムハンマドの言葉。混ざることは決してありません。例えばムハンマドが戦いで陣を敷こうとしたとき、弟子が「それは神の言葉ですか? あなたのお考えですか?」と聞いたことがありました。ムハンマドが「自分の考えだ」というと、弟子は「ここは地の利がよくありません」と、進言して陣の場所を変えたところ、戦いでの勝利に繋がった、そういうことがありました。またムハンマドの指示を聞いた結果、ナツメヤシの収穫が減ってしまったことがあります。そうすると、ムハンマドは、ナツメヤシを育てている弟子たちに向かって、「あなたたちの方が、自分たちの事柄についてはよくしているではないか」と述べたと言います。ムスリムは、こうしたエピソードを、戦略や戦術は軍事に詳しい者に、農業は農業に詳しい者にまかせるのでのが良いという、ムハンマドの教えだと捉えています。ムハンマドも人の子ですから、全能ではありません。そういう場合も含めて、ムハンマドはムスリムにとっての人生モデルとなっているのです。そしてムハンマドの人生を見ると、宗教は政治に立ち入らないとか、宗教者は軍事から身を遠ざけるというような制限がないことがはっきりとします。このように宗教と現実社会を分けないのがイスラーム的発想なのですね。イスラームのいろいろな特徴は、いろいろ難しい概念もありますけど、そういうことで考えるよりは、ムスリムとはムハンマド大好き人間なんだ。そしてムスリムが、ムハンマドを人生モデルとするから、イスラームはそういうふうになっているんだ、と捉える方がずっと分かりやすいと思います。これからもムハンマドというモデルが、どんなイスラームの暮らしを作っているのか、引き続いて見ていきたいと思います。
 
     これは、平成二十九年六月十一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである