賀川豊彦と関東大震災
 
                    千代田基督教会牧師 戒 能(かいのう)  信 生(のぶお)
                    き き て      鈴 木  謙 次
 
ナレーター:  今日は、「賀川豊彦(かがわとよひこ)と関東大震災」と題して、日本基督教団千代田教会牧師戒能信生さんにお話を伺います。賀川豊彦(1888-1960)は、大正・昭和期の社会運動家として活躍した牧師で、戦前の労働運動、生活協同組合運動などに大きな足跡を残しました。戒能さんは、二○一五年まで賀川豊彦と縁の深い東京墨田区の東駒形教会で牧師を務められました。聞き手は鈴木謙次ディレクターです。
 

 
鈴木:  戒能さん、二○一五年でしたかね、千代田教会に移られましたけれども、前に、二十年近く牧師をされたと思うんですが、東京墨田区の東駒形(ひがしこまがた)教会ですね、あの教会は関東大震災が起こったときに、賀川豊彦が東京に駆けつけてきて始めた救援活動と関係が深い教会だというふうに伺ったんですが。
 
戒能:  そうですね。賀川が、当時は神戸にいたのですが、一九二二年(大正十三年)九月一日の震災の報を、おそらく最初はラジオで聞いたと思うのですが、それを聞いてすぐに行動を起こします。九月三日の日に神戸から山城丸(やましろまる)という汽船に乗って、大阪に寄って、そして横浜に四日の朝上陸するんですね。東海道線が途中で断絶していましたので、船の便しかなかったんですね。そして横浜から東京に徒歩で入って、
 
鈴木:  歩いて?
 
戒能:  歩いて。そして下町を中心に被災の大きかった地域をずーっと見て回ったんですね。そして四日後、一旦賀川は神戸に戻りまして、阪神間の教会やいろんなところで、自分が見てきた関東大震災の実情をつぶさに報告をする。さらにその報告会は、四国や九州にまで足を伸ばして、全部で五十六回も報告会が開かれているんです。当時テレビがありませんもんですから、震災の被災の状況を、地方の人たちは全くわかりませんので、賀川の生々しい報告を聞いて非常にショックを受けたというふうに聞いています。そして、支援資金をそこで呼びかけまして、賀川が神戸にいた自分と一緒に働いていた若者達三人を連れて救援物資を満載した長崎丸という汽船に乗って、再度横浜に上陸したのが十月十八日でした。そして、翌十九日には、もっとも被災の激しかった本所区(ほんじよく)松倉町(まつくらちよう)(現在の墨田区東駒形)の地に大きなテント―これアメリカから寄付された大きな大テントを張りまして、それを救援本部にして被災者救援活動が始まったんですね。この救援活動の中から生まれたのが現在の東駒形教会というわけです。
 
鈴木:  救援活動のことは、あとでもう少し伺いたいと思うんですけども、とにかく震災直後の東京を見て、賀川豊彦はかなりショックを受けたんだろうと思うんですね。「私は神に謝罪を求める」と書いてるという話を聞いたことがあるんですけれど。
 
戒能:  ええ。これは震災の直後―詳しい日時まではわからないんですが、九月の段階で賀川が書いたと言われる散文詩ですね―詩ですね―詩がいくつか残されている。
 
鈴木:  小説も書きましたしね。
 
戒能:  ええ。詩人でもあったんですね。で、例えば、「鳳凰は怪獣より甦る」とか、「怪獣の中に座して」というような散文詩があるんですね。その中で被災の惨状を生々しく訴えている。神を訴える、「神に謝罪を求める」というようなニュアンスがそこにあるんですね。被災の大きさ、深刻さを嘆きながら、神に訴えて、しかしそこから立ち上がろうとする、そういう希望に満ちた呼びかけでもあるといいます。
 
鈴木:  「神に謝罪を求める」というのは、大変驚くべき表現ですけど、しかしその当時ですね震災というのが、人間が堕落したんだと。だからそれに対する神の譴責(けんせき)であると。裁きであると。まあわかりやすい言葉で言えば、「天罰だ」ということですね。そういう受け取り方もまだまだかなりあったんじゃないかと思うんですけど。
 
戒能:  そうです。関東大震災については、当初それは「神の裁きある。天罰が下った」というような言説、いわゆる「天譴論(てんけんろん)」という言いますが、天が譴責するというわけですね。盛んに語られました。渋沢栄一(しぶさわえいいち)(実業家・子爵:1840-1931)とか、生田長江(いくたちようこう)(評論家、小説家、劇作家、翻訳家: 1882-1936)とか、また内村鑑三(うちむらかんぞう)(キリスト教指導者:1861-1930)といった著名人たちの発言して、これはよく知られています。また東京の下町で震災を直接経験した清水幾太郎(しみずいくたろう)(社会学者、評論家:1907-1988)さんも、こういうふうに書いていますね。ちょっと読みますが、
 
換言すれば、天譴の観念というのは、この天災に対する各人の心理的反応を超えて、唯一の思想的反応とも見るべきものであった。天譴の観念が持ち出されることによって、天災は無意味な自然現象であることをやめ、人間にとって有意義な、しかも積極的な方向に有意義な事実となる。
 
こういうふうにも言っているんです。天譴論は、したがって関東大震災についても、当時一般的な反応であった、ということができるようです。ところが、賀川自身はかなり早い段階から、この天譴論への批判を語っていることがやっぱり注目されます。細かなことをいうようですが、震災の翌月、十月の段階で発行された『雲の柱』という雑誌の裏表紙に、「苦難に対する態度」という賀川の自分の本の広告が載っているのですが、その中で賀川はこう書いているんです。賀川のその時のキャッチコピーを読んでみます。
 
借問す。(借問すというのは、問い掛けるという意味ですね)。
@この大災害はそもそも何人の罪なりや。
A全能の神は、なぜかかる災厄を許したもうか。
B彼はいかにして、この災厄に対すべきや。
 
こう問いかけるんです。それに続けてこう書いています。
 
災厄をもって人間の過去の罪障の報いだとするものがある。しかし、圧死した可憐な幼児に何の罪があったろう。愛児を抱きながら焼死した慈しみ深い母親に、いかなる罪があったろう。天はなぜこれらの無辜(むこ)の生命を召したまえるか。さらにこの災厄に対して我等の探るべき態度は如何。
 
こういうふうに書いているんですね。これは明らかに天譴論への批判といえます。
 
鈴木:  自分の親とか、妻とか、夫とか、子供とか、亡くした人に、神様の罰だというのは、これ残酷でしてね。まあ信者に対しても残酷だと思いますが、特にキリスト信者でもない人に、そういうことをいうのは問題だと思いますが、最近はさすがにそういうことはなくなったんじゃないかと思うんですけども。
 
戒能:  ただね、私は賀川は、震災直後にすぐ被災現場に入って、被災者たちと直接言葉を交わし、一緒に食事をし、いうふうなことをしていますでしょう。ですから、被災者たちの苦しみや悩みに直接触れているからこそ、天譴論への批判を持ち得たと思うんです。つまり被災者達に実際に寄り添う中から、決していわゆる天譴論のような言説は出てこないはずだと思うんです。天譴論というのはやっぱり一種の高みから出た評論ですね。
 
鈴木:  戒能さん、実は私は、賀川豊彦の謦咳に接したことがあるんですね。神奈川県の大和市(やまとし)にある私の教会というのは、第二次世界大戦が終わった直後に誕生したんですけど、また教会も何にもない、一九四七年に賀川先生をお招きして、特別伝道集会というのを二回開いたんです。当時私は確か小学校六年生だったと思いますけど、そのときのことをよく覚えていましてね。肺を患って、賀川豊彦先生が、チョークの粉が胸に入るの危険だと思われたんだじゃないかと思うんですけど、大きな紙にですね、天体の運行とかですね、あるいは核分裂などについて、墨でさーっと書きながら、そしてその自然界の不思議、そういう自然界というのは、「全て創造主である神の力である」と書かれたんですよ。その時賀川さんが書かれた紙というのは、私どもの教会にあるんですよ。戒能さんにお伺いしたいんですけど、もし自然界のすべての現象が神の力によるとすればですね、震災だとか洪水だとかといった災害も、神がもたらしたもんだということになってしまうと思うんですけども。
 
戒能:  はい。まず賀川がどう言っているか、ということでからご紹介しますと、先ほど紹介した『苦難に対する態度』という本。これは旧約聖書のヨブ記の大変地味な研究書なんですが、苦難の人―ヨブについての賀川の理解が述べられています。その中で関東大震災に直接触れて、賀川はこう述べています。読みます。
 
東京、横浜の災害が、彼地(かのち)商人の堕落、貴族社会の腐敗の為めなりとし之を当然の報償とする事は、飛んでもない誤謬(ごびゆう)である事を知らねばならない。事実そうした批判をする事は人間の職分ではない。神のみの判断し給ふ処である。ヨブも、友人が此種人間の職分以上に出て、ヨブを批難するに対し、
わが友よ、汝等我を憐め、神の手我を撃てり、汝等は何とて神の如くして我を攻め、わが肉に?(あ)く事なきや
と言って居る。然(そ)うだ。我等は友人の苦難に直面する時、之を糺弾するよりも、先づ之を憐む事だ。ヨブの膿(うみ)を拭(ぬぐ)ふてやる事だ。人間の仕事は、互助(ごじよ)であって、断案(だんあん)ではない。我等は人の苦難に面する時、之に対して断案を下す前に、先づまず最善の努力をして苦難の排除に当らねばならない。断案はその後において下さるべきである。
 
こういうふうに書いています。賀川が、関東大震災という未曽有の大災害について直感的に受け取ったことであり、またその後の被災者救援活動の動機と考え方・思想を率直に語ったものといいます。
 
鈴木:  そう言われると、自分の不信仰をたしなめられているような気もするんですけど、ただですね私たちの教会でも、東北の大震災が起こりましたとき、被災者のために祈りましょうというんで、お祈りをしたんですが、開口一番に「慈しみ深い神よ」とお祈りをしたんです。それからボランティアで現地を見て来た教会員が、スライドを写しましてね、惨憺たる状況をみんなに報告したんですが、それが終わった途端に、ギターを抱えて、「神の愛、神の愛、神の愛」と歌を歌うんです。確かに災害を通じて、自分の信仰に直して、やっぱり神の愛だ。慈しみ深い神だって、なるということは、そうあって欲しいと思うけども、なんか神の愛だとか、慈しみ深い神というのは、もうクリスチャンの間では合言葉のみたいになって安易に割と使われているんじゃないかなぁと思って、戒能さんは牧師としてそういう思いに対してどういうふうに?
 
戒能:  度重なる災害とか、あるいは突然の不幸というふうな事態に対して、私も牧師として、それに立ち会うことがしばしばあります。災害に限らず、大きな試練や事故に遭遇した時、私たちは、「なぜこんなことがこの私に起こるのか。どうして私がこんな目に遭わねばならないのか」そういうふうに問います。問わざるを得ないんですね。しかし多くの場合、この問いに対する答えは返ってきません。「なぜと問うなかれ」という言葉がありますが、その理由や訳を問うても、答えは返ってこないのではないでしょうか。ちょっと話が変わりますけど、脇道へ逸れますが、私が学生の時代に、まだ若かった頃ですね、ハンセン病の療養所にワークキャンプに行ったことがあるんです。そこで患者さん達の話を親しく個人的に伺う機会がありました。その中で特に印象に残っているのは、 一人の患者さん―クリスチャンの方ですけども、こういう言葉でした。「なぜ自分がこの業病罹らねばならなかったのか。幾たびもその訳をかつて求めたけれども、ついに答えは返ってこなかった。それから何十年も経って、自分の苦難の生涯をはるかに振り返ったとき、ようやくその意味がおぼろげながら理解できるようになった」こういうふうに話してくれたんですね。学生だった私、若かった私は、この言葉に非常に深い感銘を受けました。賀川の言っているのと、それと共通しているところがあるんじゃないかと思うんですね。その理由や訳を求めて断案するよりも、まず目の前にいる苦しんでいる隣人の膿を拭くことから始めるべきだというんです。私たちは、答えのない答えを求めて、苦しむことがしばしばあります。先ほど鈴木さんが言われた「慈しみ深い神」とか、「神の愛」というのは、いわば結論なのかも知れません。しかし容易にその結論が出てこない場合がある。そういうことが多いんじゃないでしょうか。私自身もそうです。そういう結論を先に出すのではなくて、むしろ目の前にいる今苦しんでいる人たちの友となっていくということからまずは始めなさいと。そこから始める以外にないでしょう、ということなんじゃないでしょうか。
 
鈴木:  賀川の場合には、まさに神に謝罪を求めながらも、真っ先に救済活動を起こしたということが大切なんでしょうね、やっぱり。
 
戒能:  そうです。それは被災者たちに触れていたからだと思います。
 
鈴木:  具体的に賀川豊彦はどういう救済活動をしたんですか?
 
戒能:  基本的には、それこそ炊きだし何かの食糧援助。それから無料診療所、そして一時宿泊所の提供。そういうことから始まりました。初期の記録を見ますと、テントを立てて救援本部にしたんですけれども、まず集まってきたのは子ども達だったんですね。被災者のお友達。
 
鈴木:  親はいなくなっちゃってる?
 
戒能:  いや、親はいても、子供どころじゃないんです、親は。お金を稼がなくちゃいけないし、仕事はしなくちゃいけない。掘っ建て小屋は建てなくちゃならない。子供はほっとかれるわけですね。そういう子供たちがテントに集まってきましてね。百人以上集まってきて、その子供たちを相手に子供会活動を始めたという記録が残っていました。それから九月一日に震災が起こり、賀川が活動を始めたのは十月の後半ですから、秋も深まってきて寒くなってくるんですね。で、ほとんど布団がないんです。賀川は、全国の教会、キリスト関係者に呼びかけて、全国から布団と毛布を集めるんです。その布団を無料で必要な人達に配布して回るんです。こういう活動から始めたんですけど、やがてその働きに出るお母さんたちから「仕事に行かなくちゃいけないので子供を預かってくれないか」という要望が出ましてね、託児所を開くんです。次から次に被災者たちのニーズ、要望にあわせて様々な活動がそこで作られていくんですね。そうかと思うと、これは私も驚いたんですが、一人の当時まだ十八歳か十九歳の若い女性の手記が残っていましてね。
 
鈴木:  戒能さんのいらっした東駒形教会には、賀川の遺したものとか関係するものの資料室もございましたですね。
 
戒能:  不思議なことに、あの地域は関東大震災、そしてその後の東京大空襲で全部焼けているんですけれども、焼け焦げが残った古い資料が、あの強火の中から持ち出した資料があって、その中に古い震災直後の救援活動の実際を記した記録や資料がたくさん残っているんですね。その中に一人の無名の若い女性が青山に住んでいて、毎日本所まで都電で通って来ていて、
 
鈴木:  市電ですね。
 
戒能:  まだね市電ね。そして一日仕事が終わって、夜帰ると十時を過ぎていたと言いますから、彼女は一体何をしたか。避難所―テントのとこに座っていて、やってくるお母さんたち、おかみさんたちの話を聞いたとあるんですね。今でいうと、傾聴ボランティアに当たるでしょうか。本当に家族を失ったり、家を失ったりした人たちの悲しみ悩みを、ただ聴くという、そういうボランティアもそこですでに始まっています。
 
鈴木:  ボランティアというような言葉は、当時まだなかったかと思うんですけれども、どういう人が集まったんですか?
 
戒能:  これね日本における大災害の記録を見ていて気が付いたんですが、関東大震災の場合は、被災地域が横浜から東京にかけて非常に広範囲であったこと。被災者の人数はもうとてつもなく多かったこともあって、当初救援というか、支援に関わった軍とか警察とか消防の手に余ったわけですね。ですから、一般の市民や学生たち、若者たちが―彼らも被災者なんですが、多少被災の少なかった者たちが、ごく自然に被災者たちを助ける、支えるという活動を展開していきます。ただそれを組織して有効な活動を展開した一人が賀川だったということができると思うんです。当時はね記録を見ていましたら、ボランティアのことを「篤志奉仕者」とか「有志義勇隊」なんて呼んでいるんですね。それを英語の達者な賀川豊彦が「ボランティア」というふうに表現している。それが徐々に広まってくたようです。被災直後のボランティアとしては、よく知られる有名なのは、東京大学の学生たちが上野公園の西郷さんのところに机を置きましてね、行方不明者の受付をやったんです。そして、それを貼り出しましてね。つまり活動人(びと)をの学生たちがボランティアでやっているんですね。
 
鈴木:  今お話を伺いますと、賀川俊彦がやったことは、震災の直後に救済活動をやったというだけじゃなくて、それはある程度組織化されて、我々学生の頃、セツルメント(settlement:生活困窮者などの多い地域の救済事業、またはその施設)活動ってかなり盛んでしたけども、そういう組織的な生活困窮者に対する救援組織に定着していったと、言ってもいいのかなと伺いましたけども。
 
戒能:  そうなんです。当初、賀川たちは、被災者救援活動も一年ぐらいしたら、つまり救援活動が一段落したら、活動を収束して神戸に帰るつもりだったんです。ところがさっきも申しましたような子供たちを預かる託児所を始めたり、それから東京都から委託されて「一時宿泊所」を作って、震災後新しい工事が始まりますから、各地からその建築に関わる労働者たちがたくさん集まってくるんですが、宿舎がないんですよ。そのためにそういう労働者のための宿泊所を作って提供するとか、それからもう一つ面白いのは、被災者たちが仕事を再開するときに資金が必要でしょう。その資金を貸し出す、つまり資金を貸してくれ。つまり被災者の生活調査をしましてね、どういう要望がありますか?何か必要ですか?というふうに聞いた時に、一番大きかったのは「お金が欲しい」。そのお金も「何かを始める資金が欲しい」という訳ですね。それで賀川たちは、質屋さんを始めるんです。「質庫信用組合」と言いましてね。
 
鈴木:  質草があまりないでしょ?
 
戒能:  資金がないでしょ。なんとその資金を最初に提供したのが吉野作造(よしのさくぞう)(大正時代を中心に活躍した日本の政治学者、思想家である。東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった: 1878-1933)なんです。吉野作造が三百円をその質屋さんに寄贈したという記録が残っているんです。そうやって有志から集めたお金を提供資金、提供する。これが質草がないとおっしゃましたが、ないんです。で、どうするのよ、と言ったら、「昨夜寝た布団があるだろう」というんです。その布団は、賀川たちが配った布団ですよ。朝、その被災者たちの主人たちが、煮しめたような煎餅布団を持ってきて預けるんです。質草というのは、なるべくかさばらない、高額なものというものが質草に適当なんですが、あんな布団なんて場所を取るだけで、一日働いてなんか稼いできて、それで受け出して、また夜寝ると。こうやって質屋さんが始まったんですね。こういう託児所とか宿泊所とか、あるいは質屋さんとかが、運営が始まりましてね。一年経ったら神戸に帰ろうと思っていたんですが、これ継続せざるをいなくなるんですね。それが当時、「本所基督教産業青年会」という組織になります。これは東京の下町、当時の東京の下町で大変大きな働きをしました。例えば、栄養食配給といって、当時の下町の労働者たちの食べ物というのは、やっぱりそれこそ本当に塩っからい漬け物と大量の白米というふうな食生活だったというんです。それを見かねて栄養食―栄養のバランスがとれた食料を提供する。いわばお弁当屋さんです。それを始めるんです。最盛期には、一日一万七千食作っているんです。この栄養食配給に関しては、歌人の与謝野晶子(よさのあきこ)が、「私もこれを推薦する」という推薦文が残っているんですね。そういうふうに下町でのまぁセツルメント活動というんですでしょうかね、「江東消費組合」というのも成立されますし、それが広まっていきます。ただこの活動は、戦時中、そして戦災東京大空襲によって、ほんと全部焼失してしまいます。ですから戦後、再建されたのが、「光の園保育学校」、それから「中ノ郷質庫信用組合」さっきの質屋さんですね。
 
鈴木:  今でもあるんですか?
 
戒能:  ええ。現在都内有数の信用組合として、今でも活動しています。そして「東駒形教会」。で、さっき言った「本所産業青年会」の後を継ぐ「本所賀川記念館」というのが新たに成立されて、現在もその活動を続けています。
 
鈴木:  「私は神に謝罪を求める」というのはどぎつい表現ですけれども、今お話を伺っていると、そういう賀川豊彦の救済活動というものが、一つのきっかけになって、その後のキリスト教会に社会的な関心と言いますかね、社会運動、神との縦の関係だけじゃなくて、横の社会問題に対する関心というのが非常に広まっていく一つのきっかけになったというふうに見てもいいんでしょうか。
 
戒能:  そうですね。これはキリスト教の戦前の各教派に、つまり教会に社会委員会というのができるのは、関東大震災の直後です。本当に被災者達の支援活動を通して、そういう活動が教会に必要なもの、教会がしなければならないことだという意識が広がっていった。その先鞭を賀川豊彦はつけた、ということができるんじゃないかと思います。
 
鈴木:  震災とか洪水が続く最近の世の中で大変有意義な話を伺いました。ありがとうございました。
 
     これは、平成二十九年九月三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである