子育てのこころ
 
                    出 演 コルカット盛永 暁子(もりながあきこ)
                    ききて 浅 井  靖 子
 
ナレーター: 今日は、「子育てのこころ」と題して、一九九五年に亡くなられた元花園大学学長で、元大珠院(だいしゆいん)住職の盛永宗興(もりながそうこう)(臨済宗の僧。大正14年(1925年)、富山県に生まれた。後藤瑞厳について出家し、小田雪窓より印可を受けた。妙心寺・龍安寺の塔頭である大珠院住職を務めた。昭和61年(1986年)4月から平成6年(1994年)3月まで、花園大学学長。平成7年(1995年)没)さんの生前の言葉を、盛永さんの養女・コルカット盛永暁子(もりながあきこ)さんと共に伺います。盛永宗興さんは、大正十四年のお生まれ、大徳寺で十五年にわたる修行を続けた後、大珠院の住職として数百人の若者たちと共に暮らした経験をお持ちです。聞き手は浅井靖子ディレクターです。
 

 
浅井: コルカット盛永暁子さんは、盛永宗興さんの養女になられたということですね。
 
コルカット: はい。養父は、私の母の一番下の弟で、禅道に入ることに決心をしましたときに、結婚することはありえないし、家族を持つことはないと。その時に母に「一人、娘を養女にくれないか」というふうに頼みまして、それが私が八歳ぐらいの時でした。
 
浅井: 盛永老師は、修行僧や大学生だけではなくて、一般の中学生、高校生たちをもお寺で扱ってお育ちになったそうですね。
 
コルカット: はい。
 
浅井: それで老師が亡くなられた後に、老師のご著書を英語に訳して、自費出版をされたと伺いましたが。
 
コルカット: はい。その一周忌が終わった頃に、何か私自身に思い出のものをまとめたいという希望が出来まして、それが『子育てのこころ』を英語に訳して、海外で宗教に興味を持っておる人とか、それから老師のお弟子さんが始めたカリフォルニアのお寺の方たちに、老師の本を英訳すれば読んでいただけるかしらという希望で、一年半ぐらいかかって訳して、母が製本をしていましたので、製本のやり方を習って、それから表紙に使う背表紙、それは形見としていただいた木綿の茶褐色の衣、ほとんどいつもそれを着て愛用していて、もらったので、切って表紙の残りの部分はちょっとデザインの変わった和紙を貼って、で表紙にしました。
 
浅井: 『子育てのこころ』英語でのタイトルというのは何か?
 
コルカット: 夫の協力もありますけれども、「こころ」は、禅の心という意味で「Zen of mother mind」でした。老師が若い―主にお母様たちに向けていろいろお話をしたのをもとにして本にしたものなので、子供の成長の段階で親があまり口出しをしたり、手を出したりして邪魔をしない。つまり子供の持っている潜在する能力を育てるということを強調していて、当日アメリカの中でも、ヘリコプターマザー―ヘリコプターは、今でいうドローンのように空の上を旋回して、下を監視する。子供が将来どんな科目を勉強したらいいかとか、進路をね、口出しをする親が増えてきていて、子供はやはり親に頼る傾向が出てきている。それが問題になっていたんです。ですから、その大珠院の方たちが、その本を読んで、それに対する反応が一番大きかったですね。
 
浅井: 以前、老師にお話をいただいたものの中に、若い方たちの育ちをどんな思いで見守っていらっしゃるのか。老師らしい言葉があったので、ご一緒に聞いていただけませんでしょうか。
 

 
盛永: 私、学生たちを送り出すにあたって、前日から自分が生きてきた来(こ)し方というのをつい思い出してしまいましてね。彼らが大学を卒業するこの時期までに、どれだけの挫折を味わい、乗り越え、また何を気付き、社会に出ていくだろうか。そして、彼らを迎える社会というのが、現代大変厳しいですから、そういうことを考えているうちに、だんだん心の底から「おめでとう」と言いにくい気分になってしまいましてね。卒業式の朝は午前二時に目が覚めてしまいました。寝床の上に坐って、また改めて考えておったんですけれども、ふと、「いや、それだからこそ、この門出にあたって、心の底から彼らを祝福してやらないかんのだという思いがしみじみしましてね。みんなに贈る言葉として、「おしっこ」の話を致しました。「おしっこ」は人に代わって、して貰えない。それと同じように、人生を生きていく上で、喜び、悲しみ、幸せの思い、苦しみの思い、そういうものは切実に自分が受け取らなくちゃいけないんだ。自分が幸せと思わないところに、幸せは存在しない、ということを話たんですね。ついでに昔中国で修行しておられた開善謙(かいぜんけん)和尚というお方の話をしました。この方は中国人ですけれども、大慧宗杲(だいえそうこう)(1089-1163)禅師という方の傍(そば)で長く修行をなさったんですけれども、どうにも悟りが開けないんですね。二十年近くも修行をなさったんでしょうか。しかし、悟りが開けない。そのうち、お師匠さんの大慧禅師から手紙を持って長沙(ちょうしゃ)というところまで使いに行くように命ぜられたんです。謙(けん)和尚にしてみれば、師匠の傍におってさえ悟りが開けない。それを、今日では考えられないほど歩いて行くんですから、時間がかかります。往復半年もかかるような旅をしておったんでは、いよいよ修行が遅れてしまう。そう思って大変悩んだ末に、兄弟子の元上座(げんじようざ)という人に相談をしたんです。そうしたら元上座が、「旅の途中でも修行できんことはない。おれも一緒についていってやるから、だから師匠の命に従って旅に出ろ」とこう言われて出掛けました。しかし、旅を続けて一ヶ月、二ヶ月経つうちに、またぞろ謙和尚のほうは、どうしていいか分からなくなったんですね。とうとう涙まで流して、兄弟子に訴えたんです。「こんなことしていて、どうなるだろうか」。その時、兄弟子は、「お前に代わってやれることは何でも代わって雑用をしてやろう。お前は、自分がこれが修行だ、と思うものは、旅の途中、思いっ切りやれ。しかし、ただ五つのことだけは代わってやることができない」。それは彼の言うた言葉に従えば、「着衣、喫飯、痾屎(あし)、送尿、箇の死屍(しし)を駄して路上を行くこと」というような言い方をしております。要は、「腹が減った時、飯を食うこと。暑い寒い時に着物を着たり脱いだりすること。そして大便・小便をすること。さらにはこの肉体を背負って生きていくこと。この五つだけはお前に代わってやることができない」こう言ったんですね。その言葉を聞いた瞬間に、謙和尚ははじめて悟りへ踏み入る道を見えだしたんです。この話を彼らにいたしまして、「この話を但し聞き違いしないようにしてほしい。このことは人間は一人ひとりであって、きわめて孤独なものだという意味ではないんだ、と。そうではなくて、この言葉を聞いた瞬間、謙和尚が気付いたことは、だからこそすべての人間の中に生まれながらにして、それに耐え、それで生き、それでいろいろなものを味わっていく力が本来具えられているということであったに違いないんです。だから今の若者たちは、人に向かっては、信じてほしい=A或いは、自分を理解してほしい≠アういうふうに願いながら、実は自分が一番自分を信じていない。自分が一番自分を認めてやっていない。たとえ数学はできなくても、学業は下手でも、或いは能力的に劣っているようにみえても、実はそれは未開発なのであって、自分の中には素晴らしい力があるんだ。そのことを信じて、決して絶望することなく、この門を出て生きていって貰いたい」こういうような話を卒業式にしたと思います。有り難いことに、私の話を聞いて、そして私は、「だから、心のそこから君たちを祝福したいという思いで、おめでとう≠言います」と言いました時に、半数近くの学生が、こういうふうに答礼をしてくれました。これは大変嬉しいことでしたね。
 

 
浅井: 「自分の中にあるものを信ずる」という言葉がありましたけれども、自分が信じられないという思いは、ご自身の中にもかつてあったもので、それで修行の道にお入りになることになったというふうに聞いております。ちょうどご自身の修行に至る道、それから修行の時のエピソードをお話していらっしゃる言葉がありましたので、ご一緒に聞いていただければと思います。
 

 
盛永: このお寺へ入れて貰ってから四十年間、私にとっての修行は、「馬鹿さ加減に気が付くこと」の連続だったんです。「馬鹿さ加減」というのは、他人様(ひとさま)―人間が馬鹿だ、という意味じゃなくって、「自分自身が随分間違った思い込みの中で暮らしてきたなあということ、それに気が付く」ことの連続だったんです。ですから師匠や或いは経典、祖録の中の立派な言葉に出遇った時、それを覚えるんではなくて、それが一つの刺激になって、自分の中で何かが砕けていく。思い込んでいるものが砕けてしまう。そういうことの連続だったような気がします。まあ言ってみれば、目のうろこが落ちる。耳の栓が抜ける。従って真実なものがありのままに見えてくる。ありのままに聞こえてくるというのは、馬鹿だったと気が付いたことの副産物でしてね。世間ではよく「馬鹿に付ける薬はない」というんですが、私は馬鹿だったと当人が気付きさえすれば、そのきっかけになるものは全部薬だと思うんです。ただ残念ながら、「良薬は口に苦(にが)し」と言いましてね、この馬鹿だと気が付くための薬もなかなか苦(にが)いんですな。いわゆる世間的な言い方をすれば、「苦労」とか、「不幸」とか、そういうものに出遇わないとなかなか気が付かない。私の前半生はそれだったような気がします。
私は富山県の魚津(うおづ)というところで生まれたんですが、先祖代々百姓でして、爺さんの代までは百姓しておったんですね。それが親父が医学の勉強をして、町で開業医になりましたので、田圃はみんな小作に出すということになりました。従って小さいけれども地主で、医者の息子ということで生まれたんです。まあ大体馬鹿になる条件は揃っておったわけです。やって来る人たちはみんな門口(かどぐち)から頭を下げて来てくれる人ばかりですから、身のほども知らずに思い上がるということは、私の子どもの頃の恥ずかしい状態だったと思います。しかも悪いことに学校の勉強だけは少し出来たものですから、余計に思い上がりがあったんでしょう。私は、姉弟四人で、上に三人姉がおって、最後に待ち望まれて生まれた跡取り息子だったんです。高等学校へ入る時には、勝手に文化へ入って終いました。これなどは馬鹿の証拠でして、親父が苦労して作った病院の跡継ぎが居なくなったわけですから、随分ガッカリしただろうと思いますよ。その天罰が忽ち当たりましてね。私は大正の末年の生まれですから、ちょうど高等学校在学中が、戦争が日本にドンドン不利になっていくという時期でした。そしてご存じの学徒動員という、出陣という。それまでは大学を卒業するまで兵役が免除されるという法律が改正されて、文化の学生だけは行かなくちゃならんという状態になったんです。その上に追っかけるように、徴兵年齢が一年引き下げられる。ですからアッという間に、自分が軍隊へ入らなければならないということになったわけです。先ほど私にとって、「修行というのは、自分の馬鹿さ加減、思い違いを打ち破ることの連続だった」って、言いましたけれども、まずこの軍隊へ入って戦死するだろうということは、いきなり目の前に押し付けられた時、自分が如何に死というものについて無関心で生きてきたか、ということを痛切に感じさせられました。三年か四年、大学卒業するまでの期間が、まるで彼方の時間のように思って暮らしておったんですね。それがいきなり自分が戦死するという。向かいを見ても、隣を見ても、息子や主人が戦死したという広報が入っている時代ですから、これはもう嫌でも考えざるを得ません。兵隊検査を受けて一ヶ月後ですけれども、立て続けに私の両親が死ぬということも起こりました。これは母が身体が弱くて寝ておったんですが、父がその母の容体を診察しておりまして、もう今日はダメだという日に、それが引き金になったのか、父が脳溢血をやって、母が夕方に亡くなる、父がその明くる日の午前中に亡くなる、ということが起こったわけです。三人の姉は結婚して、一人は満州、一人は上海、一人は門司におりまして、国鉄の切符も買えない時期ですから、誰も戻って来れない。私一人で、親戚に手伝って貰って、二日間に渡って、葬式を出して、それから召集令状が来て軍隊に入る、と。こういうような経験をしたんですけれども、自分が死ぬということも、親が死ぬということも考えてみていなかったんですよ。何となく無限にこの状態が続くように思って暮らしておったんですね。更には軍隊へ入る。自分が戦死するかも知れない。そういう恐怖を、多分あの当時は私だけでなく、急に学徒として出陣する羽目になった連中はみんなそうだったんじゃないかと思いますが、この戦は聖戦だ。だからこういう正しい戦のために命を落とすことはやむを得ないんだ、というようなことを、無理矢理に自分に思い込ませていったんじゃないかという気がします。友だちの中にも片道のガソリンを入れて貰った飛行機の操縦桿の上に、『歎異抄』だとか、或いは自分の愛読書を載せて、読みはせんでしょうが、それを見詰めながら、打ち落とされていった連中がおるんですよ。それが一旦敗戦になりますと、すぐに、「これは間違った侵略戦争であった」ということになったわけですね。ほんの二、三年の間ですけれども、立て続けに自分の思い込みというのか、そういうものが崩れていった。それが私にとっての昭和十九年、二十年という時代だったんです。
敗戦になって死なずに軍隊から戻って来まして、そして復員服着た連中がクラスでまた顔を会わせたんですけれども、授業にならんのですね。生きて帰って来たから、この後何十年かまた生きることになるんだろうけど、「お互いに一晩でど んでん返しくってしまうような善悪しか知らないんだったら、一体何を基準にして生きたらいいのか。もう二度と善だと思っていたものが悪だったというようなどんでん返しを喰わないためには、我々はのんびり勉強することよりも、まず確かな善悪の基準を見付けなくちゃいけないんじゃないか」と、こういう論議が友だちの間で盛んにされたわけです。
さんざん自分なりに行き詰まった挙げ句に、最後に飛び込んだところが禅寺だったというわけなんですね。昭和二十二年に高等学校を卒業しまして、ウロウロした挙げ句、静岡の臨済寺というお寺へ飛び込んだんですが、そこで私が初めて会うたお坊さんが妙心寺の管長になっておられます。当時まだ四十そこそこの若い方でありましたけれども、そこで坐禅の仕方を教えて貰って坐禅を始めたんですね。しかしやってみますと、これ片手間でいかんのですね。こんなことをいい加減にやっておってもどうしようもないわいとしみじみ思ったものですから、紹介してくれる人があって、京都へ出てきまして、そしてこの大珠院(だいしゅいん)に当時おられた後藤瑞巌(ずいがん)という、この方が当時大徳寺(だいとくじ)の管長でした、七十歳で。その前は妙心寺の管長を歴任しておられたんですが、この方のところへ連れられて来て、「お側で修行させて頂きたい」とお願いをしたんです。老師は、まずこう訊かれましたね。「お前、何故修行するんだ」と。世間一般では修行というたら無条件で、「結構なこと。それはいい心掛けだ」とこう言うてくれるんですが、老師の場合には、「何故修行するんだ」と、こうきたんです。それで、私は、グダグダと今ちょっと申しました過去の経歴をお話をしました。一時間位無駄に喋っておったんじゃないかと思います。それを黙って聞いておって下さって、私の話が終わった時、こう言われたんですね。「お前の話を今聞いておると、今のお前は何ものも信じられないというような心境のようだ。しかしな、修行というものは師匠を信ずることなしには成り立たんのだぞ。お前、この儂が信じれるか。信じれるのならば側にいたらいいが、信じられないのならば、側に居ても無駄だから、富山へ帰れ」と言われたんです。当時の私は捻くれていましたから、腹の中で、「この糞爺め!」と思ったものですわ。もう七十歳ですから。「大徳寺の管長だか、妙心寺の管長だか知らんけれども、世の中には社会的地位が高こうても碌(ろく)でもない奴はいっぱいおる。第一今出会ったばかりのこの爺を即座に信じることができるほど、ものを信ずるということが簡単にできるものならば、俺はトコトコ富山から京都くんだり出て来はせんわい」とこう思ったんですな。しかしそんなことを言ったら、「お前、帰れ」と言われるに決まっている。それでしょうがない。ここは一番嘘を付いてでも、と思いましてね、即座に「信じますから、どうぞお願い致します」と言うたんです。
私は、この老師にお目にかかる時まで、自分の間違った思い込み、例えば親はいつまでも生きている。自分もいつまでも生きている。田圃はいつまでもある。戦争は正しいものじゃ。そういう思い込みが片っ端からぶち壊されましても、残念ながらその時までの私は、それが目のうろこが取れたり、耳の栓が取れたりすることにならなかったんですよ。
ところがこの瑞巌老師にかかった時、初めてそういうふうでない自分の馬鹿さ加減を思い知らされたんですね。老師は、私が、「信じますからどうぞよろしく」と言いましたら、早速腰上げして、七十の爺さまが、「竹箒を持って庭掃きするから、お前、来い」と言われる。今は秋ですから落ち葉は自然なんですが、よく見てご覧になると、上手いこと植えてありましてね、春でも落ち葉が散るように木が植えてあるんですよ。私が来ましたのは春だったんですが、楠の病葉(わくらば)とか、カシの病葉(わくらば)がいっぱい落ちておる時期でして、掃きますと、瞬く間に落ち葉の山が出来るんですね。そこで、私は、「老師、このゴミ、何処へ捨てましょうか」と気を利かせて言ったんです。そうしたら叱られましてね。「ゴミは無い!」、こうきたんです。「ゴミがないといっても此処に」とこう山を指しましたら、「お前は俺のいうことを信じないのか」。此処で初めて気が付いたんですね。「信じる」というのは、文句が言えないということだったんです。それでしょうがない。「じゃ、どこへ捨てましょうか」と言ったら、「捨てるんじゃない!」とまた叱られる。もう言うことありませんから、黙って突っ立っておりましたら、「納屋へ行って、炭俵の空いたのを持って来い!」。持って来ますと、落ち葉を全部そこへ入れて、最後の一片まで入れて、足でこう踏み込んで、「納屋へ持って行って置け! 風呂を焚く柴(しば)じゃ」と。で、私、それを担ぎながら、文句が言えないということになりますと、腹の中で文句を言うんですな。「これは確かに柴だったが、まだ残っておるのはゴミだぞ」と、まあ抵抗しておったですね。戻って来ましたら、今度しゃがみ込んで、老師は小石を拾うてござる。「これを雨落ちの穴の開いておるところへ行って並べろ!」と言われた。並べれば穴も塞がりますし、景色にもなります―今は樋を綺麗に付けましたので、その必要はなくなりましたが―それを並べたけれども、まだ少し苔の折れたような土塊(つちくれ)みたいなものがある。あれはゴミだぞと思って頑張っておりましたら、それを全部掌の上に載せて、地面をすかして見て、凹(へこ)んでおるところへ持っていって置いて足でトントンと踏まれたら何も無くなったんですね。そ してこう言われたんです。「どうだい。分かったか。物にも人にも本来ゴミがないと分かったか」。感銘を受けました。感銘を受けましたが、やはり馬鹿者はなかなか心底のところが分からんのですね。今から考えてみますと、老師は多分「ものを信じられなくなっている私が、一番信じられないのが私自身なんだ」ということを見ておられたんだと思うんです。だから、「自分自身をゴミのように思っておるかもしらんけれども、実はそれはゴミではないんだ。希望を持ってやれ」と、こういう励ましの気持があったと思うんですね。
でもそんなことはその時まったく気が付かなかったんですね。気が付かんどころじゃない、それから始まった禅寺の生活では、まったく老師はこっちをゴミ扱いなんですな。
老師は他の人には話をされるんですが、私には絶対に声を掛けて下さらない。先輩が可哀想がって私の方へ話を向けますと、「ダメだ! ダメだ! 其奴はまだ人前でものを言う資格はない!」こう言われるんですね。しかもいろんな時に罵倒される言葉が、「小馬鹿たれ」と言うんですよ。馬鹿でもやっぱり「大馬鹿」と言われるほうが何かスッキリしませんか(笑い)。それが「小馬鹿」の上に「たれ」が付いているから汚(きたな)しくてしょうがない。「この小馬鹿たれめが!」「この小馬鹿たれめが!」。だから腹の中で、「口先では、物にも人にも元来ゴミはない≠ニ言うておきながら、まったく人をゴミ扱いじゃないか」と腹の中で思いましてね、心の底から信じます、というわけにはなかなかいかなかったんですね。ところがある日の朝の茶礼で、お婆さんが一人いました。お茶の水の女高師(女子高等師範学校)を卒業して教鞭をとっておった人ですが、四十歳の時に老師に帰依(きえ)して、そして学校を辞めて、それからはもうつっぱりともんぺだけで、もう紅、白粉(おしろい)一切なし。ひつめ髪で生涯を終わった人です。非常に真剣に老師に仕えた人ですね。しかし普通の弟子とは違いますから、割合に気軽に老師にものが言える。突然、何がきっかけだったか私は忘れたんですが、こういうようなことを老師に訊き出したんですね。「老師様、洪川(こうせん)老師と宗演(そうえん)老師とはどちらが偉かったですか?」。洪川老師というのは今北洪川(いまきたこうせん)(1816-1892)と言いまして―鈴木大拙(だいせつ)居士(こじ)(学生時代、円覚寺の今北洪川に師事、釈宗演に参禅。大拙の道号を受けた:1870-1966)なども本を書いておられますが、この方について―幕末から明治にかけて、禅界だけでなく、仏教界全体を代表するほどの偉大な禅僧でした。鎌倉の円覚寺(えんがくじ)の管長をなさった方です。そのお弟子―法を受け継いだお弟子が釋宗演(しゃくそうえん)(1859-1919)という方でして、年輩の方々は知っておる方が多いんですが、やはり鎌倉の円覚寺の管長で、日本で初めてアメリカへ禅の布教をなさった方でもあるんです。有名な夏目漱石が、鎌倉の円覚寺で修行しました時に就いた老師がその宗演老師ですね。その経験を『門』という小説に書いております。このお二人を比較して、「どちらが偉かったですか?」と、そのお婆さんが訊いたんですね。そうしたら老師は即座に、「お師匠さんの洪川さんが偉い」と言われた。そうしたらそのお婆さん、「じゃ、宗演老師と宗活(そうかつ)老師はどちらが偉かったですか?」。この宗活という方も宗演老師の法を継がれたお弟子でして、本来ならば円覚寺の管長になるべき立場のところを、生涯寺には住職せん、ということで、この二人を比較しました時、瑞巌老師はまた「お師匠さんの宗演老師が偉い」と言われたんですね。そうしたらそのお婆さんが、「あらあら、老師様、困るじゃありませんか。次々にお師匠さんのほうが偉いんだったら末細りになって困ります」と。「じゃ、宗活老師とそのお弟子の瑞巌老師さまとはどっちが偉いですか?」と言ったら、老師は、「儂のほうが偉い」と言われたんですね。末細りになると言ったものだから。滅多に冗談を言わん老師が、そういうふうに答えられたものですから、お婆さん、すっかり嬉しくなりましてね、「じゃ、老師さまとそのお弟子の雪窓(せっそう)さんはどちらが偉いですか」と訊いたんです。雪窓(せっそう)という方はその当時、まだお寺に住職もせず、修行は既に済んでおって、瑞巌老師の法を受け継いでおられたんでしょうが、表には出ておられん。雲水姿で余所のお寺の掃除をしておられた時代でした。一方は両方の管長を歴任した禅界の最高峰の位置にある人―まあ私のような馬鹿は社会的地位でしか人の値打ちがその頃見えませんから、月とスッポン、比較にならんのですね。それでその比較を可笑しく笑いかけたんです。そうしたら瑞巌老師が考えようともしないで、即座に、「それはまだ分からんよ」とこう言われたんです。私はほんとにちょっと泣きそうになりました。「小馬鹿たれ! 小馬鹿たれ」と朝から晩まで言いながら、「其奴はまだ人前でもの言う資格はないんだ」と言いながら、この老師は、弟子の未来をいつも見ておられる。そう感じたからなんですね。果たせるかな雪窓(せっそう)老師(1901-1966)はのちに大徳寺の管長になられまして、六十四歳、大変若かったんですが、亡くなられる時には、その境地は非常に高いものがあったと思います。
 

 
浅井: たくさんの若い人たちと暮らしていらっしゃる姿も御覧になっていたと思うんですけれども、やはり若い方には厳しく接しておられたんですか?
 
コルカット: はい。やはり何人いらっしたかわかりませんけども、高校生、中学生、それから社会人でも会社を途中でやめて将来に絶望していたりして、お寺に入ってこられる方が、始終一緒に生活していらっしたので、大勢の人をまとめるためにはやはり厳しくないとまとまらないと。そういう意味では厳しかったと思います。よく怒鳴っていたり、そういう場面は見ておりましたけれど。でもやはり特に高校生や中学生は親元を離れて寂しい思いをしているんじゃないかとか、なるべく心地よく禅寺の生活ができるようにということは気を配って、例えば高校生や中学生が放課後帰って来て、やはり疲れていますよね。お寺は、朝早く起きていろいろな行事がありますし、ちょっと時間があると、そういう人たちはちょっとお布団の間に隠れて、昼寝をしたりとか、そういう場面を見ると、しょうがないというような感じでね許してしまう。お腹の中では笑っていたと思うんですね。可愛いと思っていたのではないかと。それから中学生が入った時に、やはり寂しいんじゃないかという気持ちと、あと命を大切にする、小さいものに対する優しさという気持ちは、おそらくそういう目的だと思いますけれど、鯉を飼ったりとかね。結局はやっぱり根本的には優しい人、怒れない人だったと思います。
 
浅井: 老師が亡くなられてから二十年以上の月日が経ちますけれども、今もコルカットさんにとっては何かこう支えになっている?
 
コルカット: まあ小さい時から言われていることは、「自分を信じなさい」とか、「自分の気持ちに正直になりなさい」とか、それから「今この時を大事にしなさい。また来るということが絶対ありえないから」というようなことはよく言われていましたので、それが本当の意味で感じるようになりましたね。それともう一つは、私が若い頃はちょっと焼き物をやったりして、アメリカに訪ねてきてくれた時なんかに一緒に工房で土をいじったり、たまたま素焼きの大皿があって、字を書いたりしておりまして、その時に筆をとって「楽未央(らくみおう)」(たのしみいまだなかばならず)。『和漢朗詠集』に「嘉辰(かしん)令月(れいげつ)歓無極(よろこびきはまりなし) 万歳(ばんざい)千秋(せんしゆう)楽未央(たのしみなかばならず)」(良き時節にあって、喜び(よろこびは)極(きわ)まりなく、千年万年を祝っても、その楽しみは尽きることがない)とあり)という言葉を書いてくれました。楽は楽しい。未は未だ半ばという。央は中央の央ですね。その字が、私は何かいつも自分の心に一番響く言葉として、つまりまだまだこれから先、もっといいことがあるとかね。自分の力はもっと伸びるよ、というような励ましみたいにとって、それに縋っているような感じで。ですからその気持ちは、みんなどんな人にも可能性がある。それがまだまだこれからだよ、という意味で、励ましの意味で言っているのではないかと思います。
 
浅井: 今日はどうもありがとうございました。
 
 
     これは、平成二十九年八月二十七日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである