苦しみのただ中で―ロゴセラピー入門―
 
                  ロゴセラピスト 勝 田(かつた)  茅 生(かやお)
1945年、疎開先の静岡県御殿場にて生まれる。1964年、東京教育大学(現・筑波大学)付属高校卒業後、上智大学文学部ドイツ哲学科入学。1970年、上智大学哲学科修士課程卒業後、母校の推薦を受けてバイエルン州文部省奨学金を取得、ミュンヘン大学に留学。1974年3月帰国、4月上智大学哲学科博士課程入学。1975年、博士課程単位履修後、再度ドイツに渡る。1976年、アウグスブルグ・コンサヴァトリウムの養成科で児童音楽教育者資格ならびに合唱指揮者資格を取得、レーリングに児童合唱のためのジングシューレを設立。1981年、エッヒングに外国人女性とドイツ市民との交流をはかるための「インターナショナル料理教室」を開設・運営。1982年、カソリック教会で数人の母親と「幼児礼拝の会」を立ち上げる。1984年、エッヒングの市営音楽教室(ムジークシューレ)で当校初めての「母と子の音楽教室」を開設、今日に至るまで幼児のための総体的な芸術教育に従事。1988年、「成人のための音楽教室」も併設しリコーダー・グループ指導。1989年、独りで子育てをする母親のための「ソリスト・クラブ」を設立、様々な苦労をしている母親たちが互いに励まし合う場を提供。1997年、南ドイツ・ロゴセラピー研究所において、エリザベート・ルーカス、オットー・チョックのもとでロゴセラピーの勉強を始める。2000年3月、ヨーロッパに在住する日本人のための「欧日カウンセリングセンター」を開設。2001年、日本人ロゴセラピスト第一号として、日本でのロゴセラピー普及活動を始める(入門ゼミナール)。2006年、「欧日カウンセリングセンター」を「フランクル・カウンセリングセンター」と改名。
                  き き て   浅 井  靖 子
 
ナレーター:  今日は、「苦しみのただ中で―ロゴセラピー入門―」と題して、ロゴセラピストの勝田茅生さんにお話をいただきます。勝田さんは、上智大学とミュンヘン大学で哲学を学び、長くドイツで音楽など、子どもの情操教育に携わってこられました。二十年前にナチスの強制収容所を体験した精神科医ビクトール・フランクルが提唱した心理療法ロゴセラピーと出会い、南ドイツのロゴセラピー研究所で日本人として初めてロゴセラピストの資格を取得されました。現在はドイツでセラピストとして活動されると共に日本で後進の指導に携わっておられます。聞き手は浅井靖子ディレクターです。
 

 
浅井:  ビクトール・フランクルと言いますと、日本ではナチスの強制収容所体験を書いた『夜と霧』という本が有名なんですけれども、彼が精神科医であって、その強制収容所から生還した後に、世に問うたロゴセラピーというのは余り知られていないと思うんですね。フランクルが提唱したロゴセラピーというものの「ロゴ」って、これはどういう意味でしょうか?
 
勝田:  「ロゴ」というのは、ギリシャ語の「ロゴス」という言葉からきてるんですね。日本語では「意味」という。ですから、「ロゴセラピー」というのは、その「意味を軸にしたセラピーというふうな心理治療」というふうに訳せると思います。
 
浅井:  その「意味を軸にした心理療法」ということは、例えば具体的にそれはどういうことなんでしょう?
 
勝田:  例えば、フランクル自身があげている例なんですけども、ある男性が最愛の妻を失った。その時フランクのところに来て、切々とその悲しみを訴えるわけですね。そうすると、フランクルが、「もしこの逆であなたが先に逝かれて、奥さんが残ったとしたら、奥さんはどんな思いになったでしょうね」。そうすると、その男性は、「妻はおそらくとっても悲しんだと思います」と答えるんですね。すると、フランクルが、「それだったら、あなたは、奥さんがその悲しみを体験しないで済むように、その奥さんの身代わりに、今あなたが悲しんでるというふうに考えられたらどうなんでしょうか」って言ったんですね。その時に男性が、すぐにそれを理解して、そうなんだ。私のこうやって悲しんでいることにも、何か意味があるんだ。それによって、自分のその悲しい体験というか、運命をも受け入れることができた。それは何故かというと、意味というものを、体験の裏にある意味を感じることができたと。
 
浅井:  例えば奥様を亡くすとか、それは取り返しのつかないというか、自分の力ではもうどうにもならない出来事ですね。そういうところから来る苦しみとか、悩みである困難、それと共にどう生きるかという時に、その意味を見出すということが非常に肝要である。そこを手助けするセラピーであるというふうに考えていいんでしょうか?
 
勝田:  ええ。そうですね。あのフランクルは、いろんな人たちがその辛い状況にいるということを助けようと思ったんだけど、殊に自分で変えられる状況か、自分で変えられないような運命的な状況か、それを非常に厳格に区別して、そして変えられる状況の時は、その人がなんとか自分の力で変えていくようにと。だけど、自分でいくら努力しても変えられないような状況がある。それは例えばフランクル自身が体験した強制収容所のような経験があるわけですね。そういう中で、そういうとこでどうしたらその体験を乗り越えていくことができるか。それを実際に自分の身を通して考えたということなんですね。
 
浅井:  フランクルがいた強制収容所というのは、本当に理不尽な状況に人間が置かれるという中でですね、そういうどうにもできない運命に絶望して、死を選ぶ人もいたと聞いています。で、その一方で、なんとか踏みとどまって生きる希望をつないだ人たちもいた。そこの鍵に「意味」というのがあったということなんですか?
 
勝田:  ええ。そうですね。「意味」という言葉を使うと、ちょっと抽象的で分かりづらいと思うんですけども、だけどフランクルはいつも具体的な意味を考えていた。その都度の状況で、その状況が私たちに要求してくる意味があるというふうに考えた。例えば、強制収容所の中で誰かが、自分がもしある日解放されて、外の世界に出ることができたら、自分のやり残した仕事がある。自分の生きがいというようなものが、まだ私には残っていると。それからまた私が、もしここを出られたら、また自分の別れた妻に会うことができるというふうな、その誰かのためにというふうな、そういう内容がありますと、人間は今の辛さを変えることができる、というふうに、フランクルは見たわけですね。それはフランクルが頭の中で考えたんじゃなくて、実際に強制収容所の中でもう何百何千という人たちの体験を通して、フランクルはそれがわかったというか、そういう生きていることの内容というか、生き甲斐を持ってる人は、その辛さに比較的耐えることができたというふうに言っているんですね。フランクルも両親と一緒に強制収容所に収容された。その時に結婚してまだ九ヶ月、妻も一緒に行ったわけですね。で、それぞれとも別れてしまったときに、やはりもし自分がここで例えば絶望して自死するようなことがあれば、その母とか妻が帰ってきた、自分の家に帰ったとき、私が来なかったということに、どんなに絶望するだろう。どんな悲しい思いをするだろうというふうに思ったんだと思いますね。だからどんなことがあっても私は生き残らなくちゃいけない。その人たちのためには生き残らないといけないというふうに考えたと思います。またフランクルは、ロゴセラピーという心理療法を考えだした矢先に捕まったわけですから、それを自分が解放された矢先には、その研究を続けたいという気持ちはとても強かったと思います。
 
浅井:  このロゴセラピーっていうのは、フランクル自身が自分の過酷な体験を通して、やっぱり世に問うたものだということなんですね。
 
勝田:  そうですね。一般的にちょっと日本では誤解されてることがあるんですけど、このロゴセラピーは強制収容所の中で生まれてきたものなんではなくて、もうフランクルが二十一歳の時に、講演でこの「ロゴセラピー」という言葉を使ってるんです。ということは、医学の勉強してるときに、すでに彼の頭なかには、このセラピーの構想があったということがわかります。で、それが実際強制収容所で自分の身にそれを適応して、初めてこう完成していったというふうに考えられると思います。でそれがあったお陰で今私たちがロゴセラピーを学ぶという時に、例えば彼の『夜と霧』という本を読む。フランクルが、こんなに大変な思いをして、それを乗り越えてきたんだということが、それでもこの人生にイエスという、そういう人がいるんだっていうことがやっぱり多くの人に納得できるものなんだと思うんですね。ロゴセラピーは、このセラピーとして、セラピーの場で適応されるのが、まぁ例えば三分の一だとすると、あとの三分の二は自分でフランクの本を読んだり、その人生について調べたりして、それが非常にその人たちの苦しみに大きな影響を与えるということがあるんですね。実際に私が日本でロゴセラピーを広めようとして携わっている仕事でも、半分以上の方が自分の辛い体験っていうものをなんとか消化しようとしてやってくるということがあるんです。その時にやっぱり初めはほんとに枯れた花のようにしょんぼりして来る方も、話を聞いてるうちに少しずつく少しずつこう生気を取り戻していく。目がだんだん輝いていく。最後にはなんか、あ、こういう私でも何か人のためになることがあるかもしれないっていうふうな、そういうのをたくさん見てこられたんですね、私は今まで。だからそういう力が、このロゴセラピーにあるっていうふうに私は思っています。
 
浅井:  フランクルは、そのを苦しみの中にある人間、あるいは人間というそのものについては、どういうふうにとらえていたんでしょう?
 
勝田:  従来の伝統的な心理学では、人間というものを、心と体二つの要因からできているというふうに見るんですけども、そのロゴセラピーですね、フランクルの考え方は、人間に、その上にさらに精神という力があるっていうふうに考えたんですね。
 
浅井:  精神という力。
 
勝田:  ええ。その精神という力は、どんな人間にも生まれながら備わっているもので、たとい心や体が病気でも決して精神だけは病気になることがないというふうに考えたんですね。だから精神というのは、心や体の病を治すための自己治癒力になり得るというふうに、精神というのは器のようなもので、それ自体その中にまだ初めは何も入ってないわけなんですね。だけど今自分が例えば大変困難な状況に陥ったと。その時私はどうしたらいいんだろう。そこでじっと耳を澄ますと、その精神の中に何か響のようなものが伝わってくる。それが「意味の呼びかけ」とフランクルはいうんですけども、それが私自身の考えでは、苦しみが強ければ強いほど、その中で聞こえてくる力というものが強くなるような気がするんですね。人間が真っ暗な穴の中に落ち込んでも、明かりも見えない。外に出る出口も見えないっていう時にこそ、何か本当の究極の外からの呼び掛けというか、そういうものが聞こえてくるんだと。そこで初めて精神という器が満たされる。そこで力を得て、あ、私でも何かできるかも知れないという気持ちになる。それで泣いている心と体がそれで癒されて、だんだんに力がついていくというふうに考えたらいいと思います。
 
浅井:  そのランクルが、体だけではなく、心だけでもなく、さらにその精神というものに着目していったというのは、どういうところからだったんでしょう。あるいはその精神の力の何をフランクルは大事というふうに考えたんでしょう?
 
勝田:  その精神の力が増しますと、私たちは自分の持っている不安感とか、絶望感っていうものからある程度距離を開けることはできるんですね。その泥沼の中にアップアップしているだけじゃなくて、ちょうど鳥が空から下を見下ろして、一体自分がどういう状況にいるかということを客観的に多少把握することができる。それだけじゃなくて、自分を取り巻いている人たちも、どういう気持ちいるかっていうことが見えてくるんですね。そうすると、自分の、ただただ自分のためだけにというふうなエゴを乗り越えたそういう一段上の意味というものに、人間が近づくことができるというふうに、フランクルは考えた。で、フランクルの元々のロゴスだけを考え出した出発点というのは、体の病気を持っている人たちが来ると。どうしても医者というのは、その身体だけを見て、その人の生き方とか、生きる態度というものを見ないで終わってしまう。だけど本当の癒しというのは、やはり精神的な心の持ちようというか、それが決定的な要因なんだということを言いたかったんですね。ですから、それが例えば外科でも、耳鼻咽喉科でも、どのお医者さんでも人間の体を扱う者は体だけを見ないで、その人間全部を見る。立体的に見る。そういう治療して欲しいというので書いたのが、ドイツ語で「Liebe und Tod」というのは、日本語で『死と愛』になったわけなんです。それが彼の主要テーマでした。
 
浅井:  それは、強制収容所でフランクルがいつか世に問いたいと思っていたひとつの論文でもありますね。
 
勝田:  ええ。そうです。それは実際にもう自分が収容所に間もなく入るということが分かってから原稿にしたんです。で、それを収容所に入る前に、冬のコートの裏地の中に縫い込んで収容所に持って行ったんですね。初めの収容所はテレージエンシュタットというとこなんですけど、そこでは二年間それを自分で持ってることができたんですけど、アウシュビッツに入れられた時に取り上げられた。で、それがフランクルは非常に辛かったと言います。その時に、代わりに与えられた囚人服で、その中に小さな祈りの紙切れが入っていて、それに「あなたのすべての力を尽くして神を称えなさい」という言葉がある。そこで彼は、そのログセラピーを、今度は頭の中ではなくて、自分の身をもって実証してみようというふうに決心したんですね。それがまあそこで彼が、自分はアウシュビッツに入れられたことの意味というふうに捉えたわけなんですね。
 
浅井:  あまりに過酷な運命ですから、意味というには何か辛すぎるというか、いうことだと思いますけれども、でもそれが逃れられない以上、そこに何かの意味を見出すことで、その中に生き抜くというその態度、覚悟を生み出すことができた。
 
勝田:  そうなんですね。その通りです。だからさっき、初めにお話した、妻を亡くした男性の悲しみと同じように、そこに意味を見出せれば、人はどんなに辛い事でも受け入れることのできると。フランクルの場合も、強制収容所の地獄のような体験を、そこに自分の意味があるからというふうに考えたわけなんですね。それをどうやって乗り越えるか。それをいつか解放された暁には、他の人にも伝えたいというふうに思ったわけなんですね。そのフランクルが、意味でも、「主観的な意味」と「客観的な意味」というのを、非常に厳密に区別した人で、「主観的な意味」というのは、こうすれば自分は得になるだろうとか、こんなことを言えば、自分は良い評価得られるだろうとか、いろいろ自分の利益になることを考える。それは心と体というものが機能するからだというんですね。それは自分を守ろうとする。それはそれで大切なことなんですけども、ただ精神というのは、むしろそれに逆行するもので、例え自分は犠牲になっても、他の人も一緒に、自分と一緒に幸せならないと困るという考え方なんです。そういう考え方というのは、どんな時代でも、どんな民族でも、どんな地域でも、そういうものを超えた非常に普遍性を持つもので、だからこそ「客観的な意味」というふうに呼ばれるんですね。フランクルにとっては、それが本当の意味なんだというふうに考えられている。フランクルは別に「自分を犠牲にして、他の人のためになりなさい」と言っているわけじゃないんですね。
 
浅井:  道徳的にそういうことを言っているわけじゃないんですね。
 
勝田:  そうなんです。その「意味」というのは、道徳じゃないんです。道徳というのは、ある社会の一定の時代で、一つの基準として作られたものなんで、フランクルの考えているのは、もっと広い意味での意味。自分もやはり大切にしなくちゃならない。自他共に充実した人生を送るような、そういう方向に持っていかなくちゃならないということなんですね。その強制収容所の中でも、もうエゴだけに生きていた人もたくさんいたわけですね。むしろそっちの人が多かったんじゃないかと思います。だから誰かが死にそうになって、まだ息を引き取る前に、もうその人の靴を剥いで、自分の靴よりもそっちの人がいいからと取ってしまう人もあったし、そういうことが日常行われていたわけですね。だけどその中でも、やっぱり精神性に生きるという、そういう態度でいた人が確かにいたというふうに、フランクルは目撃してるんですね。自分が非常に飢えていて、疲れていて、それでも自分の隣に座っているもっと自分よりも絶望して人のために、最後のパンの欠片を渡してやるという、そういう力が人間にはあるということなんですね。それは収容者みんなもういつ次の食事を貰えるかわからないというような状況で、誰でもほんの小さなパンの欠片をポケットに忍ばせていた。だからそれは命綱のようなものだったんですね。だけど、そういう最後のものまでも人に与えるような力が人間にはあるんだということ。実際そうすることのできる人はごくわずかだったけども、実際にそういう本当の人間らしさっていうのを証明してくれた。フランクルは何回も見たと言っている。人間には両方の要素があるわけで、フランクルの言い方をすれば、天使になることもできるし、悪魔になることもできる。両方の可能性を持っているんだ。
 
浅井:  その二つの可能性のうちの、天使の可能性。そこに可能性を見出すというか、必ず誰の中にもあるというふうに信頼して、そこを頼みにしていくというのが、ロゴセラピーの一つの基本テーマと言いますか、
 
勝田:  ええ。確かにそうです。おっしゃる通りです。だからロゴセラピーというのは、やっぱり信頼というのが一番大きなテーマなると思います。その中でもセラピーを必要としても、いつかはセラピーなしでちゃんとできるんだという、そういう力を、つまりその人の精神の力をつけていくという。それがロゴセラピーの真髄だと思います。今までそういうふうな力を自分で信じて来なかった人とか、そういう力を使う体験をしてこなかったとか、何かの障害で、その精神の力が隠れてしまっていて、なかなか引き出すことができない。そういう人たちに、自分で気がつかないものを、外から引き出してあげるということなんですね。
 
浅井:  先ほどそのフランクルは、精神というのは一つの空っぽの器のように考えていて、そこに外から究極の意味というのが与えられて、そこでいろいろものが響きだすというようにお話しくださったですけど、人間存在っていうのは、どのようであるのかというのを、どういうふうにフランクルは考えていたんでしょう?
 
勝田:  フランクルにとっていちばん大事なものはやはり精神の中核にある人格だったんですね。人間の人格。それはラテン語では、「ペルソーナ(persona)」というふうに呼ぶんですけども、この言葉をもう少し分析してみますと、「ぺル」というのは、「何かを通して」という意味があるんですね。それから「ソーナ」の方は、もともとギリシャ語の語圏で「ソーナ」というのは、「響き」という意味がある。響きを通して、自分が響くということが、人間の人格なんだという。で、さっきからお話している、その響きというイメージも、そこから来てるんですけども、なにか究極の意味から伝わったものを、自分が自分を通してそれを外に響き渡すというか、それによって私のここに生きてる意味があるということなんですね。だからいつもその上からの入ってきた響きが私を通して広がっていくように、私たちは生きていかなくちゃならないというか。それが本当に意味のある生き方なんだというふうにフランクルは考えるわけなんです。
 
浅井:  先ほど困難の中にある人であればあるほど聞こえてくる響きがあるとおっしゃっていましたね。
 
勝田:  ええ。例えば東北大震災でですね、家も家族も全部失ってしまったという方がいる。その全てを失った時というのは、何か時計が止まってしまったような、そして自分が本当に真空の、なんにもないところにいる。そこで何を人間が体験するかというと、最終的にやっぱりジーッと耳をすまして、何かが響きが聞こえてくるということがあると思うんですね。それをフランクルが考えてることもあるんですけども、その響きというのは、究極の意味からの響きというか、私はこんなに辛い思いして、ここにどういう意味があるんだろうかっていうことを、何かこう示唆してくれるような、そういうものが必ず人間の中に生まれてくる。で、だから何もなければないほど、何かその人の耳が澄まされてくるという。そういうことなんですね。フランクルの『夜と霧』の中にも、例があがっていまして、たとえばもうすぐ死ぬという若い女性が自分の病室の窓の外にある栃の木なんですけど、その花の咲いているのを見て、あれが私の方に呼びかけてくる。ということは、その女性が何か他の人には聞こえない。その絶望のどん底の中で、その木が、「私はあなたの側にいてあげるよ、って。私は永遠の命だよ」というふうに呼びかけてくる。そういうものを聞き取る力が初めて何か出てくる。そういうところがあるんですね、絶望の淵の中には。それをフランクルは、「意味の呼びかけ」というふうに考えている。
 
浅井:  と言いますと、その「意味」というのは、自分が見出すというよりも、何か本当にある極限になったときに「向こうからやってくるもの。そこからささやきかけてくる」そういうものということですか?
 
勝田:  そうですね。そうだと思います。それが人間の謙虚さがないとなかなかそれが聞こえてこない。自分の捏造した人生の計画ですね、あたしは有名校に入って、有名な企業に入って、物質的にも豊かなというふうな夢を誰でも追っているわけですけど、それだけ一所懸命になっていると、精神の器というのは空っぽで、あれは自分の捏造した意味しかそこに入ってこないんですよね。だけど本当に人間が悲しい思いをしている、苦しい思いをしてる時には、そういうものは何の価値も持たないんです、捏造した意味なんていうのは。だけど、そういうときにこそほんとに何に意味があるのか、何か価値があるのかっていうことが見えてくる、聞こえてくる。だからフランクルは、灼熱のような熱の苦しみに焼かれた苦悩する人というのは、遠くを見通す力ができてくるっていうふうに言ったんですね。それは目の象徴を、今度耳に変えてみると、人が聞こえない響きも聞こえるようになるということじゃないかと、私は思います。自分を超えるものがあって、その存在が自分を支えているという。それはある意味では宗教的なものかもしれませんけども、フランクルの場合は、それを「究極の意味」と呼んだんですね。それでそれを信じられる人は、意味の呼びかけも聴くことができるし、それを自分の力でなんとか実現しようとする。そういう、つまり自分の人生を受動的に受け入れるだけでなくて、自分で何かを作り上げていこうとする。行動しようとする力が必ず出てくるんだというふうに考えたんですね。ですから、その究極の意味っていうものを信ずるということが、やはり、そしてだからこそ私は何でも出来るとか、私が力をつければどんな苦労でも乗り超えられるということではなくて、やはりその究極の意味があるから私が今ここにあるというふうな謙虚さが出てくるというわけなんですね。
 
浅井:  そうやって聞こえてきた響き、それが究極の意味という意味からの問い掛けということでありますと、それこそがその人を困難の中でも生かしめていく力になり得るということですか?
 
勝田:  そうです。それがですから、自己治癒力というものと呼応して、私が生きていたのはムダではなかった。こうやって生きて、あるいは生かされていることに、何かの意味があると。私はここにこういうこの世の中に出てきたのは何かのミッションがあってここに来たんだろうっていう。そういうそれを信じる道にも繋がるわけなんですね。
 
浅井:  というふうに、伺ってきますと、そのロゴセラピーというのは、単なる療法としてのテクニックというよりも、どこか宗教的ともいえるようなところがあるように思うんですけど。
 
勝田:  自分を超えているものを信ずるという点では、宗教性をもっていると思います。だけど、フランクルが実際のセラピーの時には、宗教というのはまったく排除して、それはそのセラピストのイデオロギーが押し付けになってはいけないという。だから宗教とセラピーは交合わせてはいけないというふうに言っているわけなんですね。だけど、だんだん宗教を持たない人が増えてくる。で、私がロゴセラピーを学んでいた時にも、同じクラスの中にカソリックの司祭もいたし、プロテスタントの牧師もいたし、というふうに、彼らは神という言葉を使わなくても、何かこう超越したものを信ずるような人たちに力を与えるような、そういうものを学びたいという意図で来ていたんですね。だから、そこからも私は宗教とまったく別のもの、宗教団体とは別のこういうロゴセラピーというようなものがあるということが、大きな助けだということがわかりました、その時に。
 
浅井:  今日はどうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十九年七月二日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである