阿弥陀の眼差し
 
                宇佐市勝福寺住職 藤 谷(ふじたに)  知 道(ちどう)
1948年、大分県生まれ。1973年、東京大学文学部印度哲学科卒業。75年、大谷専修学院入学。77ー84年、大谷専修学院指導補。88年、真宗大谷派勝福寺住職継承。
                き き て    金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、大分県宇佐市(うさし)にあります勝福寺(しようふくじ)住職の藤谷知道さんに「阿弥陀の眼差し」というテーマでお話いただきます。藤谷さんは、昭和二十三年(1948年)に勝福寺に生まれて、勝福寺の跡継ぎとして育てられました。一九七三年に東京大学印度哲学科を卒業、二年後に大谷専修学院に入学して、学院卒業後も指導補として学院に残り、七年間仏法を探求した後、勝福寺の住職を受け継がれた方です。聞き手は金光寿郎ディレクターです。今日は勝福寺の門徒の有志の方々の前でお話を伺います。
 

 
金光:  今日は、「阿弥陀の眼差し」というようなタイトルをつけさしていただいて、阿弥陀さんというと、「無量寿、無量光」いわば時間的にも空間的にも量ることもできない、要するに無限の世界の中で働いている方ということですので、日常生活で私なんか全くその眼差しに触れることもなかなかできないもんですから、こちらのお寺でお生まれになって、大学は印度哲学科を出られて、しかも大谷専修学院なんかの仏教の専門のところでお念仏のお話を聞いておられたり、いろんな先達についてその世界のことを探求してこられた藤谷さんに、その辺のご自分のお考え、阿弥陀如来についてどういうふうに感じて、今はどういうふうになっていらっしゃるかという、その辺のところを聞かしていただければと思うんですが、お書きになったものを拝見しますと、大谷専修学院へ入られて信国淳(のぶくにあつし)(1904-1980)先生のところで、あ、この人は信頼するに足るといいますか、こういう仏法を生きる方がいるという、いわば生身で仏法を生きている人に会えたという、これが何か大きかったというようなことを書いていらっしゃいますが、その辺はどういう感じでした?
 
藤谷:  あのですね、これも本当に僕の話はいつもずっこけたことばかりの歴史なんですけども、大学卒業するときに、うまく言えないんですけども、大学卒の肩書きで就職するということは、なんかそれもまた観念的ですけど、いけないと。そういう大学闘争の真っ只中を取り巻いていて。だからどうやって人々の近いとこに生活するかと考えて、わざと就職しなかった。東京で一年半ぐらいおったんですけど、結局最終的には単なる日雇い労務者みたいになって潰れたんです。それが二十六の時で、もう体力的にもつぶれてしまって、まぁそれなら仕方がないかって、だからもうお坊さんになるかと思ったんです。そのときにですね、大谷派のお坊さんになるためには、教師資格がいると。それが大谷大学にもういっぺん行くか、大谷専修学院へ行くか。大谷専修学院は一年ということで、それで何の期待もあったわけでなくって専修学院に行ったです。専修学院に行ったら、私にとったら、信国先生は初めはとってもわからない人で、ただ大谷専修学院のそこの若い職員やら、児玉暁洋(こだまぎようよう)先生、竹中智秀(たけなかちしゆう)先生とかおられた、その中堅の先生たちが、まさに仏教を生きている人たちだったんです。それに出会って、いわゆる大学の印哲の先生や印哲のクラスの人と全く違って、自分の抱えている実存的な悩みを仏教に問うているというか、みんな信国先生だけがゴツゴツとした大岩に徒手空拳で立ち向かう感じがあったんですね。信国先生だけが、阿弥陀様から講義されてて、特に寮生活を一緒にしてくれる三十前後の若い先生たちは、みんな答えがなくて悩む。僕たちよりももっと深く悩んでいる先生たち。そういうものに出会って、仏教というもので、私はここで救われるんじゃないかという予感があったんです。信国先生の講義は全くわかりませんでした、初めは。ただなんか威厳というか、ちょっと浄土真宗というと、うまく言えないんですけど、優しくてね、なんでも包み込んで、みんな助けてあげれるぞ、というようなイメージが勝手ながらあったんです。そうじゃない先生だ。非常に厳しい生き方も、態度もね、講義なんかも私たちにわかるようにする講義全然しない、信国先生はね。
 
金光:  自分の領解(りようかい)というか、領解(りようげ)されたことをそのまま皆さんにぶつける。
 
藤谷:  どちらかと言ったら、信国先生が、親鸞聖人や阿弥陀様と対話しているような、そのまま講義されますんで、全く手がつかないというか。それは児玉先生とか、竹中先生、西田真因(にしだしんいん)先生なんかの講義は、特に児玉先生なんか知的なものにとったら、非常になんか現代の社会問題から、哲学の問題から全て網羅した講義してくれますんで、それと全く異質です、信国先生はね。
 
金光:  でもその信国先生の世界に近づきたいというか、わかりたいというか、そういうお気持ちはおありだったんですか?
 
藤谷:  その辺がまた微妙で信国先生から逃げて回ったようなことに近かったような気がするんですね。信国先生は、どう対話していいかわからない。私の持っている認識とか、考えやら、価値観やら、人間感覚と、先生のそういう如来の世界におられる先生と会ってですね、先生自体は、僕は後ほど―信国先生は実はここから二キロぐらい先にある。こちらに帰ってから初めて信国先生の若い頃のことを知ったんですけども、私たちが行った時は、先生は前の年に胃を三分の二摘出する手術をしてて、体力的に落ちてですね、先生が私たちと一緒に過ごす時間がほとんどなくなったんです。だからいよいよ院長室の中と授業しかなかった。講義の時だけの先生は非常に、
 
金光:  先ほどおっしゃったように、ご自分の境地をみんなに、
 
藤谷:  先生は一生懸命僕らにわかるようにと思って話されたと思うんですけど、いくら言われても僕らには、何かそういう感じがありました。
 
金光:  人間の性でしょうか、分かりたいというけれども、分かるという時は、分けてですね、自分の意思の枠の中に取り込めたらわかったということになるんですが、仏様の世界というのは、こっちの枠に入らない世界ですから、掴まえようのないのは当たり前と言えば当たり前なんですけれども。
 
藤谷:  それを知的にズーッときた人間だから掴もうとするんですね。掴もうとすればするほどわからない。
 
金光:  掴もうとするのが邪魔になるということがあるでしょうから、でもそのところをどうやって、どういう拍子にといいますか、いつの間にかということですか。
 
藤谷:  そう言われたらそうじゃないんですけどね。私は専修学院に一年目の時に、別科生というて、一応一年生の学校なんだけども、もう一年おれるというのがあって、一年目の時になんか、あ、ここにおりたいと思って、別科に残ったんです。だけど父との約束で帰るつもりだったら、児玉先生の方から、「みんなと一緒にここでもう少し勉強しろ」と言うてくれたんで、まぁ職員になったんです。職員といったって、僕らは寮生活を一緒にする。寮の生活を一緒にするものだけなんですけど、それで寮職員になって二年目の時に、学院の学院祭というのがあって、学院祭で職員は順番に自分の発表するんです。専修学院は三学期制なんだけど、毎回毎学期レポートを書くんです。そのレポートをおいて先生たちと面接するんです。職員になって二年目の時に、その学院祭に向けての自分をもういっぺん、「自分て何だったのか」というのをずーっと振り返ったんです。そうした時に、あぁ自分は―僕のそのときの言葉で言えば、「全知全能の神たらんとする我だったな」という。馬鹿みたいな話だけど、ありっこないんですけど、「全知全能の神でなければならんというふうに、自分を強迫観念―必ず善い子でなければならん。なんでもわかる。私はできないという事実があるのに、それはいけないと。いつも善いものでなければならんという脅迫観念を生きてきたんだなと。全知全能の神たらんとする我を生きてきた、という。そういう自分の姿が見えた気がして、それを学院祭の時に長々と発表したんです。というのは、自分が初めて自分というのがなんでこんなに苦しんでいたのが見えたと思って、ある意味でも興奮しているし、自分では満足しているから、自分なりに分かったつもりだったんです。そしてその発表の後の討論会になったときに、信国先生から怒られたんです。僕とすれば、こんなによくぞそこまでわかったなと、言ってくれるかと思ったら、「君はね、善し悪しばっかりを見ている。君の言葉には悲しみという言葉がひとかけらもない。君の言っていることは、全部善し悪しだ」って。そういう厳しい先生からのお叱りがあったんです。
 
金光:  でも言われても、その時はピンとこないでしょ?
 
藤谷:  こないというかね、
 
金光:  叱られたということはよくわかるんですけど。
 
藤谷:  崩れた感じがした。なんか自分が一番上に上がったと思っていたその時に、そういうふうに「君には悲しみがない」と言われて。言われた時、なかなか全知全能の神たらんとするもう一歩深いところの根源的な問題が君には無い。全知全能の神たらんとする我というのがというのがわかった私、全知全能の神になっている。わかっている私になっている。そういうこと全体が迷いであり、それを悲しむということがなぜないのか、と言われたんだけど、先生の言われたことは、その瞬間わかりませんでしたけど、とにかく打ち砕かれてしまって、その言葉が今日までズーッと残って、何か私にとっての頂き物になっている。
 
金光:  その信国先生ご自身は、若い頃池山栄吉(いけやまえいきち)(1873-1938)先生との出会いがあってということを、私、池山先生のお弟子さんとは何人もの方とお話を聞かしていただいているんですけども、その池上先生と信国先生の出会いと、藤谷さんとのその辺の関係というと、どういうことになるんですか?
 
藤谷:  決定的に違うと思いますね。
 
金光:  いや、でもその影響は受けていらっしゃるわけでしょう? 影響というとおかしいですけれども。
 
藤谷:  信国先生の池山先生との出会いは、『池山先生の思い出』という本を読ませてもらって、やっぱり本当に仏仏相念(ぶつぶつそうねん)するような、そういう呼び合っている先生の感じしますね。僕はやっぱり世間的な男ですから、信国先生は池山先生を最初に見た瞬間に惚れたというか、この人だという。五年間しゃべらないけど、ズーッと五年間池山先生をズーッと見続けて、そして五年目に初めて先生に手紙を書くという。
 
金光:  そうですか。
 
藤谷:  そういうストイック(stoic:禁欲的な態度、自らを厳格に律する姿勢、怠惰や享楽へ逸脱することなく目標へと邁進する求道的な在り方、といった意味で用いられる表現)な求道生活ですけど、私は逃げまわって、逃げ回ったけど、たまたまありがたいご縁で学院に身を置いていたから、そういうふうな先生のお言葉に出会いたというか、あのまま卒業して帰ったら、私は先生の側におりたいと思っていたけど、僕はどっちかいったら先生の言葉はわからないし、学生もみんなわからないんです。信国先生の授業でみんな一週間に一回ミーティングだけど、私たちは、「信国先生にわかるように話してください」と思うんだけど、個人差はあるんですけど、池上先生と信国先生との出会いというのと、私と信国先生の場合はちょっと質が違うように感じます。
 
金光:  藤谷さんは、専修学院にズーッと残られたということは、やっぱり信国先生という方の生き方というか、そこにやっぱり念仏を生きている人がいるということをなんとなくお感じにはなっていたわけでしょう。
 
藤谷:  もちろんそうです。だけど信国先生だけじゃなくって、学院側の児玉先生も竹中先生も西田先生も、若い職員の先生たちも、本当に仏道を歩む人は、こういう人だったんだという。それはもうあえて言えば、僕の場合だから、個人というよりも僧伽(サンガ)(仏法を学び実践するための集団)に出会って学院という僧伽(サンガ)に出会って初めてなんか人間として信じられる世界がある。
 
金光:  で、今日は宇佐の藤谷さんのお寺にお邪魔しているわけですけれども、こちらのお部屋で拝見すると、藤原正遠(ふじわらしようおん)(1905-1997)先生のお文字が屏風に書かれたものが出てますけど、藤谷さん、ずいぶんいろんな方をこちらのお寺にお呼びになって、藤原正遠先生なんかも私よく教えていただいたことがあるんですけれども、いろんな方にそういう困っている世界をそういう先達の方々にぶっつけるチャンスというか、そこから吸収されるチャンス、そういうのはここに宇佐市にいらっしゃってもちょいちょいあって、現在まで来ていらっしゃるわけでしょうか?
 
藤谷:  これは妻が金沢大学でいずも?先生に出会って、その先生から勧められて大谷専修学院へ行って、信国先生の教えを聞くようになって、そしてそのことがあって、崇信学舎(そうしんがくしや)を通して暁烏(あけがらす)先生のいろんな先生たちとのご縁がたくさんいただけたわけです。で私がというよりも、妻を通して初めは松本梶丸(まつもとかじまる)(1938-2008)先生が来て、それから林暁宇(はやしぎようう)(1923-2007)先生とか、中本昌年(なかもとまさとし)先生とか、いろんな先生に―先生にお出でいただいたと言えるのは、こうやってみんなが、僕一人だったら、僕ちょっと先生の前に独り立つのは怖いんですけど、「先生、たくさんの人がみんな待っているから是非来てください」と言ってお願いして、それでここはいずも?先生の昼の法話にきてもらうが、後はみんな先生を囲んで、先生から親しくいろんなことを教えてもらいました。僕は両方ありきで、信国先生の学院と、もう一つは一番身近なのは林暁宇(はやしぎようう)先生やら暁烏先生の流れやら、加賀のお念仏の人たちの流れの、そういう人たちの温かさというか、そしてその先生たちに共通しているのは、みんな俺のモノを持たない先生。自分の、自分というものを、暁烏先生の弟子の人たちは―暁烏先生はみんなから今問題にされていますけども―徹底しているのは、俺というものを持たない。自分の家を持たない、自分の寺を持たない、それから自分のものにしない。みんなみんなのものにしていく。そういう無我ということを非常に実践をされている。そういうのは今言った諸先生にはみんな生活が、その姿勢を持っているというか、だからここにきても、僕たちに対しても優しく―家はあんまりきれいな本堂でもないし、服装なんてお上品の人たちはあんまりおらないんですけど―なんだかそういう土の匂いがする、生活の匂いのするとこに先生たちが来てくれる先生、そういう生活の先生達に、もう一個父なる教義の母なる世界というか、両方で育てられながら今日まできたような気がします。
 
金光:  現実にこの世で生きている阿弥陀様の世界に生かされているという、その現実というのは、自分にとって都合の良いこともあれば悪いこともあるし、そういう全部をひっくるめて、それをどういうふうに受け取っていくか。そこのところで「無我」という言葉出ましたけども、私なしに生きられれば、これに越したことはないんですけども、喋る人はいるけども、実践している人はわりに少ないですね、実践できている人は。
 
藤谷:  もちろん百パーセント無我ということは絶対に無いんで、だけどそのことに本当によく気付いて、自分のものにしようとする自分を恥ずかしいと思うところに立って生きている先生という意味で、だけど多くの場合は、僕は前から「知る」という行為はですね、命を殺す行為だと思っています。一人の存在が、自分が自分をやってきた自分が皆さんと関わる時にやる時に、理解するということは、本当は私の理解を超えた存在なのに、理解するというのは狭い中に閉じ込めるわけですから、命は本当は一如として、如としてあるのに、私の領解内に閉じ込めることだから、本当は命を殺す。「知る」ということに対しては、それこそ仏教はズーッと言ってきたように、知というものの罪悪性というか、そういうことを思うんです。また知で賢いことは、あんまり感動しないというか、やっぱり安田先生でもそうですけど、本当に生活が仏法ですべて捧げていて。だから大学の職にも一回もつかない。もう食べるものもなくてもいい。そういうような徹底したものがありますし、信国先生もこちらに帰ってくるときの選び方とか、もう考えられないような選び方です。
 
金光:  選ぶというと?
 
藤谷:  例えば本当は信国先生こちらに帰ってきたとき、「お父さんが帰ってきてくれ」とおじいちゃんから言われたんです。だけどお父さんは本山の内事局長していて、それで信国先生が「俺が帰る」と言って。信国先生は実は京都で生まれて、京都の府立中学を出て、三高へ行って、東大に行って、それで大学の先生でしょう。それがこちらの田舎に帰ってきて、しかも五十軒のご門徒の代務住職になって。で奥さんは医者の娘なんだけど、先生と二人で肥桶担いで野良仕事始めた。そういう選び方ですね。それから初めて大学で奥さんと結婚した時、給料十二円あったそうなんですけど、十二円のうち十円で家を借りて、それで結婚して半年目には、三人の学生と共同生活が始めた。だから何か損得の計算がない。ここの田舎でも―先生が亡くなった後、奥さんから、「知道さん、こんだけノートが出てきたんよ」と言って持ってきて、それで僕はズーッと整理したんですけど、見てみたら初めは、これ学院の授業じゃないのに、何かなと思ったんですけどね。そうしたら、ここの田舎の青年たちに、一ヶ月に一回、会が出来ていて、『歎異抄』の話をしている。そうしたら十人ぐらい聞いたというんです。十人ぐらいのために一ヶ月に一回、ノート一冊ずつ作っていた。それでそのまま埋もれていたわけです。だからその十人の若い青年相手に一ヶ月ズーッと思索して、それをきれいなノートに作り上げて、多分みんな分かったかどうか分からんが、ただ先生に興奮したと言ってましたけどね。そういうなんか損得とか違うレベルなんですね。
 
金光:  本当に生きた現実を、流動している現実に即した生き方をなさっているということでしょうね。といいますのは、鈴木大拙さんの言葉に、「人間はいつ流れを止めて理解しようとすると。理解すると、その流れが止まってストップしちゃう。そうすると、現実から離れてしまう。頭で考えると妄想になると。しかも困ったことに人間は妄想を喜ぶ癖があると。そうでなくて本当の事実、自分が生かされているという事実をそのまま認めて、これは有無を言わさぬ事実であるということに気がつくのが信である」ということをおっしゃっているんですね。今のお話を伺いながら、理屈で現実を止めて、理屈でこうこうこうとおっしゃる方は結構いらっしゃるけれども、今のように現実の流れのままにこの田舎へ来て―今、田舎と言ったら悪いかもしれませんけれども―知らない土地に来て、そういう青年たちを相手に、そういう形での『歎異抄』なら『歎異抄』の講義をなさるというのは、これは本当に仏法が生きている証拠ですね。
 
藤谷:  そうですね。先生自身は、初めから、『歎異抄』を話したんじゃないんです。農業をやって、そしてみんなと一緒にやろうと言って、今でいうたらほんの小さな村なんです。ここより圧倒的に小さい。百軒あるかないかぐらいの村なんですけど、そこでこんな機関誌を出した。それでその巻頭言があって、詩があって、俳句があって、文学があって、政治、今年の農業はどうだとかという座談会をやっている。そういう文化雑誌を出して、そしていうなら、先生は旧制中学の三年生の時に五年生の上級生を引き連れて新しい村を作ると学校を飛び出てですね、
 
金光:  武者小路実篤(むしやのこうじさねあつ)さんの新しい村のミニバンのものを作ろうと、
 
藤谷:  そうそう。なんか福井県のどこか山奥で、そこで警察官に見つかって、そして連れ帰されるようなことがあった。だからそういう宮沢賢治の「世界全体が幸福にならなければ個人の幸福はありえない」といつも言っていました。だからそういう意味で小さい若い時から、そういう新しい村とか、宮沢賢治のことを知って、田舎で仏教を教えようとはいっっこうもしていないんです。新しい村というか、新しい文化、そして皆がそうやって集まって、いつもワイワイやっていた時に、ある時その座談会で「無人島に一人流されたら、何の本を一冊持って行くか」というのを、みんなで座談会でやってね、そうしたときに、みないろいろいうたんですけど、信国先生が『歎異抄』と言ったら、みんな信国先生に圧倒的に憧れていたわけですけど、「その『歎異抄』というのを一回教えてください」と言って、それで始めたのが、さっきの会だったわけです。だから何か意図的に教えようということもないし、始めたら適当にやるんじゃなくて、もう一ヶ月間そのために全力を尽くしている。それで終わったら、そのノートはそのままでも終わって、たまたま僕はそばにおっていたから、それで「信国先生の選集を出すときに、ぜひこれを入れてくれ」って、それをたくさん入れましたけどね。
 
金光:  というようなお話を伺っていますと、それぞれ独自のというか、ご自分はお念仏の世界に生きていながら、しかもそれぞれ生き方はそれぞれの境遇に応じて個性的な生き方をなさっている人ばかりみたいな気がするんですがね。そういう方の影響を受けていらっしゃる藤谷さんは、やはり藤谷流のというか、なんかこのお寺としての仏法の生かし方、生き方みたいなものを、そういう方たちの影響を受けながら毎日暮らしていらっしゃるという方向に行っているんでしょうか。
 
藤谷:  いや、そういうことを思えば思うほど恥ずかしいですけど。ただ坊守がおって、そしてたくさんのこういう仲間がおって、そしてみんなと一緒に仏法を聞くということがあります。僕らも少し自慢話になるかもしれないんですけども、「親鸞聖人七五○回大遠忌」に向けて「百日聴聞会」をしようというてしたんです。結果的には、三年間、土曜日毎にやったんですけど、百人の先生が来ています。初めはちょっと交通費やらのこともあって、この近所から始まったけど、最後は本当にいろんな、京都やからも来てもらって、その百人の方に在家の方がたぶん二十人ぐらいおりました。在家の女性というと重なりますけど、女性の方も二、三十人おりました。凄かったのは毎週になったんだけど、必ず「聞書(ききがき)」を作ったんです。聞いたらだいたい抜けますんで、「聞書」を作ったんですけど、この人たちがみんなテープを起こした。で普通のおばちゃん達が、一回もテープ起こしをしたことがない人たちが、みんな起こしたんです。僕はそれを新聞でまとめたんですけど、そういうちょっと小さいけど僧伽(サンガ)みたいなのができております。
 
金光:  だいたいこちらの藤谷さんのご住職なさっているお寺での皆さんとのお付き合いというのはよくわかるように伺いました。やっぱり仏法を一つの生き方として立派なものではないかと思いながら聞かせていただきました。どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十七年十一月一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである。。