心のワクチン仏教
 
                  禅心寺住職 金 子(かねこ)  真 介(しんかい)
                  き き て 金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、長崎県大村市(おおむらし)の禅心寺(ぜんしんじ)住職金子真介さんに、「心のワクチン仏教」というテーマでお話頂きます。聞き手は金光寿郎さんです。
 

 
金光:  最近、金子さんがお話になったお話が、文字になったのを拝見しますと、その中に、「心のワクチン仏教」という言葉を使っていらっしゃって、なるほど、飲んですぐ効くわけじゃないけれども、仏法の話を聞いていると、確かに変な方向に行かない、予防措置にもなるし、確かに「心のワクチン」というのは良い言葉だなと思ったのが印象が残って、今日はそのお話を聞かせて頂ければと思ってお邪魔しているんですが、こちらへお邪魔してみますと、いわゆる昔風のお寺の感じとはちょっと違った感じでございますが、新しくこのお寺をお建てになったんんだそうですね。いつ頃?
 
金子:  二十年前なんですね。それまで長崎市内の、いわゆる僧堂にいたんです。それで僧堂にいて、お檀家もあるお寺ですから、檀家参りに行って―月行(つきぎよう)ですね―それに行っていて、どうも仏教の本当の働きじゃないなという気がして、かといってクーデター起こして、それを覆すなんてことも、そんな勇気もなければできもしません。それじゃ自分たちのお寺を建てようか、ということから、土から、泥から被って、それが始まったのが二十二年ぐらい前ですね。
 
金光:  「月行(つきぎよう)」というのは、毎月の法事のある方のお宅をお訪ねするとか、月命日のお詣りをする。
 
金子:  そうです。長崎はそれが非常に盛んなんですね。
 
金光:  それはそれで確かに意義あることだろうと思いますけれども、やっぱりそれなりだと、本来のお釈迦さま以来続いている仏法の一番大事なところというのはなかなか伝わり難(にく)うございますですね。
 
金子:  そうです。
 
金光:  それでこちらへ二十二年前に新しく―新しく建てるというのは、なかなか大変じゃございませんでしたか?
 
金子:  大変なんですね。それで分譲地を買うことが―買うと言ったって、お金が要るわけです。長崎市内、大村、諫早(いさはや)を托鉢をして。それで大村は大体仏教でも日蓮宗さん、大村候が最初のキリシタン大名。それでキリスト教をおやめになった時から、加藤清正(かとうきよまさ)(安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後熊本藩初代藩主)が、熱心な日蓮宗の信徒でもあったことから、日蓮宗の寺を数多く、ここに曹洞宗が一ヶ寺もなかったというのが、大村を選んだ理由で、それから托鉢と、それと私の父の二人なんですけど、六十五歳九月三十日までの銀行ローンで、これを建てた。
 
金光:  でも建物はそういう形でお造りになりましても、「お〜い、この指止まれ」ですね、「みなさん一緒に修行しましょう」と言ってもなかなか入りませんでしょうし、そこのところはどうなさったんですか?
 
金子:  先ずそれほど深く考えて始めたわけでもなかったんですけれど、次第次第になんですがね、お寺を建てると、大体落慶法要というのをやりますね。それで我々の宗派でしたらば、永平寺の貫首さまをお呼びするとかするんですが、大村では曹洞宗という名前もまったく知られていない。そこでやってもあまり意味もないような気がしまして、市民会館を借りて、それで「大村で新しい仏教の寺院が出来ました」というお披露目のつもりで上智大学教授のアルフォンス・デーケン先生(ドイツ生まれ。哲学者。上智大学名誉教授。専門は、死生学:1932-)―「死の準備教育」を普及された、この方をお呼びして、それから私どもとで、「今、仏教に限らず宗教というものは、非常に本来の働きを失っておる。だからそれを今とても大切な時期にきているから、みんなでやっていきましょう」という、そういう呼び掛けを市民会館で始めて、それがどうも大きな反響があって、それじゃこれをズッと続けようか。それでこれは毎年ズッと続いているんですけれど、それとここは先ず法話―お話をすることを中心にしよう、ということで、毎月十一日なんですけど、で、それが最初十三人からの出発。それが十年ぐらいした時点から、百人、ちょうど十倍ぐらい、今それが継続しています。
 
金光:   デーケンさんのように、「死の準備教育」というのを取り上げることによって、癌の告知を受けた人だとか、そうでない人までも生き方が変わってきますですよね。やっぱりそこのところに目をお付けになったんでございましょうか。
 
金子:  ええ。ちょうど私、学生の時でしたけれど、駒沢大学の教科書で岸本英夫(きしもとひでお)(宗教学者、元東京大学教授。スタンフォード大学客員教授としてアメリカ滞在中、悪性腫瘍発見、以後十年に及ぶ闘病生活を送る:1903-1964)先生―とっても尊敬しているんですけど、岸本先生の教科書と、それからもう一つ「死を見つめる心」先生の黒色腫とう皮膚病に罹った時の「生命飢餓状態」という言葉をお使いになって、
 
金光:  あの先生は、アメリカで一人で検診を受けて、しかも半年とか、その期限を切られたんですね。家族はいらっしゃらないし、ほんとにその時それまで宗教学のご専門で、生死の問題は考えていらっしゃる筈だが、「お前が死ぬぞ、半年」と言われたら、なんかそれこそ生命飢餓状態の感じに―後で表現されたんでしょうけれども、どうしていいかわからなくなったというようなことをおっしゃっていましたね。
 
金子:  そうですね。で、あの先生のその体験というか、激白するようなその言葉と、それからあの先生が書いていらっしゃる本で『人間の科学』というその中に、
 
現代社会の大空には
宗教の弔鐘(ちようしよう)
響きわたっていると
感じている人が多い。
それは
宗教が人を弔(とむら)
鐘の音ではない。
現代社会が
宗教終焉(しゆうえん)を弔(とむら)うかの
響きをもっている
(岸本英夫)
 
という一文がある。これは「宗教が人の死を弔うものではない。今不要と思われる宗教が弔いされようとしている」というのがあったんです。それが両方私の中にありまして、単に癌の告知を受けた人の死の準備ということじゃなく、人間は生まれたという理由において、死の宣告を受けている。死刑囚と一緒じゃないのかと。そうすると、この確実な必ずやってくる死、それに準備があって、そういうものを一つ見えてきたらですね、後『徒然草(つれづれぐさ)』にしても、何してもどうもそういうものがこう全部一連に繋がっていて、これ坊さんがしなければいけないのは、いろんな役割があるんですけど、私がしたいのはこれだな、と。それはちょうど今六十一ですから、四十の時に、そう思ったのと、ここにお寺が出来たのと、ちょうど一緒ぐらいですかねね。
 
金光:  ただ言葉で、「死」というものを視野に入れて生きるという言葉は簡単ですけれども、岸本先生じゃございませんけれども、やっぱり死というものを仮に目の前に、癌に罹って宣告を受けた人が来た時に、「あなたは生まれたから死ぬんですよ」と言って、それでその方が安心できるかというと、そういうわけじゃございませんでしょう。そういうところはどういうふうにお話なんかなさるんでしょうか。
 
金子:  私は、一つ幸いなことに、昭和五十三年なんですけれど、インドに仏跡参拝に行った途上で口の中で異常があって、それからインドから戻りまして病院にまいりましたらば、上顎癌(じようがくがん)ということで手術をして頂いた。それで一回手術をして、また翌年手術し直し、ですからこちらはないんですけれど―左側がですね。
 
金光:  全然わかりませんね。
 
金子:  口元を見るとよくわかるんですがね。それでこれが私の人生の中では、不幸であると同時に幸いでしてね、今癌の終末期の患者さんのところへよく伺います。その時に先ず算数の通分みたいなもので、「実は私もね」ここから出発するもんですから、
 
金光:  相手の方と合っているとこが、私もそこから出会っていたんですとか。
 
金子:  だから必ずしも死を認めさせることがいいことじゃなく、先ず絶望的な状態から、自暴自棄とか、いわゆる生命飢餓状態の、その極みの状態から希望を持って貰うという。それは先ずは漠然とした希望を持って貰って、それから次第に具体的な、何も残っている日にちはまだないわけじゃない、という、そういう形でやっているんですけどね。
 
金光:  それで飢餓状態から抜け出る方法。お腹の場合だと、食べれば治るんですけども、生命の飢餓状態を超える。それはお話の中では人によっていろいろでしょうけれども。
 
金子:  このちょうど廊下の突き当たりに額があるんですけど、これは患者さんから教わった。肝臓癌の末期で、もう緩和ケア病棟に入っていらっしゃる。「そこに来てくれ」と言われて、それでほとんど毎日行っていましたね。四十日間ぐらいでしたが。その方が最後に私に書き置いて、奥様におっしゃって残されたんだそうですね。
 
人として熱いなみだする
  感激の日々を持ち続けたい
 
五十六歳の会社員の方だったんですけどね。この方の終末期の四十日の中にですね、たまたま行きました日に、絵を描く方でした―書と絵を。それでこの方が、お見舞いに貰われたメロンの箱に絵を描いていらっしゃる。それで「描きましたね」と言って、一面だけ描いてなかったんです。それで「ここは?」と言いました。その時が三月の半ばでした。「ここは病院の屋上に院長先生が花菖蒲を植えていらっしゃる。六月になったら咲きますんで、それを描こうと思っています」。ところがその方の日常の会話では、「今度腹水が溜まったら」とか、「もう精々四月半ばまででしょうね」って。これも嘘じゃないんですね。だけども、人は希望を持っていなければ生きていないという、それも真実なんですね。それも儚い希望ではないです、彼の場合は。だから一面空けてあるんですね。その方が描き残された、「人として熱い涙する感激の日々を持ち続けたい」という。私はどうもそういうところに、死の認識は、死を認める、受容することは、もう宇宙の摂理として認めた。しかし認めた上で、だから日々が愛おしいという、その愛おしさをただ焦る愛おしさじゃなく、人として、その言葉の中にあるような気がして、
 
金光:  見方を変えますと、私たちに与えられているのは、毎日その日その日その時これの連続ですよね。いろんなことを考えますけれども、やっぱり今与えられて、その時も自分の命を、今おっしゃったように、「熱き涙する」というような、そういう感激が続く生き方ができると、これは素晴らしいですね。
 
金子:  それがやっぱり人間らしい生き方―人間性ということになると思うんですけどね。これは私の師匠から教わったんですけど、
 
      人間のいのちは
      一本のローソクに
      火をつけたような
      ものである
      燃えながら
      照らしながら
      刻々刻々と減ってゆく
      減ってゆくいのちを
      減らぬようにすることは
      誰にもできない
      ただ この明かりで
      どこをどのように
      照らしてゆくか
      これだけが
      人間に与えられた
      たった一つの
      自由である
 
という。これはそうですね。中学校ぐらいの時に、耳にして、今六十一なんですが、それがどうも私は、終末期の患者さんであろうと、一般のみんな死の予告をされた人たちであろうと、みんな同じことが言えて、難しい言葉は私はわからないですけど、仏教の一番大切にしなければならないものじゃないのか、というような気がするんですよね。
 
金光:  今日のお話を伺いたいという「心のワクチン仏教」ということのお考えになった場合の、「心のワクチン」としての仏教ですね。これはやっぱり今先ほどまでおっしゃっていたような、今、今日をどういう感激の涙で生きるかという。仏教というのは、そこのところで繋がっているわけでございますね。
 
金子:  そうだと思いますね。
 
金光:  なんかお釈迦さんの教えというのは、なんとなく古くさいような気がするんですけれども、実際はそうじゃないんでございますか。
 
金子:  そう思いますね。昨日ね、たまたまここにご法事にお出でになったご家族が、六ヶ月の赤ちゃんを連れて来られて、たまたま私が、「名前は何と言うんですか?」と聞きましたら、「竜太郎」君だったんですよ。「あ、いいですね。今なんか片仮名みたいな名前が多いところで竜太郎=B誰が付けたの?」と言ったら、「私たちが付けました」。「この子がほんとに五十年六十年七十年掛かって竜太郎になるんだよね。そのためには親の果たす役割が必要。それはこの子が風邪引きそうになったら、風邪引いちゃいけないからというところで、十一月頃になると、ワクチンを予防接種する。予防接種は、人間の免疫(「自分と違う異物」を攻撃し、排除しようとする人間の体の防御システム)こういうのが入ってきたら排除しろ。人でなしにするぞ、という。それが心のワクチンも、これは子どもはまったくもう無垢の状態。だから親が子どもを育てる責任というのは、ワクチンを投与することだ。それをキリスト教徒の方は、バイブルを元にワクチンの投与をなさる。善悪判断という、人として何かということ。それを仏教徒は経典をもとにする。その経典を基にというのが、結局はさっき読んだ―さっきちょうどお経を読んだものですからね―「般若波羅密多心経」この「般若」というのは、智慧。智慧は、竜太郎が竜太郎になりきるためにはどういう心得を持っていればいいだろうかと。それを説いたのが「般若心経」なんだ。仏教は人を弔うことも大切だけども、最大のお釈迦さんが一番願われた役割というのはそこにある」という話をしたんですけども、私そう思っています。
 
金光:  これはあまり即効性は、飲んですぐいい気持ちになるとか、そういうことにはあんまり効き目がないと言えるんでしょうね。
 
金子:  それを私も馬鹿な喩えしかできないもんですから、「トランプの神経衰弱の一枚目の札と二枚目の札」と言ってます。最初はそれほどいいも感じない、即効性も何にもない。
 
金光:  裏返しにしてあるのを見る。
 
金子:  スペードの7が回って
 
金光:  次もまた開いて、ダイヤの4なら4というのを見ると。これはダイヤにもなりますからね。
 
金子:  何周かしている時に、またスペードの7なんか出てきた時に、あ、ダイヤがあそこにあったな。これが邂逅(かいこう)だというんです。それが人の場合は、昨日の竜太郎君なら五歳時に、親からしこたま言われたこと、躾けられたこと、それは五十になって、「あぁ」という、これが邂逅(かいこう)だと思うんですけど。
 
金光:  会うわけですね。たまたま遇うというか。
 
金子:  そこで感動もあるし、その時初めて効き目が。だから授戒の時でに、私はそう言っていますが、「不殺生」人を殺してはならない。ものの命を取ってはならないという、非常に厳しい。ところが子どもの躾け、「それしちゃダメ」と躾をする。だけどそのうちにそれが強くやっていて身に付いていくと、ものの命を取ることができない。やがてなってくる。これ十年か二十年か。そしてそのうちに、ものの命を取ることができない、となってくる。そしてやがて、ものの命を生かさずにはおれないという。そうなった時に、今おっしゃる即効性はないけれど、しかしどんどん沁み渡っていって、そのものが身に付いてしまう。
 
金光:  殺さないから生かしていくという、そこまで成長してくるわけですね。
 
金子:  ええ。今一番必要というような気がするんですよね。例えば恨みと怒りとか、これを恨むことはいけない、怒ってはいけない。それから進んでいくとどうなるかというと、許さずにはおれないという。これが今、何か世の中新聞、テレビこう見ていて、日本人の中で「ゆるす」という気持ちはどうなったんだろう、と思うような気がするんですよ。それも同じ今の殺しちゃならないから、生かさずにはおれない。それと同じようなものだと思うんですけどね。
 
金光:  先ほどの「蝋燭の喩え」というのは非常に面白喩えだと思うんですが。
 
金子:  「?」が肉体ですね。それでだから「色受想行識(しきじゆそうぎようしき)」の「色」、これが「?」ですね。そして「受想行識」が「芯」で、それで「?」が溶けて「芯」に滲んで、「炎」が点けられて、こう燃えていく。「炎」が「自我」ですね。だからそういう命の説明はそういうふうにしているんです。
 
金光:  その場合に、自分を如何に発揮するか、というところになると、炎が大きくなればなるだけ、いいみたいな感じですけれども、やっぱり炎というのは適当に燃えてくれないと困るわけで、やっぱり人間の場合は、自我を如何に上手に育てるか。そこのところにやっぱり単なる蝋燭よりももう一つ一工夫、人間ならできるという。蝋燭の場合は他動的でしょうから、蝋燭自体にコントロールしろと言ったら無理なところありますけれども、人間の場合の自我を問題にする。そこのところが問題になるわけですね。
 
金子:  自我のコントロールですよね。我々が怒り、怒って何かを行動する。こういうものは思い通りにならないからですよね。苦しみって何だろうって、突き詰めると思い通りにならないからです。思い通りにならないということは、思い通りにならない相手と、思い通りになると思っている自分とのギャップですよね。そうすると、じゃこの世の中に果たして思い通りになるものか、ならないものか、その仕組みを観察して見なければならない。それをお釈迦様は、それがありのままの宇宙の法則に目覚められたわけですね。そうるすと、本来思い通りにはならないものである。そこに思い通りにしよう―これ自我ですね。ということは、自我が自分を苦しめているわけですね。ならば、思い通りにならないものであるという、いわゆる「苦」という、こういう実際の世の中である、宇宙である。そこの中で自分はどう生きていけばいいのか、という。それが「智慧」だと思うんですけど。それに目覚めた時に、二つ合わせて「覚悟」であって、目覚めた悟りというのになると思うんですね。それを説いてあるのが「般若心経」ですし、それを我々が、「心のワクチン」としていこう、ということなんですけどね。
 
金光:  そうしますと、先ほど邂逅という言葉がでましたけども、自我をコントロールするためには、今子どもの頃の「ちゃんとこういうことはしない」と言われている、その言葉を忘れていたりしても、何十年か後、思い出すと。「あ、これだったのか」という、それによってコントロールができてくるという、そういう働きがあるわけですね。
 
金子:  そうですね。だから最初のコントロールは、「しちゃいけない」というコントロールでしょうし、それがやがて「せずにはおれない」というコントロールになるでしょうし、と思いますね。
 
金光:  そこのところで、「あ、あの教えはわかった」と。覚悟できたら、そこのところからどうなるんですか。
 
金子:  覚悟でも、自我というものがあり、一生涯つきまとうものですし、捨てられないわけですから、そうすると「これでいい」というよりか、「コントロールはできる」その段階までじゃないですか。
 
金光:  やっぱり条件はしょっちゅう変わるわけですから、固定しない状況が次から次へ変わって度に、新しく「ああ、そうか」という一種の目覚め。「ああ、こういうことか」という、それは連続して続くわけですね。
 
金子:  そうだと思いますね。だから「思わず知らず手を上げた」とか言いますけども、「思わず知らず」というのは、自分の中の自我がこれほど騒ぐということを知らないわけですね。だから思い通りになると思っているんですね。そのうちに「思わず知らず」は無くなるんですね。また自我が騒ぎ始めている。ところがそれにまだ勝つことが―コントロールすることができないと、第二段階でしょうね。それで、「あ、やがて騒ぐに違いないから、少し気を変えよう」と。
 
金光:  そういうふうに「ああ、そうか」という、「こういうことか」という、気付く回数は多くなるわけでしょうか。
 
金子:  なると思いますね。数日前も人と同じ部屋で休ませて頂きましたが、とてつもなく鼾(いびき)が強い方で、ずっと五時間ばかり鼾に苛(さいな)まれて、終いにこう眠れない焦り、怒りがこう出てくる。だけど考えてみると、意識してやっているわけではない。じゃ、風の音となんら変わりはないわけですね。風の音には腹は立たない。ところがなまじっか人が鼾をかいていると腹が立つ。それをこう眠れないなりにふっと考えていると、そこに「あきらめ」というんですかね。それが『修証義(しゆしようぎ)』の「生を明らめ、死を明らむ」の「あきらめ」と一緒で、「明らかにして、納得して」というところの「あきらめ」ですね。嫌になったら投げ出しちゃいという「あきらめ」じゃないんですね。これが熟練していくと、すべてにそれができるんじゃないかな、って。究極的には死についても、
 
金光:  今の言葉でふっと思い出したんですが、道元さまの言葉で、「生死(しようじ)の中に仏あれば生死なし」というのがありますね。これと今の説明と結び付くんですか。
 
金子:  そうです。
 
金光:  「生死の中に仏あれば生死なし」これはどういうふうに読み解けばいいんでしょうか。
 
金子:  私は、一番解りやすく、「生死」は「人生」。「人生」ということは生老病死の死もある人生で、人生の中に「仏あれば」というのは、「法」ですね。私は、仏法の法と言っています。仏法すれば世の中を明らかにした、その智慧。明らかにしたところで得た智慧、それがあればもうそこには生老病死はあっても苦しみというものはない。
 
金光:  それは心の仏法のワクチンが効いてくると、「ああ、そうか」と思えるようになるということですね。
 
金子:  むしろワクチンでもありますし、暗闇で「この部屋を歩け」と言われても、何かにぶっつかる。そこに明かりがあったら何の苦もない。我々日常では危ないからこれをこれを片付けちゃい。自分の好きなように歩けるように、これを全部都合良く動かしてしまおうと。それを中心になっての現代社会じゃないですかね。それが「生死の中に仏あれば」という、そこだと思うんですよ。それが仏法の役割というもんですが、そういう中で、じゃこまごまにどういう躾と言いますかね、心得、心へそのこまごまが、私はワクチンだと思うんです。
 
金光:  そうすると、明かりができて、その明かりによって歩けば邪魔者を避けて、ちょっと通ることができるということになるわけですね。
 
金子:  それでぶつかってみても、なるほど。なるほど、これはぶっつかる筈だという。絶対ぶつかるからないということではないですね。だから佐藤一斎(さとういつさい)(儒学者:1772-1859)の『言志四録(げんししろく)』に、
 
一燈を提げて暗夜を行く。
暗夜を憂うること勿れ。
只だ一燈を頼め。
(佐藤一斎・言志四録より)
 
非常に好きな言葉ですね。
 
金光:  まさに仏法はそういう働きをするものであるというふうに伺いました。どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十年二月三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである