人我の見を離る
 
                  浜松寺龍泉寺前住職 井 上(いうえ) 哲 玄(てつげん)
                  き き て     金 光 寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「人我(にんが)の見(けん)を離(はな)る」というテーマで、静岡県浜松寺龍泉寺(りゆうせんじ)前住職の井上哲玄さんにお話しいただきます。「人我の見を離る」という言葉は、哲玄老師の前の住職で坐禅の師匠でもあり、二十七歳で仏法の真理を自覚され、昭和五十六年(1981年)に八十八歳で亡くなった井上義衍(いのうえぎえん)老師の語録の冒頭にある言葉です。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  この『井上義衍老師語録』という、これは今こちらで参禅なさっている方にも読んでもらっているわけですか?
 
井上:  そうです。坐る場合には、どうしていたらいいかということが分かってもらわないとダメなんで、そこだけは分かってもらえるまで丁寧にアレしていますけど。
 
金光:  冒頭にあります言葉として、
 
工夫は唯だ 人我(にんが)の見を離る 見を離るるの機要(きよう)
(うち)(きよ)にして 外(そと)(じ)あるのみ これ人我を離るるの道 これ坐禅の玄旨(げんし)なり
 
根本的な趣旨であると。ただ言葉とするとそう難しい言葉は出ていないんですけれども、「人我の見を離る」と。「人我」というのは、人間の我執の思いと見解ということでしょうか?
 
井上:  そうですね。
 
金光:  ただいま現代のように「自己を確立しろ」「自分の考えを持て」と言われると、それは人我の見に…、
 
井上:  人我の見を増長させる方です、それは。
 
金光:  そういうことですね。それは仏教がズーッと二千何百年伝えてきたその一番大事なところは、人我の見を増長させるということは決して言っていないわけですね。
 
井上:  そうそう。決定的にそっちの方向ではないと。
 
金光:  ということは、今の教育の方向なんかも違うんじゃないですかということを、昔からちゃんと言ってきているわけですね。ただこれ言葉としてはそう難しくないんですけれども、私なんかもそれこそ八十年以上生きていて、「自分は」という考える癖がついていますね。
 
井上:  癖ですね。
 
金光:  それはやめなさいと。
 
井上:  だから通常はそういう癖はやめるとか、なんとかして取り除くとか、という方向に取り組むのが修行だとか坐禅だと大半の方が思っている。
 
金光:  そういうことですね。
 
井上:  ところがお釈迦様からの直伝のものとして伝わってきているものとしてはですよ、取るんじゃない。初めから人我の見の起きようがない有り様が、生まれた時から人にはちゃんと備わっているよと。その備わっているものの有り様というのは、どうなっているのでかっていうことですよね。
 
金光:  自分が作り上げる必要は全く無い。そういう方向じゃ無いわけですね。
 
井上:  そういう方向じゃない。それをやると限りなく足し算やったり、引き算やったりしていくわけですよ。そうじゃなくて、だから教えられていることは、人の構成上の機能ですね。 六官(眼耳鼻舌身意)、六根(六識を生ずる六つの感官、即ち眼耳鼻舌身意の総称)という機能、機能の活動を見てみると、そこには人我の見の介入しようがないようになっている。だから初めから人我の見なんかない。生まれながらにして仏だという内容はですね、今言うようにつかむものでは無いから、生まれながらにして仏として備わっているという意味ですよね。
 
金光:  これ確かに生まれる前に生まれようと思って生まれた人は誰もいないわけですね。気がついてみたらこう生まれていて、しかも体はこういう体になっていて、自分で設計した人はいないのに、こういうふうにできていると。
 
井上:  その出来ている内容を見ると、どうなっているのかというとこに目が向いてみると、そうするといきなり(手を打つ、パーン!という音)音に触れると、その通りの活動をする。耳という機能をするものは、そういうふうに活動するようにできている。それ以外の耳そのものの活動はないんですね。人の考え方は聞いたものに対してすぐに好きか嫌いか、善いか悪いか、から始まる。そうすると今度は教えを受けると、こんなものが出てくるから、あるからダメなんだとまた思わせる。するとダメなものだったら取り除かなければならないという方向に行く。全部考え方ですよ、ことごとく。じゃ考え方でない人我の見を離れているとこって、どうなっているのかと言ったら(手を打つ、パーン!という音)というその事実しかないんですよね。
 
金光:  「内(うち) 虚(きよ)にして、外(そと) 事(じ)あるのみ」という、事(こと)あるのみというのは、事(こと)ということはいわば外から、
 
井上:  事(じ)ということですね。
 
金光:  事(じ)ですね。事実の事(じ)、事柄。その事実は「ポーン」でありますと。それが「ポーン」というのが聞こえるということは、内虚だから内の中で、
 
井上:  虚というのは、その嘘の話の中にうちの師匠はそれを書いたんだけども、その書いたものを自ら解説しているんですね。そこのところに「内」とか「外」とかあるでしょう。「内(うち) 虚(きよ)」ということは、自分で書いておいて、「内(うち) 虚(きよ)なんていうことは要らんことだ」という話してるんですよ。それは内とか外とかいうものが、ものを分別―二つにするということですね。だからこのものが空っぽだよなんて、何もないよというようなことはいらんことだと。
 
金光:  それはそうですね。
 
井上:  じゃあどうなっているかといったら、外も要らないね。外というのはね。ただ事あるのみですね。だから(手を打つ、パーン!という音)というそういうことがあるだけ。だから耳の活動も、眼の活動も、匂いも、味も、体の感覚も、もうひとつ言えば、意という思えるという働きも、思うと思ったから思えたんじゃないですね。
 
金光:  そうです。
 
井上:  それでいうと、この「私」と言われているこのものが、自活動と言いますか、天然の働きとしてそういうものが備わって、そこを抜きにしては人は生きてないですね。それに対して今おっしゃるように、すぐに善いか悪いか、好きか嫌いかというような方向で取り上げていくもんだから、どこまで行っても修行上も分別心でしょう。善いか悪いかというのは。分別心を起こしてものを分けてみる、この癖があるわけですよね。
 
金光:  もうこびりついていますね。
 
井上:  こびりついている。だから今おっしゃるように、こびりついているんだけれども、耳は、機能はどうなっているかというと、どんなけこびりついていると言いながら、(手を打つ、パーン!という音)いきなり触れたときに、「ポーン」でどこにも今まで出してきたこびりついているらしきものが、
 
金光:  その時は「ポーン」だけですね。
 
井上:  そうすると、そこで気が付くかどうかです。(手を打つ、パーン!という音)本当に見事にこびりついていると思ったけど、どこにもそんなもの付いていないんじゃないか。本当に(手を打つ、パーン!という音)これだけじゃないかということがはっきりすると、そうすると修行していく上に、もう手放していくということでしょうか。こちらから何かしようといういうことは一切なし。全機能―機能のまんまに放り投げておいて、そして活動のまんま「ポーン」と言ったり、「ピーポン」と言ってみたり、「わぁっ!」と言ってみたり、そういう活動だけでしょ。生きているというのは、全活動が。
 
金光:  それがよく「今」ということをおっしゃってますね。人間にはというか、自分には―人間というと何か自分と別に考えるけれども、与えられているのは今しかないんだと。
 
井上:  そう。
 
金光:  その「今」というのも、自分と今というのが別々ではないわけで。
 
井上:  そうそう。そうですね。
 
金光:  だから、自分が今こういうふうに生かされているということは、前もって考えてそうなっているんではないという。
 
井上:  そういうことですね。
 
金光:  坐ることによって、それを確認ということなんでしょうか?
 
井上:  どうなっているかを自分で本当に確認する。それがきちっと出来たら、いわゆる「自覚」といいますがね、自覚ができたら、そうしたらもう根本がもうわかったんだから。
 
金光:  「自覚」ということは、「自ら目覚める」という意味になるわけですね。だからそうなると、自分がいて、あの人は偉い人だと。いいことをおっしゃるから、その真似をしたらいつかはそういうふうになれるんではなかろうか、なんていうことを頭で考えるわけですけれども、そうじゃないんですね。
 
井上:  人みなどこまで行っても、仮にそれがお釈迦様であっても、道元禅師であっても、そういう方の真似をしたらなれるんじゃなくて、徹底この自己の有り様だけです。その自己の有り様も、今、(手を打つ、パーン!という音)それだけ。そこまで自分の考え方というものを、一応あると思っている人には、人間の考え方から離れないとダメだよと言いますけども、中身はそんなに離れているということに気がついてほしいということです。そっちの方でないと、修行にならないですね。いつまで行っても「どうしたら」ということがついてまわる。どうしたらそうなるんだろう。どうしたら取れるんだろう。
 
金光:  私なんか読みかじり聞きかじりですけれども、聞きかじりの範囲で臨済(りんざい)禅師が、「馳求心(ちぐしん)を去れ」と。「馳求」は走り回って求める心。みんな一生懸命外にあるいいものを持ってきて、そうすると、自分は偉い誰々さんのようになれると思ってやっているようだけれども、そうやって外にあるものを走り回って求めたってダメなんだと。自分のそれこそ我が身というものを知りなさい。与えられているもの。
 
井上:  自分自身に備わっているものに気がつくということなのに、よそに向かっていったら、いつまでたっても自分が歩いていないんですから。
 
金光:  そうですね。おっしゃる通りですね。
 
井上:  どこまで行っても気づくわけがない。
 
金光:  外ばっかり見ていますからね。
 
井上:  そういう意味では、「求心(ぐしん)が止(や)む」という言葉があるんですよ。求める心が止むという。今ここにあるんだから外に求めんでいいんじゃないですか。そうしたら内にあるんじゃないですかね。
 
金光:  自分のようなものをダメだとかですね、いわば比較の上で、例えばイチローみたいな運動選手にとてもなれないと。自分はダメだと。それはその野球をすることにおいて比べれば、それはダメでしょうけれども、しかしそれはイチローとの比較だから、そういうことが言えるんであって、本当の自分というものはそこにあるわけではないんだと。
 
井上:  そうそう。それはイチローはイチロウでしょう。自分は自分。だから、やっぱりどこまで行っても人と比べてどうこうじゃなくて、比べるということは、まさに人我の見です。
 
金光:  おっしゃる通りですね。
 
井上:  だから比べるんじゃないということは、どうしているかといったら、じゃ(手を打つ、パーン!という音)この音にですね、なんか比べるものがありますか、ということですよ。(手を打つ、パーン!という音)とやっても、じゃこの音聞いておいて、比べるというけど、今ということからいくと、この時これ(手を打つ、パーン!という音)、この時これ(手を打つ、パーン!という音)、比べられないんですよ、事実は。だけど人間て不思議なもんでね、うまく全部こうやって並べるんですね。
 
金光:  その時はいい音が出たと、
 
井上:  そうそう。並べてすぐに比較対照するみたいなことがある。そういう能力もあるということですよ。能力もあるんだけれども、今修行するという、自分の本質を知るという上からは決定的にそっちのほうを使ってはダメですよという。
 
金光:  そうなると自分の与えられているこの体で、その辺のところを日々今、今、今と続いている自分と、姿は存在しているのは、どういう自分の、掴まえて自分だと思っているのか。自分の心というのはどういうもんだと思っているのか。心というのが、またこれ自分にはちゃんと自分を―「自分探し」という言葉が一時流行りましたけども―そんな書かれた自分なんてあるのかしらなんて思いながら、
 
井上:  「自分」って、じゃどこを自分と言っているのか。耳だけとって自分かって、首から上にとってこれ自分だと。どこをとったって自分とは言えないもんですよ。もともと自分なんていうものは、人の考え方の上にいっていたんでしょう。いわゆる認識上で、もともとなんにも名称はついていないものを、「私」と意識したんでしょう。
 
金光:  そうです。
 
井上:  だから意識だから厄介、意識だから。だけど一面からいうと、意識だから厄介じゃないんですよ。意識を外れてみたら、どっこも私らしきものはないし、
 
金光:  そうなると、「自分だ、他人だ」なんていうのは、あんまり境目がなくなる。その世界がなくなってくることになる。
 
井上:  自他の見解が取れるということですね。
 
金光:  やっぱりそういう話を聞いて、でもまたそこでまたすぐ考えるですよ。そうしたら悪いことを、人のものも自分のものみたいなことに考えてしまわれると困るなとかね、いろいろ余計のことを考えるんですけど。
 
井上:  だからそれ全部考え方ですよ。
 
金光:  考え方です、おっしゃる通り。
 
井上:  だから教えを、こういうことを学ぶときに危険なのは、道理として考え方で全部受け取ってしまうと、じゃあ自分のものも人のものもないじゃないかと。そういう考え方で日常生活をしようと思ったら、間違えることになるんです。
 
金光:  危ないですね。
 
井上:  実質はどうかというと、いつも問われているんですね。実質は今のことだけ。この間も電話がかかってきたんですけど、「もう自分の心境として安定して何も問題はないという自分でいたんだけども、この頃なんとなくしっくりしないという思いが起きた。そうしたらどうしてしっくりしないだろうと考え出したら、どんどんどんどん坩堝(るつぼ)に填まるみたいなっていってしまった。どうしたらこれは取れるもんでしょうか」というお電話だったんですね。「いやいや取るもんじゃないですよ。しっくりしないという事は、今のあなたの事実であって、しっくりしないというほどしっくりしているのに、なんで、そういう取り扱い方をするんでしょうね」。初め「えっ!」とか言っておられたが、「えっ!じゃなくて、しっくりしないというほど、今そんなにはっきりしっくりしているじゃないですか。どうですか」と言ったら、「あぁぁ…あぁ…」と言ってね、「あぁそうですよね。何を自分はそうやって考え方に入り込んでいったのか」というような人がありましたけどね。どこまで行ってもちょっと考え方まで入り込んでいくと、すぐにそういうことが起きてくる。
 
金光:  そちらへ行ってしまうんですね。
 
井上:  行ってしまう。長い習慣があるから、どうしてもそっちの方へスーッと足を踏み込むと行ってしまう。だからそういうことが仮にあってもあっても、だから六根機能上ね、何がどうあってもと言われているんですね。何がどうあっても、ともかく全部今の自分自身の有り様です。
 
金光:  そうすると、ずいぶんいろんな事柄があるわけですけども、私、この前話を聞いてるんですが、一つこれはどういうことかなと思ってますのはですね、「もう一つの今がなかったら終わりです。成仏です。成仏しない限り不足が出てくる」というのがあるんですが、「もう一つの今」という考え方は、これは分別じゃないんですか?
 
井上:  だから「もう一つの今があるような気」、今のほかにもう一つ何か信じられそうなものがあるというような取り扱い方は分別でしょう。
 
金光:  分別ですね。
 
井上:  事実はということですね。事実は(手を打つ、パーン!という音)このほかにもう一つの(手を打つ、パーン!という音)こういう音がないでしょう。
 
金光:  ああ、そうか。事実はないんだと。
 
井上:  そう。事実はないということです。
 
金光:  そういうことですか、なるほど。
 
井上:  今の様子しかこのほかになんにもないじゃないかということがわかったら、それで終わりです。終わりだったら成仏できているんじゃないかと。
 
金光:  終わりだったら別に不足は無い。
 
井上:  不足はない。何かあるような気がするもんだから尋ねたくなる。
 
金光:  なるほど。
 
井上:  いつまでいっても不足でしょう。不足だから何かとってつけちゃう。
 
金光:  そうなんです。そういう話にすると、辛抱がなくなるんじゃないか。人間というのはなんか足りないから、もっと便利になると、世の中が幸せになることが増えるんじゃなかろうかみたいなことを考える。それを「進歩」と称しているんじゃないかと思いますが、そういうことがなくなってきたら世の中は。
 
井上:  なくならないですよ。
 
金光:  そこのところがなくなるかもしれないなんて余計なことを考えるから。
 
井上:  そうそう。だから人と今まで努力をして、努力をして、積み重ねてきたのにもかかわらず、まだこれぐらいのところしか生命がないと思っている人たちにはですよ、それやめてね、今より止めていったらなんの進歩があるだろうかというけど、いわゆる人間の考え方の進歩何かを跳び越えたもっと素晴らしい活動が、今がそうでしょう。だから世界中の人類が救われるためにですよ、そんなこと考えた人たちで世の中が形成されていてですね、なんか平和になったかというと、そんなことないですよ。そういう何のためにも立たないようなことをやってきて確信を得た人たちがいて、世の中はその方の示されたものが人類の指針になっているわけですよ。お釈迦様なんかまさにそうですよ。普通はみんなそんなことしていって、何がそれでいいのと思いますよ。だけどそれは考えるから、やってみなさいということなんです。
 
金光:  そういうふうに自分の人我の見を離れて、あれこれ頭の中で考えないで起こってくる、与えられた事実、今という事実が自分に与えられている。それをそのまま受け取るようにすると、
 
井上:  まったくそのまま、
 
金光:  そうすると、それこそ広大無辺な世界へ広がるとおしゃる方おいでなんですが、何がそんなに広大な世界、これ以上今でも広大なのに、なかなか広大なんて思わないところで生きていますけども、人我の見を止めると広大な世界が見えてくる。
 
井上:  そうです。人我の見って、人間の考え方、それも私の考え方、私の都合だから狭いでしょう。
 
金光:  おっしゃる通りです。
 
井上:  そう思ったら無限大なんですよ。そういう内容なんですよね。何か人間が考えているような果てしない広大みたいなことを考えちゃう。
 
金光:  そうなんです。
 
井上:  そういうことじゃない。
 
金光:  これもしかしやっぱり人我の見を少しでも離れることができるということはめんどくさいというか…、
 
井上:  間違いなく離れたら離れた分だけ楽になります、間違いなく。だから悟るとか医学とかいろんなことを問題にしていますけども、そこまでいかなくても、ともかく離れる分だけ絶対楽になる。その辺のことはちょっと実践してもらうとすぐわかるわけですね。この道さえわかったら本当にみんなどんなことが起きようと平和に生きられる人になるんですね。
 
金光:  私もいろんな方にお会いしていまして、それこそご宗旨は違いますけれども、いわば人我の見を離れる世界へ入られますと、非常に身軽に皆さん生きていらしゃいますね。だからそれぞれお釈迦様以来の歴史とか風土の関係で言葉は違っていますけれども、あ、この人は身軽だなといいますか、「軽安(きようあん)」という、軽安の世界に生きていらっしゃれば、別に金持ちじゃないんですけどね。でもなんかさーっとこう…、
 
井上:  考え方に縛られないという。考え方って、「こうあるべき」っていうような方向でしょ、みんな。
 
金光:  だから昔こういうことをおっしゃったから、その通りにしなければならないなんて思っちゃうと、我が身と離れてしまったところに何か立派なイメージを自分で構築しちゃって、それの世界を実現しないと自分は幸せになれないなんて思っていると、これはガチガチになって…、
 
井上:  がんじがらめですね。
 
金光:  がんじがらめで本当にご苦労様という気がしないでもないですが。
 
井上:  不思議ですよね。学んで楽になりたいのに、学べば学ぶほどがんじがらめになるというのは、宗旨からおよそ遠い世界ですよ。本当に身軽、どうあるべきことはないというのもさっき話しているようにですね。全くどうあるべきというところから離れた活動ですよ。全活動はそうなっている。なのに、こっちだけいうことを聞かんならんわけで。「私は」って、その私は外れないということだから、私が私がというのはまさに人我の見だから、そっちから行けばどこまでいったって考え方の世界だけで右往左往しているだけであって、それがどうやって高尚な考え方であっても、考え方という枠の中での話ですからね。
 
金光:  だからそれを外れた世界だと。自分と思ってるものも、頭の中で思っている自分ではないんだと。事実を見なさいと。その辺を体得した人が途中で出られると、その世界を自分でやっぱり実験というか、実体験をすることができると、非常に、あ、なるほど。あの方のおっしゃっているのは、その通りだったと。
 
井上:  間違いなかったということにつながってくるんですよ。
 
金光:  その人その人の人我をどういうふうにその人が、
 
井上:  今直面しているところに目が向いているのか、そんなところには全く目が向いていないで、よそへよそへと尋ねているかの違いですよね。
 
金光:  そうなってくると、それは黙っていようが、喋ろうが、動こうが、その辺の人我の見を離れたところで生きていらっしゃると、それはもう仏さんのおっしゃった世界と同じ、
 
井上:  そうですよ。坐禅というけど、宗派も全部飛び越えて、人の歩むという本当に知るということの玄旨はここにあるよということでしょう。それ抜きにしては自分に気がつくことはないでしょう。
 
     これは、平成二十九年七月三十日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである