聞法の流れを受け継いで
 
               南砺市仏法を聞く会主宰 矢 村(やむら)   弘(ひろし)
               き き て       金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「聞法の流れを受け継いで」というテーマで、富山県南砺市(なんとし)福光(ふくみつ)の矢村弘さんにお話を頂きます。矢村さんは、昭和十年のお生まれ。高等学校卒業後、大学へ進学して就職するというコースを外れ、自称ハチャメチャの生活に入って、およそ十年、後に生涯の仏法の師となった吉江作太郎(よしえさくたろう)さんに出会います。その吉江さんもまた青年時代の悩みを安渓雅亮(あんけいがりよう)という仏法の師に出会って解決したという経歴の持主でした。予期しない出会いによって、聞法の流れを受け継ぐことになった矢村弘さんに、金光寿郎ディレクターが伺います。
 

 
金光:  今日は、矢村さんが、お聞きになった仏法というものが、どういう形で矢村さんに伝わってきたのか。その辺のところを、今ここでこういう形で、じゃ、何をお話しようかとお考えになると、どんなところから話されますか。
 
矢村:  そうですね。安渓先生によって、我が師・吉江作太郎先生は入信されるわけです。その吉江先生は、大正四年の十二月に入信されるわけですけれども、いつもお寺へ行く連中が、「これまでの若さんとなんか様子が違うぞ。どんな心境になられましたか?」ということで、本気の念仏を唱えるようになられたし、念仏の意味がわかったんですね。つまり後の龍谷大学になる前身本山で力を入れた東京高輪仏教大学の第一回卒業生ですから、学問は十分おありですけれども、学問は信仰じゃありませんから、大変な学問がありながら、信仰の問題を解決しなかったのが、大正四年の暮れに、そのまま一つのことに目覚められた。それはそのまま私の先生・吉江作太郎先生が、大正十五年に初めて聞かれて、そして安渓先生は、お話が五年半ほど聞かれますが、それを昭和七年に安渓先生がお亡くなりになった後、二年後の昭和九年から京都の同朋舍(どうほうしや)が出していた全国の仏教雑誌「同朋(どうほう)」というものに「安渓先生語録」という題で、いくつもいくつも十年間も聞いたことを、一口話みたいなものを八百五十項目続くんですが、それを今度は昭和十一年に、「あんた一人で伺わんで、我々青年会の者にも、あんたの聞いた安渓先生の話を聞かせてくれ」という人が現れまして、そして、「そんな話できません」と断っておられるのを強引に引っ張り出して、昭和十一年六月九日に福光図書館の二階で「第一回仏教講演」とでも名づけるべきお話が始まった。そのお話の原稿が―「草稿」と先生は書いてありましたが―それを私が本にしたりしたんですが、これはビックリしました。昭和十一年と言えば、私が一歳なんです、昭和十年生まれですから。おぎゃおぎゃと言っておらんかも知れませんけども、歩けるか歩けない時に、私の先生の第一回仏教講演があったとは、しかも原稿が残っていたとは。そこで何枚もの原稿を見て、先ず第一番目に驚きましたのは、前置きが長いんです。前書きが非常に長い。それでその前書きが、「いよいよこれから「心と境」という題をお付けになった、そこに入らんとする、つまり前置きの最後に、どういう言葉が書いてあるか―草稿にね―「前書きが甚だ長くなりました。しかし本当の話は、前置きも本文も同じ値打ちであります。いのちのあるものは、頭でも指先でも同じ、どこを切っても血が出るのであります。まして宗教は生きることであります。前置きにも本文と同じいのちがあり、血が通っているのであります。どこで割ってでも関連しているのであります。お終いまで聞かねば聞いた甲斐がないということはないのであります。」これはビックリしました。まさしく先生のお話は、私は三千回ほど聞いたと思いますがね。どの一回もこれです。「命があります。生きています」。「さて、掲げました題目、「心と境」とは、古人が言われる「愚者は境をおさめて、心をおさめず。智者は心をおさめて、境をおさめず」というようにとったのであります。すなわち「境」とは、環境という意味であり、私ら幸福というものは、私らの環境をよくすることの如く思っているが、実はそうではない。環境はそのままでいい。心一つが変われば、環境は一向変わらん、そのままでありながら、真実の幸福、真実の生活を得ることができる、というのであります」。これは「幸福とは何か」。「幸福とは、幸福と感じる心に幸福がある」。私らは、幸福とは、名誉か大金持ちになることか、健康とか、愛する女を射止めることか、みんなそう思いますから、ばらばらです。ところが先生は、「幸福とは、幸福に感じる心に幸福がある」。これは否めません。否めませんけれども、ここで問題なのは、「誰も幸福に感じる者がおられん」ということです。ところがお話を聞いてみると、「幸福に感じない者はおらん。感じられん」。そういうことになっていますから、だから先生のお話は面白いんです。そこでここで先生のおっしゃるのは、昭和十一年の原稿で書いてあるのは、「私らに幸福というものは、私らの環境を良くすることの如く思っているが、実はそうではない。環境はそのままでいい」―ここにも「そのまま」が出ますよ―「環境そのままでも、心一つが変われば、環境は一向変わらん、そのままでありながら、真実の幸福、真実の生活を得ることができる、というのであります」。金がないから、財産がないから、心の合わん人間と一緒に暮らしているから、自分は幸せでないのだと、私らは思っているのでありますが、実はそうではないので、心一つが、ご機嫌が悪かったら、たといその環境において、千万の富も積むも、酒池肉林(しゆちにくりん)の栄華生活を持ち来たっても何にもならないのであります。これに反して、心一つがご機嫌が良かったら、環境だの、物だのはどうなっていようとも、私らが幸福を感じることは、私らが日常においてしばしば実験するところであります」。これはお話の草稿です。文章です。しかし如何にも生き生きしています。勿論先生は、こんな原稿を棒読みされるわけではありません。おそらく手ぶらでやっておられると思いますよ。これは「第一回仏教講演」の下書き。延々とその時代が下りまして昭和三十九年、私は二十九歳。私が二十九歳で先生のお話を聞いて、どこにビックリしたかというと、「あんたを待っておった」と言われたんです。これにビックリしたんです。私は、もう親にも勘当の身になって、だから家を放逐されて、東京へ行ってもう放浪生活です。放浪しておったら食べていけませんから、職業も三十五種類変わっている。喫茶店とか、キャバレーとか、そういうバーテンダーの生活をやっておりましたがね。そんなもの一々並べません。で、バーテンをあちこちやっておりましたが、一番最後は、銀座の喫茶店でバーテンしている時に、健康診断がありまして、「おい、君、肺結核だぜ」と言われた。これは昔は死の病ですから大変なことになって。ところが私は、勘当の身ですから家へ帰れん。仕方がない。電報を打ちました。そうすると、「帰っても良かろう」。こんな肺結核になったので福光へ帰ってくるんですけどね。勿論入れてくれません、勘当ですから。そうすると、高岡、金沢にこういう病院があるからと、そこへ入れられる。ところが私の不良ぶりは直りませんから、悪いことばっかりする。それで結局不良患者で強制退院。そうすると、肺結核の身ですので、今度は国立療養所がありましたから、そこへ行くんです。ところが私の不良ぶりが、福光へ届いておりましてね。ケースワーカーか何かに、一筆書かされました。「酒飲むべからず。酒飲んだらすぐ退院」それ一筆書きました。結局そこも強制退院。行くところない。そうすると、もう一つ婦中町(ふちゆうまち)というところに、国立の「ふるさと療養所」というのがありましてね、そこへ回された。そこも強制退院。ところが私の肺結核は軽かった。だからパスとか何か忘れましたが、そういう強力な薬飲んでおりましたからね。それでそういう生活しておったんですよ。それで結局どうにもこうにもならんで、最後は福光に戻って、マージャン荘でズッとマージャンで飯食べていた。家に入れませんから、旅館で宿賃払って、食費それから酒代みんな払って。ところがマージャン強いといっても必ず勝つとは限りませんから、結局負けて、どうにもならんようになって、家へ行って大暴れしたんです。大暴れして、「僕を勘当するからこんな酷い目におうている」と言って、応接間の窓ガラスをパーンとやった。そうすると、ビックリした。自分にビックリしたのは、血が吹き飛んだんです。
 
金光:  ガラスが割れて、
 
矢村:  結局後でわかったのは、ガラスが手の平に突き刺さって、天上に吹き飛ぶような血が。それで親は救急車を呼んでくれるかと思ったら、親がビビって怖がって警察へ電話掛けて、救急車が来んと警察官が来た。それで警察官が救急車を呼んでくれた。とにかくグルグル巻きに痛いぐらい母親はタオル巻いてくれましたけども。それでその大怪我を福井の外科で手術しましたけども、上手こと繋がらない。それで三回も手術して、結局金沢大学から名医が来て助かったんです。しかしちょっと不自由です、未だに不自由です。それで痛いんです、その後は。血が止まっていますから、無理矢理に。もう男泣きに泣いて泣いて、「痛いっ!痛いっ!」と言って、どのくらい泣いたかね。その時に母親が、「吉江さんの話聞いてみんかい」。「ええ、吉江さんとは先生で、あんなもの授業中に生徒叱ったこともない。みんな評判や。あんなものダメ」と言ってね。「あんな先生のところへ何の話聞くのか」「仏教の話」「仏教! 仏教なんか愚かなもんのやることだ。なんまんだぶつ(南無阿弥陀仏)なんか愚かな者のやることだ」ということで。でも痛くてかなわんからね、まあせっかく親が勧められるんだから行ってみるか。それで大きな家の玄関入って、先生が待っておられた。それで「矢村さん、私はね、あんたが私のところへ来るのを十三年間待っておった」と、これには言葉ありません。理解できません、どういう意味なんか。本当なんです、ほんとに待っておられた。
 
金光:  当然暴れん坊ということは、先生もご存知な筈なのに。
 
矢村:  知っておられる。だから高校時代、答案は白紙で出したりしてね、出席日数も足りない。それでもう理屈いうて。それで私が貸本屋から借りてきた本を授業中に読んでいると、それを取り上げていくんです。それで論争するんです。先生が「おい、君は貸本代払ったか」「儂は払っておる」それで理屈詰めです。どんな理屈言うても、先生は私の理屈にかなわん。そんなの先生十分承知なんです。それで「こんな高校で受験勉強しておったって、何が幸福や。人生の目的もわからんでやっておって。人生の目的は何か」というようなことばっかりいうていますから、それは吉江先生は見ておられた。だからこれは面倒なもんや。校長室にも何遍も呼び出される。ところが先生が、「見込みある人間がおる。ここまで待つ人間おるか。これに話を聞かせてやりたいんだ。これが来たもんだから」。
 
金光:  ほんとに「待ってました」というのが、本心からの待っている。
 
矢村:  そうです。それでもう道理を極めて、誠心誠意お話なさった。「そのまま」ということでした。要するに「そのまま」でした。「そのままで検討違いのものを求めている。こうならねば幸せになれん。それだけ余計なんだよ、そのままよいものを。どうかならねばならん。どうしなければならん。これは余計なことだ」。こういう言葉を、「あんたを待っていた」というその後に聞きました。ビックリしました。これなんと道理にかなった教えであるということでね。しかし仏教では、宿習(しゆくしゆう)ということがありますが、なんか知りませんがね、私の道楽ぶりは直りません。先生の話に目が覚めました。こんな話だったか。これは一つ聞いてやろう、という気持ちになりましたけども、それが全然真面目でないですよ。一週間に三回お話がありますから、先輩はみな熱心です。先生の話一本です。みんな行儀がいいですよ。私が一番行儀が悪いけど、その行儀の悪いものを一番待っておられた。その先生のお話に出んのですよ。それでも先生は、後でわかってきましたが、家の人に―奥さんとか、娘さんとかね、「ああ矢村君、今日も来なんだ、と言って、悲しんでいた」ということを後から聞きました。それで大分経ってから、少しずつ真面目になってくるんですけども―真面目というのは、お話を余計聞くようになっていくんですけども、先生にお願いして、「安渓先生語録」というものは、本という形になっておりませんから、私は、先生によく「先生、命ある間に、私に「安渓先生語録」の出版権ください」というようなことをよくいうていましたがね。「そんな余計なことを考えるよりも、一回でも余計お話を聞きなさい」と、この一点でしたがね。全然いい返事されないんです。ところがある時真面目に聞き出したことがあったんです。昭和五十六年でした。これね、私は仏教の勉強なんかしませんがね、ちょっと仏教の本をちょっと読んでみようという気になりましてね、「先生、何か仏教の本貸してください」「わかりました。ちょっと待っておりなさい」いうて、奥へ行って持って来られた本が『信仰生活』という本でした。これが吉江先生が、安渓先生のところへ赴かれるきっかけになった本です。これ凄い本ですがね。それを読んで、〈おう、凄い本やな〉と思いました。それから半年ほどして、「先生、なんか仏教の本ありませんか」いうたら、「ちょっと待っておりなさい」待っておったら、あれ!また『信仰生活』。あれ、また同じ本や。こんな記憶力の良い先生が、私よりも百倍ほど記憶力の良い人がね、こんなこと忘れたのかな。それから半年経って、もう一回言ってみた。「先生、なんか仏教の本貸してください」「ちょっと待っておりなさい」。また『信仰生活』。三回もそういうことがあってね、それでわかったんです。先生は、仏教の本というのは、それしかないんです。世の中に仏教書店に本が何千冊あろうと、本当のものはそれしかない。これを先生が態度で示されたということが、後からわかってきた。まあそういうふうにして、その頃先生の家へ毎日ではありませんけど、よく出入りして、借りた本返しに来んならんから。そういうことが続きましてね、それでその時に「先生、私ね、安渓先生の語録の出版さしてくださいと、こんなこと言うたけども、昔の『同朋』雑誌をスクラップしてね、そこだけ寄せて印刷した本を作らしてください」と言ったら、許可がおりたんです、そこで。そして五十冊作ったんです。親戚の会社へ行って、毎日毎日やっておったんです。非常に何ヶ月もかかりましたがね。それで先生のお話が日曜日になると、五十人ぐらい来ますからね、それが一回で無くなってしまった。その時ビックリする事件が起こったんです。というのは、先輩のおばちゃんたちは、「先生の話を聞かしてほしい」と。先輩が私にいう。逆じゃないかと思いましたがね。次から次へと押しかけて来る、毎日毎日。そういうことがズッと続きましてね。そうすると、週三回の先生のお話が、どうやっても来ないかんようになった。「昨日の話は、ここどうやった」と言われると、私、聞いていないと何にも言えませんからね。どうやっても怠け者が聴きこんだ。改心せざるを得なくなった。それから悪い癖が、マージャン荘へ行けんようになってしまった。それで叔父に軟らかい縄で縛り付けられてね。マージャン荘へ行けんようになった。先生の話に、不熱心だったのが熱心にならざるを得ない。他力ですね、そういうことも他力だと思います。それで予想もせん生活をするようになりましてね。それから一番年配の九十何歳まで生きられたおばちゃんが、「俺になんか書いてくれ」と言われたわけです。何のことかわからん。帰り際に残ってね。「矢村さん、俺になんか書いてくれ」って。「何書け言われるんかね」。「何でもいい」。「いつまで」「いつまででもよい」。こんなわけのわからん注文あるかね。しかし言葉通りにいけば、何でもいいでしょう。後のことは、いつでもいいじゃないか。放っとけばいいがな。しかしこの田舎は、本心を隠すんです。あべこべのことをいうことがあるんです。それで、ちょっと待てよと。ちょっと単純すぎる。この話すぐにわかりませんでしたが、何日かしてわかったんです。あれ、「何でもいい」ということは、「先生の話ならなんでもいい」「いつでもいい」は、「今すぐほしい」。これは間違いない。そういうことに気が付きましてね。なんとやっと気が付いたか、ということで。そうするとノート取っておりませんから、テープ聞き出すわけにもいかんし、それにしてもよわったこというてくれるな。それで右手がちょっと不自由だから、ノット取ったことがない―先輩みたいにね。それで仕方がない、よわったな。でもテープ取っておりますから、テープ聞いてみようか、ということで、テープ聞いておった。そして、「よし、これちょっと文章してみるか」というて、ほんの五分ほどですよ。それで書き出した。そうしたら他のおばちゃん連中に知れた。「あいつばかりでなく、我々にもくれんか」と。そうすると評判になってね。福光、高岡、しまいに、東京まで、北海道まで、それから九州まで行く。大変なことになってね。私のコピー時代と言いまして、それは人気を博しましてね。それも面白いことが始まったんです。だからコピーというのは、先生の一時間なり一時間半、あるいは二時間なりの延々と続く話、どっかちょっと取り出しただけでしょう。しかし先ほど言いました、「前置きも本文と同じ命だ」。そこですわ。ほんのちょっと取ってもね。ここちょっと書き出したら面白いと思ったところには、勿論目を付けておりますよ。どこ取ってもそういう調子ですから。それでそのコピー時代が終わりを告げて、それで昭和六十三年に、今度はいよいよレシーバーを耳にあててね、全部書き出すようなことをやるようになったんです。しかし大本(おおもと)はコピー時代ですから、だからそのコピーのお話も結構たくさん載せてあるんです。これちょっと短いですからね、ちょっと一つ読ましてください。昭和四十二年です。先生はもう六十何歳です。それが、
 
「迷情(めいじよう)の悟(ご)は悉(ことごと)く非なり。悟情(ごじよう)の悟は悉く是(ぜ)なり」
 
こんな言葉から始まる。それで迷情の情は人間のことです。感情を持った動物。人間です。迷は迷い。お釈迦様からすれば、全部迷情なんです。悟情は一人もおらん。
 
金光:  悟情というのは、悟りですね。
 
矢村:  悟りです。その迷情を悟情にしてやりたい。これが仏の願いです。それでどんな学者であろうと、物知りであろうと、人格者であろうと、仏から見れば全部迷情ですから、何を言うておってもあかん。そんなもんで満足するものいないんです。そういうことをちょっと言うてね、「迷情の悟は悉く非なり。悟情の悟は悉く是なり。迷情とは迷うた人、ということですよ」。迷うた人ということは、先生はこれも一言です。「本当の念仏を知らん人のことである」。私は、その念仏なんか馬鹿者の唱えることだと思っていた。親鸞聖人の、師匠の法然上人にしても、「南無阿弥陀仏往生の業には、念仏を先となす」と書いてありますからね。だからそんな最高の人が、念仏をとなえて助かるんですから。先生の話聞いてみると初めてわかりました。先生は、一言で簡単に、「迷うた人というのはほんとの念仏を知らん人のことです。その迷情はどんなによい言葉をいうてもダメである。言葉だけではありませんよ。どれだけ行いしても全部ダメである。生命がないからである。ただ形だけである。例えばどんな美味しいご馳走を食べておっても、迷情は美味しくないんです。だから人のいうことを聞いたらわかる。おいおい、もっと良い酒買うて来い。ダメや。酒の業でない。なんまんだぶつ(南無阿弥陀仏)がないためである。念仏一つあれば、何にも酒は上等の酒でなくても、ご馳走は漬け物だけで良い。念仏さえあれば美味しくてかなわん。それを知らんのである。ちょっとお酒で言いましたが、それは酒って物資ではありませんか。酒は私の五官を満足させる力を持っていますよ。舌、胃袋、そういう五官をですね。それからキュッと一杯飲んだら五臓六腑に沁み渡る。その五臓六腑を満足させる力はありましょう。しかしながら酒という物資はそれ以上のものではありません。それ以上の力を持ちません。それ私の心の奥底を満足させる力は、物資の酒にある筈はない。また魚は鯛の刺身であっても、なんであっても、そんなものは物資の力です。私の五官を満足させても、それ以上のものではありません。なんまんだぶつ(南無阿弥陀仏)でなければ、酒を飲んでどれだけ飲むか。正気を失うまで飲んで―私の図星です、これやっていたんですから―そして心の悩みを忘れさせることができても、だから正気でいながら楽しむことができなくてはダメなんです。正気を失うて忘れても、醒めてくれば、また悩みます。馬鹿馬鹿しい。私の心の奥底を本当に楽しませる酒が、このなんまんだぶつ(南無阿弥陀仏)である。そこを考えねばあかんのですよ。物資では絶対満足できません。やはり仏の声でないとダメである。はい、私の話は、安渓先生のお話は、結局は、結論はなんまんだぶつ(南無阿弥陀仏)である。精神的な真に高尚な教えをギュッと縮めた、圧縮したのが、私が唱えるなんまんだぶつ(南無阿弥陀仏)である。この中には非常に深遠な真理が入っています。またなんと温かい愛情が入っています。私一切許す如来の愛情が入っています」。非常にわかりやすい言葉で、これ仏教用語にすれば、「深遠な真理は信です。温かい愛情は慈悲です」こうなってきますから。だから「慈悲」と「智慧」をどれだけ仏教の学問的に説明しても、あんなものは私らにはまったく魅力ありません。先生のお話が如何に力強いか。先生がお亡くなりになっても、「矢村さん、先生のお話記録したものを我々に送ってくれ」と、ずっと続くんですから。
 
金光:  だから現在も千何百回続いているわけですね。
 
矢村:  はい。
 
金光:  しかしそこまでいくまでの矢村さんの時間というのは、結構時間が掛かって、しかも回り道と言いながら、それがそこへ直結していたと、今から考えると、それが結び付いたということなんでしょうけれども。そんなところで矢村さんのお師匠さんであった吉江先生、その師匠であった安渓先生からの教えが、今の一言の中に圧縮している。どこをとってもそこへ繋がるということだというふうに伺いました。
 
矢村:  もう一つちょっと言うていいですか? それは「安渓先生語録」八百五十項目の中の一節「羨(うらや)まざる生活」という題が付いている。安渓先生はこうおっしゃった。「万物我に具わる。何一つ求める必要はないのだ。信仰は求めざる生活、羨(うらや)まざる生活である」。私は餓鬼です。羨(うらや)ましいものだらけです。名誉が羨ましい、財産が羨ましい、美貌が羨ましい。ところが勿体ない羨まざる生活を只今さして貰っております。このことを一つ語録の言葉を言わせて貰いました。
 
金光:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年六月二十二日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである