戦争遺品のこころ
 
             僧侶、兵士・庶民の戦争資料館副館長 武 富(たけとみ)  慈 海(じかい)
 
ナレーター:   今日は、「戦争遺品のこころ」と題して、福岡県小竹町(こたけまち)にある天台宗實相寺(じつそうじ)の法師(ほつし)武富慈海さんにお話をお聞きします。武富さんは、寺の敷地に立つ「兵士・庶民の戦争資料館」の副館長を務めています。資料館の広さは畳二十畳ほど、戦争にまつわる品々およそ二千五百点が所蔵されています。
 
武富:   主に実物資料といいますかね、その当時使った兵隊さんの品物、それからあの当時国内におられた方「銃後(じゆうご)」(戦場の後方。直接戦闘に携わっていないが、間接的に何かの形で戦争に参加している一般国民)と言いましたけど、「銃後(じゆうご)」で頑張っていた庶民の皆さんの生活用品とか、そういうのをここに集めて展示しております。鉄兜(てつかぶと)というのがございまして、今ここに持っておりますけど、音は(鉄兜を叩く)こういう音ですね。形状は今のヘルメットと一緒ぐらいの頭をカバーする鉄で出来た「鉄帽」と言っていましたけど、重さはそうですね、約一キロ計るとあります。結構重いです。陸軍のマークの星のマークが正面に刻んでありますですね。こういう背嚢(はいのう)でございますけど、布でできた、今でいうリュックサックですね。これを背中にかかるわけですね。この背嚢の中には、米が三日分、一升八合の米を入れて、あと自分の下着とか、諸々の自分の歯ブラシとか私物も入れて、この背嚢の上の方には、カッパとかですね、それから天幕、ツルハシ、それから携帯用のスコップ、それにこの飯ごうとかですね、諸々外側につけまして、全部荷物を測ってみるとだいたい約五十キロ位の荷物になったそうです。もちろん三八式歩兵銃(さんぱちしきほへいじゆう)とも持っておりますので、これが約四・九キロぐらいありますので、だから人間一人分ぐらいをいつも自分と一緒に歩いていたと。まぁ実は戦争といいますけど、しょっちゅう戦闘行為があっているわけじゃなくて、戦地の、要するに戦闘行為があっている最前線に行くまでの、結局行軍というのがまず戦争の一番基本ですね。自分の足で歩いてそこまでいくわけですから、この行軍というのが一番兵隊さんはきつかったということを聞いております。隊長さんとか中隊長さんとか、命令する人の命令によって動きますから、実は一番下っ端の方の二等兵とか一等兵とか兵隊さんはですね、基本的には自分たちがどこまで行くのか、どこに行くのかも知らされていないんです。だから目的地もわからないで、命令をされたまま動くしかない。命令によって、例えば小休止といいまして、やっぱり五キロおきとか、例えばこういう暑いときにはちょっと木陰に休憩します。その時に実は背嚢を下ろして座りたいんですけど、そういうことをすると今度出発の時にまた非常に体が負担がありますので、そのままかるーた(背負った)ままですね、運動会坐りじゃないですけど、しゃがんで休憩したそうですね。今度、例えば五分か十分休憩して、「今からまた出発するぞ。みんな立て!」とか言われたときに、実は一人では立てなかったそうです。ということは、両隣のどちらかの戦友に頼んで、運動会坐りしている自分、荷物をかるーて(背負う)いる自分に手をひっぱってもらって、息を合わせて「一、二の三」で引っ張り上げてもらわないと立てないぐらいの、そういうきつさだったそうです。ここに来た方にはですね、まぁプレートにも書いてますけど、「手に触れてください。触ってください」というふうに書いています。必ず特に小さいお子さんとか、まあ若者の場合は、軍服を着てみたりとか、それで鉄兜かぶったりと。それをスマホで撮ったり、例えば軍服にしてもこう着せますよね。そうしたらやっぱり小さいわけです。ということは、「あの当時の体格が僕たちよりもまだ小さかったんだよね、大人でも」という話をすると、納得しますよね。ボタンが止まらんぐらい小さかった。しかもこの服自体は、例えば軍隊に入った時に服を支給されるわけです、兵隊さんは。で普通の今の子だったら、上官の人にですよ、係の人に「いや、これ実はボタン止まりませんけど、もうちょっと大きいやつに変えてください」とか、普通はそれを言いますよね。ところがそれ何と言われるかわかりますか、と。みんな首捻ります。「実は叱られるんよと。そういうことを上官に、お前の体を服に合わせろ、と言われるんよと。非常に理不尽なことを言われるんやけど、そういうのが軍隊だよという話をしますと、少しはやっぱりわかりますよね。そこから何か戦争のことが少し小さいお子さんでもわかるんじゃないかという考えで、だから最初から「触れてください。触ってください」というのが、この「兵士・庶民の戦争資料館」の、要するにやり方ですね。
 
ナレーター:  この資料館を作ったのは、武富さんの父・登巳男(とみお)さんです。登巳男さんは、太平洋戦争終結から三十四年が経った一九七九年、自宅の一部を改装して展示室を開きました。最初に公開したのは、武富家の戦争を経験した三代の男性たちが残したものでした。
 
武富:  私の曾祖父は日露戦争。それから祖父は、第一次世界大戦。そして私の父は、昭和十三年から―十二年から日中戦争ですけど―日中戦争と後半の太平洋戦争、これに終戦までですね。だから二十一歳から三十歳まで兵士として戦って、運良く生き残ったわけですね。この資料が大元の資料です。これ約三百点あります。これなぜ父はそういうことをしたかという経緯ですけど、少し遡りますけど、父が戦争体験八年ぐらい行った中で、プノンペンという飛行場で―飛行乗りでしたから―体験したことがあります。名パイロットがプノンペンの飛行場で事故死に遭われるんです、プロペラに巻き込まれて。ところが、「壮絶なる戦死」と第一面のトップに記事が載っていたわけです。これ皆びっくりしたわけですね。書かれていたことは、イギリス軍の戦闘機に襲撃されて多量出血しがら操縦桿をしっかり握って、なんとか辛うじてプノンペンの自分の飛行場に帰ってきたというような、そういう全然嘘の記事が書かれていたわけです。これは結局父としては、絶対こういう嘘はいかんよ、という気持ちがあるし、じゃあ自分たちのこともひょっとしたら事実を―明日も死ぬかもわからんけど―伝えられていないかという、そういう気持ちがありまして、父の場合はそれから自分のそういう私物、これをせっせとおじいちゃんの方に送っていたわけですね。例えばここにまだあります「恩賜のタバコの箱」とかですね、そういう飛行機乗りの運命としましたは、遺骨が帰ってきません。途中で海に墜落させられるのか、山に突っ込まされてバラバラになりますから。ということで、おじいちゃんも一人息子の登巳男が、そういう形になったときに、遺骨代わりに戦地から送ってくる自分の息子の武富登巳男の戦争にまつわる品物を大事に保存しておったわけです。
 
ナレーター:  やがて資料館には、全国から兵士の遺品などが寄せられるようになります。
 
武富:  父がいつも言っていた「遺品は遺品を呼ぶ」という言い方がありまして、いろいろ高度成長に伴って、代が変わったりして、そういう戦争中に使われたものとか、どんどん捨てられたり、焼却されたりするのが忍びないんで集め始めました。それでだんだん集まってきました。そういうのをいただくときには、「そういうエピソードがあれば教えてください。なんで今まで持っていたんですか」ということを聞きます。必ずそのエピソードの中に、それをやっぱり捨てたり焼いたりできなかった思いが、その持っていた方にあるわけですね。それが多分父が言っていた「遺品が語る」という意味だと思うんです。ここにあるのが日の丸に、要するに寄せ書きをした、そういう日の丸の寄せ書きなんですけど、その当時出征なり、入営した時に一番親しくしていた人たちからもらったメッセージなり、名前が書かれている日の丸ですね。全部墨で書かれています。普通の日の丸の寄せ書きと、どこか違うかということを見ますと、真ん中の赤い日の丸の部分が切り取られて、その部分を全部処分した上で、周りにある寄せ書きの部分だけを大事に持ち帰ったそういう日の丸です。これは一応私の父が寄贈を受けたんですけど、中国戦線で生き残られて捕虜になったあとですね、復員といいますけど、日本に帰れる日が来た時に、船に持ち込める品物は、こういう字の書いてあるものとかですね、だから手帳とかもそうですけど、写真とか、そういうものは持ち込み禁止だというようなことが一応命令が出まして、この方は実は非常に悩んだ末ですね、みなさんまだ静かに寝ている時に、自分は半身裸になりまして、その丸く切り取った部分が、要するに空いていますので、それを頭からすっぽりかぶったそうです。だから直接肌に付けたわけですね。ということは、要するに肌着の代わり、そういうボデーチェックなり、検査の時に言い訳としては、「自分の下着だ」ということを言い通して、その下着にちょっと落書きしているんだと。そういう言い逃れをしようかなあというふうに思ったそうですね。ところが幸いですねボデーチェックなしに乗り込めて無事に日本に持ち帰れたということなんですね。この方が寄贈した時に、父が話したのは、実は二年かそこら中国戦線に参戦して、戦友たちは亡くなったけど、自分は生き残ったと。その生き残る時に、非常にきつい思いをしたけど、いつもこの日の丸の寄せ書きの書いてくれた友達の励ましの言葉とか、お名前を見ると、要するに頑張れたと。これがないと多分自分は落伍してですね、生き残れんやったやろうと。だから戦争に生き残れたのは、この公の日の丸のお陰じゃなくて、その日の丸の赤い部分を取ったこの周りですね、自分の一番親しいプライバシーの部分の人たちのおかげで自分はこの戦いに生き残れたんだと。これは大下さんという方が、戦争中に従軍しながら、毎日に付けた日記の一節でございます。この方も同じ中国戦線で、輜重兵(しちようへい)と言いまして、今でいう後方支援部隊ですね。弾丸とか、それから食料品を運ぶ後方部隊に所属されて、一応生き残られて帰ってこられてました。この方の日記の中にあるのが、
 
戦いとは天皇や国の為でなく、生きるためです。戦いとは歩くことです。戦いとは飢えることです。戦いとは眠いものです。戦いとは偸盗戒(ちゆうとうかい)、邪淫戒(じやいんかい)を忘れることです。
 
少し難しい言葉がれましたけど、「戦いとは偸盗戒、邪淫戒を忘れることです」。という。この偸盗戒、邪淫戒というのは、仏教でいう五戒ですね―五つの戒め。一番の戒としましては、「殺生戒」と言いまして、汝殺す事なかれと。 二番目の偸盗戒が、盗む事なかれと。泥棒しちゃいかんですよ、ということですね。邪淫戒というのは、淫らなセックスしたらダメですよ。妻以外の人とそういうことをしちゃダメですよ、というのが邪淫戒ですね。「これを忘れることです」というのが、非常にこのリアリティあるのは、兵隊さんで、特に中国戦線で言えば、こういうことをしないと逆に生き残れなかったと。そうしないと、例えば組織の中でいうと、つまはじきにされるし、要するに日本人の加害行為が、未だにあんまり戦争へ行った人がしゃべらないのはそこなんです。要するに、人間としての有り様が戦争の持つ非常に非人間性といいますか、そういう倫理観とかそういうのは吹っ飛んでしまって、人間性を忘れないと生きることができない。要するに殺し殺される一番ギリギリのところでは、そういう非常に不条理なことがまかり通る。それが戦争だよ、と言っているのが、この方の二年間の総括だったと思います。大下さんは実は亡くなられましたけど、弟さんから、大下さんの遺品の整理をした時に、今言った日記を含めまして、いくつかの大下さんが大事にしていた遺品が出てきたそうです。戦争にまつわるですね。それをもう兄貴がそれだけズーッと戦後大事に持ってて、その弟さんとしては、それを捨てたり焼いたり処分するのは忍びない。でもこのまま持っていてもどうしようもないという中で、たまたま家のことを知られましてそういう形で残っています。私の父が言っていたのは、まる八年間ちょっと青春の全てを戦争に費やした。それだけ戦争に携わって運良く生き残った自分ですら、例えば「百あるうちの十ぐらいしか戦争のことはわからない」というわけですね。父の場合はですね、シンガポールで終戦を迎えた時に、ちょうど昭和二十年の八月十五日の昭和天皇の終戦の詔勅をラジオで聴いた後にですね、すぐに命令が出たのは「全部軍書類は焼却させよ」という命令が出たそうです。これは戦犯に問われるそういう上層部の考えも含めてですね。だからその時に、三日三晩兵舎の中庭で部下の何人かと一緒に全部燃やしたそうです。涙流しながらですね。結局一回そういうふうに歴史の証言となる資料がなくなれば、うやむやにされますよね。もともと軍隊自体は秘密主義ですから、上層部は知っているけど、下の方は何も知らない。この体質がございますから。という中で、父の場合の一番そういうものの見方を学んだのが、一つは、飛行機乗りであったために、ものを見るときに少し離れたとこから、上の高いところから角度を変えてみる見方というのを、父もやっぱり飛行機乗りであったために自然と身に付けた。例えば昭和十七年二月に地球上で一番高い山エレベスト。八三三四メートルのこのエレベストを、全景を撮った写真が残っています。下の方が雲で、上の方がエレベストの白い雪が、万年雪がかかっている写真を、その当時は軍事秘密の最たるものですから世に出ないままですね。でもそのまま父は保存しておって「神々(こうごう)しい」と言っていました。だからやっぱりそういう一瞬戦争のことなんか忘れて、その感動に胸いっぱいになるみたいな感じですよね。地上でああいう殺し合いをしている戦争が馬鹿馬鹿しくなるぐらいの自然の素晴らしさ、感動ですよね。そういうのをやっぱり父のみならず飛行兵の人は思ったらしいです。父の場合は、あの中隊で五十四機飛行機が落とされて、百十名の自分の中隊の戦友が亡くなったと。自分は運よく生き残って捕虜になって、アメリカの輸送船で帰って来たんですけど、その時に実は南十字星を見る。赤道のあそこを越える時に南十字星が見えたと。その時にその船の甲板で、今から日本に帰れる嬉しさとか、生き残った嬉しさとか、でも不安ですよね。今からどう生きていくとか、そういういろんな思いの中で、なぜ自分だけ生き残ったかという問いがあったわけですね。多くの自分の戦友が亡くなったわけですから。そして最終的な結論としては、自分を生き残らせたのは、亡くなった戦友たちが、「武富、お前は生き残ってこの戦争の真実を語れ」と。真実―戦争の本当のことを伝えるためにお前は―だから義務ですよね、責任―これを父は思いいたったわけです。やっぱり原点はそこだと思います。
 
ナレーター:  武富さんは、二○○二年、八十四歳で亡くなりました。資料館の運営を息子の武富さんが引き継ぎ、来館者を案内したり、季節ごとに企画展を開いたりしています。武富さんは、五十歳の時得度、僧侶として毎年六月追悼の法要を営んでいます。
 
武富:  実は父が戦争資料館を始めたころから、年に一回供養ですね―仏式ですけど―ズーッとしていたわけですね。要するに遺骨代わりに持ち帰られた品物も結構ありますから。私の考えとしては、この二十畳のプレハブの資料館が一つの棺、と私は思います。お経を上げてですね追悼のそういう法要をするということで、朝と夕方と自分である程度できないかなあという思いが一番出てきまして、仏の道ですね、これは日常の中にあるのは、仏の道になると思います。私の場合は、この資料館の、いま午後一時半から五時まで開けているわけですけど、いろんなとこからお見えになります。一人一人の方にこの資料についてですね、大体一対一でその資料がどういう形でここにあるのかというその経緯とか、エピソードを話しながら分かっていただくという日常の積み重ねですね。これは非常に些細な積み重ねなんですけど、なかなかそういう真実というのは伝わりにくいところがございますけど、私も実は戦争体験者ではないんですけど、それは伝え得るという確信があります。なぜかというと、やっぱり仏心(ぶつしん)ですね。仏の心ですね。これはどなたにもございます。三歳の子供にもそういう仏心がございます。それからお年寄り百歳の方も。その仏心に問いかける、そういうその一番大事な人間の尊厳とか、命の大切さというのは、こういう遺品を通してであろうと、なんであろうと、一生懸命そういう形で私なりが伝えていくと、百パーセント伝わらなくてもですね、その一部は必ず残ると思いますので。実はこれはですね、今もありそうな木製の箸と箸箱なんです。これはどういう箸かと言いますと、ニューギニア戦線というのがありまして、これは実は現地の木で作ったということを言われています。結構硬い木だと思います。二十センチぐらいかな、男性が使うのはちょっと短いかなと思います。これに合わせて箸箱も同じ材質で、しかもこの溝をちゃんと彫って、こんなふうにきちっと入れられる、こういうお箸ですね。作った方は、昔の戦前の職業で、こういうことを手作りで作るのは指物師(さしものし)といいまして、やっぱり職人の一人なんですね。だから素人じゃこれたぶん作れないと思いますね。ニューギニア戦線はご存知のように、ほとんど兵隊さんが餓死をしました。でも自分が飢えて、明日死ぬかもわからん時に、多分手?みでも食べられるし、こういうことをわざわざね、箸と、しかも箸箱まで作るというこの人の思いですね。これを本当に謎だったわけです。なんでこういうことしたんだろう。今考えるのは、一つはこの方の日本への郷愁と言いますか、日本に帰りたいと。そして兵隊になるまで自分の仕事がこういう指物師で、普段職業としてはこれでご飯を食べていたわけですから、もう一回これを現地の木を切って、それを削って作って、道具もあんまりない中で立派にこういうふうに仕上げたということ。結構時間かかっていると思います。この指物師も一生懸命これに集中してですね、こうした時に日本の時のそういう自分の楽しい思い出、そういうのをこの時間過ごされたんかなということが一つと、もう一つは、自分はこのまま無くなるのは確実だという時に、この力がもう尽きるまでにこれを仕上げたら、例えば戦友にこれを託して、要するに自分の、例えば亡くなった後のニューギニアで死んだよと。自分の存在をそのまま無名のままどこで死んだかもわからんような形で残すよりも、こういう形できちっとしてみたかったんじゃないかなと。この箸を作った方のそういう人間性を忘れなかったと言いますかね、自分の若い頃のそういう職人としてのプライドとか、そういうのをこうなんとか伝えたかったんじゃないかなと思います。こういう遺品と言いますか、見ていくと一人一人の人のそのときの兵隊さんたちの、要するに苦しむとか、悲しみとか、そういう辛いところとか、というのが見えるという言い方はちょっとあれなってきますけど、わかる部分が出てきました。結局この方たちが何を訴えているのかと―毎日ですね―という中でいうと、やっぱり「戦争は二度としちゃいかんのだよと。どんないかなる正義を掲げても、要するに戦争しちゃいかんのだよ」というところを、この方たちは毎日この中でですよ、訴え続けているんじゃないかなと思います。それが一番わかるのが、やっぱり若い子供たちが来た時に、このドアを開けたとたんね、オァッと後ずさりする時があるんです。この迫力というか、何か感じるものがある。そういう方の思いをささやかながら私の仏の道を行く者として、自分なりに仏さんの助けによってですね、その戦死された方のことが少しずつ分かり始めてきたり、何かのヒントで、このたぶん箸のこともそうですけど、大きな意味でご縁をいただいたというふうになると思います。だからご縁はいっぱいあるわけですけど、それをどういうふうに自分は感じ止めて、良い方向につなげていくかは、その本人の日常のそういう思いなりが積み重ねてあるんかなというふうに思っております。私の師匠がいつも言っているのは、「兵隊さんのおかげですよ」と言われるんです。兵隊さんのおかげだけど、絶対戦争しちゃいかんぞというところのメッセージを、たぶん兵隊さんたちの一番の思いを伝える役割ですね。ここに聖フランチェスコの「平和の祈り」というのがございまして、これの一番最初の、
 
われをしておんみの平和の道具にならしめたまえ
 
というのは、私は、これはキリスト教のフランチェスコが言ったんですけど、平和の道具として私を―この場合は神様だったんですけど―私は仏さまが今自分をこんな形で生かして頂いているんかなという思いであります。だから兵隊さんのおかげという、その私の師匠が言っている意味としては、私が平和の道具としてこういうふうに働かしていただける。元気にというところが、今の私の気持ちとしては一番幸せなことだし、ありがたいことだなというふうに思っています。
 
ナレーター:  今、兵士・庶民の戦争資料館では、夏の企画展として父登巳男さんが戦地で受け取った子供達からの慰問の手紙を展示しています。
 
武富:  ちょうど夏休みに入りますので、小中学生、高校生の子供たちがここに訪ねてくる可能性が結構ありますので、その当時の慰問文と言いましてね、これも父がいただいた慰問文で、これは小学生だと思いますけど、字は結構綺麗な方のお手紙で、ちょっと読んでみます。
 
満州にいらっしゃる兵隊さん。お寒いのにお変わりございませんか。私も元気で学校に通っております。内地では石炭、お米、お砂糖などいろいろなものが少なくなってきました。我慢をしてなるべく倹約して使います。学校ではストーブやスチームを焚かないでお弁当も冷たいので我慢します。だんだん寒くなってきますから、お風邪を引かないようにお体にお気をつけください。さようなら。
十二月七日
兵隊さんへ
 
こういう可愛い女の子の絵がついたカラーのお手紙で、これを約六十五点展示いたします。あの当時の同じ年頃の子供たちがどういう考えで、兵隊さんに手紙をやったとか、そこら辺の気持ちを、今の子供たちに知ってもらって、自分の自由なものの言い方ができない時代に、まぁこういういっぱい同じような「兵隊さん頑張ってください」というような文句を書かされた子供たちの内面的なものを、今の子供たちがどう感じるかというところを知っていただきたいのと、一番アレなのは、そういう子供たちに自分で考える力と言いますか、鵜呑みにそういう譲歩しないで、自分でちょっと待てよと。なんでこうなるの?と、そこの疑問のクエスチョンマークを常に持ちながら、自分で調べて、自分で自分の考えをきちっと伝えられる―そういう大人というかな―子供から成長するときになって欲しいなというのが私の願いですね。
 
     これは、平成二十九年八月十三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである