奉仕女≠ニして生きて
 
             「かにた婦人の村」名誉村長 天 羽(あまは)  道 子(みちこ)
1926年、満州(大連)生まれ。新京(長春)で高等女学校卒業後、東京にでて進学、終戦の翌年卒業。195四年5年、戦後の社会の悲惨に仕える奉仕運動体として誕生した「ベテスダ奉仕女母の家」に入館し現在に至る。1978年4月1日より「かにた婦人の村」で働き、現在名誉村長。
              き き て         藤 井  栄里子
 
ナレーター:  今日は、「奉仕女≠ニして生きて」と題して、戦後まもなく奉仕女となった天羽道子さんにお話を伺います。奉仕女とは、プロテスタントの教会が行う社会救済事業に奉仕する女性で、結婚することなく一生を活動に捧げます。戦後の日本には、売春に身を投じなければならない女性が数多くいました。天羽さんは、そうした女性達が支え合って生活する千葉県館山市(たてやまし)の「たにた婦人の村」の設立に参加、半世紀以上にわたって様々な困難を抱えいた女性たちとともに生きてきました。聞き手は藤井栄里子ディレクターです。
 

 
天羽:  奉仕女になって、六十二年、六十三年になりましょうか、「おいくつになられましたか?」「おいくつですか?」と歳を聞かれる、そういう歳になっているのですけれども、生まれは一九二六年ですから、今九十歳です。村の方たちもやはり年齢よりもずっと若い気持ちを持って生活されているので、私もその中でどうも自分自身が九十歳になっている自覚がないというか、みんなに助けられ支えられて感謝に過ぎない思いでいっぱいです。
 
藤井: とても暮らしに良いところですね、こちらは。
 
天羽:  そうですね。環境的にはとても恵まれて、ここは一九六五年の四月一日に開所いたしましたが、館山市の中で静かな内海が見下ろされる小高い山と言いますか、丘の上にパラパラと家が建っております。もちろん村の中に食堂、それからお風呂場、集会場、教会堂も建ちまして、なんといいますか一つの村のようなところですね。この丘の上に小舎が点在してというお話をいたしましたけれども、初めに十七人入れる寮を六つ作ったんですね。それはここに入ってこられる方たちの多くが、普通の家庭の生活を経験することが難しかった方たちが多いということを考えた時に、できるだけ家庭生活というか、家族の生活に近い暮らしをするということを考えて作られたものなんです。この五十二年の間に二十二都道府県からもお入りになっていらっしゃって、現在は十七都道府県から入っていらっしゃるのですけれども、何らかの障害を持っている方たち、それなるが故にその日の食を―お食事ですね―するために自分の身を売らなければならなかったというような方もあるし、騙されてそういう自分の身を売らなければならないような生活を強いられていた方達もいらっしゃるという、そういう状況の中でこういう弱い方達が短期に社会に出て自立していくと大変難しいと。ならば、もっと長期にわたって傷ついた身心を癒しながら、安心して生活できる場所。何かお互いに生産しながら生活をしていく。それを「コロニー(colony:長期療養者・心身障害者などを集めて、治療や保護をしたりして、社会復帰のための訓練をする施設)」というふうに呼びながらその実現を目指したのですね。その中で大切なことは、施設というところに入所されるということは、ある意味で受け身の立場というか、何かをしていただく立場に立っておられるかと思うのですけれども、ここの生活の中では入所された方たちがただ受け身の立場に立っておられるというんではなくて、お一人お一人が自分の持っている能力、あるいは力ですね、を差し出す人になるということがもっとも大切なことではないだろうかというふうに私は思っております。その村づくりをするということに、入所された方たちも全員参加をしている。初期の頃は、崖崩れというのもずいぶんあって、その崖崩れの後の土砂の始末をバケツリレーで土砂を運び、そしてまたバケツリレーで生コンを持って崖を整備するとか、そういうことに一人残らず参加をしてやってまいりました時期もずいぶんありました。そういう中で本当に一人一人が、ここに来るまでも「できない人」というふうに言われてきた方達も、自分もこういうことに参加してできるんだという、その大きな喜びが一人一人の大きな力になって、それも共同作業の大きな恵みと申しますかね、一人一人生かされる原動力になっていると思います。でここの中でいろんな作業も生まれて、例えば農園のお仕事があり、そこでは自分たちの食べるものを―お米作りから始めた時期もありまして、お米を作り、お野菜を作り、果物を作り、パン屋さんがあったり、洗濯作業があったり、かにたの山の粘土も使いながらお茶碗を作ったり、お皿を焼いたりなどしながら、でも最も大切なことは、基本的には一人一人が―その違った一人一人が大切にされながら、その人がどうしたらよい生き方をしていくことができるかということを求めながら生活をしているということが言えるかと思います。創設者は深津文雄(ふかづふみお)(牧師として活動する傍ら、保育園茂呂塾を創設。売春防止法制定後の昭和29年、ベテスダ奉仕女母の家を創設、奉仕女の指導育成に乗り出す。33年元売春婦ら社会復帰が困難な女性を救済する婦人保護施設・いずみ寮を開設。40年日本で唯一の一生涯過ごせるコロニー・かにた婦人の村を千葉県館山市に創設した:1909-2000)牧師なんですけれども、何人もこの世に生を受ける限り全く無用の存在というものはありえない。これらの無用と言われた人々の中にも必ず何らかの可能性を発見し得るに違いないと。それもどうしても見えないならば、それを信じる他はない。その信じることのできる人を信ずるということは、誰にもできることであるかもしれません。けれども、信じ得ないもの、信じべからざるものを信ずるということが本当に信ずるということであると。また愛するといっても、自分がこう愛する者を愛すということは、ある意味で誰でもできることであるかもしれません。けれども、どうしても愛し得ないものを愛するということは本当に難しいことで、でもそれが本当に愛することという。それがかにたであるといってもいいかと思うのですけれども、それは施設というよりも、ある意味で「村」というふうな表現をした方がしっくりくるのではないかというふうに考えているところですね。
 
ナレーター: 天羽さんは、旧満州で産まれ育ちました。昭和十八年、単身東京に移り、キリ スト教精神に基づいて作られた自由学園に入学。終戦を東京の街で迎えます。
 
天羽:  日本の国が戦争に負けて、その翌年に自由学園を卒業して、七カ月後に両親と姉とが満州から引き揚げてきて、あるお宅の洋間を、一間をお借りして生活するような間借り生活を始めたんですね。無一文で引き揚げてきた家庭の生活を組み立てていかなければならない状況のもとに置かれていました。けれども、一方私も通勤の途上で巷を彷徨う浮浪児の子供たちのお姿とか、それから白衣をまとった外国夫人につき添われながらいる傷病軍人のお姿が目についたり、そしてまた一方ともかくみんなが自分自身、あるいは自分の家庭の生活をしていくということに、みんなが精一杯だったと思う、その時代の中であってもですね、非常に自分本位な、要するにエゴイズム(egoism:自分の利益を中心に考えて、他人の利益は考えない思考や行動の様式。利己主義)丸出しな生活の姿に、どうしても抵抗していかなくてはいけないような思いに駆られもしました。私は、深津文雄牧師の牧会しておられる上富坂教会に来始めたことが一つの大きなきっかけだったと思います。礼拝の説教の中で、同じ敗戦国のドイツの社会の悲惨を救済するのにディアコニッセ(Diakonisse)―日本語では「奉仕女」と訳しておりますけれども、そのディアコニッセの働きが非常に大きかったということのお話を伺って、そのことが私の心に深く入って、ずーっと思い続けてきた何かをしなければならないのではないかといった思いの答えとして、神様がくださったんではないだろうかと。次の週にですね、ディアコニッセというものが本当にどういうものであり、どうしたらなれるのかということなどは、皆目分からないままに、ただキリストの愛を持って社会の悲惨に仕えるというそのことだけで、「私はディアコニッセになりたいです」という申し出を深津先生にさせていただいた。もう直感的というか、求めに対する神様の答えとして受け止めた、ということが言えるかと思います。
 
藤井: 初期の頃に出会った女性で、特に印象深い方いますでしょうか?
 
天羽:  そうですね。寮母という一つの立場がありまして、そこでは本当にある意味では二十四時間の関わりを持っているような立場の中で、お一人の方が非常に身体的に弱さも負っていらっしゃるし、それから精神的にも愛を求めているというか、満たされない思いを持っていらっしゃる方でもあったので、とにかく私の側から離れたくないような思いになる方もあって、寮の当直室にいると、夜中にどんどん戸を叩いて起こされなければならないようなこと、それから私は他の方と一緒に通院―病院にですね―出かけなければならない時とか、寮を離れるときに、いつも見ていたのでしょうか、追っかけまわされたというような経験もあって、ある意味では必死だったというか、しかしその方が他の施設に移って、そこで癌を病み、亡くなったという話を聞きました。亡くなったということを聞いたときに、やっぱりショックを受けましたし、もっとこうしてあげなければいけなかったんじゃないだろうかとかという反省も強く持たされましたし、どうしたらいいのかと。「かにた」に入って来られている方の中には、自分は愛されたい、自分は愛されていない―疎外感と申しますけども、非常に強い方がいらっしゃいます。どうしてもここの生活の中で平安を取り戻すことができないような状況になったときに、やはり精神科のお医者様にご相談して協力していただいて、お薬をいただきながら入退院を繰り返しながら生活をされているという、そういう方も中にはいらっしゃるわけで、そういう中でこの方にとってはこのことが必要であるという、その必要を満たすというか、考えるためには、特別なことをしなければいけないことが起こるんですね。この集団の中で特別なことをするということについては、ある意味で施設としても、あるいは職員としても、決断をしなければならないことではありますけれども、だからみんなを平等だということのせいに立つと、その人にとって必要なことをしないでしまうということが起こってしまう。だから特別なことをすることに対して、やはりしっかり勇気を持たなくちゃいけないということを、私としても、あるいは「かにた」の中でも考えられていることなんですね。私は最初に特別なことをするということで、未だにお一人の方と「ないしょ、ないしょね」といっていることがあるんですけども、この方もやはり知的な障害と精神科的な障害を被った方で、初期の頃なかなか作業にも出ても落ち着かないで、寮の生活の中にも難しい面があって、ある夕方ですね、私のところにへばりついてきて、お夕食の時間になったので、「寮に帰って、みんなと一緒にお食事をしましょう」と言っても床の上に座り込んでしまって立とうとしない状況でありましたので、「歩きよ」と言って、三十分ぐらい歩いてそのお店に―海のそばにあるラーメン屋さんですけども―そこに行ってラーメンをいただきました。彼女はとてもラーメン好きでしたし、半分彼女に上げて一緒にお食事をして、また歩いて施設に戻ってまいりました。このことは、彼女自身は今も―もう三十年近く経っておりますが―覚えていて、時々私を見ては笑いながら、「ないしょ、ないしょね」って、「またしたい」という、「いつかね」ということを言ったりして、まぁ実はそのラーメン屋さんに行った後、彼女はアクリルたわしを編み始めて、最初に編んだというアクリルたわしの一枚を私に持ってきてくれました。少しぐしゃぐしゃした編み物ではありましたが、その価値は非常に莫大なもの、大きなもので一緒に喜びました。「よくできましたね」って。「これからまた一生懸命これを作ってください」というふうに言いましたけれども。だから特別なお一人お一人にとって必要であれば、特別なことをやっぱりする勇気を持たなければいけないということを教えられたということでしょうかしら。
 
ナレーター: 毎週日曜、礼拝が行われる村の教会です。この建物の地下には、村で生涯を終 えた女性たちの眠る納骨堂があります。天羽さんには、毎年八月十五日の終戦の日に強く思い出す女性がいます。
 
天羽:  城田(しろた)すず子さんという方ですけれども、誰よりもコロニーの必要性を感じて一生懸命になっていらっした方が、一九八五年―ということは、戦後四十年になる年の一年前に、「自分は夜寝ていても眠れませんと。戦後四十年になるというのに、誰も、どこからも慰安婦のことが話されない。問題にならない。戦中に戦場に慰安所ができて、そこに慰安婦として若い女性たちが兵士の性のはけ口になってきてしまった。自分もその一人としての経験を経てきた。ゆめゆめその大変な状況が目に映り、その人たちの声が聞こえて眠れないので、何とかその慰霊をしてほしい。慰霊塔を立てて頂きたい」という願いを出されたんですね。このことに対して、施設長でありました深津牧師は、一年間どうしてあげたらいいんだろうかと。眠れないと言っているんだから、その眠れるようにしてあげなければいけない。ただ慰霊をするということは、非常に日本の国の中で難しい事柄だと。しかし日本の国が戦争中にしてきてしまっている事実を残しておかなければ、どこかで記録をしておかなければ、同じことを繰り返さないとも限らないと。決して繰り返してはならない慰安婦の事実として残さなければいけない。それが一九八五年の八月十五日に一本の桧の柱「鎮魂」と墨で書かれた碑が立ちまして、見聞きされたか方たちが、「木の柱はいつか朽ちてしまうでしょうから、是非石の碑に」ということで、翌年の八月十五日に「噫(ああ)従軍慰安婦」と刻まれた石の碑の序幕がありました。そこで城田すず子さんは、本当に涙ながらに南に向かっている碑の前で、「みんなここに帰って来ておいでよ」ということを言っていましたが、この城田すず子さんが、告白ともいうような自分自身の経験を通して、日本の国のなしてきたこの事柄を言わなければ、慰安婦の碑が立つことはありません…なかったと思います。その事実を話されたということの下に、城田さん自身が、キリスト教に触れてクリスチャン洗礼を受けられたという、キリスト者としての信仰を持たれて、神様の前にひれふし、そして赦しを受け救われた人間として真実を告白せざるを得なかったのが、彼女が持っている信仰によるものではなかったのかと。その信仰という問題、そして自分をさらけ出したという強さと申しますか、それは非常に大きなことだったと思いますし、私自身も教えられる点なんですね。真実であるということは、神様の前に立った人間として一番大切にされなければいけない事柄だと思うんですね。決して隠し通してはいけない、掩蔽してはいけないという事柄があまりにも多すぎるこの世の中で、やはり信仰を持った者というか、キリスト教―宗教といえるかもしれませんけれども、その真実を明確にしていかなければならないという、それが神様の前に立てる人間として、最も大切なことではないだろうかというふうに思うんですね。そういう考えでね。まぁ日々自己と闘いながら、そういう人間になるように努めさせていただきたいという、そういう繰り返しで人生を終わっていくんだと。だから志願したから一人前の奉仕女になったということではなくって、なりたいと志願をして、その日々だと思うんです。その志願者としての日々。「かにた婦人の村」ができたときにも、深津先生が、「コロニーができたと。だけどもコロニーはできなかった」というふうな言葉をおっしゃいましたけれども、これはこれからコロニーとしての歩みを作り出していく。それは多くの闘いを経ながら作り出していくということだと、私は理解していまして、そういう意味で故人もやはりそうであるのではないだろうか。志したときに、それになったということではなくって、そこから出発して、そうなるように努めるということ。それが奉仕女としての歩みではないだろうか、というふうに私は理解しているところなんですね。今後も生きている限り、どういうふうになるかは、今後のことはわかりませんけれども、お任せして、そういうものでありたいということを願いながら、ある意味では自己克服をしながら歩んでいかなくちゃいけないというふうに思っております。
 
     これは、平成二十九年九月二十四日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである