老子、荘子の言葉を味わう
 
                  東洋思想研究家 境 野(さかいの)  勝 悟(かつのり)
1932年、神奈川県横浜市生まれ。1955年、栄光学園高等学校を経て、早稲田大学教育学部卒業(国語国文学)。同年より、母校栄光学園にて国語科教員として教鞭を執る。1973年、同校を退職。その後、駒澤大学大学院博士後期課程満期退学。現在、神奈川県大磯町にて「道塾慶陽館」を主宰。また、全国各地にて講演会を開催している。
                  き き て   金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「老子(ろうし)、荘子(そうし)の言葉を味わう」というテーマで、神奈川県大磯町(おおいそまち)の東洋思想研究家境野勝悟さんにお話いただきます。境野さんは、一九三二年(昭和七年)のお生れ。鎌倉の栄光(えいこう)学園高校で国語の先生をしておられましたが、その後東洋思想の研究と実践に重点を移して現在に至っている方です。緑豊かな庭に続く日本座敷でお話を伺いました。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  私、もうだいぶ前になりますけれども、こちらの大磯の境野先生のお宅にお邪魔して、その時には仏法の話だとか、あるいは言葉なんかを引用してお話を伺って、現代の私たちが全く気が付いていないところをきちんと説明している言葉があるんだということを伺ってびっくりしたんですけれども、まぁ今日その延長線で、こういう機会であったらこういうことを話したらどうかと、お考えのこともおありかと思うんですが、その辺のとこからお話していただけますか。
 
境野:  そうですね。実はしばらく前ですが、ある会社の管理室が爆発して燃えて、翌朝夫婦の焼かれた姿が出てきたと。そして、しかも焼く前に刺し殺したと。そして、二日後に、まぁ犯人というか見つかったんですけど、それが実は息子さんだったわけですね。そして取調官の方が、「何故殺したんだ」と言ったら、「お父さんが、勉強しろ勉強しろ、と言って」―それでまぁあんまりしなかったんでしょうけど―そうしたら「お前は馬鹿だ、と言われた。そしてなおかつゲーム止めろと言って、ゲームをしていたらそのゲーム機を壊したと。それで面白くなくて、お父さんもお母さんも刺して殺した上に火をつけた」ということがあった。これが一件ではなく、結構そういう息子さんが両親を殺すようなことが起こっているんですね。それはですね、いろいろ理由があるかもしれませんが、一つに、「考えたことは実行する」という。これが中学校によくお話にお伺いするんですけれども、校長室に―全部の学校ってじゃないんですけど、随分多く「自分の考えを持とう」。まず自分の考えを持とう。そして、二番目に、「考えただけではだめだ。考えたことを実行しよう」と書いてある。まあ素晴らしいことですね。その通りだけれども、自分の考えを持とう。本当にいいことだし、考えただけじゃなくて、それを必ず実行しよう。
 
金光:  大事なことではありますけれども。
 
境野:  大事なものであるけどね。
 
金光:  元が問題ですね。
 
境野:  そうですね。今おっしゃったように、何を考えるか。そしてこういうことを考えちゃいけないとか、そういうことの指導が全くないんですね。
 
金光:  そうですね。
 
境野:  全くないんですね。ただ考えろ。ただ子供さん達の考えは大事にしてあげるという。その考え方に対する指導というのは本当にないということだと、そうすると、そういう教育は直にこういう犯罪に直結するかどうかはわからないけれども、やっぱりすごく考えというものを絶対視する。そしてそれを実践するという。これはそのお子さんだけじゃなくて、私たちの一般の生活の中でも、やっぱり考えというものを持って、それを実践する。そして自分の考えを討論とか話し合いによって自分の考えを押し通していくという。そこで勝ち負けじゃないけれども、勝って自分の考えを絶対化していくというようなことが良いことだというふうに、私たちは考えている。特に終戦後というと遠い話になりますけれども、やっぱり私たちの伝統的な考え方―それがいいかどうかは分からないんですけれども―「考えたってしょうがないんだよ」と、「考えた通りにはいかないよ」という。「下手な考え休むに似たり」とか、考えということを、そんなに大事にしなかった私たちが、今極端に何か考えるということを、つまり考えるということは価値観ですね。二つの中でどれを選ぶかということになると思うんですけどね。自分はこう考えたというその考えというのは、いつでも一つの価値判断になると思うんだけど、自分がいいと思ったことだけが良いというふうになってしまっているために、みんなが仲良くいかない。だから、その対応―相手の違った場合の対応の仕方ですね、それもやはり教育したり、あるいは自分も気をつけていないと、ちょっとみんなで仲良くやる世界は出来てこないような気がするんですね。それで老子にですね、ご案内と思いますけども、最も有名な言葉というのに、
 
上善(じようぜん)は水の若(ごと)し(上善若水)
 
ってあるんですね。「上善」というのは、一番善いということは、水のように生きることだよと。もちろん当然一番善いというのは、私たちがみんなそれぞれ理解しあって仲良く平和に穏やかに生きていくということが一番いいことですからね。そういうふうにするためには、水のように生きた方がいいんだよ、ということですね。ご案内と思いますけれども、水のように生きるということは、「水は方円の器に従う」と言ってね。円い器に入ったら円。それから四角の器に入ったら四角になるっていうふうなことですけど。と言って、これは老荘思想でも、だから自分の考えをなくして、相手のいうことを聞きなさいということではないんですよね。そうじゃなくて、やっぱり自分の考え、例えば円だとしたとしてもですね、そこに四角のようなものがあった場合に、やはり自分の考えと、やっぱり相手の考えも受け止めるという。相手の考えが四角なら四角として、四角の考えを受け取るということですね。そしてやはり自分の考えと相手の考えを比べて、そして闘って相手の考えを潰すんじゃなくて、むしろやはり相手の考えをよく聞いて、自分の考えも活かして、二つを合体してまた良い、もっといい考えを作っていくという。それが老荘思想なんですね。ですから、単に受動的に「ハイハイハイハイ」と言ってね、四角になったり、丸くなったりするんじゃなくて、そういう気持ちになって、初めて相手の考えも柔軟に聞けるし、相手のそうすれば考えを聞けばいいとこもありますからね。そうしていった方が、いわゆる上善、みんな善い社会生活ができるんじゃないかなというふうに『荘子』に言って見えるんです。ですから僕ちゃんも、その時にやっぱり「怒るのは無理ないよね」っていうふうに―結局勉強やっていないだけじゃなく、ゲームやっちゃいけない時にずっと止めなかったら、それはお父さんも怒るよね、というふうに対応していくのが、これが上善水の如しであって、やっぱり相手の考えを一つ受けることによって、反省とか内省とかっていう気持ちが起こってくる。そうすれば、殺すことまではね。殺すということは、よく考えると、殺した息子さんの人生もボロボロになって、ほとんど死んだと同じような人生になっちゃうんですよね。相手も自分も死んじゃうというふうな、そういう不幸なことを高々勉強しろとか、しないとかということで、やはりそれでそういう大事な自分の父親までをも殺してしまうという、そういうことのないように、やはりあの野郎殺してやろうというふうに、それもフッと湧いた思いつきですからね。その考えを大事にしてすぐ実行してしまう。ここに非常に危険なことがあると思うんですよ。そしてよく街でいろいろ喧嘩なさっている人なんかを見ても、結構思いつきで、その時にアレしたときに、ちょっと遠慮というものがね、思いついてサッとやるという方も増えているような気もするんですよね。でもそれが人の命を殺めたりなんかするようなことでなければ、それでもいいですけども、とにかくそんなことで息子が両親を殺害するというのは結構あったということ、大変不幸だと思うんですけども、それはふと湧いた思いつきの考えで、それがとんでもない悪い考えでも、いわゆる考えたことは実行しようみたいな、そういうクセになっているような気がするんです。考えたことは絶対だということですね。それでその老子の思想の中でもう一つ
 
和光同塵(わこうどうじん)
 
と言って、「その光を和らげ、その塵に同ず(和其光、同其塵)」という言葉があるんですね。「上善水の若し」と同じように大変有名な言葉ですけども、この「和光同塵」というのは、どういう意味かというと、こういうふうに書いてあるんですね。
 
その鋭(えい)を挫(くじ)き、その粉(ふん)を解(と)く(挫其鋭、解其粉)
 
と書いていますね。「鋭」というのは、鋭い自分の考えですね。鋭い針のような刃(やいば)、あるいは剣のような鋭い考えを、「挫け」というのは、まず砕いてしまえと。そして「粉を解く」それでいろんな紛争ですね、そういうものを解くんだと。まず自分の考えを砕かないと、逆にいうと平和が来ないんだという考えですね。それをたとえていうと、あんまり光が強いと塵があるのがよく見えるよと。光をだんだん無くしてしまえば、塵も見えなくなるよという。言ってみると、あんまり考えというものを、価値観というものを、あんまりにも輝かせていると、逆に相手の欠点が目について許せなくなる。それを柔らかくすれば、相手を嫌だと思っていても、その嫌なことも自分で感じられなくなるよというような形で、光を和らげて、塵を同じくするというふうにして、「和光同塵」と言って、これは有名な老子の言葉になりますけども、その「鋭を挫き」考えを砕くというのは、これは例えばそのお父さんもですね、勉強しなければいけない。成績が悪いのはいけないという考えが、勉強できないやつはダメだという考えがいいかどうかですね。ですから、お父さんの方でも、もし冷静に考えて、やはり考えというものは、実状というものをよく観察して、そこから判断をしなければいけませんね。ですから、息子さんの実状というのをよく考えてみればですね、これはやっぱりいくら言ってもあんまり頭が良くないんだということになれば、いや学校の成績は悪くとも、なんかいろんな手に職をつけるというか、いろんな生き方があるんだから心配ないよということを、そういう考えがやっぱり生まれてくれば、おそらく殺されないで済んだかもしれない。やはりお父さんの方でも、自分の考えを変えることができなかった。それでやっぱり突き進んでゲーム機を壊したり、それからある時には首を絞めたということになると、殺していいというとは思いませんけれども、もしお父さんが、その鋭を挫き、光っている剣のようなそういう考えを砕いてですね、光を柔らかくするようにすると、実はお子さんに対する理解が深まって、いや勉強しなくてもいいんだという考えに変えられる。考えは悪いことじゃないけれども、考えというのはどんどんその実状によって変えていかなければいけない。うっかりすると、考えたことが絶対で、変えないで実行するという。ここにいろんな意味で大きな間違いが起こってくるのかなと。
 
金光:  エリートコースに自分がいかなかったのを、今度子供を行かそうとすると、これはまたえらいことになるもんで。
 
境野:  金光さんのおっしゃる通りで、
 
金光:  考え方の中味が、そういう何か固定観念みたいなものができちゃうと、なかなか鋭を挫くわけにはいかないとこがあるようでございますね。
 
境野:  そうですよ。いや、その鋭を挫くということは大変なことです。それでやはり鋭を挫き、いつでも自分の考えをですねこの悪いときには挫いていくというのに、どうしたらいいかということを、どういう考え方をしたらいいのかということを、老子は語るんですよ。
 
金光:  その語ったときは、どう例を使って?
 
境野:  それがですね、今ここにありますけどね、ちょっと読ませていただきますと、
 
(つち)をうちて以(もつ)て器(き)を為(つく)る。其の無に当たりて器の用あり(?埴以為器、當其無、有器之用)
 
つまり器というのは、粘土を捏ねて茶碗を作ったと。しかし、その茶碗を使うときには、茶碗の中の何にもないところへご飯を入れたり、味噌汁を入れたりしますね。無いところを使う。これはですね、本当に禅と老荘思想は全く同じというんですけど、坐禅はですね組んだときには、それはいついつまでも同じで、それは姿勢を正して顎引いて、鼻から出入りする呼吸を見ろというんですよ。結局禅というのは何かというと、呼吸の大切さを知ることだ。それで私たちは、頭で生きていると思っていたんですけど―それもいいですよ。それも大事ですけども―でも基本的には、私たちは善悪の価値観のない、何にも考えない呼吸の力で生きているんですね。
 
金光:  それはそうですね。言われてみればその通りで、
 
境野:  それですから、朝、よくね僕ら座禅を組んでいるとき、「スーッと吐いたら死んじゃったと思えよ」と言われるんですよ。だけども入ってきますよ。その時に「入ってくるから嬉しいんで、いいだろう。それがお前の命なんだぞ。お前は無い物ねだりして他にばっかり尊いものがあると思っているけれども、生きている上で一番大事なのは呼吸だぞ!」って。「だけど呼吸はつかめるか。どっかにあるかって、わかるか!」って。その空(から)っぽなんですよ。その空(から)の力で人間も生きているということを、これは老荘思想の時代から大事にするんですね。それでこれは荘子という老子の同じ系統で、老子と荘子で老荘思想となりますと、もっともっとこれが具体的に面白い例をもって、つまり理屈でないもののところで働いているんだぞということを説明してきます。それはですね、ちょっと読ましていただきますと、
 
真宰(しんさい)有るが若(ごと)し(若有真宰)
 
主人公はどっかにいるような感じがする。
 
(しか)も特(ひと)り其の朕(あと)を得ず(而特不得其朕)
 
自分がこう生きてますけど、なんかどっかに自分の生命をいろいろ働かせているものがあるような気がすると。だけども、その後はわからん。誰がやっているかわからんことをいうんですね。そういうことを説明しながら、つまり考え方の絶対性というものを否定していくわけです。で
 
行なう可(べ)きは已(はなは)だ信(まこと)なれども(可行已信)
 
誰かわからないけども、行動させると全く信用にたりる。呼吸が止まったことありませんものね。私たち、寝るときに途中で止まったらどうしようかって心配ないものね(笑い)。みんな潜在意識の中に呼吸が止まらないと信じている(笑い)。
 
金光:  それはそうですね。
                              
境野:  そして、
 
(しか)も其の形を見ず(而不見其形)
 
何かいるんだけど見えない
 
(じよう)は有れども形なし(有情而無形)
 
人は好きになる。愛する気持ちが生まれてくる。だけど形は無い。好きになっている気持ちはどこにあるかって、無い。だけどそういう気持ちは起こる。誰が起こすのか、というとこですね。それはあんたの頭の考えじゃないだろうというとこへくるわけですね。そして、
 
百骸(ひやくがい)・九竅(きゆうきゆう)・六藏(りくぞう)、?(そなわ)りて存す(百骸、九竅、六藏、?而存焉)
 
私たちの身体の中は、「百骸」といって、百の骨で出来ていると言いますね。百の骨で出来て、「九竅」両眼・両耳・両鼻孔・口・前陰・後陰の九つの孔―眼が二つ、鼻が二つ、口が一つ、耳が二つ、それから下(しも)に二つですね、それで九つの孔と。六臓―肝・心・脾・肺・腎・心包の六つの臓で出来上がっていると。具われて私たちは生きているんだと。このあとなんですよ。
 
吾れ誰とか親を為さんや(吾誰与為親)
 
あなたはそのうち、どれかと親しんで、あぁお前がいるからこうやって見えるんだ。お前がいるからこうやって良い音楽が聞けるんだ、お前がいるからこうやって、舌があるからこうやって甘い物もうまいと思えるんだと。そういう親しみを一カ所でも感じたことはあるのか、というんですよ。どうですか?(笑い)面白いでしょ。あるいは、
 
(なんじ)皆これを説(よろこ)ばんか(汝皆説之乎)
 
あぁ百も骨があるからほんとにこうやって今生きている。九つの穴が働いてくれるから、こうやって人間として生活ができる。六臓―胃があったり、肺があったり、肝臓があったり、腎臓があったりするから、こうやって今日一日今こうやって話したり、いろいろな楽しみをしておるんだということを喜んだことがあるのかと。そして最後に、
 
其れ私すること有るか(其有私焉)
 
でもそういうけど、その中で一つとして自分のものがあるのか。耳は自分のもの、鼻は自分のもの、自分のものがあるか。全部自分のものじゃなくて、なおかつ考えない、プラス・マイナスも考えない、善い悪いも考えないで、私たちをずーっと生まれてから今日まで働かせてくれる力なんだぞ、と。そこに心を致しなさいと。そういうことを考えなさいと。そうすれば、自分の考えを変えるという時に役立つんじゃないかということを老荘思想はいうわけですね。
 
金光:  しかし面白い考え方ですね。その内臓なんかとお前とどっちが勝つかなんて、これだけ自由に頭が働けば相手を抹殺するかなんていう考えはないわけですね。
 
境野:  金光さんのおっしゃるように、胃と心臓とどっちが大事だろうなんて、ないものね。両方ともそれぞれそれらしく生きている。それがいいとこですね。人間もやっぱりそれぞれそれらしく生きていけばいいんだな。そうなんだ。これがいいというのはおかしいんだ。
 
金光:  そうなんです。自分の都合考えて、そこを掴まえちゃうからおかしくなるんで、、やっぱりそれぞれの働きが目に入ればいいんですけど、頭に浮かんできませんものね。
 
境野:  そうですよね。
 
金光:  だいたい胃がどうしている、肝臓がどうしているかって知らないですもの。お医者さんに行かれたら気が付くくらいで。
 
境野:  検査して数値が出ればね。
 
金光:  数値ばっかり言われると、これまた困る。
 
境野:  そうですよ。胃そのものが数値で動いてないものね。
 
金光:  そうです。
 
境野:  今日、そういう数値だって、明日違うかもしれないしね。
 
金光:  おっしゃる通り。
 
境野:  それを絶対視するというのもね。
 
金光:  困った点があると出てくる。
 
境野:  そういうことになるわけですね。
 
金光:  でもいろんなところでそういう例え話がだとか、荘子という人は非常に柔軟な考え方で、世の中の現実の展開見ながら、困ったりしているのを見ながら、こうやれば楽に生きられるのになぁというようなことに、気がついたことをずーっと述べていらっしゃる。
 
境野:  そうですね。ですから、考えを大事にするということは、それは結構かもしれないけど、大事にしすぎているということ。先ほど金光さんがおっしゃったように、何を考えるかということね。それをやっぱり静かに、「静慮」静かに考えるとか、「静観」静かに観る。そういう徳がやっぱりちょっとなくなってきたような、
 
金光:  基本のところを、今は脇に置いておいて、結果ばっかり言いますのでね。
 
境野:  そうですね。ですから結局「道徳教育」なんて言いますけど、古くの道徳教育というのはこれなんですね。つまり呼吸みたいに何にも理屈考えないで私たちの命を支えている自然のこの見えない力に対して「道」と言ったんですね。そしてその「道」というものは、いろんな徳―徳というのはいろんな働き・功徳を持っているということを教えるのが道徳教育だったんですね。そして道徳教育の裏側にあるのは、だから「いくら自分で考えてもそのようにはいきませんよ」とかいうようなところへ来る。あるいはお互いにみんなそういう目に見えない素晴らしい力で生きているんだから、それを大事にしましょうと。みんなで思えやりましょうという。みんなそういうような素晴らしい命で生きているんだから、本当にお辞儀をして、礼儀を尽くしましょうねっていうのも、そこから出る。道から出てくるんですね。だから道徳教育の原点という、この「道」というものを除いちゃうと、ただ単なるエチケットの教育になっちゃう。ですから老荘というのは、すごいことを言っている。
 
金光:  そうですね。もう四十年も前になりますけど、九十九歳で亡くなった京都の人が、ずいぶん長くなさっていた人ですけれども、病気になって、それで老荘思想を読んでいましてね、そうしたら「物を物たらしめるは物にあらず」と。この言葉がピーンと頭にきましてね。禅も同じじゃないかと。「物を物たらしめるは物にあらず(物物者非物)」と。それの働きによって、自分は生かされている。それでいわば全部落着しちゃった、という方がいらっしゃって、そんなもんかなと思ったら、やっぱり荘子の中に何カ所かあるんですね、そういうのが。今おっしゃっているのも、今の人間は、「ものをものたらしめるものばっかり見ていて、ものたらしめる働きが全然無視していますからね。
 
境野:  そうですね。
 
金光:  だから、そういうところ全部見えられるようになると、頭ももう少し柔らかくなるんじゃなかろうか。そういうところで老荘をもう一度読み直すと、現代の私たちにとっても、ヒントになるもっと頭が柔らかくなる、ヒントになる言葉がいっぱいあるようでございますが、今日はありがとうございました。
 
     これは、平成二十九年六月二十五日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである